29 悪役令嬢は別れを告げる
三女アリッサのターンです。
――レイモンドを振りなさい。傷が浅いうちに。
姉の言葉を思い出し、アリッサは溜息をついた。
王立図書館でレイモンドとキスしていたのを父ハーリオン侯爵に見られ、姉には彼と別れるように言われた。図書館へ行く馬車の中で娘が浮かない顔をしているのを、侯爵は見逃さなかった。
「どうした、アリッサ。お前が好きな図書館に行くのだろう」
弟のクリスが生まれてこの方、侯爵夫妻は毎日フィーバー状態だったのだが、生まれて半年が経って落ち着いてきたらしく、アリッサは久しぶりに父と外出することになった。図書館に行かないうちは、レイモンドとの別れを意識しなくてよかったのに。
「図書館に来るのは、今日で最後かもしれません……」
アリッサは笑って父を見た。
◆◆◆
博物館へ仕事に行く父と別れ、アリッサが植物学の書棚に向かうと、夏の陽光が射す窓辺に凭れてレイモンドが佇んでいた。十三歳の成長期の少年は、半年以上会わない間に少し背が伸びたように思われた。表情を変えずに目が文字を追い、ふと眉間に皺を寄せて前髪をかき上げた。
アリッサは意を決して彼に歩み寄った。
コツン。
少しだけ高さがあるヒールの靴音が、静かな館内に響くと、レイモンドははっと顔を上げた。
「……アリッサ……」
ゆっくりと歩みを止め、アリッサはレイモンドに丁寧な挨拶をした。
「お久しぶりです、レイモンド様」
――お会いしたかったです。とても。
今日でお別れだと思うと、自然に顔が悲しげな表情になってしまう。最後くらい、笑顔でいようと決めたのに。
レイモンドはアリッサの髪に触れようとして手を止めた。
「もう、触るのは止した方がいいな」
薄く笑って手を本に戻す。こちらから別れを切り出すつもりで来たのに、レイモンドの方から距離を置かれ、アリッサは混乱した。
「父から聞いた」
レイモンドの父の宰相とアリッサの父は幼馴染である。先日のキスを見られ、父侯爵は宰相に何か言ったのかもしれない。
「婚約が決まったんだってな」
「はい?」
誰と誰が婚約したんだろうか。アリッサは話についていけなかった。レイモンドは苦しげに眉根を寄せる。
「恋に身分は関係ないとは、よく言ったものだな。結局君も……」
「あの……レイ様?」
レイモンドのつらそうな顔を見ていられず、アリッサは思わず彼の手を取ったが、勢いよく払いのけられる。
「触るな」
冷たい、それでいて熱を孕んだ瞳に、アリッサは何も言うことができない。
「どんなことがあっても王と王妃には忠誠を誓うつもりでいる。だが、他の男に色目を使うような女が王妃になるのなら、俺は忠誠を誓うつもりはない」
他の男に色目を使う王妃と聞いて、アリッサは逆ハーレムエンドのヒロインを思い出した。しかし、今のレイモンドは彼女を知らないし、誰か別の人を指している……。
「私はっ……」
パステルカラーのドレスのスカートを握りしめ、アリッサははっきりと話し出した。
「私が、好きなのは、一人だけです。……別れろって言われたけど、好きなんです。これからも、ずっと……」
瞬きをすれば、紫色の瞳から涙がはらはらと落ちる。もう、レイモンドの顔もよく見えない。父は彼をよく思っていないし、没落死亡エンドを回避するために、姉にも別れろと言われている。婚約者になっても彼はヒロインに取られてしまい、邪魔になった自分は処刑されるのだから。だけど……。
「レイ様、が、好き……」
最後は声にならなかった。
息さえ上手くできなくなり、呼吸が乱れる。
「……!」
レイモンドがアリッサを抱きしめ、長い指で涙を掬う。
――心臓が止まりそう。こんな幸せな気持ちで死ねるなら、それでもいいわ。
「アリッサ……」
抱きしめる腕に力が籠り、ふっと笑ったレイモンドの唇がアリッサの唇に優しく重なる。そのまま耳元に唇を寄せられ、俺もだ、と囁かれる。
「ひっ……」
くすぐったいのと、少年レイモンドの危うい色気に腰砕けになったアリッサが倒れこむ。腕で支えようとしたレイモンド共々書棚の影に蹲る格好になった。改めて抱き寄せられれば、アリッサの涙は完全に乾いていた。
◆◆◆
「いいことがあったみたいね」
図書館から帰ったアリッサを、マリナが腕組みして待ち構えていた。
「マリナちゃん……」
「詳しく話を聞かせてほしいわ。部屋でジュリアもエミリーも待っているわよ」
姉妹の部屋のアリッサのベッドの上。彼女を囲むように姉二人と妹が陣取っている。
「レイモンド様とは別れたの?」
「ううん」
「別れるように言ったわよね?」
「うん。図書館に着くまでは、そのつもりだったの」
アリッサは熊のぬいぐるみを抱きしめる。
「会ったら気が変わった、とか?まあね、半年ぶりなら仕方ないかー」
「ジュリア!……で?別れないって決めたわけね」
「うん。レイ様、何か誤解してたみたいで。すごくつらそうなお顔で……見ていて私も苦しくなってきて」
「絆された?」
「他の男に色目を使う王妃は嫌だとか何とか。それで、私は好きな人は一人だけだって言って……」
「告白したわけね」
「……うん、そう」
もじもじしながらアリッサはぬいぐるみの頭に顔を埋めた。ぱっと顔を上げたかと思うと、
「だからね、私、ヒロインに絶対負けないから!レイ様を取られたりしないから、お願い。別れろなんて言わないで!」
と叫ぶように言って泣き出した。
「あーあ。マリナがいじめた」
「人聞きの悪いこと言わないでよエミリー」
「アリッサが前世から好きだったキャラに別れを切り出せるわけがないでしょ」
「それは……」
マリナは子供同士のお遊びのような恋だと思っていた。
しかし、これほど妹が彼を思い、自分の課した難題が彼女を苦しめるとは予想していなかった。
「ごめん」
泣きじゃくる妹を抱きしめて、マリナは自分の横暴を悔いた。




