107 悪役令嬢は廊下を走る
五時間目の授業はない代わりに歓迎会が開かれる。男子の制服に着替えたジュリアは、剣技科一年の教室へと急いでいた。スラックスは裾を一つだけ捲り、ブレザーは肩パッドのようなものを入れてどうにか形になった。高く結い上げていた髪を下ろして襟足でまとめ、更衣室にあった黒縁の伊達眼鏡をかけている。眼鏡をかける必要はないが、ジュリアの中では変装と言ったら眼鏡だった。本当はサングラスがあればいいと思う。
「皆整列して講堂に行くって言ってたな……遅れたら目立っちゃう」
走ると怒られるが、ここは大目に見てもらおう。
直線の廊下を曲がろうとした時、何かにぶつかった。
「ぶふっ」
くぐもった声が出てしまった。
「何?あら、ゴメンねえ?」
鼻を押さえたジュリアは、張りのある艶やかな声の主を見つめた。白地に金糸で刺繍されたローブの前を留めず、ワイン色のシャツの襟元を少し寛がせた背の高い男――医務室の魔導士ロンが薄く笑みを浮かべて立っていた。赤紫色の髪を掻き上げ、気怠い雰囲気を醸し出している。
「すみません。わ、ぼ、僕の不注意で」
「いいのよ。……そうね、廊下を走るのは感心しないわねえ」
「次は走りません!見逃してください!」
「んー。どうしよっかなあ……」
ロンは勿体ぶってゆっくりと話し、指先で肩にかかる長髪を背中に流す。水色の瞳が僅かに細められた。
――怒られる!
ばさりとローブが翻った音がし、ジュリアは観念して目を瞑った。
「やっぱり、見逃してあーげない!」
耳の傍で悪戯な声がしたかと思うと、額に温かい感触がし、リップ音がして離れた。
――ええええええっ!?
ばっと目を開けて後ろに逃げようとし、慌てて転んでしまう。
「ロン先生、な、にを……」
「何って、あんまり可愛くて、ついキスしただけだけど?」
「だけって、だけじゃないですっ!」
「これくらいで真っ赤になっちゃって、ふふ」
――そうか、私、今は男子生徒なんだっけ。
皆の情報から、医務室のロン先生はどうやら男が好きらしいと聞いた。本当かどうかは(怖くて)誰も本人に確認できていないが。生徒の恋愛相談にものっていると聞く。恋愛に関しては割とオープンなタイプらしい。
「その制服、剣技科でしょ?ネクタイの色……一年生ね。名前は?」
「し、失礼しますっ!」
抜群の運動神経で身を翻し、走り去ったジュリアを視線で追い、ロンは首を傾げた。
「あんな子、今年の一年生にいたかしら?……僕って言ってたけど女の子、よね?」
◆◆◆
「ジュリア!遅かったな」
「間に合わないかと思ったよ、ジュリアちゃん」
「着替えに手間取っちゃって。……どう?男子に見える?」
腰に手を当てて軽く胸を張る。胸には布を巻いてきたのでいつもより厚みが少なくなっているのだが、僅かな違いしかないのが悲しい。
「いいと思うぜ。制服はぶかぶかだな」
「名前は、『ジュリアン』でいいのかな」
レナードが軽い調子で尋ねる。
「うん。王子の前で間違ったら私の鉄拳が飛ぶからね」
「俺は慣れてるから大丈夫だ」
「どうかな……あっ!」
ジュリアは先ほどのフィービー先生とのやり取りを思い出し、アレックスの二の腕を抱えて耳打ちした。
「……私がアレックスの部屋に寝泊まりするって、先生に聞いてたの?」
「な……」
アレックスの動きが止まる。耳まで真っ赤になっている。
「何だよ、それ。俺は、侯爵家の部屋に寝るって聞いて……お前の義兄さんの部屋かと」
「アレックスん家だって侯爵家でしょ。先生に使用人のことを聞かれた?」
「エレノアの話をして……ああ、えっ……?えええ?」
混乱して何を言っているのか分からないアレックスを引きずるようにして、ジュリアとレナードは講堂へ向かった。
◆◆◆
アスタシフォン王国からの留学生、つまり王子一行の歓迎会会場は、学院の講堂であった。全校生徒が今か今かとリオネル王子らの到着を待っていた。学院の入口まで出迎えるのは学院長の役割である。生徒会長のセドリックや役員の面々も、一般の生徒と同じように、学院長が留学生を案内してくるまで会場で待っていたのだった。
「準備はできたようだな」
「はい……」
レイモンドは淡い黄色のドレスを着たアリッサを舞台袖にエスコートしていく。
――イヤリングに気づかれませんように!
アリッサの願いもむなしく、振り返ったレイモンドは彼女の首筋を撫で、耳に触れた。
「……イヤリングはどうした?」
「ドレスに合わせて、今日は……黄色にしてみたんです」
ドレスとイヤリングを合わせたのは本当だ。シトリンとパールの組み合わせで可愛らしくも落ち着いた印象になっている。
「そうか。まあいい。俺はセドリックについて一番前の席にいる。……応援している。頑張れ」
前髪を優しく撫でられ、アリッサは目を細めた。
「はい。最高の演奏ができるように努めます」
「レイモンド副会長、学院長先生が確認したいことがあるそうです」
「今行く」
レイモンドは頷くと、マクシミリアンと入れ替わりに舞台袖からいなくなった。
「あ……」
アリッサはマクシミリアンの姿を見て狼狽えた。壁際に身体を寄せる。
逃げ出したい気持ちになるが、今の彼は柔和な笑みの優しい先輩に見える。
「緊張しているようですね」
声色も穏やかで、音楽室で見せた狂気じみた表情はどこにもない。
「はい……少し」
「グランディア王国の代表と言っても過言ではありませんから、レイモンド副会長もそれはそれは楽しみにしているようです。勿論、学院長先生や、国賓のリオネル王子も」
――物凄いプレッシャーだわ。
「皆が演奏に期待しています。頑張ってくださいね」
マクシミリアンは小声でアリッサを励まし、司会の二人を呼び寄せた。




