152 悪役令嬢は打算的な自分に嫌気がさす
ダダダダダダダ……
「今の、誰?」
「銀色の髪だったかな?」
「マリナ様に見えたけど……まさかね」
「妹の誰かじゃないか?」
廊下を猛スピードで駆けていく令嬢を二度見した生徒達は、それが王太子妃候補のマリナだとは信じられなかった。
マリナはスカートを持ち上げて三年の教室へと走った。
――逃げ帰られてたまるもんですか!
僅かな時間の間に、生徒達は寮に帰り、校内の思い思いの場所へ移動したらしい。
三年一組の教室へ着く頃には、室内にはハロルドだけが残っていた。
「はあ、はあ、はあ……見つけましたわ。簡単に騙せるとお思いですの?お兄様!」
必死の形相をしたマリナに、ハロルドは瞠目し、すぐに沈んだ表情に戻った。
「私があなたを避ける理由はお分かりでしょう?」
見つめる瞳は愁いを帯びている。マリナの胸がズキンと痛んだ。
「ええ。お父様の手紙が、間違って入れ替わっていました。それでお気づきになったのですか」
ハロルドは何も言わずに頷いた。
「……私は、お兄様に幸せになっていただきたいのです!あなたが私の幸せを願ってくださったように、私も……」
話し続けようとするマリナを遮り、ハロルドは静かに言った。
「私の幸せを決める権利はあなたにはありません」
――それはそうだけど。
「……っ、それでも」
膝が震える。どうして彼の言葉はこんなにも胸に突き刺さるのだろう。
マリナは勇気を振り絞った。
「何でもできるお兄様が、ハーリオン家の一領地管理人で一生を終えるなんて、グランディア王国にとっての損失です!」
「国に、とって?」
「はい」
「王妃の座に就くあなたのために国に貢献しろと?」
ふっと小さく笑ったハロルドの瞳の陰は、底知れぬ深い闇のようだった。
「それは……」
「国のため、などと言われても私の心は動きません。ですが、あなたのためだというなら、どんなことでもいたしましょう」
――来た!
ハロルドの鉄壁の防御が一瞬崩れた気がした。矢を打ち込むなら今しかない。義兄はどう見てもヤンデレ要員だが、『デレ』に付け込めば……。
突破口を見出した喜びと相反するように、マリナは彼の恋愛感情を利用しようとする打算的な自分に嫌気がさした。
――心苦しくても、やるしかないのね。
「お兄様!お願いがありますの!」
泣きそうに震えていたはずのマリナは、急に元気を取り戻し、ぐっとハロルドの制服の袖を握った。義兄は驚いて後ろに倒れそうになる。足がふらつき、マリナに体重を預けて何とか持ちこたえた。
「え、あの……マリナ?」
「驚かせてごめんなさい、お兄様。私を助けると思って、学院祭の劇に出ていただけませんか?」
青緑の瞳が二度瞬き、ハロルドはぽかんと口を開けた。
◆◆◆
「なるほど……アイリーン・シェリンズは、あなた方姉妹を執拗に狙っているのですね」
「はい。私達の誰かが主役になれば、きっと何らかの妨害を仕掛けてくると思うのです。ですから、『マデリベル』の男女を入れ替えて、王子ならぬ王女役を当日まで明かさないことに決めたのです」
「そうですか……。この話は殿下もご存知なのですか?」
「いいえ。私達姉妹と……リ、いえ、私達だけです」
リオネルの名を出せば、あらぬ疑いをかけられそうだ。マリナはすんでのところで嘘をついた。
「……私の役は、主人公をいじめる兄、ですか」
「お優しいお兄様には酷な役回りだと思いますわ。でも、先日の歓迎会でも立派に司会を務めていらっしゃいましたし、劇でも……」
「私と双子の役が、王太子殿下ですか」
――そこは突っ込まないで欲しかったのに。
セドリックはよく見ていなかったのか、気にしていないようだったが。
「レイモンドが兄なのはいいとしても、殿下と双子というのは……」
「セドリック様と対になっても見劣りしない男子生徒が、この学院に何人いるとお思いですの?お兄様をおいて他にはいらっしゃらないと思いますわ」
「……複雑な気分ですね。褒められているのでしょうか。遠回しに王太子殿下を褒めているようにも聞こえますが」
流し目でこちらを見る。
「ええと……」
「冗談ですよ。あなたは殿下を選ぶ以外の道がないのですから」
心臓に悪い冗談はやめてほしいとマリナは切に願った。『セドリックを選ぶ以外の道がない』とは、どういう意味なのだろう?
「侯爵家から王家に対し、婚約破棄を申し出た例はありませんし、あなたが権力に屈したのも致し方ないことです」
――ん?
「幼馴染のセドリック王太子殿下と結婚すれば、いつかは愛情が芽生えると考えたのでしょう?」
――んん?
「無理に殿下を愛していると思い込まなくてもよろしいのですよ?」
ハロルドは青緑色の瞳に翳を纏わせながら、にっこりと妖艶に微笑んだ。
――あ、何か、間違っちゃったかも?
「あなた方姉妹の秘密を、私だけには話してくださいました。王太子殿下よりも信頼されていると思っても構いませんよね?」
行きがかり上、義兄には作戦を話してしまったが、彼だけには打ち明けようなどと他意はなかったのだ。ハロルドは喜んで勘違いをしているようだ。否定も肯定もできず、マリナは途方に暮れた。
「劇の出演を引き受けます。……他の誰でもないあなたのために」
――うわ、重っ!
◆◆◆
劇の練習日程を教えると、ハロルドは疑問に思ったらしい。
「あなたは劇に出なくても練習に参加するのですか?」
「アイリーンから皆様を遠ざけるためです」
「合同練習の前も、練習の予定を入れているのですね」
「あ、それはセドリック様が……」
「……殿下が?」
――まずい!
ハロルドの瞳が眇められる。
「王太子殿下の練習、ですか?どうしてあなたが……」
ひんやりした指先がマリナの頬から唇をなぞった。
「ひゃっ……」
「教えていただけますか?それとも……口をつぐむのですか?」
端正な顔が近づいてくる。
――睫毛が長い……っていうか、距離が近すぎる!
「話してくださらないのなら、私の唇でこじ開けてもいいのですよ?」
――デ、ディープキス予告!?
「お、おし、教えますからっ……!」
義兄の色気に圧倒されたマリナは、セドリックとの個人練習の日程を教えてしまったのだった。




