90 医務室にて
【ハロルド視点】
ハーリオン侯爵家から、私宛に手紙が届いたのは、マリナとアスタシフォン語の勉強会をした日の夜だった。侯爵の命を受けて、執事のジョンが手紙を持参したのだから、余程急を要する内容なのだ。私は受け取ってすぐ、手紙の封を切った。
時候の挨拶もほどほどに、義父上は単刀直入に用件を書いてきていた。ところどころ字が乱れているのは、急いでいたからなのだろうか。
『アスタシフォン王国の留学生が来る。その一行には王子が含まれ、未来の妃を探す目的もあるらしい。国王陛下の御子、ブリジット王女はまだ幼く、王子の妃として嫁がせることはできない。グランディア王国と友好を深めるため、公爵家または侯爵家の令嬢との縁組を希望していて、うちの四人の娘の誰かがアスタシフォンへ嫁ぐことになる』
四人のうち、三人は婚約者が決まっており、エミリーは五属性を操る魔導士だ。嫁がせればアスタシフォンに兵器を与えるようなものだ。王家は勿論、オードファン公爵家もヴィルソード侯爵家も、(王太子をマリナの婚約者と認めたくはないが)息子の婚約者を失いたくはないはずだ。誰を選んでも問題になる。
『私は言葉の異なる国に娘を嫁がせるつもりはない。だが、グランディアはアスタシフォンに国力で劣る。無理を通されれば否とは言えまい。正直なところ困っていたが、今日はさらに困ったことが起こったのだ』
今日は王宮で歓迎の晩餐会の予行があった。
晩餐会に慣れていない王立学院の関係者が、当日落ち着いて臨めるようにとの配慮かららしい。学院の生徒会からは、会長のセドリック王太子、副会長のレイモンドとマリナが参加している。三人とも公式の場は何度も経験している。予行などしなくてもいいように思われた。
『クリスが熱を出し、晩餐会の予行を欠席したが、終わった頃に国王とオードファン公爵からそれぞれ手紙が来た。詳細は書いていなかったが、予定より早く王宮にアスタシフォンのリオネル王子が来たらしい。晩餐会に出席していたマリナを見初めたようだ』
――何だって?
とんでもない話だ。
セドリック王太子だけでも厄介なのに、外国の王子まで彼女を妃に望むとは。
マリナが素晴らしいのは認めよう。しかし……。
『アスタシフォンの王太子は病弱で寝たきり、他の王子は皆、正妃以外が産んだ子で、第二王子は素行不良で幽閉されており、第三王子は他国で世継ぎの王女の夫になっている。リオネル王子は妾腹の第四王子だが、実質は王太子と言っていい。生母は王の寵愛を受けており、実家は力のある新興貴族だ。突然の王宮訪問に際し、急遽国王の親書を持った大使が送られてきたと聞く。王に期待されている王子なのだろう』
私は手紙に目を走らせた。
『グランディア王国としては、王太子妃候補ではあっても、是非マリナをリオネル王子の妃にと請われれば受けざるを得ない。君をマリナから遠ざけるようなことをしておきながら、虫のいい話だと思われても仕方がないと思う。お願いだ。リオネル王子からマリナを守ってくれ』
「……これは……本当なのですか」
手紙に書かれた内容を信じられず、私はジョンに訊ねた。
「はい。旦那様はぜひ、ハロルド様にお願いしたいと」
「私にこのような……」
「ハロルド様が王立学院へ入学されてから、この二年あまりの間に、旦那様は少しお考えを改められたようでございます」
「義父上のお考え……ですか」
皆目見当がつかない。ジョンが言葉を続けるのを待った。
「ハロルド様をお屋敷に引き取られた当初は、将来立派な領地管理人になるよう、相応の教育をとお考えでした。しかし、学院に入られたハロルド様が優秀な成績を収めていらっしゃると知り、領地管理人として一生を送らせるのは勿体ないと仰せでした」
ドキン。
「では……」
ゴクリ。
無意識に唾を飲みこんでしまう。
「本家に残り、義兄として次期当主となるクリストファー様を支えていただきたいと。娘婿にするのもやぶさかではないご様子でした」
――娘婿!?
