18-2 悪役令嬢と崩れたシナリオ(裏)
【セドリック視点】
「で、あるから、この解を……」
数学の時間は退屈だ。
退屈なのは数学だけではなくて、歴史でも何でも、学院入学前に教わっていた内容を聞かされているからだ。授業が退屈だと言っていたレイモンドの気持ちが分かる気がする。
マリナに拒絶されてから、十五歳の誕生パーティーで正式に王太子妃候補として彼女を認めさせるまで、僕は死に物狂いで勉強した。元々記憶力には自信があったし、読書も嫌いではない。剣術やダンスも真面目に取り組み始めたら上達が早かった。運動に力を入れたお蔭で体力がつき、この数年で体格もよくなったように思う。
「では、今日はここまで。明日までに次のページを……」
次の授業まで少し時間がある。二時間目と三時間目の間は、移動教室のために余裕をもって長い休み時間が設定されている。三時間目は語学で、教室を移動しなくてもよい。
――レイモンドのところで暇でもつぶすか。
同じ階にある三年一組の教室へ向かうべく、僕は自分の席を立った。
◆◆◆
教室から出ようとすると、向こうから勝手にドアが開いた。
ギイ……。
「失礼しま……あ」
揺れる銀髪、僕を見て固まったアメジストの瞳。
――ああ、何てことだ!
「マリナ!」
つい大声で彼女の名を呼んでしまった。
――いけない。うれしくても平常心だ。
王族は常に尊敬されるよう努めろと父上に言われているのだ。舞い上がってはいけない。
が。
この状況でどうやって平常心でいられるんだ?
「どうしたのかな。僕のクラスに何か用事?」
用事っていうか、この教室に君の知り合いは僕しかいないよね?
僕に会いに来たと思っていいんだよね?
――嬉しすぎる!
「用、と言うか……」
マリナが視線を逸らした。長い睫毛が影を作る。
ドン!
「わっ、マ、マリナ?」
胸に衝撃を感じる。マリナが、僕に、抱きついて……。
「セドリック様……私、どうしてもお会いしたくて……お昼休みを待てずにこうして来てしまいましたの」
――うわあああああ!
心臓が跳ね、一気に全身に血が巡る。
何だこれ、夢?夢なのか?さっきの数学の時間中に寝てしまって、夢でも見て……。
マリナから会いたかったと言われたのは初めてだ。会いたいと言われたこともなければ、彼女が自分から会いに来たこともない。王宮に招いていた頃も、仕方なくつきあっている感じがしていたのだが。
ああ、顔が……きっと赤くなっているんだろうな。無理に緩んだ顔を戻そうとしたけれど、鼻の穴が膨らんでかえって奇妙になってしまう。
マリナがちらりと僕を見上げた。恥ずかしさで潤んだ瞳、上目使いの視線……。
――可愛すぎる!!!!
「ご迷惑ですよね。……では」
僕の胸を押して華奢な身体が離れていこうとする。
――ダメだ、行かせない!
彼女を強く抱き寄せると、一瞬ぐふっと呻いた。……強すぎたかな。ごめん。
身体が大きくなって、この二年で随分力が強くなってきたし。
「僕も、会いたかったよ、マリナ!」
毎日登校する時しか会えないから、落第して同じクラスになろうかと画策したほどだ。レイモンドに相談したらこっぴどく叱られて断念したけど、やはり落第しようかな……。
白い頬に触れる。僕は彼女の唇しか目に入らない。
――キス、してもいいよね?
