239-2 公爵令息は公開告白をされる
【レイモンド視点】
二時間目の後、特にすることもなく教室で教科書に目を通していると、クラスメイトが慌てた様子で俺の机を叩いた。
「レイモンド、大変だ!」
「何だ」
「お前の婚約者が、廊下でピンクの髪の奴と喧嘩してる」
――何だって?
無言で立ち上がり廊下に出ると、廊下の中央に人だかりができていた。白い光が消え、ざわざわと雑踏が耳に残る。
「……退いてくれ」
平静を装い、人ごみをかき分けていく。
人の輪を抜けた先には、スカートの埃を払って立ち上がろうとするアリッサの姿があった。少しだけ見えた膝が赤くなっている。裾を直す手の甲に、赤い引っ掻き傷が走っている。
――何があった?
「アリッサ」
感情を出さずに声をかけたが、俺の焦る気持ちが表れてしまったのかもしれない。
アリッサは小さく身を震わせた。
「レイ様……」
顔を上げた彼女は、涙でボロボロだった。ハンカチで拭いたのだろうが、真っ赤になった目元は隠しきれない。俺は胸が締めつけられた。
泣き顔を隠そうとする彼女に、とてつもなく庇護欲をそそられる。
痛々しい。見ていられない。ギリッと奥歯を噛みしめる。
守ってやれなかった自分を悔やむ。俺はとんでもない役立たずだな。
「廊下で何をしているんだ、君は」
苛立ちからつい、口調が冷たくなってしまった。
「何をしているんだと訊いている。……シェリンズ嬢と喧嘩をしていたと聞いたが」
「喧嘩……」
アリッサはじっと俺を見つめた。
やめろ。そんな瞳で見るな。
「人通りが多い廊下で騒げば、口さがない者が噂をするだろう。現に、俺は君から彼女に乗り換えたと言われているくらいだからな」
アイリーンと喧嘩になったと聞いて、アリッサをどれほど苦しめていたのかと、俺は思い知った。異性を巡って喧嘩をしたとなれば、彼女の令嬢としての名誉に傷がつく。醜聞になるのを厭わずに、俺をアイリーンから取り返そうとしたのだ。温厚で人と争うのを嫌う彼女が、アイリーンに立ち向かうために、どれだけ勇気を振り絞ったことだろう。
「あ……ごめんなさ……私……」
俺が何も言わない間に、アリッサの瞳がどんどん暗く沈んでいった。
すぐにでも抱きしめて、安心させてやりたい衝動に駆られる。ぐっと拳を握った。
アイリーンを罠にかけるために、俺達は婚約者を捨てたと周囲に思わせなければならない。こんな廊下の真ん中でアリッサを抱きしめたら、忽ち噂になってアイリーンの耳に入る。
――アリッサ、許してくれ。
アメジストの瞳が閉じられて、涙が一筋落ちた。すると、強い意志を持った眼差しに変わり、
「……謝りません。悪いと思ってませんから」
と、俺を見つめてはっきりと言い切った。
「アリッサ?」
「レイ様がアイリーンをどんなに愛しても、愛してもらえないんだもの!」
――違う!俺はアイリーンなんか……。
「そんなの酷すぎる。ずっとずっと好き……私の方が、いっぱいレイ様を愛してるのに!」
――!!
全身が痺れた。
雷に打たれたようだった。
立ち尽くす俺に背を向けて、アリッサはどこかへ行こうとする。
――行かせない!
「……っ、来い!」
人目のないところでアリッサの誤解を解きたかった。きちんと説明して、許しを請いたい。
普通科二年の教室の前を通り、その向こうにある生徒指導室の前まで、アリッサの肩を抱いて連れていく。途中で生徒達が俺とアリッサを見て何か言っていた。
ドアを開けて押し込むと、アリッサは簡単に床に倒れた。
視界に入れないようにして閉め、天を仰いでドアに凭れる。
すぐに内側から音がした。
ドン!
