75 悪役令嬢は膝枕をする
図書室で適当な本を手に取ったジュリアとアレックスは、外が一望できる窓の傍の長椅子に座り、読書を始め……たのだが五分ともたなかった。
「眠い……」
とうとうアレックスが本を閉じ、椅子の背もたれに身体を預けた。
「まだ少ししか読んでないじゃん」
『はじめに』の次の次のページで挫折している。ジュリアも第一章の二ページ目から挿絵だけを見ていた。彼を批判できるほど読んでいない。
「『剣術偉人伝』っていうくらいだから、技の数々が載ってるかと思ったのに、歴史の本みたいなんだよな。俺、歴史の時間は眠くなるんだよ」
「学院長先生の授業、いつも寝てるもんね。一番前で」
「ああ。一番前でも眠いものは眠いんだ!ジュリアは読んだのかよ」
「『世界の宝剣』は、絵がいっぱいで面白いよ。解説は読んでないけど」
「ページめくってるだけだろ」
「バレたか」
「……なあ、このまま昼寝させて」
アレックスはジュリアの膝に頭を乗せて長椅子に身体を横たえた。
「ずるい。私が寝られないじゃん」
「早いモン勝ちだろ」
金色の瞳が悪戯そうに笑う。最近の彼は時々色気のある顔をするようになった。ジュリアの胸が高鳴った。
――ま、いいか……。たまにはこういうのも悪くない。
「少し経ったら起こすからね?」
「優しく頼む」
「うん」
読書にも飽きたジュリアは、本を傍らのテーブルに置いて窓の外を眺めた。図書室は三階にあり、遠くの山々が秋の色に染まっているのが見える。夕焼けと相まって美しい。
――また、ここに来ようかな……。
ぼんやりと考えているうちに、瞼が重くなってきた。下校のチャイムには気づくだろう。
――少しだけなら寝てもいいよね?
熟睡しているアレックスの赤い髪を撫で、ジュリアは目を閉じた。
◆◆◆
「お嬢様、お嬢様!」
「ん……」
――誰だっけ、この声……。
寮の部屋のベッドで寝てしまったのか。エミリーは薄く目を開けた。
「お嬢様、起きてください」
ぼんやりと視界に入った男は、リリーの夫で従僕のロイドだ。寝室に起こしに来るのはリリーの役目なのに、と回らない頭で考える。
――あ、そっか。マリナの支度に行ったんだ。
『自分はマリナ様のお支度に参りますので、エミリー様はどうぞお休みになっていてください』と言われた気がする。しかし、リリーがいない間にロイドが起こしに来る理由が分からない。
「リリーは寝てていいって言ってた……」
再び寝具に潜りこもうとするエミリーの背後で、ロイドと誰かが会話している。誰でも構わない。事故でファーストキスを奪われてしまったショックで、今日はもう寝ることに決めたのだ。
ドアの音がする。寝室からロイド達が出ていったようだ。
「起きろ」
耳元に低い声が聞こえた。今、一番聞きたくない声だった。
――空耳、よね?
「起きろと言っているのが聞こえないか?」
声をかけている人物に背を向けていたが、肩を掴んで仰向けにされる。
「……っ!」
目の前には黒と赤の瞳。こちらを見つめる視線には微熱を感じる。エミリーは真っ赤になった……ただし、自分しか分からない程度に。
「目は覚めていたようだな。どうして急に帰ったんだ」
「どうして……って、あのままいられるほど、私は鈍感じゃないわ」
「そうか」
敬語を使わなかったエミリーにマシューは目を細めベッドに腰掛けた。医務室でのキスを思い出し、エミリーは身体をずらしてマシューから離れようとする。リリーがローブと制服の上着を脱がせてくれたので比較的身軽だった。
「あの後、ロンとジュリアに責められた。俺は、事故だったなどと言い逃れをするつもりはない」
「……はあ」
何と相槌を打ったらいいのだろう。天井を見つめたまま、エミリーは混乱していた。
「お前が望むなら、魔法で記憶を封印してもいい。……どうだ?」
「封印……」
最悪ではあったが、あの時感じた胸の高鳴りを忘れてしまうのは勿体ない気がする。
向こうを向いている彼の表情は分からないが、耳まで赤くなっているのが見える。
――もしかして、照れてるの?
