76-2 悪役令嬢は口を塞がれる(裏)
【マシュー視点】
「良かったねえ。あの子の隷属の魔法が解けて」
放課後、医務室に顔を出した俺に、ロンは飄々とした調子で言った。
「俺の手柄じゃない。先に浄化の魔法をかけていたんだろう?」
「おやあ?何だ、気づいてたの?つまんない」
キスで魔法を解けと言っていたのは何だったんだ。
「騙したのか」
「どうせあんたにキスする甲斐性なんかないだろうから、念のためよ」
見くびられたものだ。だが、事故でもなければエミリーの唇を奪うような真似はしない。
彼女は俺の教え子で、彼女を卒業させるために俺がここにいるのだ。
「で、どうすんの?ドウェインをシメる?あたし的には賛成だけど」
「教師だろうが私闘は禁止だ。剣技科でも魔法科でもな」
「少し脅したくらいじゃ、あいつの僻み癖は直んないわよ?三属性しかないくせに、マシューをライバル視してるなんてね。ちゃんちゃらおかしいわ」
「次にやったら容赦はしない」
「そお?次にドウェインが仕掛ける魔法で、あの子が死んだらどうするの?」
――死ぬ?エミリーが?
身体を戦慄が駆け抜ける。呼吸をしていないエミリーを抱き上げた時の、不安で苦しい気持ちが蘇る。
「……死なせない」
「もう一人の受け持ちの子にも、同じ気持ちなのかしら?」
「違う、俺は……」
「ん?」
ロンの瞳が愉しげに細められる。
「リックも言ってたわ。あんたは子供の頃から見つめ続けてきた女の子に恋してるんじゃないかって」
兄はロンに余計な情報を漏らしたらしい。二人して俺をからかっているのだ。
「思い違いだ。あんな年下の小娘に興味はない」
「つまんないわあ。あんたって昔からそうよ。バカ真面目よね」
「悪かったな」
「さっさと認めなさいよ。で、いつバレるともしれない『禁断の恋』に走って、あたしに娯楽を提供してよ」
不自然なくらいに口角を上げ、ロンは俺の肩を叩いた。
◆◆◆
エミリーへの気持ちが何なのか、俺には説明ができなかった。
初めて出会った時から、いや、兄に彼女の話を聞いて遠見したときから、俺にとってエミリーは特別だった。
ドウェインはとっくの昔に気づいていたようだ。他の先生方は何も言わないが、おそらく感づいているに違いない。エミリーと俺は近づきすぎた。
医務室での一件は謝るしかない。
姉のジュリアは、エミリーの初めてのキスだったと言っていた。学院に入学する前は、家に籠って魔法の勉強ばかりしていたのだから、異性と出会う機会もなかったのだろう。キース・エンウィと何もなかったのだと安堵した自分がいた。
女子寮の入口で職員に入館許可をもらい、ハーリオン侯爵家令嬢の部屋がどこか訊いた。三階の端にある明るい部屋を案内された。何でも、娘達の入学に当たって、侯爵が部屋の間取りを改装したらしい。
「魔法科のコーノックだ。エミリーと話がしたい」
戸口に出た男に告げる。服装からして侯爵家の従僕だろう。侍女は出かけていて、男の自分はお嬢様の寝室には入れないのだと言う。
「分かった。……私も入ろう」
第三者の目があれば、彼も部屋に入れるだろうと思い提案すると、俺の手を取らんばかりにして中に招き入れた。
――危険だな。
魔法科教師だからといって、このように簡単に入れてしまうのは。
寝室に入ると、ベッドの一つに闇が漂い、誰かが丸まって寝ているのが見えた。従僕が起こしに行ったものの、何か呟いて彼女は起きようともしない。
「後は任せてくれ」
と彼を部屋から追い出し、ベッドの脇に立った。
「ん……」
ベッドの上で気怠そうに身じろぎする彼女は、いつもの人形のような繊細で清楚なイメージを感じさせない。短いスカートが隠せない白い脚には乱れた寝具が絡まり、襟元を緩めた白いブラウスからは鎖骨が見えている。銀髪を掻き上げる仕草も美しく妖艶だった。
――目の毒だ。
さっさと起こしてしまうに限る。で、謝って帰ろう。
「起きろ」
思いがけず低い声が出た。不機嫌だと思われてしまう。
「起きろと言っているのが聞こえないか?」
――頼む、さっさと起きてくれ。気が変になりそうだ。
肩を揺するつもりで手をかけると、エミリーは呆気なく仰向けになった。自分を起こしたのが俺だと分かると、紫の瞳を見開いた。
「目は覚めていたようだな。どうして急に帰ったんだ」
「どうして……って、あのままいられるほど、私は鈍感じゃないわ」
責めるような視線にいたたまれなくなって、俺はベッドに腰を下ろした。エミリーは俺から離れようとする。警戒されているのだ。先刻キスをしてきた男なのだから、警戒して当然だ。記憶を封印してやれば、彼女と以前のような穏やかな関係に戻れるのだろうか。ふと、そんな気がして提案をしてみれば、エミリーは意外なことを言い出した。
「後悔してる?」
「なっ……」
――どういう意味だ?後悔しているのはお前の方だろう?
