82 悪役令嬢はキスを見せつける
「誰だ!」
マリナを見つめて蕩けるようだったセドリックが、振り向いて暗闇に向かって叫んだ。
表情が一気に険しくなり、強く凛々しい王子に変貌する。謎の人物からマリナをかばうように抱きしめた。
――うわ!
抱擁にも驚いたが、仕草や表情にも圧倒されてしまう。贔屓目に見なくてもカッコいい。
「セドリック様?」
「そこの低木の陰に誰かいる。……おい!出てこい!」
「出てこいなんて言っていいのですか?賊ではありませんか」
二人とも武器は持っていない。襲われたら終わりだ。バッドエンドどころではない。指先でセドリックの藍色の上着を掴む。指が震えた。
「中に戻りましょう?宮殿に入れば、見回りの兵士が……」
ガサガサ。
木立が揺れて、エプロンと黒いスカートが見え、続いて袖と肩、頭が見えた。
「侍女か?」
「そのようですわね」
出てきたのは、肩までふんわりと落ちる明るい茶色の髪に、くるくると動く緑の瞳をした、年若い小柄な侍女だった。
「そんなところで何をしている?」
引き続き、威厳のある王子風にセドリックが訊ねた。毎日これくらい凛々しいといいのに、とマリナは残念に思った。
「申し訳ございません、殿下」
「謝れと言った覚えはない。何をしていると聞いているんだ」
「わたくしは新参者でございまして、お庭が広く、迷っておりました」
――迷う?こんな時間に庭に用事なんてあるのかしら?
「そうか。では、迷わないように女官長の許へ連れて行こう」
セドリックの提案に、侍女はビクリと身体を震わせた。二人の会話を聞きながら、マリナはどこか胸に引っかかるものを覚えたが、引っかかる理由が分からない。
「どうか、それはご勘弁を。仕事を怠けていたと叱られてしまいます……」
「……白々しい。本当は王宮の侍女ではないのだろう?どこの手の者だ。言え!」
いつになく厳しい口調でセドリックが詰め寄った。侍女の胸倉を掴むような真似はしないが、手が届かないギリギリの距離で話している。
「誰が……」
「……ねえ、マリナ」
「はい」
「今日のレッスンを覚えている?アスタシフォン語の」
「覚えておりますわ」
「君は巻き舌が得意ではなかったよね。……アスタシフォン語は巻き舌の発音が多いからね」
侍女の顔色が変わった。
「……あ!」
マリナが驚いて口元に手を当てた。
先程から感じていた違和感は、侍女の発音にあったのだ。
「……あなたは、アスタシフォンの?」
大きな瞳をギラリと光らせ、可愛らしい侍女は不敵な笑みを浮かべた。
◆◆◆
「只今戻りました」
寮の部屋に入ってきた従僕のロイドが頭を下げた。
「お帰りなさい。……ジュリア様は?」
彼の妻である侍女のリリーが囁いた。ロイドは左右に首を振った。
「職員室や警備員詰所には?」
「ジュリアお嬢様は職員室にいらっしゃったよ。まだお帰りになれないらしい」
「まあ」
二人の会話を聞いていたアリッサが声を上げた。
「ジュリアちゃんは先生に呼ばれたのね」
「……こんな遅くに?おかしいわ」
エミリーが目を眇めて腕組みをした。
「何か、しでかしたんじゃない?」
「そうかなあ?何かお願いされてるって可能性も……」
「お嬢様は、アレキサンダー様とご一緒でした。お二人で帰られるそうです」
「アレックス君もいたのね」
「ますます怪しい」
「二人とも、お腹がすいたでしょうね。私はリリーにサンドイッチを作ってもらったけど、ジュリアちゃんはサンドイッチで足りないわよね」
◆◆◆
「はあー。どうしよ、困ったね」
小一時間かけてバイロン先生にこってり絞られて、ジュリアとアレックスは疲労困憊で寮へ帰るところだった。空腹感も度を超して、もはやどうでもよくなってしまった。
「侯爵家に連絡をするって言ってたな。明日学院に来るようにって」
「お父様泣いちゃうかもなあ。心配させたくないのに」
「うちは父上はともかく、母上が怖いよ。女の子を夜遅くまで出歩かせて、って言われそうだ」
「女の子……」
「い、一応そうだろ?」
「まあね。アレックスのお母様よりうちのお母様の方が、何倍もおっかないよ。マリナが怒った時の三倍はいくね」
アレックスはマリナが怒った時のことを思い出し身震いした。
「寒いの?震えてるよ」
「ああ、いきなり悪寒が……風邪でも引いたかな」
「アレックスが風邪引いたの、初めて見たなあ。絶対風邪なんか引かなそうなのに」
「どういう意味だよ」
