219-2 悪役令嬢は目覚めさせる(裏)
【セドリック視点】
自我が戻ったのは突然だった。
それまではどこかぼんやりした世界の中で、皆が言うことを聞いて、アイリーンを褒めるだけだった。自分の口から出ていく言葉なのに、他人の言葉のように感じている。
――アイリーンは、……僕の何だ?
「……笑っちゃうわよね、こんなセドリック様を好きになっていたなんて」
マリナの可愛らしい唇が、僕のそれと重なって、押し付けるような不器用なキスをされていると気づいた時、頭の先から何かに打たれたような気持ちだった。
「好……き……?君が……僕を?……んっ」
彼女が僕を好きだと言っている。状況を把握するのに頭が追い付かない。
僕を好きなマリナを僕はどう思っているのか。願う瞳に見つめられ言葉に詰まる。
「……僕、は……アイリーンを……」
どう思っている?
好きなのか?……答えは否だ。
言葉を続けようとした時には、マリナは生徒会室からいなくなってしまっていた。
「おい!セドリック」
背中に呼びかけたレイモンドを無視して、僕はマリナを追いかけた。
今、追いかけなければいけない気がした。
『廊下は絶対走らない』がモットーだと聞いたような気がするが、すでに姿が見えないところを見れば、走って行ってしまったのだ。
『教えてくださいませ。セドリック様はアイリーンがお好きなのですか?それとも、……私?』
不意に彼女の言葉が脳裏に甦る。僕は何と答えたのだろう。
涙を流している彼女に、冷たい言葉を投げつけていた。
ごめん。マリナ。
謝っても許してもらえそうにないけれど、僕は君に愛想をつかされたくない。
簡単に騙される弱い僕でごめん。
心の中で何度も何度も謝りながら、僕は彼女の姿を探した。
◆◆◆
廊下の曲がり角を直進しかけて、曲がった先にマリナを見つけた。僕は危うく転びそうになって壁にぶつかった。
痛い。間違いなく痣になりそうだ。
でも、マリナはもっと心を痛めたはずだ。こんなのは痛みの内に入らない。
思いがけず大きな音がしてしまった。マリナが驚いてこちらを向いた。潤んだ瞳が震えている。
「よかった!探したよ……」
半ば駆け足で彼女に近寄り、腕の中に閉じ込める。
戸惑ったマリナは僕の胸に手を当てて、上目づかいで見つめてくる。ああ、なんて可愛らしいんだろう。彼女が学院に入学してきてから気づいたが、一年会わない間に僕らの身長差は頭一つ分以上になっていた。抱きしめると彼女の顔が僕の胸に埋まる。
「セドリック様?」
僕を信用していない顔だ。あんな目にあった後だ。無理もない。
マリナが何か言いかけたが、僕は夢中で彼女を抱きしめた。背中を撫で、流れる銀髪を撫で、制服の布越しに仄かに感じるマリナの体温に酔いしれた。
「ごめんね、マリナ、僕は最低だ」
「は……」
混乱している。そうだよね。
マリナはまだ、僕がアイリーンに誑かされたままだと思っているのだ。
「君につらい思いをさせて、泣かせて」
思い出しただけで胸が千切れそうだ。あんな姿は僕の本意ではない。時を戻す魔法があったら、あの時に戻ってやりなおしたいくらいだ。僕が時空を超えられるなら、あの時の僕をボコボコにしてやりたい。
「どんな罰でも受けるよ。だから」
マリナにボコボコにされるのもいいかもしれない。
……かもしれない?いや、かなりいい。
マリナが得意な風魔法で切られるより、平手打ちされる方がいい。一度叩かれたら、二度目は彼女の手を掴んで、そっと手の甲に口づけて……。
はっ。いけない、つい妄想してしまった。
「好きだと言ってくれたマリナの気持ちに応えたいんだ」
正直に言うと、『応える』だけでは物足りない。マリナが僕を想う以上に愛したい。
「記憶が戻ったんですか?」
マリナは何度も瞬きをしている。やはり信じられないものを見た顔だ。
アイリーンの魔法がどうやらキスで解けたらしい。僕も半信半疑なんだよ。
「……実を言うと、曖昧なところがあるんだ。記憶を消されたのだとしても、必ず取り戻してみせるから、僕に君を愛させてほしい」
学院祭の後夜祭の記憶がおぼろげだ。実行委員に呼ばれて廊下に出たところで、僕はすでにアイリーンの魔の手に堕ちていたのかもしれない。ダンスの記憶はない。
記憶力には自信があるから、マリナと過ごしたこの数年の記憶は全て覚えていたのに、アイリーンに都合が悪い記憶、つまりマリナと愛を育んできた大切な記憶が抜け落ちている。
「……っ、し、信じられません」
信じてもらわないと困るな。
どうしたら信じてくれる?
「君から初めてキスしてくれたよね。嬉しかったよ。途中でキスしてるって気づいて、幸せすぎて死ぬかと思ったよ」
いつも僕からキスするときは、心の準備ができていたけれど、マリナのペースに呑まれるのも新鮮だった。ドキドキが二倍になったような気がした。
マリナにキスされるのはいい。
お願いしたら、またキスしてくれるかな?
お願い……の前に、僕が正気に戻ったって証明しないといけないよね。
「今からたっぷり、信じさせてみせるから、ね?」
嬉しすぎてニヤついてしまった。
マリナが僕を好いてくれているだけで高揚感が押し寄せる。興奮して鼻の奥がツンとなり、僕は少し顔を上げた。……大丈夫だ。鼻血は出ない。
改めてマリナのアメジストの瞳に見入る。腰を抱き寄せて柔らかな銀髪を弄んだ後、白い頬を撫でる。
「逃げないで」
僕から逃げ出そうと身体を捩ったマリナを壁と腕の中に囲い込む。
逃げ場がなくなったマリナは、まるで小動物のように震えて、
「セドリック様、何か、怖い……」
と呟いた。女王然とした様子が微塵も感じられない。
「嫌だな、怖くないよ?」
マリナから『怖い』なんて初めて言われたな。怯える彼女も美しい。
どんな表情も僕を惹きつけて離さない。
「……いっぱい優しくするよ?君の気持ちが分からなくて遠慮していたけれど、もう遠慮は要らないよね」
今まで遠慮していたのか、って訊かれたらどうしようか。
遠慮していたつもりはないけれど、マリナに嫌われないように嫌われないように……ってそればかり気にしていたと思う。
「僕が他の女子に目移りしないように、マリナは僕を虜にしてくれるんでしょう?」
目移りしないだろうね。一応脅してみただけだよ。
……ああ、そんなに顔を真っ赤にして、僕だけを見つめている。
「そんなこと言っていませ……」
抗っても無駄だよ。
僕はすかさずマリナの唇を奪う。小さな唇から吐息が漏れる。
誰も通らない夕暮れ時の廊下で、僕は最高の幸せを感じていた。




