85 悪役令嬢の悪夢 3
高い位置にある窓から、うららかな春の日差しが差し込む。花の織り模様が散りばめられた白いヴェールが、光を受けて眩しい。
――綺麗……。
アリッサは、ほう、と溜息をついた。
ハーリオン侯爵はこの日のために、娘に最高級のウエディングドレスを用意したのだ。
「素敵ですわ、お嬢様」
侍女のリリーが目に涙を浮かべて、アリッサのヴェールを直した。
「ありがとう」
――私の結婚式なのね。これは、夢?
見渡すと白一色の部屋は、教会の一室のようだった。花嫁が支度を整える部屋らしい。控室の広さからすると、規模の大きな教会なのだろう。王都の中央教会かもしれない。
コンコン。
ドアをノックする音がし、返答をしないうちに正装したレイモンドが入ってきた。翡翠色の生地に銀糸で刺繍が施された膝丈の上着は、彼の水色の髪と緑の瞳によく似合っていた。翡翠色はアリッサの好きな色、そして銀はアリッサの髪の色だ。
グランディア国では結婚式に相手の色の物を身に付ける風習がある。アリッサが自分の胸元を見ると、大粒のエメラルドのネックレスが輝いていた。
新郎の姿を見るなり、リリーは頭を下げて部屋を出ていく。
――レイ様!とっても素敵です!
夢の中の彼はいつも以上に凛々しく素敵だった。自分の支度が遅いので待ちきれずに来てしまったのだろうか。
『遅くなってしまってごめんなさい』
――!!
声をかけようとしても声が出ない。
――おかしいわ。
「挙式の前に花嫁の部屋に来るなんて、どういう神経をしていらっしゃるのかしら?」
代わりに辛辣な言葉が口から出た。
――違う!こんなこと言いたくないのに!
目の前のレイモンドが、ふっ、と冷たく笑う。
「別にいいだろう?便宜上の結婚なんだ。ジンクスがどうであれ、君は公爵夫人の座につけるのだから」
便宜上の?
では、これは単なる政略結婚だということ?
「君は俺を愛していないし、俺も君を愛していない」
例え夢であっても、レイモンドの口から『愛していない』と言われるのは、アリッサにとってつらかった。涙が出そうになる。
――私は、レイ様が好きです!
「何だ?今さらやめるとは言えないぞ」
「……」
何度話そうとしても、一つも声は出ない。彼に何も伝えられない。
「ハーリオン侯爵令嬢でも、結婚式は流石に緊張する、か……」
カタン。
テーブルにグラスが置かれた。
レイモンドが二つのグラスと、赤ワインを持ってきたのだ。
コポコポとグラスに赤い液体が注がれる。白一色の室内に赤いものはワインだけだ。異様な雰囲気を感じてしまう。
「うちにあった、とっておきの一本だ。少し飲むといい」
グラスの一つをアリッサに手渡す。もう一つのグラスに口をつけ、中身を一気に呷った。やや乱暴にグラスを置くと、冴え冴えとした音がした。
――どうしたのかしら。レイ様も緊張しているの?
食事の時も、静かにグラスを傾けて飲み物を飲む彼である。勢いに任せて一気飲みなどしない。ワインは自分の緊張をほぐすためではないかとさえ思う。
「……飲まないのか?」
アリッサはワインが飲めなかった。十五歳を過ぎているのだから、この国の基準では少しは飲んでも構わないのだが、舌に残る苦味が苦手だった。
『ワインは飲めません』
声にならなかった。ひたすら彼を見つめるだけだ。
「……仕方がないな」
ワイングラスを奪い中身を口に含むと、アリッサの顎に手をかけて上向かせる。もう一方の手で後頭部を押さえ、強引に口づけた。
「……んんっ……」
――こんなのって……。
夢なのに刺激が強すぎる。ワインの香りも、彼の唇の感触も、本物のようだとアリッサは思った。アルコール特有のジリッとした余韻が口内に広がる。零れたワインが口の端から漏れ、白い床に滴った。
「少し休むといい」
レイモンドは腰に手を回し、肘掛椅子にアリッサを誘導した。キスのせいか、動悸が止まらない。息が上がり、眩暈がして立っていることができない。
――ワインを飲みなれていないからかしら。でも……なんだか……。
身体が急激に重くなった。椅子に沈み込み、腕を動かすこともままならない。
視線をレイモンドに向けると、彼は上着の内ポケットから何かを取り出し、口に含んでワインで飲み込んでいた。
――薬?何の?