女子寮の前まで来ると、立ち止まったアレックスはジュリアに
「明日は……一緒に登校できないな」
と呟いた。バイロン先生は、今日の帰りはジュリアを一人で帰せないので、アレックスと共に下校させたが、明日からはしばらく二人に接近しないよう申し渡したのだった。
「お父様達と先生が話し合って、どうするか決めるって」
「何を決めるんだろう?」
「さあねえ。退学はさせられないと思うけど、何日間か謹慎かな。堂々と休めるじゃん」
「……おい」
アレックスがすかさずつっこんだ。
「なんてね。練習にも行けないのはつらいね」
「部屋から出るなってことだからな」
「……アレックスにも会えないしね?」
「俺だって、寂しい」
ジュリアに見つめられ、アレックスは視線を逸らして口元を覆った。
◆◆◆
「……はあ……仕方ないか」
侍女は大股でセドリックに近づき、右手を差し出した。
「セドリック様ですよね。初めてお目にかかります。リオネル・ハガーディ・アスタスと申します」
可愛らしい顔でにっこりと微笑む。明らかに営業スマイルだ。
「アスタス……?ええっ?で、では……」
動揺したセドリックは倒れそうになって半歩後ろに足を踏み出した。マリナに背中を支えられ、はっとしてリオネルに向き合った。
――アスタス?……って、確か……。
「はい。アスタシフォン国王の第十八子、誰も知らない妾腹の第四王子です。ご存知ないのも無理ないかと」
「男が……侍女に……変装を見破られないとは」
「……王宮の警備を見直した方がよろしいと思いますよ」
「そう、ですね……」
他国の王子がやすやすと王宮に入りこめたとあっては、警備の不備と国賓への対応のまずさが露呈した格好だ。王子が女装していたことも衝撃が大きすぎたのか、セドリックは凛々しさの欠片もなくなっていた。
「大丈夫ですか、セドリック様?」
「うん。……リオネル王子がいらっしゃったことを、父上と母上にお知らせしなくては。でも、彼をここに残していくのは……」
「ご心配なく。私は、彼女……ハーリオン侯爵のご令嬢と待っておりますから」
「……マリナをご存知なのですか?」
セドリックの瞳が不機嫌さを露わにする。アスタシフォンの王子は、グランディアの侯爵家以上の家柄の娘を妻にしようとしていると聞いていた。
「お噂はかねがね。非の打ちどころのないご令嬢だとか」
「ええ。王立学院を卒業したら、私の妃になることが決まっているのです」
――決まっているなんて言っていいの?まだ『候補』なのに。
「セドリック様……」
リオネルに張り合おうとするセドリックを窘めるように、上着の袖に指先を滑らせる。
「……」
無言でぎっちりと手を掴まれた。
――誤解しているわね。これは。
「リオネル王子、マリナは貴殿の妃候補に入れられませんよ?」
二人の様子を見ていたリオネルは、セドリックが必死にマリナを自分の視界に入れないようにしていると気づき、驚いた。
「これはこれは……随分とご執心ですね。てっきり形だけの妃候補かと思っておりました」
「形だけ、とは?」
「他に想う方がおられるのではと。例えば、妃に立てない身分のご令嬢など……」
「何やら大変な誤解をされてしまったようですね。……マリナ」
「はい」
セドリックはマリナを軽く抱き寄せ、耳元に口を寄せて囁いた。
「……仲の良さを見せつけたいんだけど、ダメかな?」
「はい?」
聞き返した途端、唇が押し当てられ激しく貪られた。
抗議の声を上げようとしても、胸を押しやろうとしてもままならない。腰に回された手がマリナの身体を拘束していた。
――国賓の前でキスするなんて、どういう神経しているのよ!
「何をしているんだ!」
走ってくる足音と聞きなれた声がし、セドリックは注意を向けた。
「レイ」
やっと唇が離れ、マリナははあはあと荒い呼吸を繰り返している。
「キスシーンを侍女に見せてどうする。また変態王子だと噂が立つぞ」
「侍女じゃない、彼は……」
「彼?」
「リオネル・ハガーディ・アスタス。ちょっとだけ、早く来ちゃったんだよね」
指で『ちょっと』を表し、首を傾げてウインクする。美少女にしか見えない。
「なんと……」
レイモンドにも不測の事態だったようだ。眼鏡の奥の瞳が揺れている。
「至急、お部屋を設えます。……よろしいですね、殿下?」
久しぶりに彼から『殿下』と呼ばれたセドリックが頷き、レイモンドは早足で宮殿内へ戻って行った。




