73 悪役令嬢は聞き間違いで片づける
マクシミリアンにイヤリングの片方を奪われ、アリッサは泣きたい気持ちを堪えて書類に向かっていた。レイモンドはこれくらいなら校則違反ではないと言っていたのに。
――レイ様からいただいたのに……絶対返してもらうんだから!
いつもの二倍の速さで書類を書き上げ、順番に重ねてマクシミリアンの前に置いた。椅子に座る彼の横に立てば、少し強気に出れる気がしたのだ。
「終わりました。これが終わったら今日は帰っていいと、先輩はおっしゃいましたよね。……イヤリング、返してください!」
最後は半べそになってしまった。恥ずかしくてさらに涙が溢れる。
「泣かないでください、アリッサさん」
「だか、ら……イヤリ、ング、をっ……」
「あなたを泣かせるのは私の本望ではありません。生徒会役員は他の生徒の模範となるべきなのです。華美な宝飾品や服装で飾り立てるのはよくありません」
「わ、わかっていますわ」
マクシミリアンはハンカチを取り出し、ボロボロと涙を流すアリッサの目元を拭った。
「……随分と早く仕事が終わったようですね。レイモンド副会長がいらっしゃらないと、仕事が捗るのではありませんか。やはり彼は、あなたにとって害悪でしかないのです。あなたの活躍を阻む壁であり、枷のようなもの……」
「違います!」
声が小さいアリッサが強く言い切ったので驚いたのか、マクシミリアンは一瞬目を丸くした。やがて口元に微かに笑みを浮かべて目を眇めた。
「……なるほど」
派手さがない顔なのに、ぞっとするくらい美しく感じる。感情が伴わない微笑はどこか猟奇的だった。
「彼があなたを洗脳していることがよくわかりましたよ」
「洗脳なんてされていません。レイ様は……」
アリッサがレイモンドの名前を口にした瞬間、椅子が大きな音を立てた。マクシミリアンが勢いよく立ち上がった。身長の高い彼が至近距離に立つと、それだけで圧倒されてしまう。次の言葉が出なかった。
「……うるさいなあ。レイ様レイ様って、馬鹿の一つ覚えみたいに」
抑揚のない話し方が突如熱を帯びたものに変わり、忌々しげに呟いた。
――今の、何て言ったの?聞き間違いかしら。
信じられない。あの優しそうなマックス先輩が、『馬鹿』なんて言うだろうか。アリッサは空耳だと思うことにした。
「あの……きゃっ!」
両腕を取られ、机に仰向けに倒された。打ち付けられた背中が痛い。マクシミリアンは上からアリッサの顔を覗きこみ、薄い唇を歪めた。
「俺の前であいつの名前を呼ぶな。あんたの口から聞きたくない!」
身動きが取れない。体格差がありすぎて抜け出せる勝算がない。アリッサの腕を掴んでいる手は、普段の彼から想像できないほど力強かった。
「放して、くださいっ」
腰までが机に載った状態で、脚をばたつかせようとしたが、密着されて動く隙間がない。
「放してやってもいいが、条件がある」
「条件?」
「下校のチャイムが鳴ったら、俺と一緒に帰るんだ」
「イヤリングは……」
「いい子にしていたら最後に返してやる」
レイモンドからもらった大事な品だ。彼と自分の瞳の色を表した花。絶対に取り返したい。
「……分かりました」
アリッサが視線を逸らして呟くと、マクシミリアンは満足して腕を放した。
◆◆◆
「そこまでだ」
激しく音を立てて自習室のドアが開き、壁に当たって跳ね返り、入室しようとしたレイモンドの顔面を直撃した。
ガツッ。
「……うっ」
「レ、レイ?大丈夫?」
マリナにキスを迫っていたセドリックが、彼を気遣って駆け寄った。
――た、助かった……。
大きく息を吐き、心の中でレイモンドに感謝した。神輿に乗せて担いでもいい。レイモンド様様だ。
「外まで聞こえていたぞ。また校内でキスしようとしていたな」
痛む額を撫でながら、レイモンドは中に入ってきた。マリナに目くばせをする。
「晩餐会予行の支度があるだろう。マリナは更衣室へ行くんだ。そこにハーリオン家の侍女とうちの二人が待っている。すぐに着替えさせてくれる」
「あ、ありがとう……」
リリーはハイスペック侍女だが、短時間でマリナの支度を整えるのは苦戦するだろう。レイモンドが寮にいる公爵家の侍女を助っ人に寄越してくれたのだ。細かい配慮がありがたい。
「俺達も支度をしないとな。……今日はここまでだ、ハロルド」
「ええ。そろそろかと思っておりました」
更衣室へ急いだマリナの後を追ってセドリックが自習室を出ていき、残されたレイモンドはハロルドに向き直った。
「……どうするつもりだ」
「どうする、とは?」
「マリナはセドリックの妃になる。お前とマリナが想いあっていたとしても侯爵家から断れる話じゃない」
優しい微笑を浮かべていたハロルドの顔が冷たい表情に変わる。
「私に、マリナを諦めろと?」
「現実を見ろ。筆頭侯爵家の長女が領地管理人の妻になるのか?ハーリオン侯爵でなくとも、貴族は自分の娘が低い身分の男に嫁ぐのを良しとしない。駆け落ちしても、お前の脚では労働に向かない。マリナが苦労するだけだ」
二人の間に沈黙が流れた。
「……気づいていないとお思いでしたか」
ハロルドが絞り出すように声を震わせた。
「そのようなこと、とうの昔に気づいておりました」
「では、何故……」
青緑色の瞳がキッとレイモンドを見た。
「あなたには、一生かけてもお分かりにならないでしょう。望めば何でも手に入る、公爵令息のあなたには!」
「ハロルド!」
「あなたが平民だったなら、図書館でアリッサを見かけて恋をしても、声すらかけられなかったでしょうね」
教科書と辞書をバタバタと積み重ね、ハロルドは自習室を出ていった。




