27 悪役令嬢は目を瞑る
ハーリオン侯爵家の令嬢が、王太子妃候補に決まったとの知らせは、瞬く間に王国中を駆け抜けた。うちの娘を未来の王妃にと目論んでいた者達は、侯爵が王の友人だからゴリ押ししたのだろうと悪口を言った。
「実際にゴリ押ししたのは王家の方なのだがなあ」
ハーリオン侯爵は今日も、書斎で頭を抱えていた。娘が王妃になれば、彼も多くの責任を負うことになる。いつまでも名ばかりの気楽な博物館長ではいられないのだ。
ノックの音がし、執事のジョンが入ってきた。
侯爵が使い物にならない間も、家の隅々にまで気を配るできた男だ。亡き父上が全幅の信頼を寄せていたのも当然だ。
「旦那様」
「何だ」
「申し上げたいことがございます」
そのまま侯爵の前へ進み出ると、ジョンは声を控えた。
「マリナ様のことでございます」
◆◆◆
父侯爵とやりあって、結局王太子妃候補にされてしまった後、マリナは一日中粘りつくような視線を感じるようになった。早足で廊下を歩いていてもぞわっと鳥肌が立つ。
こんな視線の主は決まっている。覚悟をして笑顔を浮かべ、振り返る。
「お兄様」
作り笑顔のマリナに、引き寄せられたようにハロルドが駆け寄ってくる。
「ああ、マリナ。どうして気づいたんです?」
家の中で堂々とストーカーされたら誰だって気づくわ!と内心ツッコミを入れる。
「何となく、お兄様がいらっしゃるような気がして」
何となくではないけどね。もンのすごくビシバシ視線を感じたからね。
「もしかして、あなたも私を探してくれていたのですか」
「……」
苦笑。苦笑しかない。
寧ろ逃げようとしてましたけど何か?
喜色満面でにじり寄ってくる義兄に、たまらず半歩後ずさる。
「何か、ご、ご用ですか?」
「はい。温室の花はご覧になりましたか。昨日あたりから満開になりましたよ」
ここは何と答えるべき?見ていないけれど、見たと答えれば話が長引きそうだ。
見ていないと答えれば、有無を言わさず温室に連れ込まれそうだ。てか、この人と二人で密室はまずいでしょ。危険な気がする。
「中庭の花も見事ですわよ。流石はペック。うちの庭師は優秀ですね」
マリナは話題を微妙にずらして逃げることにした。
「中庭ですか……ああ、そう言えば」
ハロルドは一瞬窓の外に目をやる。
「ピオリの木に赤い花が咲いたようですよ。……また誰か、叶わぬ恋をしているのでしょうか」
十二歳の少年は妖艶に微笑んだ。
「さあ、どうでしょうね」
マリナは受け流し作戦を決め込んだ。
「好きな人に、婚約者がいて……果たして死を覚悟するほどのことでしょうか。相手の男を消してしまえばいいのに。……あなたはどう思われますか」
綺麗な顔で物騒なことを言う。目が笑っていない。ヒィー。
「さあ、どうでしょうね」
もうこれでいこう。愛想笑いで凌ぐ日本人スタイルだ。
「あなたには分からないかもしれませんね。初恋もまだのようですから」
義兄は美しい顔で鋭い視線を投げる。さあ、どうでしょうね、とは返せない。
――勝手に決めつけないでよ。たかだか二歳年上なだけの子供のくせに。
「初恋もまだだなんて、お兄様にお分かりになるのかしら」
「おや、では……マリナはどなたかに恋をしているのですか」
一瞬驚いた青緑の瞳が眇められ、手首をがっちりホールドされる。
――失敗した!
意味なく突っかかってみた数秒前の自分を蹴り飛ばしたい気持ちだ。
マリナは猛烈に後悔した。ハロルドの物言いたげな視線が全身を突き刺すようだ。
「あなたは家から殆ど出たことがないでしょう。どこでそのような方と出会うというのです?王太子殿下ですか?それとも、ジュリアの友人の彼か、あるいは……」
早口で畳み掛けるハロルドに、いつもの穏やかさは微塵もなかった。
「使用人の誰かでしょうか。先日、ペックの息子と親しげに話していましたね。彼なのですか?」
適当に話を切り上げれば、ペック親子がクビにされかねない。ハロルドには恋敵を殺してしまいそうな鬼気迫る何かがある。
「違います!王太子様でもアレックスでも、使用人の誰かでもありません!」
――怖い。
マリナの手首を掴む力が強くなる。痕が残ってしまいそうだ。
「……っ!」
廊下の壁に背中が当たる。ハロルドと壁の間に挟まれ、手首は顔の横の壁に縫い付けられる。マリナは息を詰めた。
これが壁ドンなのね、とは悠長に構えていられない。
「あなたの、心を盗む者は……容赦しませんよ?」
義兄の瞳が暗く輝き、手首を掴んでいない方の手で、首から顎にかけてをゆっくりと撫でられる。視線が絡み、射すくめられたように動けない。
「お兄様……」
顎が上向けられて、ハロルドの顔が近づく。
睫毛長いな。
――と観察している場合ではない。もう絶体絶命だ。
マリナはぎゅっと目を瞑った。ハロルドが小さく笑う声がした。
鼻先が触れる。
「マリナお嬢様」
後ろから落ち着いた声がし、義兄は弾かれたようにマリナから離れた。




