97 悪役令嬢は大蛇の幻を見る
「ただい……え?」
永遠の帰宅部員を自称するエミリーが、寮の部屋に入った時、室内は荒らされた形跡があった。部屋の中央にはメイド服姿のリリーが、涙か鼻水か分からないものを垂らして床に座り込んでいた。
「ど、どうしたのリリー?大丈夫?何があったの?」
人形のように無表情のエミリーでも動揺が顔に出るほどに驚き、ボロボロの侍女に駆け寄った。
「エ、エミリー様……」
「強盗が入ったの?怪我はない?」
「いいえ、強盗ではございません」
「この部屋は……」
シーツやタオルが床に散乱し、テーブルの上の食器はひっくり返っている。長椅子の上には調味料の瓶が転がり、窓枠にはケチャップがはじけ飛んでいた。
「申し訳ございません。私が、私がっ……」
鼻水をすすりながら泣き始めた年上の侍女の肩を抱き、エミリーは困惑した。
◆◆◆
「ロイドが、浮気をしていたのです!」
エミリーの知る限り、リリーの夫のロイドは年上女房一筋、それこそエミリー達が物心ついた頃からリリーを追いかけていたように思う。侍女見習いのリリーに用もないのに話しかけていた従僕見習いの少年、それがロイドだった。一時期、リリーがヴィルソード家の従僕といい雰囲気になった時は、子供のエミリーが心配するくらいにメソメソしていたし、結婚が決まった時は腑抜けになって役に立たなかった。要するに、ロイドはリリーにベタ惚れだった。
「まさか」
「毎日他家の侍女に頼まれて力仕事を引き受けておりましたから、てっきり今日も何か頼まれたのだと思っておりました。それなのに……」
「違うの?」
「お昼になっても戻らず、心配になって。夫がどこへ行ったか、学院へ来てから知り合いになりました侍女の皆さんに聞いたのですわ。皆気まずそうにして、なかなか話してくださらず……」
「だからって浮気と決めつけるのは」
リリーはエミリーの肩をガシッと掴んで
「見たんです!」
と涙ながらに訴えた。
「女子寮の外、使用人用の通用口の傍で、ロイドが若い侍女と待ち合わせて、何やら親密に話をしていたのです。もう、だらしなく鼻の下を伸ばして!」
エプロンを噛みちぎりそうな勢いで噛み、リリーは悔しさを露わにした。
「相談を受けていただけなんでしょう?」
「どうだか。相談って、ここまで顔を近づける必要がどこにあるんです?」
と、リリーはエミリーの間近に顔を寄せた。
「い……うーん?」
女同士で、姉のような侍女相手だから許せるようなものの、息がかかる距離に顔がある。
「おかしいでしょう?絶対おかしいですわよね?」
「ちょ、リリー、落ち着いて」
肩を押して距離を離す。クールビューティーのデキる侍女のリリーが、恋愛問題で取り乱すなんて信じられないが……部屋の惨状を見れば納得せざるを得ない。
「どこの家の侍女なの?私も聞いてみるわ」
「存じません。見たことがない女でしたわ。服装はどこでもありがちな黒いワンピースに白いエプロンでした。……ああ、そう言えば」
リリーの目が冷たく光った。
「珍しい髪の色をしておりましたわ。……ピンク色の」
ゾクッ。
エミリーの背筋に冷たいものが流れた。
「ピンク色の髪の?」
――アイリーンがロイドに接触している?
「間違いありませんわ。私、執事のジョンからも目がいいと褒められておりますから」
深く頷き、リリーは『ピンク髪の侍女』に一泡吹かせてやると意気込んだ。
◆◆◆
「で?」
レイモンドの眉が片方上がった。
「余興の一つも満足に用意できなかった、と?」
「すみませんっ!」
アレックスが土下座しそうな勢いで頭を下げる。つられてジュリアも頭を下げた。
「皆、準備が間に合わないそうなんです。な、ジュリア?」
「あ、うん。いろんな芸ができる人に当たったけど、ダメだったんだ」
「腹芸ができるって人に教わろうかと思ったんですが」
「腹芸だと?」
怒気を孕んでいたレイモンドの視線が一層冷たくなった。
「国賓相手に腹芸をしようとしていたのか、お前は!」
「ひぃっ!」
ジュリアにはレイモンドの背後から大蛇が現れ、アレックスを一飲みにしようとしたように見えた。
「お前達二人に任せたのが失敗だった。……もういい、余興は俺が探す」
「レイ様!」
苛立つレイモンドを背後から呼び止め、アリッサは彼の上着の裾を引いた。
「……アリッサ?」
「余興なら、私がピアノを弾きますから。ジュリアちゃんやアレックス君をこれ以上責めないでください」
「しかし……」
「生徒会の仕事があるのは知っています。本来の仕事が遅れないように努めます。だから」
続けようとしたアリッサの口を、レイモンドの人差し指が塞いだ。
「……君の覚悟は分かった。国賓の前で恥ずかしくないものを披露できるのだな?」
目を伏せてから、アリッサは強い意志を宿して視線を上げた。その先には完璧主義の婚約者がいる。
「はい」
凛としたアリッサの様子に驚き、レイモンドは満足げに眼鏡の奥の緑の目を細めた。
「――期待している」
◆◆◆
「腹芸って、二年一組のチャーリーのことですわね?」
「知ってるの?フローラ」
「はい。彼の伯母とわたくしの母が同級生でしたの。幼い頃は何度か行き来があったものですわ。子供の頃は本当に可愛らしい子でしたのに、今は何なんでしょう。ぶくぶく太って、髪型も洋服の趣味も最悪ですわ。いつもぼんやりして取り立てて長所のない男になってしまいましたわね」
「……そこまで言わなくても」
アレックスがドン引きしている。レイモンド以外に貶されたことのないアレックスは、令嬢が悪口を言うのを目の当たりにして怯えていた。
レイモンドは司会の原稿を書き上げ、ハロルドとマリナが待つであろう自習室へ向かった。アリッサを伴い、彼女のピアノの腕を確かめると言っていた。
「アリッサ様はピアノがお上手なんですのね」
フローラは興味津々でジュリアの顔を見ている。
「うーん。マリナが弾いてるところはよく邪魔してたんだけど、アリッサは図書館に行ってばっかりだったし、よく分かんないや」
「お前も俺ん家に来てる時間が長いもんな。ハーリオン侯爵様は交互に、アリッサを図書館に連れて行って、次はジュリアをうちに連れて来る、って言ってたもんな」
「ピアノの先生に習ってたのは本当だよ。何でも器用にできるから、多分できると思うんだけどね」
貴族令嬢が習わされる習い事は、アリッサは一通りできたはずだ。マリナのように根を詰めて究めることはしなかったが、何でも及第点だった。……ダンス以外は。
「そうなんですのね。……国賓の前だなんて、アリッサ様、緊張なさるのでは……」
「だよね。私もちょっと不安なんだ」
可哀想だが交代してあげられない。ジュリアは頭の後ろで手を組み、天井を見上げて椅子の背もたれに身体を預けた。




