39 悪役令嬢と哀れな下僕
「おはよう、アリッサ。足首の調子はどうだ?」
「おはようございます、レイ様。足はあの後、医務室の先生が治療してくださいました」
「よかったな。今日も歩けないようなら抱いていこうと思っていたが、残念だ」
眼鏡の奥の緑の瞳が意味ありげに細められ、アリッサはドキリとした。
「だ、大丈夫です……」
視線を逸らして俯いた。ふと、
「……あの、今日はキース君と二人だけなんですね」
アリッサはいつもの四人が揃わないことに気づいた。
八人で登校するのが常だ。今日はマリナとジュリアの隣を歩く彼がいない。
「ああ。セドリックは風邪を引いて熱を出した。アレックスは用事があると先に出た」
「セドリック様が?」
マリナが聞き返した。昨日の今日である。気にならないわけがない。
「夕食の前まで、一人で外にいたようだ。夜は冷えるからな」
「お一人で、外に……」
「体調管理ができないようでは、あいつもまだまだだな。……心配か?」
「……はい」
アメジストの瞳が曇り、何やら考え込む様子のマリナを見て、レイモンドは小さく笑った。
「セドリックに想われるのが迷惑なら、下手な同情はやめておけ」
「同情だなんて!」
「違うのか?半端な気持ちで優しくすれば、あいつが傷つくだけだ。王太子妃として、生涯セドリックの隣にいる覚悟がないのなら、早いところ役を降りるんだな」
小声で早口な忠告に、マリナはびくりと震えた。レイモンドを見れば、全てを凍らせる視線がいつになく冷たい。セドリックのハトコで親友の彼には、マリナの態度が許せないのだろう。
「ねえ、レイモンド」
「何だ」
漂う空気を読まずに声をかけたジュリアに、レイモンドは眉を顰めた。
「アレックスの用事って何?」
「知らん。大方、昨日の夜と今朝、同級生に散々冷やかされでもしたのだろう」
「冷やかし?」
「夕食前にお前がアレックスを連れ去っただろうが。『あなたが欲しい』と言ったとか言わないとか」
「へ?」
「そんなこと言ったの?ジュリア」
「ジュリアちゃん、大胆……」
「絶対言ってない!」
「……まあ、中庭で大声で告白したとも聞いたな。恥ずかしくないのか、お前達」
「恥ずかしいに決まってる!ってか、恥ずかしがってたら一緒に登校できないよ」
「直接言ってやれ。教室か練習場にいるだろうからな」
レイモンドを中心に四人が話をしている後ろで、エミリーはキースに平謝りされていた。
「……もう、いいから。黙って」
「いいえ、僕はあなたに謝りきれないことをしたのです。どんな罰でも受けます」
「罰、か……」
「はい!闇魔法でも何でも僕に……」
「嫌。魔力の無駄」
「は?」
「それより、キースにしてほしいことがあるの」
エミリーの紫の瞳が流し目をし、魔性の美しさにキースはゴクリと唾を飲んだ。
「僕に、できるでしょうか」
「あなたでなきゃ、できないと思う」
「買いかぶりすぎですよ、エミリーさん。僕はそれほど……」
「知ってる。……罰として私の下僕になってもらう」
低く呟く。
「はっ……下僕、ですか?分かりました。購買の使い走りでも何でもします!」
「……耳貸して」
耳にエミリーの息遣いを感じ、キースは顔を真っ赤にしている。
「赤くならないで」
「すみません」
「あなたには……で……して……ほしいの」
「ええっ、ぼ、僕がですか?エミリーさんの方が適任では?」
「私はできないの。知ってるでしょう?」
「う、そそ、そうですが、しかし……」
キースは左右に頭を振った。紫の直毛がさらさら揺れる。
「何でもするんでしょう?……ね?」
無表情のエミリーが小首を傾げて、キースを見つめてほんの少し微笑んだ。
「!!!」
忽ちキースの顔がまた赤くなり、こくこくと、首を痛めるのではないかと思うほどに激しく頷いた。
◆◆◆
ジュリアが教室に入ると、アレックスの姿はなく、レナードが挨拶をしてきた。
「おはよう」
「おはよう、レナード。アレックス知らない?」
「着いて早々、他の男の話とはね……俺ってそんなに魅力ない?」
茶色の柔らかい髪を掻き上げ、猫目を細める。顔立ちも綺麗でそれなりに男前なのだが、ジュリアの好みではない。
「浮気はしないのよ、私」
「アレックスとは親友でしょ?」
「親友だけど、恋人なの。……っていいから、アレックスを見たか見ないか聞いてるの!」
ハア、とレナードが溜息をついて首を竦めた。
「分かったよ。今朝は見てない。机も昨日の帰りと変わりないし、まだ来てないと思うよ」
アレックスの机は、書きかけの演説原稿が放置されたままだった。
「ありがとう。練習場に行ってみるね」
剣技科の練習場は、朝練をする上級生で混み合っていた。人ごみの中でも目立つ赤い髪を探すものの、ジュリアには見つけることができなかった。
「練習じゃないのかな……」
他に行きそうな場所が思い当たらない。登校途中には行き会わなかったところから、余程先に登校したのだ。
「もしかして忘れ物かな」
自分はよく忘れ物をして、一時間目が始まるまでに校舎と寮を往復している。昨日の夜は同級生に冷やかされたと聞いた。動揺してアレックスも忘れ物をしたかもしれない。寮に戻るなら外周の舗装道路より中庭の石畳ルートが断然早い。昨日自分の忘れ物癖を咎めたアレックスが、忘れ物を取って戻ったところを笑ってやろうと、ジュリアは意地悪な気持ちになって中庭へ歩き出した。
中庭に入って二十歩も行かないうちに、ジュリアは足を止めた。
薔薇園のアーチの向こうにある装飾が美しい白いベンチに、赤い髪の後姿が見えたのだ。
――アレックスだ!
即座に駆け寄ろうとした瞬間、剣技科のブレザーに身を包んだ見覚えのある肩のラインを白い指先が撫でていく。
「……嘘、でしょ……」
広い肩の向こうには、ピンク色の髪の毛がふわりと風に流れ、愛らしいアイリーンの笑顔があった。




