【連載3か月記念】閑話 怪しい薬には裏がある 8(終)
むせ返るような花の香りがする。
「……」
ゆっくりとアメジストの瞳を開いたマリナは、あまりの驚きに声を上げそうになった。
――王太子殿下!?
青い瞳を心なしか潤ませ、唇から吐息を漏らしたセドリックの顔が至近距離にあった。
「殿下?」
自分の肩に頭を乗せていたマリナを覗き込むようにして、彼は顔を近づけていた。少しでも動いたら唇が触れてしまいそうだ。
「……何だ、起きちゃったんだね、マリナ」
――寝こみを襲っていたのか!怖!
王子様スマイルのセドリックは、興奮しているのか鼻息が荒い。マリナは顔が引き攣るのを抑えられなかった。少年なのに色気だだ漏れの王子を前に油断も隙もない。隙を見せたらつけこまれてしまう。
「なかなか起きないから、起こしてあげようかと思って」
――まさか、起こす方法は、童話の……。
「お姫様は……その……王子のキスで目覚めるって、本に書いてあったから」
――やっぱりか。呆れてものも言えないわ。
「目覚めませんよ?……いくら王子でも、姫の合意もなしにキスするのはどうかと思いますし」
「えっ!そうなの?」
「姫にだって好みってものがあります。殿下だって、寝て起きたら全然知らない女の子にキスされていたら、お嫌でしょうに」
「少なくとも君は僕を知っているじゃないか。全然知らない人よりはましだと思うよ」
「ですから、合意もなしに……」
こめかみを押さえながら、マリナはしばらくセドリックと押し問答を繰り広げたのだった。
◆◆◆
執事に咳払いをされて抱き合うのをやめたジュリアは、その後も夕方までヴィルソード家で剣の練習をした。姉妹の部屋に入ると、涙を流してしゃくり上げているアリッサ、彼女の肩を抱いて困った顔をしているマリナ、天蓋の中を闇で満たしてふて寝しているエミリーがいた。
「皆早かったね」
「あなたが遅いのよ、ジュリア」
「練習に熱が入っちゃってさ。で、アリッサはなんで泣いてるのさ」
近づいて椅子の前に片膝をついて座り、妹の顔を覗きこむ。
「ジュリアちゃ……っ、エミリーちゃん、が、ひっく、レイ、様、をっ……」
「マリナ?話、聞いた?」
「ええ。エミリーはレイモンドを変態だのムッツリスケベだのって罵って」
「ああー」
ジュリアは残念そうな顔をした。
「エミリーは控えめな男が好きなんじゃないの?ゲーム攻略サイトでも、レイモンドはデレたらヤバいって書いてたし、アリッサの身体に入ったエミリーに、きっといろいろやっちゃったんだよ」
「いろいろって……キスし、ようと、したり、っ……頭突き」
「アリッサ、今、頭突きって言った?」
「エミリーちゃん、が、レイ様、にっ……」
「アリッサが頭突きしたことになってるんだよ?次会ったらフォローしないと」
「レイモンドはやられっぱなしになるようなタイプに見えないわ。用心しなさい、アリッサ」
「そんなあ……」
泣き止みかけていたアリッサの瞳が再び涙に濡れた。
◆◆◆
翌日。
ふて寝からそのまま寝てしまったエミリーは、珍しく姉達と同じ時間に朝食を摂った。
「……アリッサ」
サラダを飲みこんだエミリーが、隣に座る姉を見た。
「なあに?」
「私にはあいつの相手は無理だった」
「エミリーちゃん……」
「レイモンドはアリッサしか見えてない。好きすぎておかしくなってる」
アリッサの頬が薔薇色に染まる。
「……あんなおかしい奴につきあってやれるのは、アリッサだけ」
「うん……そうかも」
「まあ、アリッサも大概おかしいけど」
「ふふ、何か嬉しい」
「おかしいと言われて嬉しいの?……変なの」
「マリナはアレックスのこと、どう思った?惚れた?」
単刀直入に聞いてきた妹に、マリナは危うくスープを吹き出しそうになった。
「な、そんなわけないでしょう?」
「なーんだ。マリナはスポーツマンタイプが好きだと思ったのに」
「好みじゃないわ……それに」
「ん?」
「私が彼を好きになったら、あなたが困るでしょう、ジュリア?」
「へ……」
口から何かを零しそうになったジュリアは、慌ててゴクリと音を立てて飲み込んだ。
「マ、マリナだって、私が殿下を好きになったら困るんじゃない?」
「殿下を好きになったの?ジュリアは」
「全然」
「まあ……」
「でも、ケーキをいっぱいくれるのはよかったな。マリナだったら食べ放題だってよ」
嬉々として話すジュリアの隣で、フォークとナイフを持つマリナの手が止まる。
「……ジュリア」
「ふ?」
パンを咥えて視線を上げると、アルカイックスマイルのマリナがこちらを見ていた。
「あなた、私の身体で、ケーキを大食いしたのね?」
◆◆◆
午前中の早い時間には、四人は家庭教師の授業を受けることになっている。今日は魔法を教えるコーノック先生が来る日だ。教養よりダンスより、エミリーが何より楽しみにしている時間だった。
「受けても意味ないし、私、出かけてくる!」
とジュリアは早々に邸から出ていった。またアレックスの家にでも行くつもりなのだろう。
「昨日のこと……レイ様に謝って許してもらうの!」
と意気込んだまま、アリッサは馬車に乗って行ってしまった。
今日はマリナと二人で授業を受けるのかと思っていたエミリーは、窓の下を覗き、豪華な馬車が停まるのを見て溜息をついた。
――王宮の使者か。
毎日のように侍従長が王太子からの親書を持ってくる。マリナに言わせると、内容は実にくだらないのだとか。マリナも呼ばれて行ってしまうのだろう。
先生と一対一で授業を受けるのなら、今日は高度な内容を教えてもらえるかもしれない。
エミリーは期待に胸を膨らませて、足取りも軽く一階へ降りていった。
廊下に差し掛かると、侍女がコーノック先生を案内しているところだった。何年もこの家に来ているのに、今さら迷ったとでも言うのだろうか。
小さな足音を響かせて彼に近寄り、ぐい、と白いローブを引いた。
「……先生」
振り返ったコーノック先生は、目を丸くしてエミリーを数秒見つめた。
「……?」
首を傾げると、先生は何か呟いて頬を染めた。
――何なのよ?
「姉達は用事があって出かけました。だから……今日は私だけ」
「君、だけ?」
口元を手で隠し、先生は視線を彷徨わせていた。
「二人では、いけませんか?」
「い、いけなくない、いけなくなんかない。……むしろ、好都合だ」
「はい?」
先生も高度な魔法を教えたいと思っていたのだろうか。
「……行きましょう、中庭に」
銀の髪を靡かせて颯爽と歩き出したエミリーを追い、コーノック先生はキョロキョロと周囲を見ながら中庭へと向かった。
次回から本編に戻ります。