レイモンドに持病はないはずだ。アリッサの中で急激に彼への不信感が頭を持ち上げた。
コンコン。
再びドアがノックされた。
「……誰だ」
「私です、レイモンド様」
「入れ」
聞き覚えのある高い声がし、ドアを開けて入ってきたのは、ピンク色の髪を結い上げたアイリーンだった。
「あんまり遅いから、心配しましたよ?」
「すまない。ワインを飲ませるのに手間取ってしまった。口移しで飲ませるしかなくてな」
「ひどぉい!私以外とキスしたんですか?」
――私以外?レイ様はアイリーンと……?
「これからはお前だけだ。安心しろ」
レイモンドが微笑み、アイリーンを腕に抱き寄せ、動けないアリッサの前で唇を貪り始めた。
――いや!やめて!
目を閉じようにも、アリッサの身体は動かなかった。喉が、胸が、焼けるように痛い。目を開けたまま荒い息を吐き、睦言を紡ぐレイモンドを見つめていた。彼が一瞬こちらを見て笑った。
「……効いたようだな」
喉をせり上がってきた何かが口の中に広がる。血の味がして、だらしなく開いた唇から零れていった。椅子に座った花嫁の白い首を赤い筋が伝い、デコルテの開いた白いドレスを赤く染めた。
◆◆◆
「うう……ひっく……うえっ……ううう……」
隣のベッドから嗚咽が聞こえ、マリナは薄く目を開けた。
「……アリッサ?」
「えっ……うう……」
ベッドから下りて、丸まっている妹の背を撫でた。
「……マリナちゃ……」
「怖い夢を見たの?大丈夫。夢よ。現実とは違うわ」
「……レイ、様、がっ……私、に……毒を」
「それって……」
レイモンドのエンディングの一つではなかったか。ハーリオン侯爵令嬢と政略結婚することになったレイモンドは、結婚式で彼女を毒殺する。表向きは不慮の死、マリッジブルーで片づけられたのだろうが。
「アイリーンと、キスしてたの。……私が、動けないのに」
「酷いわね」
彼を溺愛し崇拝しているアリッサにとって、どれほどの心理的拷問だっただろう。マリナは泣きじゃくる妹を抱きしめた。
「嫌だったの。レイ様が他の人とキスしてるのが、嫌。ヒロインに笑いかけて、お前だけだって言うのも嫌なの。……私、欲張りなのかな?」
「彼が好きなら当然のことよ」
「マックス先輩と帰ってきたから、あんな夢をみたのかも……。どうしよう、レイ様に嫌われちゃう。レイ様が、ヒロインを好きになっちゃうよぉ」
このままでは朝まで延々泣きべそモードだ。マリナは妹が心配だが、正直寝たい。アリッサの向こう側で、ジュリアが何も気づかずに大の字になって寝ているのを恨めしく思った。
「レイモンドはブリッコは嫌いだと思うわよ。……アリッサを除いてはね」
選挙の演説で、アイリーンのカワイコブリッコ攻撃に眉を顰めていたのを、マリナは隣で見ていた。廊下で話しかけても無視していたと思う。レイモンドはあからさまなブリッコは嫌いなのだろう。マリナから見ればアリッサも十分にブリッコなのだが、彼にとっては可愛らしく見えるらしい。
「……説得力ないし」
「レイモンドがアリッサ以外の女子に愛想よくしている姿なんて見たことがないわよ。少しは自信を持ちなさい。婚約者でしょう?」
「そうね……うん。明日は堂々とレイ様にお会いするわ。噂なんて、噂なんてっ……」
激しく泣き始めたアリッサを撫でながら、マリナは眠い目を擦った。
85話を挿入しました。それまでの85話は86話になります。




