29-2 悪役令嬢は別れを告げる(裏)
【レイモンドの回想】
十三歳の誕生日を過ぎた頃、晩餐の時に父がため息をつくようになった。
理由を聞くと、王がしきりに縁談を薦めてくるというのだ。父の宰相は厳格な男だが、母との仲は良好である。むしろ良すぎて目も当てられないほどだ。忙しい仕事の合間に帰宅した父が、母と居間で熱烈なキスをしているのを何度も目撃している。真っ赤になった俺に、いちゃつくなら寝室に行け!と怒鳴られた両親は、申し訳なさそうな顔をしていた。
それなのに、父に縁談とは。
宰相ならば愛人の一人や二人いてもおかしくはない。一夫一妻制で妾を持てば後ろ指を指されるものだが、父は王に次ぐ権力の持ち主だ。王家と何度か婚姻を結んだ当家は、母系ではあるが王位継承権もある。王の子がセドリック王太子だけで、国王の姉妹が王位継承対象から外れる他国に嫁いだ現在、前国王の妹を母に持つオードファン公爵は王位継承権第二位である。
だが、王と父は学園時代からの友人であり、王は母のこともよく知っているはずだ。父が母を溺愛しているのに縁談を持ちかけるだろうか。もしかしたら、二人の間には自分しか子がいないのを心配されたのか。一人息子の自分にかかる責任を感じ、俺は唾を呑みこんだ。
「陛下は無理にとはおっしゃらなかった。だから、断ってもよいとも」
王太子の側近となるべく、何度も王宮に通っている自分にも気さくに接してくださる、陛下は優しい方だった。あの方が父に無理強いするとは思えない。
「陛下には父上のお心のまま、素直に伝えてはいかがですか」
「そうか?まだ早いと思ってはいたが、私はお前には良い縁だと思うぞ」
「は?」
訳が分からなかった。父に愛人ができて、自分に良い縁とは。
「すみません。おっしゃることの意味が理解できかねるのですが」
「陛下はお前に縁談をもってこられたのだよ」
高位の貴族の子女ならば、十歳で縁談が舞い込み、婚約者がいてもおかしくはない。おかしくはないが、自分はもっと先でいいと思っていた。
「……随分と急な話ですね」
「ああ。今度王太子殿下が婚約なさる。相手はアーネストの娘だが、殿下のたっての希望でな」
何!?
あまりの衝撃に父の言葉が耳に入らない。
アーネストというと、父の幼馴染のハーリオン侯爵に他ならない。自分が図書館で親密な時間を過ごしている相手は、そのハーリオン侯爵令嬢である。
アリッサが、王太子の妃に?
「……レイモンド!」
「!」
「まったく。驚くのも無理はないが。明日、正式にお受けすると陛下に申し上げる。王妃様が非公式に催される茶会で顔合わせすることになろうが、くれぐれも……」
なんてことだ、とレイモンドは思った。王は王太子にアリッサをあてがい、自分には適当な令嬢を見繕うつもりなのか。顔合わせの場まで設定済みとは。抜け目のない性格の父をここまで入念に囲い込んでいる。眩暈がした。
「……失礼します」
俺は一礼して父の部屋を出た。
◆◆◆
それからはどこをどう歩いていたのか記憶にない。
気づけば王立図書館の前で初代国王の言葉が刻まれた壁に手を当てて項垂れていた。この図書館には毎日のように通っているが、半年以上アリッサの姿を見かけたことがない。最後に会ったのはハーリオン侯爵に見咎められた日だ。王太子の婚約者は、厳しい家庭教師がついて徹底的に仕込まれると聞く。アリッサが図書館に来られないのは、花嫁修業のためかもしれない。
誘い込まれるように恋愛小説が並ぶ書棚の前に立ち、何気なく一冊手に取ると、彼女と議論したあの物語だ。読んでいるうちに取り乱してしまいそうな気がして、人が来ない植物学の棚の傍へ移動する。あの時は、身分違いの令嬢に恋する男の気持ちはさっぱり理解できなかったが、何故か今日は手に取るように分かる。
令嬢たるもの誰しも高い身分の男に嫁ぎたいものだろうと言えば、恋に落ちるのに身分は関係ないとアリッサは語った。相手が庭師でも従者でも、恋する乙女には素敵に見えるのだと。
「嘘、だな」
結局彼女も、未来の公爵である俺より、未来の国王の手を取ったのだ。
◆◆◆
コツン。
女物のヒールの音がし、顔を上げればアリッサが立っていた。髪が伸びてほんの少し大人っぽくなった気がする。
「お久しぶりです、レイモンド様」
淑女のように挨拶する。窓辺から光が彼女の銀髪を照らし、つい手が伸びる。ダメだ。彼女はもう俺のものではないのに。
「もう、触るのは止した方がいいな」
愚かな自分を自嘲する。
「父から聞いた。婚約が決まったんだってな」
アリッサは、はいと肯定した。ああ、やはりな。
絶望した。
「恋に身分は関係ないとは、よく言ったものだな。結局君も……」
「あの……レイ様」
アリッサの手が触れた。
「触るな」
王太子に熱望されて妃になるのだろう。臣下を誑し込むつもりか。
「どんなことがあっても王と王妃には忠誠を誓うつもりでいる。だが、他の男に色目を使うような女が王妃になるのなら、俺は忠誠を誓うつもりはない」
精一杯の拒絶だった。王妃となった彼女に求められれば、王の命でさえ奪ってしまいそうだ。お願いだ、忠誠心と恋の板挟みで俺をこれ以上苦しめないでくれ。
「私はっ……」
大きな声を出したのを聞いたことがないアリッサが、俺の目を見て言う。
「私が、好きなのは、一人だけです。……別れろって言われたけど、好きなんです。これからも、ずっと……」
アメジストの瞳から涙が溢れた。顔がこれ以上無いほど赤い。
泣かせてやりたいと思ったことは何度もある。だが、苦しそうに泣く彼女を見るのは、俺もつらい。
「レイ様、が、好き……」
抱きしめて涙を拭うと、もう自制が利かなかった。人の出入りがないのをいいことに、俺はアリッサに何度もキスをした。
ライバルが王太子だろうと構うものか。
アリッサは俺のものだ。




