28 悪役令嬢の密談 9
「お兄様、行っちゃったねえ……」
寝室の窓から遠くを見、アリッサがぼんやりと呟いた。
今朝方、ハーリオン家の馬車に乗り、ハロルドは港へ向かった。そこから海を隔てた隣国のアスタシフォンまで、同じくハーリオン家の貿易船に乗って行くのだ。
「寂しくない?マリナ」
アリッサと同じように窓辺から遥か彼方、海の方角を見ながら呆けているマリナに、ジュリアが声をかける。
「行ったな、って感じよ」
「そのまんまじゃん」
「やっと家庭内ストーキングから解放されたわ」
◆◆◆
朝。ハーリオン侯爵邸の玄関に停められた馬車の前。
「元気でな。しっかり勉学に励むんだぞ」
侯爵はハロルドの肩を揺すり、頷きながら激励した。
まだ子供の彼を送り出すのが不安な侯爵夫人は、心配そうに見つめて手を握った。
「あちらでもあなたが寂しくないように、いろいろと準備はしてくださっているはずよ。道中だけは気を付けてね」
「ありがとうございます。義父上、義母上」
ハロルドは二人を交互に見て美しい微笑を浮かべた。そのまま妹達へ視線を向ける。
つまらなそうに立っている黒いローブのエミリー、別れの雰囲気に負けて泣き出しそうなアリッサ、旅に出る兄を純粋に羨んでいるジュリア、そして……。
「お兄様」
マリナが義兄に声をかける。
「旅の無事をお祈りしていますわ……あっ!」
そっけない定型句を述べただけの妹を、ハロルドは一瞬だけ強く抱きすくめた。すぐに身体を離すと、蕩けるような極上の笑みを浮かべ
「ありがとうございます。マリナ」
とだけ、囁くように礼を述べた。
視線が絡み、青緑色の瞳に様々な感情が入り混じっているのを感じたマリナは、何も言えないまま彼を見送ったのだ。
◆◆◆
義兄とのいきさつは、既に妹達にも話している。王太子を殺しそうなほど、ハロルドがマリナを想っていたことも。
「マリナちゃんは、それでいいの?お兄様は本当にマリナちゃんが好きなんだよ」
「うちの爵位目当てでしょうに」
エミリーが冷たく言い放つ。
「違うよぉ。打算だけで恋はできないんだよ。クリスがいるのに、マリナちゃんの夫ってだけで爵位は継げないもの。お兄様は純粋にマリナちゃんが好きなのよ。一目惚れして諦めて、再会してやっぱり好きだなって思うこともあるでしょう?」
「好かれているのは嫌じゃないわ。でも、あれは……重すぎる」
愛情が重すぎて受け止めきれない。食べ物だったら少し食べただけで胃もたれしそうだ。
「アリッサは共感してるんでしょ。彼氏に重いって言われたことないの?」
「そこまで深く付き合ったことないもん」
「レイモンドとは最近どうよ?」
ジュリアがにやにやして肘で小突く。
「レイ様……うう、レイ様あ……」
どばっと涙を溢れさせ、アリッサは突如泣き伏した。
「ちょ、何、どうしたのよ」
「アリッサがレイモンド様と会えていないの、知らなかったの?」
「ええっ、そうだったの?ゴメン、私、泣かせるつもりはなくてさ」
「ジュリアがヴィルソード家に行っていないのと同じ」
嫡男クリスとの時間を大切にしたい父侯爵は、妻と息子の傍をなかなか離れない。ジュリアがアレックスの家で剣の練習をしたいと言っても、アリッサが図書館に行きたいと言っても「また今度な」で済まされてしまう。
「私の件でバタバタしていたのもあるでしょうね。ハーリオン侯爵令嬢が、王太子妃候補に決まったと知られてから、うちに来るお客様が増えたもの」
次の権力者に取り入ろうと、お祝いの品を持参した貴族が多い。ついでに彼らは、マリナを値踏みすることも忘れない。知らない貴族に笑顔で対応する気疲れと、義兄から向けられる視線で、マリナは精神的にガリガリ削られていた。
「クリスのお祝いからマリナちゃんのお祝いへか、続いたものねえ」
ぐずぐずと鼻をすすりながら、アリッサが呟く。
お蔭で引きこもりのアリッサとエミリーまで、来客対応に駆り出される始末だった。人間嫌いのエミリーは、彼らが帰った後でボロクソに文句を言っていたものだ。
「ねえ、アリッサ」
マリナは優しい声で妹を宥める。
「レイモンド様とは、この半年お会いしていないのでしょう?」
「うん。そうよ」
「それなら、あちらもあなたのことを忘れかけたんじゃないかしら」
――レイ様が、私を忘れる?
アリッサの脳内がフリーズした。
「嫌だぁ、忘れられたくない……」
「そう。それから、あなた、覚えてる?」
ゆっくりと言葉を区切り、マリナは妹に問いかける。
「破滅したくなかったら、レイモンドと別れるように言ったわよね」
「酷いよマリナちゃん!自分はセドリック殿下と婚約したくせに」
「あれは不可抗力よ。これから何人か候補が現れれば、私じゃなくたって……」
いや、いやと泣きじゃくる妹の耳元で、マリナは呪文のように言い聞かせた。
――レイモンドを振りなさい。傷が浅いうちに。