一瞬顔が緩みそうになり、慌てて取り繕った。
事態は深刻なのだ。喜んでいる場合ではない。
執事のジョンは経験も長く、あのハーリオン侯爵と前侯爵に仕えてきているだけあって、食えない男だ。私を本気にさせようと、義父上の話を多少脚色している可能性はある。が、少なくとも、義父上は私をそれなりに買っているようだ。
「分かりました、と義父上に。リオネル王子には、マリナを諦めて早々にお帰りいただきます」
「承知いたしました」
ジョンは恭しく頭を下げた。
◆◆◆
ダンスの授業の後、レイモンドに付き合ってもらい、私は医務室へ向かった。授業中、マリナの手を取っている間は酷い痛みにも耐えられたが、廊下をゆっくり歩くだけでも激痛が走った。彼は呻く私に肩を貸して、歩調を合わせてくれている。
「二時間もよく耐えたな。アスタシフォンで流行している舞踏はステップが難しい。無理をせず見学してもよかっただろう?」
「難しい方がやりがいがありますよ」
「フッ……どうだか。本当の理由は違うところにありそうだがな」
友人として二年以上つきあっている彼には、私の真意が分かるらしい。
「ええ。よくお分かりですね。他の誰かに彼女の手を取らせるわけにはいきませんから」
仕方がない奴だ、というようにレイモンドは肩を竦めた。
◆◆◆
「どう?ここは、痛い?」
医務室のロン先生は、脚を曲げたり伸ばしたり、角度を変えて押してみたりして、私の脚の反応を見ていた。
「痛い……です」
「うーん。前より酷いわね。ダンスの授業なんか出なくてもいいのに」
「だそうだ。次から見学だな、ハロルド」
レイモンドが目を細めてにやりと笑う。
「次回も一年生と合同練習だと言っていたが、仕方あるまい」
「休みませんよ」
「ダーメ。一時的に痛みを取っても、またダンスをすれば痛くなるわよ」
ロン先生は私の鼻を指先で押した。
「……ねえ、これは提案なんだけど」
生徒会の仕事があるからと、レイモンドが医務室を出ていった後、ロン先生は低い声で私に話しかけてきた。
「何でしょう?」
「私の治療実験に付き合わない?」
「実験……ですか?」
先生は笑顔で頷いた。
「そ。一度治癒魔法で治した傷は、再度魔法をかけなおすことはできないの。知ってるわよね?」
「はい。私の脚も、領地にいた中では最高の治癒魔法が使える魔導士が治療しましたが、完治しませんでした」
「うんうん。だろうと思った。でね、あたしはしくじった治癒魔法をやり直す方法を研究してるの」
「やり直す……」
怪我の治療を受けている時、義父のハーリオン侯爵は、『王都ならもっといい治療を受けさせてやれるのに』と言っていた気がする。王都には王宮に勤める魔導士団をはじめ、ロン先生のように治癒魔法を専門にする魔導士が多くいる。地方では治しきれなかった傷を、魔法をやり直すことで完治させられるようになれば、魔法の大きな進歩だろう。
「ダンスをしなくても、森で行う実習は長距離を歩くからつらいでしょうし、毎日の教室移動も階段ばかりできついはずよ。……実験が失敗してもあまり酷くなることはないから、よかったら受けてみて」
◆◆◆
医務室からそのまま食堂へ行き、一人でゆっくり食事を取った。レイモンドが言っていた通り、明日の歓迎会に向けて準備があり、生徒会の面々は食堂にはいなかった。
ロン先生が行う治癒魔法の試験を受けるかどうか、少し考える時間をもらってきたが、明日の歓迎会で司会を務めることを思えば、受けてみてもいいかもしれない。アスタシフォンの王子の前で座り込んでも何とも思わないが、マリナに心配をかけてしまうのが心苦しい。
――これは、賭けだ。
失敗してもあまり酷くならないとはいえ、今より悪くなる可能性はないわけではない。
完全に治るかどうかも分からない。
だが、余計な心配をかけずに彼女の隣に立てるなら……試してみる価値はある。




