111 悪役令嬢は王子の言葉に惑う
「アリッサの様子が変だわ」
舞台の下で見つめていたマリナが呟き、ハロルドの袖を引いた。
「ここからではよく見えませんね……」
「大丈夫かな?様子を見に行くかい?マリナ」
セドリックが司会の二人を交互に見た。
「レイモンド副会長が舞台袖に行ったはずです」
舞台へ向かおうとするマリナをマクシミリアンが止める。
マリナ達を含めて、会場内の全員がアリッサを見つめていた。
ピアノが不思議な変化を遂げたように見えているのはアリッサだけで、皆には彼女がピアノの前で止まっているように思われた。
「楽譜は置いてあるわ」
「続きを弾かないのは……あっ。レイが……」
レイモンドがアリッサの隣へ歩いていくのが見えた。
「何があった?具合でも悪いのか、アリッサ」
耳元で囁かれ、ふるふると首を振る。
「あ……ああ……レイ様……」
肩に置かれた手にびくりと反応する。視線は鍵盤に向いたままだ。
「弾けないわけはないだろう?あれほど練習したんだ」
――でも、弾けないの!ピアノが……。
「ピアノが……」
「ピアノがどうした?」
「変なんです……」
気が動転しているアリッサにはそれ以上の説明ができない。ピアノには変わったところがないのを確認したレイモンドが首を傾げた。
「どういう意味だ?」
「鍵盤が……」
「弾けないのを楽器のせいにするのか?」
――もう、ダメ……!
「あ……ちが……」
――レイ様に嫌われちゃう!
堰を切って涙が溢れた。置かれた楽譜の音符が滲んで見えない。
「アリッサ?」
レイモンドが両手でアリッサの肩を掴んだ時、後方に強い光が現れた。
「放して」
「行くな!」
エミリーとマシューが喧嘩したままステージの上に転移してきたのだ。再び転移魔法を使おうとするエミリーを、マシューが無効化魔法で止めようとする。転移魔法が発動し、二人はまた光の中に消えていった。
「……あれ?」
目の前の不思議な光景が一気に晴れ、アリッサは目を瞬かせた。
――ピアノが、普通に戻ってる……?
指を乗せて一音弾いても、何も起こらないようだった。
「アリッサ……?」
訝しげに見つめるレイモンドに目を向けず、アリッサは前を見つめたまま言った。
「これから弾きます」
「弾けるか」
「はい」
――『完璧』でなくて、ごめんなさい。
流れるような旋律が会場を包む。春の景色に例えられる恋の始まりは、優しく軽やかで、どことなく哀愁を帯びて響いた。続いて、夏の場面が明るく華やかに演奏されると、講堂は生徒達の笑顔で埋め尽くされ、アリッサは礼をして舞台を下りた。
◆◆◆
「頑張ったな、アリッサ」
舞台袖でレイモンドが微笑んでいた。
アリッサは彼を一瞥すると、会釈をして前を通り過ぎた。
「……おい」
手首を取られて振り返らされる。
「私は……あなたの傍にいる資格がありませんから」
「何を……」
「ピアノが、本当に変になっていたんです。鍵盤が一つで白くなってて……だから変だって言ったのに、レイ様は信じてくださらなかった」
一息に話して、アリッサの瞳から一気に涙が滴る。
「弾けないのを楽器のせいにしたと、……だからっ……」
「責めるようなことを言ったのは悪かった。だが……」
「完璧じゃないから、私はレイ様に嫌われているんです!」
力任せにレイモンドの手を振りほどき、アリッサは舞台袖から講堂脇の廊下に出て、校舎棟の方へと走り去った。
「待て!」
「副会長、そろそろお開きですから」
背後から抑揚のない声でマクシミリアンが呼びかけ、レイモンドの腕をがっちりと掴んだ。
レイモンドは、淡い黄色のドレスが見えなくなるのを黙って見送ることしかできなかった。
◆◆◆
歓迎会は、アスタシフォン王国留学生の三名が歓待のお礼を述べ、拍手喝采で幕を閉じた。
生徒会長であるセドリックと表面上はにこやかに挨拶を交わした後、リオネルの接待は待っていたアレックスに引き継がれた。
「け、剣技科一年の、アレキサンダー・ヴィルソードです。よろしくお願いいたちまする」
緊張で噛んだ上に謎の言葉づかいをした彼の横で、セドリックがしまったという顔をする。
「よろしくね。……君はセドリック様の友達?」
「とっ、友達だなんて……」
畏れ多い、という言葉がアレックスの口から出なかった。思い出せなかったのだ。
「あ、そう?なーんだ、セドリック様って思ったより友達少ないね」
にやりと笑ったリオネルは、アレックスの赤い髪と金色の瞳をじっと見た。
「あの……?」
「何でもないよ。うちの国じゃあんまり見かけない色だからさ、珍しいなと思って」
「そうですか……」
「あ、それと。僕のことはリオでいいよ。リオネルって言いにくいでしょ?」
アレックスは顔の前で手を振る。
「いいい、いい、いえ、王族の方をお名前で、呼ぶなんて……」
「だんだんに慣れてくれればいいな。堅苦しいのは苦手なんだよ。よろしく、アレックス」
「え」
名前を省略されてアレックスは動きを止めた。
「愛称はアレックスなんでしょ?さっきセドリック様が言ってたよね。君のクラスの皆とも仲良くなりたいな」
「じゃ、じゃあ、早速教室に行きましょう!」
講堂を出ようとするアレックスを、リオネルがブレザーの裾を引いて止める。
「ちょっと待ってて」
セドリックはマリナの司会を絶賛し、ハロルドを極力視界に入れないようにして話をしていた。そこへリオネルが近寄ってくる。
「やあ、マリナ。司会お疲れ様」
「リオネル王子、僕より先にマリナに声をかけるんだね」
鋭い視線で射抜くセドリックを無視し、リオネルは笑顔で話を続ける。美少女のような顔が微笑むと、破壊力は抜群である。
「君は僕が思っていたより、ずっと頑張り屋さんみたいだ。甘やかされて育った我儘令嬢なんかじゃない。……前よりずっと、僕の国へ招きたくなったよ」
――『甘やかされて育った我儘令嬢』?
マリナの中に何か引っかかるものがある。自分達は今だかつてそういう評価をされたことはなかった。
「ダメだよ!マリナは僕の妃になるんだから」
「どうかな?セドリック様は確かにイケメンだけど、僕だって勝ち目はあるさ」
――『イケメン』?
「マリナが予定通りに王子に惚れるとは限らないじゃないか!」
――『予定通り』に惚れる?
「リ、リオネル様っ。教室に行きましょう!」
喧嘩になりそうな気配を察した、普段は察しない男のアレックスが、リオネルの腕に自分の鍛えられた腕を絡め、強制的に会場の出口へ向かう。
残されたマリナは、リオネル王子の言葉を反芻し、嫉妬深い王太子にしつこく構われる羽目になったのだった。