「アリッサ」
――やめてくれ。
「レイ様!開けてください!」
掌で叩いているようなペタペタという音がした。必死な様子が伝わってくる。
「……静かにしろ」
低い声で言う。廊下の雑踏に消されて、生徒達には聞こえていないようだ。
「お願いです、ここから……」
「……しばらく頭を冷やせ。後で出してやる。鍵はかけないが、ここから出るなよ」
そう言い残して部屋の前から去る。何度もアリッサの泣き顔が頭に浮かぶ。俺の忍耐力は既に限界だった。
◆◆◆
三・四時間目、三年一組は自由研究の時間だ。
殆どの生徒が図書室へ流れ、期末試験の勉強をしている。
俺は生徒指導室へ急いだ。幸い、廊下には誰もおらず、見咎められることもない。
一つ深呼吸をしてドアを開けると、縋りつくようにしてそこにいた彼女はいなかった。
室内を見れば、部屋の中央に置かれた応接セットの長椅子に、アリッサが膝を少し折り曲げて眠っていた。力なく投げ出された肘の下に銀の髪が流れ、同じ色の睫毛が涙に濡れている。
「……アリッサ」
椅子の傍に膝をついてそっと銀髪を撫で、頬に伝う涙の跡を親指で拭う。
「……ん……」
薄く開いたアメジストの瞳が、俺に焦点を合わせた。
「遅くなって悪かったな」
「……レイ、さ、ま……?」
長椅子に寝たままぼんやりとこちらを見つめる。ぽってりとした唇が半開きになり、しばらく何も言わなかった。
「どう、して……」
事態を把握して起き上がろうとしたアリッサを、再び長椅子に寝かせるようにしながら、細い手首を掴んで俺は唇を重ねた。
「……んっ、や、やめてく、くださいっ!」
キスの合間に抵抗される。
「こんな、の、やっ……レイ、様、なんかっ……」
「嫌いか。あれほど熱烈な告白をしたくせに」
手を引いて身体を起こしてやる。アリッサの隣に座ると、座り直して俺と距離を置こうとする。
――警戒されているのか?
「アイリーンを選んだのに、私にキスするなんて、酷いです」
「選ぶ?誰が?」
「レイ様はアイリーンを好きになって、私を捨てるおつもりでしょう?」
フリルのスカートを握りしめ、アリッサは俯いて震えている。
「端から見ればそう見えるようにはしているがな」
「え……じゃあ……勉強会は……」
跳ね返ったように顔を上げた。潤んだ瞳が俺の心を突き刺す。
「そう見えるようにしているだけだ。……ああ、本当は事が済むまで、君には言いたくなかったんだが……」
アイリーンの目的を探るために、寄ってきても拒まないようにしていると、俺はアリッサに説明した。
「作戦をやり遂げようと思っていたのに、泣いている君を見た時から、我慢ができなくなった」
俺の忍耐力が足りなかったのか、アリッサの熱意が俺を動かしたのか。
「……俺が悪かった。許してくれ、アリッサ」
「レイ様……」
「三時間目が始まってしまったな。俺は教室に戻るが、君は……」
立ち上がってドアに向かおうとすると、背中にふわりと温もりを感じた。
「行かないで、……ここに、いてください」
内心絶叫した。
これ以上アリッサと二人きりでいたら、理性がどこかに飛んでしまいそうだ。
「アリッサ。密室に男女が二人きりでいたら、よくない噂が立つだろう。婚約者と言っても」
「構いません!レイ様と、い、一緒がいいですっ」
――嘘だろ!?
アリッサは自分が重大発言をしたと気づいていないのだ。
背中から回った小さな手が互いを探し、俺の胸から脇腹を這い回る。手を掴んで彼女の方を向き直り、戸惑う瞳を覗き込む。
「……今の言葉に、二言はないな?」
「あ、ありませんっ!」
「いい度胸だ。ますます君を気に入ったよ」
顎を掬い取り、親指で唇をなぞる。アリッサの頬が朱に染まり、恥らう表情に胸が躍った。
◆◆◆
この数日、二人きりで話す機会がなかったからか、アリッサは饒舌に話し始めた。
俺は離れていた時間を埋めるように、彼女との語らいに時間を忘れて没頭した。
「試験勉強は捗っているか」
「はい。お兄様が教えてくれて」
「ハロルドは教え方が丁寧だからな。クラスの奴にも教えてくれと頼まれていたぞ」
「とても分かりやすいんです」
「まあ、君は教わらなくても理解できているのだろうが……。試験が終われば銀雪祭だな」
銀雪祭の日は、特に雪が降る確率が高い日だ。
雪景色を見ながら、家族や友人、そして恋人と贈り物を交換し合う。アリッサには何がいいだろうかと考えてしまう。
「……レイ様?」
「ん?いや、君へ何を贈ろうかと思って」
「何でも……レイ様がくださるなら、何でも嬉しいです……」
伏し目がちにして頬を染めて呟く彼女は、殊の外愛らしかった。
「まったく……これでは君に贈るより先に、奪ってしまいたくなるな」
「う、奪う?……ん、ん……」
小さな唇にキスを落とすと、室内に白い光が現れた。




