236 悪役令嬢と乙女な王子
「……よかった。いきなり逃げるから、俺、焦っちまって」
アレックスはほっとした顔でジュリアに近寄りながら、苦笑いして頭を掻いた。
「叫びながら走ってくる方が悪いよ。……怖いじゃん」
背が高く、体つきが大人っぽくなったアレックスは、黙っていれば初対面の人に怖がられるくらいの迫力がある。笑うと子供の頃から知っている無邪気な顔になるのだが。
「んなこと言うなよ。お前が教室からいなくなって、追いかけなきゃって気持ちになってさ」
「……何で追いかけてきたの?放っておけばいいじゃない」
ぷいっと顔を背ける。
「あのなあ。触るなって言われて突き飛ばされて、俺が傷つかないと思ってんのか?」
「アレックスは頑丈でしょ」
はあ、と溜息が聞こえる。
「打ち身がどうのって話じゃない。実際、あんなの傷にもならないしな。……俺はお前に拒否されて、すごく、その……心が痛かったっつーか……」
最後はごにょごにょと聞き取りづらい。ジュリアは、視線を向けていた足元から、ゆっくりとアレックスの顔を見た。彼はばつが悪そうに口元を手で覆って天井を見上げている。
「……ごめん。でも、アレックスも悪いんだからね。私のこと、エロいって言うから」
「あれは、あいつが……ああ、もういい!」
「んぐぅ」
逞しい腕が背中に回され、ジュリアはきつく抱きしめられていた。
「アレックス、ちょ、苦し……」
「俺、お前に嫌われるの、嫌なんだよ」
「嫌いじゃな」
い、と続けようとして、熱い胸板に声がかき消される。
「他の奴らに、お前を裏切ってアイリーンと浮気するような男に見られるのが嫌だった」
「分かっ」
てる、とも声が出せない。というか、馬鹿力で抱きしめられて呼吸がままならない。
「俺が抱きしめたいと思うのも、……キ、キスしたいと思うのもお前だけなんだ!!ジュリア!」
感極まったアレックスは、廊下に響く声で絶叫した。
――声、でかすぎっ!恥ずかしくて死ぬ!
ぐっ。
腕に力が込められる。
「かはっ」
呼吸困難になったジュリアは、意識を失ってその場に崩れ落ちた。
◆◆◆
階段を上がったところで、アリッサの足取りが急激に重くなった。
「行くわよ」
「うう……やっぱり、教室に戻ろうよ、マリナちゃん」
「私達には腕輪を渡すという目的があるのよ。果たさないで帰れると思う?」
「またアイリーンがいたら、私、泣いちゃうよぉ」
想像しただけでアリッサの瞳が涙に濡れる。マリナは大きく溜息をついた。
「あのねえ……うん、分かった。私は二年一組に行ってくるから、アリッサはここにいなさいよ」
「え……」
「迷子になりたくなかったら、ここでじっとしていること。いいわね」
「うん……」
アリッサを叱咤激励しつつ、マリナは自分を鼓舞していた。
――テンションを上げていかないと、本気で凹みそうだわ。
一年生のマリナが二年三年の教室がある階を歩いているだけで、すれ違う生徒達がひそひそと噂をする。ちらちらとこちらを盗み見るのも、マリナの神経を逆撫でするのだ。無視して二年一組の前まで歩き、思い切ってドアを開けた。
「セドリック様はいらっしゃいますか」
噂の人物の登場に、二年一組の生徒達が色めきたった。クラスメイトと他愛ない話をしていたセドリックでさえ、入口に立つマリナを二度見したほどだ。
「マリナ……」
「お話が」
と言いかけて、
「セドリック様ぁー」
背後から甲高い甘えた声が聞こえ、ゾワリと悪寒が走った。
同時に背中を押されて教室の中に突き飛ばされる。膝を強か床に打ちつけ、机に寄りかかったマリナの横を、短いスカートが通り過ぎていく。
「ふふ。アイリーン、どぉしてもお会いしたくて来ちゃいましたぁ。次の授業は教室を移動しないですよね?先生がいらっしゃるまでお話しましょっ」
にっこり。
――作り笑顔丸出しだっての!
セドリックの腕を抱き、胸に押し付けるようにしてぐいぐいと引く。女子生徒に触れた経験が殆どないセドリックは、動揺して目が泳いでいる。
「……セドリック様」
立ち上がってスカートの埃を払い、マリナは必殺令嬢スマイル――と言う名のアルカイックスマイルでセドリックを見つめた。
「あ……」
「先に私がお話をしたいと申しましたのに」
「これは、その……」
セドリックがぶんぶんと腕を振って振り切ろうとするも、アイリーンは絡みついて離れない。
――腕に胸が当たったくらいで、何顔赤くしてるのよ!
イラッ。
マリナは二人に苛立った。
「身分をとやかく言うつもりはありませんけれど、身体を使ってセドリック様に取り入ろうなどと、考えることが下劣ですのね。アイリーンさん」
「まあっ……私、そんなつもりじゃ……」
アイリーンは既定路線通りの悲劇の乙女ブリッコを始めた。ハーリオン侯爵令嬢に貶されるのは、ヒロインとして美味しいイベントなのだろう。マリナはアイリーンを無視した。
「セドリック様もセドリック様ですわ。この程度のことで動揺なさって」
「ち、ちが……僕は」
「箱入り娘ならぬ箱入り王子様ですものね。女子に触れられただけで真っ赤になって」
「なってない!」
「いいえ、真っ赤ですわ」
「これは、どうしても、その……僕には経験が少ないから」
これまで、舞踏会でパートナーを務めてきたのはマリナだ。王族によるファーストダンスの後、セドリックは慣例を無視して他の令嬢と踊らず、自分かマリナが疲れるまでパートナーを変えることはない。必然的に、他の令嬢と触れ合う機会が少なくなった。
「僕はマリナとだけだから、こういうのは慣れなくて……」
アイリーンに掴まれていない方の手で顔を覆い、弱々しく言ってセドリックは俯いた。
――乙女か!恥らっている場合じゃないのよ!
「手をお放しなさい!」
冷たく恫喝するとアイリーンがキッと睨んだ。
「あなたにそんなことを言う権利はないわ!」
「そうね。私はただの妃候補ですもの。セドリック様がお決めになることよ。……セドリック様、彼女に腕を放してほしいですか?」
セドリックに絡むアイリーンの腕に手をかけ、マリナは神々しい微笑を浮かべた。




