35 王太子の恋愛相談
【セドリック視点】
三年一組の教室の入口で、ドアを少し開けた瞬間、僕は雷に打たれた。
窓際で抱き合う男女は、昼に僕と喧嘩になりかけたハーリオン侯爵家のハロルドと、銀の髪の美しい人。
――ずっと恋焦がれてきた僕の天使、マリナ・ハーリオン。
声は小さくて聞き取れなかったが、抱きしめられて抵抗していない。
ああ、そういうことか。
マリナは彼が好きなんだ。
彼女の心と瞳の中に住んでいるのは、ハロルドで、僕ではないんだ。
物音をさせないようにドアを閉め、急ぎ足でその場から立ち去った。
広い校舎の中を、どう歩いていたのか記憶がない。気づくと中庭の外れまで来ていた。
夕暮れが迫り、中庭には愛を語らう男女の姿が増えてきた。数日前まで、僕とマリナもあんな風に見えていたに違いない。マリナが内心困惑していても、僕は気づかないふりをして夢を見ていたんだ。自分勝手な夢を。
呆然として風景を眺めていると、マリナに出会った日のことが思い出された。泣いていた僕を慰めてくれた。次に会った時も、僕は泣いていたっけ。
母上の茶会でマリナを皆にお披露目して、僕の妃になることに決まった。十五歳の誕生祝いの舞踏会でも彼女と踊った。マリナは僕の婚約者、妃候補で、他の誰のものにもならないと信じていた。誰かに心を奪われていても、必ず僕の手を取ってくれると思っていた。
泣き虫は卒業したはずなのに、涙が零れて止まらなかった。
◆◆◆
辺りが暗くなっても僕は寮に戻らなかった。
彼女の幸せを願うなら、婚約を破棄して王太子妃候補から外すべきなのかもしれない。
そんなことを考えていた時、暗がりに人影を見た。
「ん……?」
月明かりが乏しい夜でも、水色の髪が光を弾いている。
「……レイ?」
「セドリック。ここで何をしている」
いつもの口調に安心した。止まっていた涙が再び溢れた。
「っ!おい!」
通路から僕を隠すように隣に座り、レイモンドはポケットからハンカチを取り出した。
「何も泣くことはないだろう?俺が叱ったくらいで」
「……」
涙を拭き、鼻をかんだところで、レイモンドがハンカチを奪った。
「俺のハンカチで鼻をかむとは、いい度胸だな」
「ごめん」
ふう、と息を吐き、一つ年上のはとこは僕の手を取った。
「……何があった。隠さずに教えろ」
眼鏡の奥の瞳は真剣そのものだった。彼は秘密を守る男だ。相談してもいいかもしれない。
何より、僕には他に相談できそうな相手がいない。
「……マリナには、他に好きな人がいる」
「何だ。前から知っていただろうが」
「ジュリアから聞いて知ってはいたよ。だけど、見たんだ」
「見た?」
「三年一組の教室で、マリナがハロルドと抱き合っていた」
「なっ……」
流石のレイモンドも鉄面皮が崩れ、どう返答しようか迷っているようだった。
「そうか。で?お前はここでメソメソ泣くのが精いっぱいなのか」
「うん。マリナが彼を好きで、幸せになるのなら……」
「……馬鹿が」
慰めてくれると思ったのに、レイモンドは僕の頬を思いっきり引っ張った。
「いあ、いあいっ!やめれよ!」
手が離れると僕は頬を摩った。加減を知らないのか、ものすごく痛い。
「レイモンドはどうするんだ?もし、アリッサに好きな男が……」
「そんなことは世界が終わってもあり得ない」
「う、うん。仮定の話だよ。もしも……」
「くだらない話だな。そいつがアリッサの前に二度と現れないようにする。卑怯だと言われてもいい。貴族ならどんな手を使ってでも没落させる」
怖い。レイモンドの目は本気だ。
「平民だったらどうするの?」
「聞きたいのか?ああ、参考にするつもりか。ハロルドは平民に戻るんだからな」
「違う、僕は……」
「いい子ぶっても所詮、お前も征服者の子孫だってことか」
「マリナの好きな人に、酷いことはしない!」
「いいだろう、教えてやる。……そうだな、例えば、二度と戻れない異国の地に困難な任務を与えて行かせる。治安の悪い土地に一人で。人肉を食らう野蛮な民族がいる土地でもいいかもしれない」
「やめろ!」
僕が叫ぶと、レイモンドは緑色の瞳を細めて冷たく笑った。
「お前なら無実の罪を着せて処刑することもできるじゃないか。歴史を辿れば、何人もの王が他国を征服し、王を殺して妃を我がものにしてきた。夫の命乞いのために、王の前に身を投げ出した者もいる」
「どうして、僕に、そんな……」
ハロルドを殺さない代わりに、僕の妃になれとマリナを脅すとでも?
「権力は恐ろしい。いずれお前が手にする力は、簡単に愛や幸福を奪ってしまえる代物なんだ」
「権力を使って言うことを聞かせるつもりはない」
僕は膝の上で握りしめた拳に力を込めた。
「そう言うだろうと思った」
あっさりとした返事に彼を見れば、薄く笑っている。
「……レイモンド?」
「権力を使って無理強いするつもりはない、だが、マリナは取られたくない。違うか?」
この男がこんな笑い方をする時は、何か企んでいる時なのだ。
「違わない。……マリナは僕のものではないけれど、他の誰かに取られるのは嫌だ」
「なら、子供っぽく駄々を捏ねて纏わりつくのはやめるんだな。一応年上なんだから、マリナが頼れる男になれ」
「頼れる……?」
マリナは頼れる男が好きなのか?ハロルドは三年生で年上だし、家でも兄として頼っていたのだろうか。
「つまらない意地を張って、ハロルドに対抗しようとしてたんじゃないのか。さしたる努力もしていないお前が、ハロルドに勝てるのは身分くらいなものだぞ」
「対抗なんて……」
身分しか勝てないとは、いくら親戚でも酷い言いようだ。
「俺が見たところ、ハロルドは妹が気にかかるようだが、マリナはハロルドに惚れているわけではなさそうだ」
「えっ?」
「意外か?一つ屋根の下に暮らしていて、何もなく今に至っているんだ。双方が好意を持っていれば、とっくに何か起こっているだろうな」
何か、って何だろう。
僕がマリナと一つ屋根の下に暮らしたら、と考えて身体がぼうっとなってきた。
「つまり、お前にもまだ一縷の望みはある……と、セドリック?聞いているのか?」
「聞いてるよ」
もっと努力すれば、マリナは僕を好きになる?
嬉しくなって笑った瞬間、目の前にいるレイモンドの顔がぼやけて、声が遠ざかった。




