244 悪役令嬢は読唇術を失敗する
自習室のドアがノックされ、ジュリアの声がした。
「アレックス、いる?」
はっと顔を上げたアレックスが駆け寄り、内開きのドアを開ける。
「ジュリア、どうしたんだ?」
「ちょっと用事があるんだよね。……ね、レイモンド連れて出てきてよ」
「レイモンドさん?」
振り返ると、彼は子猫を頬ずりしそうな勢いで可愛がっているところだった。
――うわ、見ちゃいけないモン見た感じ?
アリッサの話から、レイモンドが愛玩動物を飼っていないと知ってはいたが、あんなにメロメロになるタイプだとは思わなかった。知的でクールなイメージを崩さないために、絶対飼わない方がいいと思う。
「子猫?レイモンドの?」
「違うよ。キースが連れてきたんだ。ツカイマとかって」
「ふーん」
――ツカイマ?何だっけ。ま、いっか。
机と椅子が乱れているのは何かがあった証拠だ。廊下で聞いた大きな物音は、机が動いて椅子が倒れた音だったのだ。アイリーンが服の裾を直しているところからも、混乱ぶりがうかがえる。
「待ってろ。今、レイモンドさんを連れて来るから」
一度ドアを閉め、アレックスは部屋に戻って行った。
◆◆◆
「時間がかかったね」
「ああ。悪い。レイモンドさんは来ないぞ……何か、忙しいからって断られてさ」
「えー?用事があったのはレイモンドになのにー」
ジュリアががっかりし、アレックスはその隣のアリッサに気づいた。
「そうか、アリッサはレイモンドさんに会いに来たのか」
「うん……アレックス君、ありがとう。勉強中にごめんね」
「よし、待ってろ。やっぱ、もう一回レイモンドさんに言ってくるよ。アリッサが来てるって聞いたら、出てくると思うんだよな」
ドアに手をかけたアレックスは、そのまま中に引きこまれた。内側からドアが開いたのだ。
「何をしている。勉強に戻れ」
腕組みをして絶対零度の視線を向けるレイモンドが立っていた。
「あ、レイモンドさん、アリッサが……」
緑の瞳がアリッサを見つめた。ふっと優しく笑い、
「何の約束もなしに押しかけて来たのか。……用件は何だ」
と刺々しい声で言う。
――レイ様、お顔と声がバラバラです!
「あの……手を出してください」
「手?」
アリッサが差し出した手に、驚いた顔で上から手を重ねる。ポケットから出した腕輪を手首にはめようとすると、レイモンドの後ろから甘えた声がした。
「レイモンド様ぁ……ここの式がどぉしても分かんないんですぅ」
アイリーンがレイモンドの背中から腕を回した。
――腕輪を見られちゃう!
慌てて手を引っ込め、レイモンドの手を離し、腕輪を自分の手首にはめた。
視線だけがレイモンドを捉えている。彼の瞳からも動揺が見て取れた。
「あら、あなた……」
前に回り込んだアイリーンは、アリッサを見て薄く笑った。
「勉強会にも誘われない婚約者さん、何かご用かしら?」
「ちょっと、何なのよあんた!」
ジュリアが代わりに吠えた。アイリーンは顔をツンと斜め上に向け軽くジュリアを睨んだ後、わざとらしくレイモンドの腕に縋った。
「何あれ、怖ぁい……レイモンド様、助けて」
「……用がないなら勉強の邪魔をするな。戻るぞ、アレックス」
アイリーンとアレックスの背中を押して室内に押し込む。去り際にこちらを向き、口だけを動かしてアリッサに伝えた。
バタン。
ドアが閉まる音で我に返ったジュリアがアリッサに訊ねる。
「レイモンド、何て言ってたの?」
「……『ポトフが食べたい』?」
「まっさかあー。アリッサ、全然分かんなかったの?」
「うん。……腕輪も渡せなかったし、どうしよう……」
どんよりと暗い気持ちで、義兄が待つ自習室へ向かう。二人の背後で再び大きな音がした。
◆◆◆
自習室の面々は子猫一匹に振り回されていた。
「こら!ハニー!」
キースが子猫のエミリーをさっと抱きあげた。じたばたと暴れる子猫を自分の顔の高さに持ち上げ、周りに聞こえないよう小声で叱る。
「おとなしくしなさい。さもないと、キスしますよ?」
――脅し!?
脅しではなく本当にキスされそうだ。押し殺したキースの色気に身体が震えた。
彼の隣では、飛びかかられたセドリックが肩で息をしている。
「はあ、はあ、今のはびっくりしたね。……大丈夫、レイ?」
セドリックは驚いた拍子にレイモンドにぶつかり、突き飛ばしてしまったのである。
「驚いたな。猫が、ではなく、お前の驚き方にな」
「私も驚きました。少ししつけができてから連れてくればいいのに。私がレイモンドに触れようとするとかかってくるなんて」
――それは、あんたが魅了を使おうとするから!
魔法の気配は抑えられてはいたが、エミリーには強烈なムスクの香りがした。動物に意識を乗せているからだけではない。こっそりと強力な魔法を使おうとしたに違いない。狭い部屋に攻略対象達と籠っているのだ。いくらでも魔法をかける機会はある。
マシューの腕輪の効果は分からない。アリッサがレイモンドに腕輪を渡していないのなら、アイリーンに触れられるのは危険だ。命綱なしにバンジージャンプを飛ぶようなものだ。エミリーは魔法を使おうとしたアイリーンに飛びかかったが、目測を誤ってセドリックに着地してしまった。
「うーん、僕が思うに、レイって猫に好かれるのかな。あ、猫じゃなくて使い魔なんだっけ」
「そうです。僕達の言葉も理解しているんですよ。ね、ハニー?」
「エミリーに怒られるって言ってたけど、それ、エミリーの猫なのか?」
――アレックス、余計なことを聞くな!
「エミリーさんが校内で見つけたんです」
キースは嘘が下手だ。その言い方だと、完全に野良猫を拾った話になってしまう。溢れる魔力を不審に思われないように使い魔だと言っているのに。
猫のエミリーはキースの腕をすり抜け、大きなテーブルの上を歩いてアレックスの前に来ると、殆ど何も書かれていないノートの上に座って尻尾をパタパタと動かした。
「こんなんじゃ書けねえ」
――書けるようになっても、どうせ問題を解かないくせに。
「にゃあ」
「ハニー。早速アレックスに乗り換えたのか?」
レイモンドが子猫を抱き上げる。
――えええ?
「お前が好きなのは俺だろう?……よそ見をするな」
頭から背中を撫でられ、喉を撫でられ、しまいには鼻先にキスされた。
ぞわわわわ。
――勘弁してよ!
逃げ出そうにもがっちりホールドされている。助けを求めてキースを見れば、不自然なまでに視線を逸らされ、エミリーは絶望した。