「セ、セドリック様。次の授業……が、んっ……」
三年ぶりのキス。前の時は僕が気を失ってしまって……。残念な記憶を思い出しつつ、マリナの唇の柔らかさに僕は我を失ってしまった。
◆◆◆
「派手にやったみたいだな」
昼休みに食堂でレイモンドに肩を叩かれた。
「何のことだ?」
「ふっ。しらばっくれても無駄だ。王太子殿下は廊下で婚約者と熱烈なキスをして、腰が抜けた婚約者を抱きかかえて何処かへ消えたって、三年の教室でも噂になっているぞ」
レイモンドは僕の隣に座り、給仕に飲み物を頼んだ。
「何処かって、ダンスホールへ連れて行っただけだ」
「そんなところだろうと思った。だが、噂には尾ひれがつきものだからな」
「尾ひれ?」
あれから授業が二つあっただけだ。そんな短時間で噂が広まるなんて。
「俺が聞いたうちでは、お前がマリナを寮の部屋に連れ込んだってのが有力だな。他には校内の別の場所でキスしてただの、資料室でいちゃついてただのって」
「や、っ、いい加減なことを言うな。三時間目も四時間目も授業には出席した。妙な噂はマリナの名誉にも傷がつくだろう?」
僕は真っ赤になって反論した。
「……キ、キスだって二回目だし」
「婚約者なのにか?」
レイモンドは目を見張る。嘘だろ?と呟く。
悪かったな、彼女は神々しすぎて手を出すにも勇気がいるんだからな。
「僕はマリナを大事にしたいんだ」
「じゃあ、人前でキスなんかするなよ。泣かせるつもりか。マリナがお前にキスを強請ったなんて言われてるんだぞ」
「うっ……。だって、会いたかったって抱きついてきたんだ。潤んだ目で見上げられて、我慢できるわけがないだろう?アリッサがそうしたら、どうする?」
レイモンドは給仕が持ってきた炭酸水を口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。
「……俺なら別室に連れ込むな」
眼鏡の奥の瞳が光る。……これは絶対キス一回で終わらないってことか。
「とにかく、人前はダメだ。人前でキスしていいのは、結婚式だけだからな」
嘘だろう?ずっと先の話じゃないか。待てる気がしない。
「そんな……」
「全校生徒がお前とマリナの話を噂している。これ以上変な尾ひれをつけられたくなかったら、迂闊なことはしないほうがいい」
アリッサの名誉のために、人前では過剰な接触を控えているレイモンドに言われ、僕は黙って頷いた。彼の言うとおりだと思う。
◆◆◆
食事を終えて、普通科二年と三年の教室へ戻ろうと、僕とレイモンドは席を立った。人垣が割れて道ができる。これはいつものことだ。
「行こう。生徒会のことで少し話したい」
「ああ」
軽く言葉を交わしながら歩いていくと、斜め後方で「きゃ」という声がし、何かが倒れる音がした。そそっかしい生徒が皿でもひっくり返したのだろうと、振り返らずにその場を離れた。
食堂から出て間もなく、レイモンドが僕に耳打ちをしてきた。
「……あの女、またいたな」
「女?」
「ほら、入学式の朝にいただろう?魔法科の一年、ピンクの髪の」
「そうか?」
マリナとキスをした。それだけで頭がいっぱいで、僕は周りの状況が見えていなかった。
「お前や俺がいる時間を見計らって食堂に来て、注目されようと食器を落としていたぞ」
「マナーができていないだけじゃないか」
僕は呆れて吐き捨てるように言う。レイモンドも同じことを考えていたらしい。
「この間は、俺達のクラスがあるフロアをうろうろしていたな。魔法科の一年が、普通科の二年三年の教室に用があるか?ないだろ?」
「用はないね。……わざと僕達の視界に入ろうとしている?」
唇に手を添えてレイモンドが考え込む。
普通科の校舎に入り階段を上がる。人通りが多く、内緒話をするには賑やかすぎる。騒がしいのをいいことに、レイモンドは話を続ける。
「エミリーの魔法事故にも、あの女子生徒が絡んでいるって話だ。注意したほうがいいだろうな。狙いがエミリーだけじゃなく、アリッサやマリナに及ぶ可能性もある」
――マリナが、狙われる!?
「そんなの、許さない!」
歩きながら壁を拳で叩けば、通りすがりの生徒が驚いてこちらを見た。
「二人を生徒会に入れれば、放課後は俺達の目が届く範囲に置ける。授業中は科が違うから、滅多なことでは関わらない。安心だろう」
「科を跨いだ合同授業もある……僕は安心できないよ。やはり、ここは留年して……」
ゴツ。
レイモンドの鉄拳が僕の側頭部に当たる。
「痛っ。王族に無礼だぞ、レイ。不敬罪で捕まえてやる」
「俺は腑抜けを敬う趣味はない。守る手段は、一緒にいることだけじゃない。少しは考えろ」
僕に冷たい視線を浴びせて、レイモンドは三年の教室に入って行った。




