138 悪役令嬢は椅子を蹴る
カツ。
硬質な足音に振り返る。アリッサは瞬時に青ざめた。
「学院祭の準備もせずに、ぼんやりと恋しい男のことを考えているとは、余裕ですね」
マクシミリアンは抑揚のない声で言い、アリッサの近くへ歩を進める。
「仕事は……ああ、副会長の補佐役でしたか。彼も傲慢な男だ。婚約者を四六時中傍に置いておきたいとは」
「……」
黙って目で威嚇する。威嚇されているのにマクシミリアンは余裕だった。
「そんなに見つめないでください」
カツ。
また一歩近づく。
「見つめてなんかいません!」
カツ。
「怯えて、警戒している?」
カツ。
「当たり前でしょう?」
カツ。マクシミリアンとの距離が縮まる。壁に背をつけたアリッサには、退路は残されていなかった。
「いいことを教えましょうか」
「……聞きたくありません」
「先ほど、レイモンド副会長をお見かけしましたよ。シェリンズ嬢と並んで楽しそうに歩いていらした」
――っ!
アリッサは息ができなかった。
乙女ゲームの中でヒロインに微笑む彼が脳裏に浮かぶ。二次元の映像が、とうとう現実のものになってしまったのだろうか。
「……嘘です。嘘!レイ様はそんなことしないもの!」
マクシミリアンの顔が憎しみに歪んだ。優しい瞳が怒りでギラリと光る。
「まだそんな幻想を……」
「きゃっ」
大きな手がアリッサの細い手首を掴み、机の上に仰向けに倒される。ぶつけた背中が痛んだが、それどころではない。
「……言っただろう?あいつはあんたなんか見ていないって。ピアノを弾けなくなったあんたを詰って泣かせた下種野郎だ。あの女にお似合いだろ」
薄い唇を歪めて笑い、マクシミリアンは狂気の宿った眼差しでアリッサを見下ろした。
「やめてください!」
「シェリンズが言っていたぜ?レイモンドは自分の虜になる運命なんだってな。あの女、本気で頭がイカレてんのかと思ったが、あんたが転がり込んでくるなら、手を組むのも悪くない」
――アイリーンの仲間なの?
『優しく面倒見の良いマックス先輩』はもういないのだ。アリッサは絶望的な状況に涙を流した。マクシミリアンが目を瞠り、腕を掴む手が少しだけ緩んだ。
――今だわ!
腕を振り切り、なけなしの腹筋を駆使して起き上がり、身を捩る。
追いかけてきたマクシミリアン目がけて、近くにあった椅子を思い切り蹴飛ばした。
――レイ様!助けて!
心の中で叫びながら、生徒会室を抜け出して無我夢中で階段を下りる。泣いているせいで前がよく見えない。
ドン!
「えっ」
肩に衝撃を感じた。
階段を上がってきた誰かとぶつかったのか。前には誰もいなかったのに?
アリッサの横にいた女子生徒が、バランスを崩し階段から落ちそうになる。
――危ない!
咄嗟に彼女の手を引くも、小柄な自分ではかばいきれない。
「きゃああああああ!」
絶叫する誰かの声を遠くに聞きながら、アリッサは階段の下へと落ちていった。
◆◆◆
姉妹が学院祭の準備に奔走している頃、ジュリアは剣技科一年の教室で、問題用紙に向かっていた。隣には赤い髪を掻き毟るアレックスがいる。
「うああああああ!分かんねええええ!」
「そんなに髪の毛掻いたら、ハゲるよ」
「うっ」
「私、アレックスの髪が好きだから、ハゲないでくれるとうれしいな。……ハゲても好きなのには変わりないけどね」
「ジュリア……」
金色の瞳が心なしか潤んでいる。アレックスは感動しているようだ。
ハゲの話題でこれほど甘い雰囲気になれるとは思っていなかった。ジュリアは話題を変えようとペンを持って問題用紙を眺める。
「……ダメ。分かんない」
二人が取り組んでいるのは、バイロン先生が課した補習課題である。
レナードとジュリアがキスしたと勘違いしたアレックスを宥めている間に、一時間目のアスタシフォン語の授業は始まってしまった。遅刻した罰として、放課後に問題を解かされているのだ。
「ジュリア、何問目?」
「二問目。アレックスは?」
「七問目。俺は六問目から十問目までだから、……あー、半分も行ってないな」
全部で十問ある課題を二人で分担し、前半をジュリアが、後半をアレックスが解いているが、授業を理解していない二人が組んだところでどうにも進まない。
「レナードは委員の仕事だもんねえ。リオネル様がいれば、楽勝で教えてもらえたのに」
「……俺じゃ嫌なのかよ」
腕を前に投げ出すようにして突っ伏しているアレックスは、不貞腐れたように唇を尖らせた。自分よりずっと身体の大きな彼が、子供のように拗ねている。
「……っ、か、可愛い」
母性本能をくすぐられ、ジュリアはつい髪を撫でた。
「おい、やめろってば」
「照れてる」
「当たり前だろ!」
教室には二人だけだ。剣技科の生徒の大半は恋人がいない。誰かが見ていたら即刻血祭りに上げられてもおかしくない状況だった。
が。
「……ねえ」
「ん?」
「今、何か悲鳴が聞こえなかった?」
ジュリアは五感が鋭い方だ。視力もいいが耳もよく聞こえる。普通科の教室がある方から、女子生徒の悲鳴が聞こえたような気がしたのだ。
「さあ……言われてみれば聞こえたかも……あれ、ロン先生じゃないか?」
アレックスが指した先には、窓の向こうに普通科のある中央棟が見える。廊下を白いローブの青年が走って行く。
「誰か怪我人が出たみたいだな……と、バイロン先生が来る!」
「え!」
「こっちの棟に来るぞ。まずい、とにかく何か書いて埋めておかないと!」
真っ青な顔で解答欄を埋めた二人は、間もなくやってきたバイロン先生に重ねて叱られる羽目になった。




