108 ロンの独り言
【ロン視点】
俺が宮廷魔導士を辞め、王立学院の医務室に務めるようになって五年になる。
専ら切り傷を拵えてくる剣技科の生徒を治療する日々だった。何も考えずに、傷が綺麗になるまで治癒魔法を使い、時には生徒の恋愛相談に適当に助言してやる。代わり映えのない毎日で覚えたのは、力の抜き方だけだった。
「またあんたなの?」
音も立てずに転移魔法で医務室に入ってきたマシューを一瞥し、俺は面倒くさくなった。
こいつは親友のリックの弟で、面倒を見てやってくれと頼まれているが、正直関わり合いになりたくない。面倒事ばかり持ち込んでくる。
「……俺は、もうダメだ……」
「この世の終わりみたいな顔ね。ご愁傷様」
どうせ恋愛絡みの相談だろうと、俯くマシューの脳天に分厚い魔法書の角を落とす。
「痛っ」
「毎日毎日ウザいのよ。仕事の邪魔。とっとと悩みぶちまけて出ていきな」
なんだかんだで俺も甘い。弟のようなマシューが時折頬を赤らめながら、ぽつりぽつりと話す姿を見て、成長したものだと実感する。
――俺も歳を取ったってことか。
「浮気だの二股だの、疑われるようなことをしてるあんたが悪い」
ズバッと言ってやると、マシューは絶句して、辺りに魔力が漂った。尋常ではない量の闇魔法の気配が室内に充満する。
「そ、そうか……」
黒と赤の瞳が揺れる。恋愛初心者のこいつには、少し薬になればいいと思ったが、あまり責めると思い詰めて何をするか分からない気がする。救いを求めてここに来たのだろうから。
「でもね、考えてもみなさいよ」
マシューの前に椅子に座り、ずいっと膝を詰める。
「あの子、嫉妬してるのよ。そんだけあんたを好きなの。無関心じゃなくてよかったわねえ」
途端にマシューの顔色が良くなり、口元にうっすら笑みを浮かべている。
――心配は要らないみたいね。
「話を、聞いてもらえるようにする。……誤解されたままはつらいからな」
「頑張ってね。間違っても魔法で監禁したりしたらダメだからね?」
マシューはクッと笑って、手を振って消えた。
転移魔法の白い光の残影を見て、俺は溜息をついた。
少しだけマシューが羨ましくもある。俺は恋愛に振り回された記憶はない。
六属性持ちの彼に訪れた、五属性持ちの魔導士エミリーとの出会いは、運命だったのだろうとすら思う。
――運命、か……。
退屈な日常の繰り返しでは、運命の糸の一端なんて拾えるはずがないな。
◆◆◆
「ロン先生は、どういう男の子が好きなんですか?」
魔法科の二年女子から恋愛相談を受けていた時、不意に訊ねられた。
「ん?どうしてそんなこと聞くの?」
「い、いえっ……あの……」
校内で俺が男色家だという噂が広まっている。まったく不本意この上ないが、俺は男には興味がない。話し方と見た目から、誰かが言い出したのだろうが。
「そうねえ……真面目で元気が良くて……ちょっといじりたくなる子がいいかな」
「いじる……」
「そ。からかい甲斐のある子ね」
女子生徒は明らかに安心したようだった。彼女が想いを寄せる男子生徒は、真面目でからかい甲斐のあるタイプではないらしい。
――って、そこ、安心するところか?
「婚約者の本音に気づけずいちいち悩んでるような子も、馬鹿正直で嫌いじゃないけどね」
指の背で頬を突いてやると、女子生徒は驚いて叫んだ。
「ロン先生!?」
「何よ」
「女子は範疇外なんじゃ……」
「誰がそんなこと言ったのよ。嫌あねえ……」
用事を思い出したと逃げていく女子生徒を追わず、俺はまた椅子に身を投げ出して微睡んだ。冗談で嫌いじゃないと言っただけなのに、少し驚きすぎではないか。
◆◆◆
午後はアスタシフォン王国からの留学生を迎える歓迎会である。冒頭に顔だけだして、早々に医務室へ引き下がろうと思い、先刻の女子生徒とのやり取りにもやもやしたものを抱えながら、俺は服装を改めることもなく講堂へ向かっていた。
廊下の向こう側から足音が聞こえる。近づいてきたと思った瞬間、
「ぶふっ」
何かが胸にぶつかった。
――何だ?ああ、走ってきた生徒か。
「何?あら、ゴメンねえ?」
向こうが悪いのは一目瞭然、俺が謝る筋合いはないが、一応引いて反応を見た。
こちらを凝視しているのは、制服から剣技科の生徒だった。細身のスラックスが余るほど細い脚は小鹿のようだ。袖から見える指先はわずかで、明らかにブレザーが大きい。襟元で纏めた銀糸のような髪は、上手に結えていないにも関わらず美しく、血色のよい頬にかかる後れ毛が白く小さな顔を隠している。不恰好に大きな黒縁眼鏡の奥に、目尻がわずかに上がった大きな紫色の瞳が見える。
「……」
一瞬大きく鼓動が跳ね、いつもの調子で言葉が出なかった。喉の奥に何かが詰まったように、胸が苦しく息ができない。
――魔法?いや、そんなはずは……。
目の前の彼女をまじまじと見てしまう。魔法など使われていないのは明らかだ。おかしいのは俺の方なのに、彼女に原因を求めてしまった。
――何やってんだ、俺。
つい自嘲していると、
「すみません。わ、ぼ、僕の不注意で」
と生徒は慌てて反省の弁を述べる。
――一『僕』?
可愛らしい女子生徒が男物の制服を着ているのも不自然で、どこか怯えた様子なのが気になる。事情は分からないが面白そうな予感がして、少し脅してやろうという気になった。
「いいのよ。……そうね、廊下を走るのは感心しないわねえ」
「次は走りません!見逃してください!」
「んー。どうしよっかなあ……」
どうやってからかってやろうかと思案していると、生徒はぎゅっと目を瞑り、俺が与えるであろう罰に備えた。
「やっぱり、見逃してあーげない!」
――決めた。
高鳴る鼓動の意味が知りたくて、額に口づけると、感触に気づいたようだった。
「ロン先生、な、にを……」
尻餅をついて真っ赤になっている。
「何って、キスしただけだけど?」
「だけって、だけじゃないですっ!」
「これくらいで真っ赤になっちゃって、可愛いなあ。その制服、剣技科でしょ?ネクタイの色……一年生ね。名前は?」
「し、失礼しますっ!」
脱兎のごとく逃げ去った。廊下を走ってはいけないと言ったのに、だ。
「あんな子、今年の一年生にいたかしらね?」
名前を教えてもらえなかったが、剣技科なら怪我をして医務室に来ることもあるだろう。退屈しのぎには十分だ。
講堂へ向かう足取りが軽くなる気がする。彼女の傷を手当てすると想像しただけで浮き立つ気持ちに説明がつかないが、何となく、マシューを馬鹿にできないなと苦笑した。