「私にキスしたこと、後悔しているから……封印したいの?」
エミリーはもぞもぞと起き上がってシーツに膝をついて座った。上目使いに俺を見る。腕に指先が触れた。
――やめろ!
鼓動が跳ね、一気に魔力が迸るのが分かった。俺はすっかり、彼女の愛らしい仕草に参っているのだ。
ロンに愉しみを提供してしまうことだろうが、俺はエミリーが……。
「……後悔は、した」
そう告げると、一瞬の間の後、彼女は顔を歪めて
「そう……」
と言った。いつの間にやら俺は、彼女の表情を読み取れるようになっていた。
「ジュリアが……その……お前は初めての口づけだったと言っていたが、本当か」
「今さら何の確認?」
少し怒った顔も美しい。紫の瞳が僅かに赤紫に変わり、白磁のような肌がほんのり朱に染まる。
「本当なんだな?」
「初めてだったら何?覚えていられるのが迷惑なら、さっさと記憶を……」
彼女のために記憶を封印しようと提案したつもりが、かえって怒らせてしまった。何故怒るのかと考える間もなく、発作的に彼女の華奢な身体に腕を回していた。
エミリーを抱きしめてしまってから、俺は慌てて言葉を紡いだ。
「すまなかった。謝っても謝りきれない。初めての、あ、相手は、愛する人と……」
謝りに来たはずが、襲ってしまっているではないか。こんなはずではなかった。
「そうね。謝るって発想が許せない」
「ああ。だから、謝っても謝りきれないと……」
口では謝っているのに、腕の中に彼女を閉じ込めて離したくない衝動にかられる。
「……ドキドキしてる」
――気づかれた!
罪悪感と焦燥感が入り混じり、一気に鼓動が跳ね上がる。
無表情で言ってのけるエミリーも、内心穏やかではないはずだ。
「当たり前だ!……お前だって」
エミリーの鼓動を聞こうとすると、小さく悲鳴を上げた。
「ああ……ちゃんと音がする。お前の呼吸も鼓動もしないと分かった時、俺は……」
思い出すだけで胸が締めつけられる。想像するのも恐ろしい。
「怖くて仕方がなかった。二度と目を覚まさないのなら、お前に魔法をかけたドウェインも、学院も、全て吹き飛んでしまえばいいと思った」
ベッドに倒れこんだエミリーを見つめて、俺は正直に気持ちを打ち明けた。
魔力が暴走して焦土と化した王都に、エミリーの骸を抱いた俺が立っている。
王都は至る所で火の手が上がり、遠くに人々の悲鳴が聞こえる。逃げても無駄だ。
彼女を死に至らしめたこの世界など、跡形もなく壊れてしまえばいい。
「ダメ」
視界に白いものが見えた。エミリーのブラウスだ。
彼女の腕の温かさに、俺は正気を取り戻した。
「怖いこと、言わないで。私が目を覚まさなくても、ここはあなたが生きていく世界、私が愛した世界なの。……吹き飛んでしまえなんて、言ってはダメ!」
――エミリーが、愛した、世界?
「エミリー……俺は、怖いんだ」
「怖い?」
「お前を好きだと認めることも、お前を失うことも、全て。自分が自分でなくなるような気がしてしまう。だから……」
俺を抱きしめた彼女の柔らかい銀髪に顔を埋める。
「私は死なない。誰にも負けない最強の魔導士になるわ。あなたが教えてくれるんでしょう?」
見つめるアメジストの瞳は、強い決意が漲っていた。
◆◆◆
女子寮を出て、少しふらつく足で魔法科教官室へ向かう。
エミリーに告白したら想像以上に魔力を発してしまったらしい。こんなところを襲われたらひとたまりもないか。……いや、誰にも負ける気はしないが。
「おや、マシュー先生」
視線を向ければ、ドウェインが白々しく声をかけてくる。
「どうしました?女子寮にご用ですか?」
「ええ、まあ」
「エミリー・ハーリオンが体調不良だと聞きましたが」
キースを質問攻めにしたと聞いた。碌なことをしないやつだ。
「はい」
余計な情報を与えてたまるか。
「可愛い教え子には部屋まで見舞いに行くのですか。心配でたまらないのでしょうね」
「そうですね。学院内には生徒に危険な魔法をかける輩がいるようですから、用心するようにと話してきたところです」
「ほう……」
初耳だとでも言いたいのか。自分でエミリーに隷属の魔法をかけておきながら。
「教え子の身を守るのも私達の務め。彼女には魔法を施した腕輪を渡してきました。悪意のある魔法を防御し、二倍にして術者へ跳ね返す効果を持たせたものを」
ドウェインの顔が引きつった。
「そのような、ものが、あるのですか……?聞いたことはありませんが」
「私が自ら作りましたから、魔導具店には置いていないでしょうね。実にいい出来でしてね、学院を退職したら、魔導具職人になろうかと思ったほどです」
売り物にするつもりはないが、多少誇張してもいいだろう。
俺が得意げに話すのを聞きながら、ドウェインの顔色が土気色になっていく。
――決まったな。
「では、付加魔法の研究がありますので、失礼します」
「ふ、付加魔法!?」
「勿論、エミリーに渡した腕輪に加える魔法ですよ。まだまだ改良の余地がある」
震えるドウェインを残し、俺は踵を返した。




