238 悪役令嬢は爪を立てられる
「僕がアイリーンといると、マリナが不安になるのは分かるよ。ごめんね、不安にさせて」
セドリックはマリナを腕に捕らえた。制服越しに互いの体温を感じる。相変わらず心臓は静まってはくれないが、彼の腕の中は安心できる。断罪され没落する乙女ゲームの結末が待っているなどと考える隙もないほど、マリナの頭の中はセドリックのことで占められていた。
「……」
無言でいると、セドリックはマリナが怒っていると思ったのか、
「まだ怒ってるの?」
と優しい声色で尋ねてきた。
はっとして見上げると、声とは裏腹に、青い瞳が熱く揺れる。
「僕にはマリナだけなんだよ?信じて」
言うが早いが、顎を掬い取られる。
突然の事態にマリナは何も考えられなくなり、セドリックにされるがまま、口づけを受け入れたのだった。
◆◆◆
アリッサは限界だった。
階段の脇で待つこと……何分経ったのだろう。
セドリック王太子を訪ねたきり、姉は戻ってくる気配すらない。
――どうしよう。マリナちゃんがいないと、教室に戻れないのに……。
うかうかしてはいられない。次の授業が始まってしまう。マリナとアリッサは皆勤賞狙いなのだ。
「三年一組に……行くしかない!」
廊下を見渡すと、教室の前には生徒達が立ち話をしている。彼らにレイモンドの居場所を訊けそうだ。
アリッサは気持ちを奮い立たせてずんずんと廊下を進んだ。
ポケットに入れた腕輪のこと、レイモンドに話す内容のシミュレーション……。アリッサは考え事をしながら歩く悪い癖がある。考えていると前がよく見えなくなるのだ。
ダン。
「いったぁーい」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
――私ったら、またやっちゃった……。
大袈裟に痛がっている人物を見て、アリッサは状況が飲み込めなかった。
「ひどぉい。私がレイモンド様と仲良くしてるからって、嫉妬して突き飛ばすなんて!」
金切り声を上げたアイリーンに気づき、やっと自分が非常にまずい状況にあると把握した。
極力自分からは関わらないようにしてきた彼女を、突き飛ばしたつもりは微塵もない。考え事をしてぼんやりしていただけなのだ。
「違うわ、私、そんな……」
「でもぉ、今のであちこちぶつけたし、脚もひねっちゃったかも?」
――嘘ばっかり!怪我をしていたらもっと痛いはずよ。
「……あら、あら?」
カチャ。金属がぶつかる音がした。
アイリーンはスカートのポケットから何かを取り出す。窓から差し込む冬の光に照らされ、それは眩く輝いた。
「あーあ、壊れちゃったみたい」
金属と宝石……緑色のエメラルドの葉がついた、紫色のアメジストの花。アリッサがレイモンドにもらったイヤリングによく似ている。金具の部分が砕けている。ぶつかって転んだくらいで壊れるような部分ではなさそうだ。初めから壊れていたのだろう。
「そのイヤリング……」
「あら、何かしら?弁償してくださるの?」
――私のよ!返して!
唇を噛みしめ、一気に瞳が涙で曇る。アリッサは立ち上がったアイリーンの手に手を伸ばした。
「かえ……っ、返してよ!レイ様の、イヤリングっ!」
「何するのよ。手を離しなさいよ!」
自分の右手を上から両手で握りしめるアリッサを睨み、アイリーンはアリッサの手の甲に爪を立てて思いきり引っ掻いた。
「――っ!」
鋭い痛みにアリッサは顔を顰めたが、手を離さず必死に食らいついている。
「……しつこいわね」
周囲に聞こえないように舌打ちしたアイリーンは、呪文を唱えて転移魔法を発動させた。
「あっ……」
白い光に驚き、手を振り払われその場に落とされる。腕が宙を斬り身体がバランスを失った。生徒達が遠巻きに見つめる中、アリッサはぺたりと廊下に座り、静かに涙を流した。
◆◆◆
予鈴が鳴った。
マリナから身体を離したセドリックは、
「レイには何か考えがあるみたいなんだ。詳しくは僕も知らなくてね」
と困ったように呟いた。
「はっきりと拒絶するなってレイには言われているから、今日みたいに勘違いしたアイリーンが寄ってくるだろう。君がしばらく嫌な思いをすると思うと、僕も苦しいんだよ」
レイモンドが何かを企てているのなら、アイリーンに誑かされたわけではないのだろう。事実をアリッサに一刻も早く伝えたいとマリナは思った。
「そろそろ教室に戻りませんか。授業に遅れてしまいますわ」
「うん……」
セドリックはその場を動こうとしない。抱きしめる腕は解かれたが、距離はまだ近い。
「退いていただけます?セドリック様」
「ふふ……やっと呼んでくれたね」
「は?」
「名前」
にへらっと笑う王太子は、王族の威厳も何もない。マリナは頭痛がしてきた。
「僕の腕を引っ張って、教室まで連れていってよ。さっきのアイリーンがしたみたいに」
――ええと、それは……胸を押しつけろってこと?
「い、嫌です!一人で戻ってください!」
色ボケセドリックを軽く突き飛ばし、マリナはアリッサが待つ階段の傍へと走り出した。
「廊下は走らないって言ってたのに。……赤くなって、可愛いなあ」
残されたセドリックが呟いた声は、マリナには聞こえなかった。