「後から聞いたが、ロンが先に浄化の魔法をかけていた。魔力を一気に放出したから疲れただろうが、体調には問題ないだろう。記憶を封印しても生活に支障は……」
「後悔してる?」
「なっ……」
びくりと肩を震わせ、マシューはエミリーを見た。
「私にキスしたこと、後悔しているから……封印したいの?」
起き上がって膝をついて座り、マシューの腕に触れた。辺りにミントの香りが漂い、彼の魔力が漏れている気配がする。動揺しているのだ。
「……後悔は、した」
「……」
エミリーの胸が痛んだ。彼には不本意なキスだったのだ。
「そう……」
事故でキスした相手に覚えていられるのも不快だろう。彼の提案に従い、記憶を封印してもらおうか。
「ジュリアが……その……お前は初めての口づけだったと言っていたが、本当か」
「今さら何の確認?」
「本当なんだな?」
「初めてだったら何?覚えていられるのが迷惑なら、さっさと記憶を……」
バサッ。
――え?
ローブの衣擦れの音がし、エミリーは温かい腕に包まれた。
◆◆◆
「遅いぞ」
更衣室からいくらも進まないうちに、レイモンドが仁王立ちで待っていた。
「申し訳ございません」
「謝らなくてもいいよ、マリナ。時間を取らせたのは僕なんだから」
「……無事、済んだのか?」
マリナの髪飾りを見たレイモンドが口の端を上げて問う。セドリックは深く頷いた。
「うん。ありがとう。レイのおかげだよ」
「それにしても……これ見よがしにサファイアがついているな。金の装飾も見事だ」
「うちに出入りしている宝石商に作らせたんだ。学院入学前に届くはずだったんだけど、遅れてしまって」
うちに出入り、とは即ち王家御用達の宝石商なのだろう。職人の腕も良く一級品しか扱わない。とんでもない品物をもらってしまったとマリナは思った。
「……嬉しい」
車寄せへ向かう途中、ピアノ室の前の廊下でセドリックはふにゃりと笑って呟いた。
「は?」
「マリナに、セドリック様って呼ばれるのが」
「セドリック様がご自分でそうしてくれとおっしゃったではありませんか」
――『王太子様』とか『殿下』と呼んだら返事しない、って拗ねたのは誰よ。
会話中に名前で呼びかけると、彼は心から嬉しそうに笑う。王太子である彼を名前で呼ぶのは、両親である国王夫妻と腹心のレイモンドくらいなものなのだろう。
「うん。マリナには王太子としての僕じゃなく、素のままのセドリックを見ていてほしいから。……ずっと、僕の隣で」
「……えっと……」
――何かのメーターが振り切れたのかしら。こっちを見てる、じっと見てる。何なの?
今日は二人にとっていろいろな事件があった。二時間目と三時間目の間の休み時間には、マリナの正直な気持ちを話し、保留にしていた婚約も元通りになった(?)かもしれない。放課後はハロルドと三人で勉強会をして、結果的にセドリックの独占欲を煽ってしまったようだ。マリナの髪に自分の色の髪飾りをつけて気持ちが満たされたのか、セドリックはハイテンションのままだった。
「マリナ……」
海の色の瞳がキラキラとして、かすかに上気した頬も、半開きの口も……。
――この顔、見覚えがある!
マリナは一歩後退しようとしたが、強く掴まれている手を振り払えなかった。
「僕の心は未来永劫君のものだよ。今ここで、君だけを愛し続けると誓うよ!」
キラキラキラーン。
セドリックの背後に煌めくオーラが見えた……気がした。
――この台詞って、好感度がMAXになった証だわ!
道理で見覚えがあったはずだ。しかし、こういう台詞が囁かれるのはもっと終盤だ。校内で何度か二人きりのデートを重ね、中庭の噴水に行くとBGMが変わってこの展開になるのではなかったか。
――廊下で何をやってるのかしら。
しかもセドリックは通行人を気にせずに跪いているのだ。王子を跪かせたマリナを、下校する生徒達がじろじろと見ては何かヒソヒソと話している。
「あ、あの、セドリック様。人目がありますので、立ち上がっていただけますか」
「そうだ、邪魔だ。いい加減にしろ、セドリック」
レイモンドが冷たい視線を注ぎ、セドリックの脇に手を入れて立ち上がらせた。
「邪魔なのはどっちだよ、レイ。折角いいところだったのに……」
唇を尖らせたセドリックの耳元にレイモンドが呟く。
「マリナが悪く言われかねないぞ。自重しろと言っただろうが」
「はっ……ご、ごめん。つい気持ちが昂ってしまって」
泣きそうな顔でマリナを見る。身体は大きくなっても、泣きべそ顔は子供時代の面影がある。強くは言えない気がした。
「いえ、……お気持ちは嬉し……キャッ」
嬉しかったです、と言いかけたところでセドリックが抱きしめ、マリナはまたしても通行人にヒソヒソ噂されることとなった。




