219 悪役令嬢は目覚めさせる
「マリナ……」
名前を呟いたきり、セドリックは目を見開いて固まった。
上から目線になったマリナは、掴んだ襟元に顔を近づける。
「本気で言ってるの?」
声に含まれた怒気にアリッサは縮み上がった。怒ると怖いハーリオン侯爵夫人を髣髴とさせる何かがマリナに降臨している。
「アイリーンが私より優れているって、本気で思っていらっしゃるの?何の努力もしていない一介の男爵令嬢が?」
「あ……あ……」
「……って訊いてるのよ!」
「あっ、アイリーンは、僕を分かってくれて……」
「馬鹿馬鹿しい。いつ、どこで、セドリック様の気持ちを打ち明けたのです?毎日アイリーンを避けて生活してきたのに。私達が迫害しているだなんて濡れ衣もいいところよ。酷い目に遭わされているのはむしろ私達なの。お・分・か・り?」
指先でセドリックの鼻のてっぺんをトントンと叩く。
「あ……」
青い瞳が揺れる。何かが綻びかけているのだ。先ほどまでの夢うつつの表情が消える。
「私、とぉっても気分が悪いんですの。セドリック様は、こんなに簡単に操られるような、浅い気持ちで私に好きだ好きだって仰っていたんですね。失望しすぎて笑っちゃうわ」
「マリナちゃん……!」
止めようとするアリッサの声に耳を貸さず、マリナは驚き震える王太子をさらに追い詰めた。
「……笑っちゃうわよね、こんなセドリック様を好きになっていたなんて」
目を見て呟けば、自然と声が震えていく。ネクタイをぐっと前に引く。
「好……き……?君が……僕を?……んっ」
「なっ……」
「きゃっ」
生徒会メンバーがいるにも関わらず、マリナはセドリックの唇を奪う。皆が微かに声を上げた。
「……っ、はあ、はあ……」
肩で息をして真っ赤になっているセドリックは、潤んだ瞳でマリナを見上げた。
「……僕、は……アイリーンを……」
瞬間、マリナの顔が悲しみに歪み、ネクタイから手を離して俯くと、何も言わずに生徒会室を出ていく。
「マリナちゃ……」
バタン。
ドアが閉まる乾いた音だけが響いた。
◆◆◆
生徒会の仕事があっても、先に帰ってしまえばよかったと、マリナは心から悔やんでいた。セドリックの口から何度も、アイリーンへの称賛の声を聞くのは、堪えがたい苦痛だった。
生徒会室から離れ、普通科の教室から進んだ廊下の片隅で、壁に凭れて溜息をつく。生徒達は帰ってしまい人影はない。とめどなく流れていた涙は乾き始めている。
「キス……効かなかった、か……」
ジュリアのようにはいかなかった。ジュリアはアレックスを長い間想っていたのだから、自分とは愛情の深さが違うのかもしれない。
手遅れではないとジュリアには励まされたが、打つ手がない以上、手遅れだったと言える。
セドリックはアイリーンの手に堕ちたのだ。
ガタ、ガタガタ……
ぼんやりと遠くを見つめていたマリナの背後で大きな音がした。
びくりと身体を震わせて振り向く。
「よかった!探したよ……」
長い腕に絡め取られ、マリナはあっという間に抱きすくめられた。
――え?ええ??
胸を少し押しのけるようにして見上げる。
そこには頬を染めた王太子の顔があった。
――見間違い、ではないわよね。
「セドリック様?」
僕はアイリーンを愛している、と言いかけたのではなかったのか。
熱愛宣言に耐えられず逃げ出した自分を探すとは何事か。マリナは混乱した。
「晩餐会にはアイリーンをぶふっ」
顔が広い胸に押し付けられるほどきつく抱きしめられる。話している時にいきなり抱きしめるのは、いつも通りの空気が読めないセドリックそのものだ。
「ごめんね、マリナ、僕は最低だ」
「は……」
――謝ってる?ってことは……。
「君につらい思いをさせて、泣かせて、……どんな罰でも受けるよ。だから」
青い瞳が期待に満ちて揺れる。先ほどまでの不安げな様子はない。
「好きだと言ってくれたマリナの気持ちに応えたいんだ」
「記憶が戻ったんですか?」
「……実を言うと、曖昧なところがあるんだ。記憶を消されたのだとしても、必ず取り戻してみせるから、僕に君を愛させてほしい」
「……っ、し、信じられません」
「君から初めてキスしてくれたよね。嬉しかったよ。途中でキスしてるって気づいて、幸せすぎて死ぬかと思ったよ」
――って、魔法が解けていたの?
丁度タイミングよく魔法の効果が切れる頃だったのだろうか。はたまたキスの効果なのか。
「今からたっぷり、信じさせてみせるから、ね?」
セドリックは妖艶な笑みでマリナのアメジストの瞳を覗き込んだ。抱きしめていた腕が緩み、片手は腰に回り、片手は肩にかかる銀髪を撫でて頬を包んだ。
ドン。
鈍い音がし、マリナの背中が廊下の壁に当たる。
「逃げないで」
「セドリック様、何か、怖い……」
「嫌だな、怖くないよ?……いっぱい優しくするよ?君の気持ちが分からなくて遠慮していたけれど、もう遠慮は要らないよね」
――怖い。え、笑顔が、超絶美しいのに怖いっ!
「僕が他の女子に目移りしないように、マリナは僕を虜にしてくれるんでしょう?」
「そんなこと言っていませ……」
ん、と続ける隙もなく、セドリックの唇が重なる。柔らかく温かい感触に、意識が唇に集中してしまう。
「ん……はあ、あっ……」
肘を壁につけてマリナを囲い込んだセドリックは、僅かな息継ぎの後再び唇を貪ろうとする。
「待って」
「待たないよ。今までたくさん待って、我慢してきたんだからね」
キラリ。
セドリックの瞳が妖しく輝いた。
「……放さない」
――嘘でしょう!?ドM脳内お花畑王子が、Sに覚醒しちゃった?
マリナは心の中で絶叫した。




