08 悪役令嬢は本を借りる
アレックスとジェレミーの対戦は、力で押すジェレミーをアレックスが技でいなす戦いとなった。ジェレミーの体が大きく、アレックスは筋肉質だが細身であり、まるで牛と闘牛士のようだとジュリアは思う。
「はあっ!」
振りかぶって剣を打ち下ろすものの、身体が重いジェレミーはバランスを失いよろめいた。
すかさずアレックスが斬りこむ。剣の勢いを避けてジェレミーが倒れ、鼻先に剣が突きつけられた。
「そこまで!」
ロディアス先生の声が響き、二人が静止する。ジュリアはガッツポーズをした。
――やった、勝った!
ジェレミーが重たそうに筋肉の塊のような身体を起こし、アレックスに向き合った。
「勝者はアレックスだな。いい試合だった」
先生は白いひげを撫でて深く頷く。
「ありがとうございます」
アレックスが一礼し、次のペアと交代しようと歩き出した。
「わざと負けてくれと言われちゃ、負けてやるしかねえよな」
突然ジェレミーが話し出した。
「何の話だ」
アレックスが鋭い視線を向ける。
「騎士団長の息子が、同級生に負けるわけにいかねえんだろ?」
「負けるつもりはないが、負けてほしいと言った覚えはない」
「おやあ?俺の記憶違いだったか」
――あいつ、自分の負けを認めたくなくて、適当なことを!
ジェレミーは大きな身体を揺らし、口の端を吊り上げて笑う。
「どういうことだ、アレックス?」
先生が二人の間に入り、掴みかかろうとするアレックスを止めた。
「どうも何も、俺は身に覚えがありません。こいつの作り話です」
「二人だけの時に頼まれたんですよ。後で礼はするから負けてくれってね」
「言ってない。そもそもお前と二人になったことはない」
「当事者は二人だけか。話だけでは証拠にならんな」
なおもジェレミーが言葉を続けようと口を開いた。
「待ってください!」
ジュリアは観客席から立ち上がり、アリーナ部分とを隔てる壁に手をかけ、ひょいと乗り越えた。
「お、おい、ジュリアちゃん!」
レナードが慌てて止めようとしたが、ジュリアの素早さには敵わなかった。
「アレックスはそんな卑怯な手を使う人間ではありません」
ロディアス先生に駆け寄り、はっきりと言い放った。
◆◆◆
「ねえ、マリナちゃん」
学院長が受け持つ歴史の時間が、王室の祭礼の関係で突然自習になり、二人は図書室へ来ていた。
「なあに」
「マリナちゃんは、入学してからお兄様に会った?」
「見かけてないわ。……っていうか、朝起きてから寝るまで、殆どアリッサと一緒にいるでしょう?」
「そうよねえ。私がレイ様と会う機会も、マリナちゃんは王太子殿下と……」
授業時間を除き、レイモンドは大抵セドリックと一緒にいる。アリッサがレイモンドに会いたいがために三年の教室へ行っても、彼はセドリックのいる二年の教室へ出かけている。
「マリナちゃんは、王太子殿下と会うのは苦痛?」
「苦痛……ってことはないわよ。前よりかなりしっかりされてきたし、子守させられているとは思わなくなったわ」
「子守……」
王太子殿下の恋は前途多難ね、とエミリーは溜息をついた。
「学院で生徒会長を務めるようになって、リーダーシップが出てきたのかしら」
「将来は王様になるんだものね。王妃のマリナちゃんに甘えてばかりじゃ困るよね」
「王妃、か……」
ふと、窓の外へ視線を向けた。
「ねえ、あれ何かしら」
「どれ?」
「あの丸い建物よ」
「あのね、あっちの白いのが剣技科の訓練場、隣の黒くて少し小さいのが魔法科の訓練場だよ」
「屋根がないわ」
「雨が降ったら大変ね。ジュリアちゃんもエミリーちゃんも」
今日は雲一つない快晴だ。エミリーが風邪を引く心配はなさそうだ。
「今日は練習試合と魔法測定だって言っていたわね」
「二人なら大丈夫!ね?……あ、そろそろ教室に戻ろうよ。生徒会室にも寄りたいし」
アリッサが図書室の時計を見る。ゲームの世界でも時計があるのは嬉しい。
「そうね。悪いけど、アリッサ、先に戻ってくれる?寮で読めるように何冊か借りていこうと思うの」
「分かった。先に行ってるね」
アリッサは貸出手続きを終えた本を両手で抱きしめて、マリナに向かって軽く微笑んだ。
◆◆◆
「さて。何を借りようかしら……」
マリナは天井近くまで並んだ書架の前を行ったり来たりしていた。
文芸書も良さそうだ。歴史は勉強にはなるが、寝てしまいそうな気がする。
「図鑑は重いから持てないし……」
絵がたくさん載っている本は見ていて楽しいが、ページ数も多くて重量がある。校舎から寮まで持って帰るのはつらい。
比較的ページが少ない、植物の図録に手を伸ばす。
――届かない!あと少しなのに!
横着しないで踏み台を持って来ればよかったと後悔する。
「あっ……」
爪先立ちしていた脚がふらつき、背中合わせで立っていた誰かが押されて書棚にぶつかった音がした。
「ご、ごめんなさ……あっ」
見上げると見知った青緑色の瞳がこちらを見つめていた。
「……マリナ」
二年ぶりに見たハロルドは、背が伸びて青年らしくなっていた。長かった蜂蜜色の癖のない髪を襟足で切り揃え、長めの前髪が白い頬にかかっている。涼やかな目元は長い睫毛が影を作り、魔性の色気が増幅したように見える。
三年生は、自分の進路のために自由に研究できる時間があると聞いた。普通科のハロルドは図書室で自習していたのだろうか。
「……お久しぶりです。お兄様」
小さい声で挨拶する。ハロルドは目を眇め、マリナの唇に人差し指を当てた。
――!
ビクッ。
つい身体が緊張する。
「私を、兄と呼ばないでください。……私はあなたの兄ではないのですから」
指が唇を離れ、囁くような声がマリナの上から降ってくる。
――記憶が戻ったの?
「どうしてそれを……」
父侯爵は、異国の町で救出した彼に、私達姉妹を妹だと紹介していたのに。
「ハーリオン家の一領地の管理人の子。それが私の出自なのでしょう?」
「お父様から説明を……」
「あと一年足らずで学院を卒業したら、王都を出て領地へ帰ります。それからはあなたにお会いすることもないでしょうね。マリナ、あなたは王妃になるのですから」
以前のハロルドなら、マリナが王太子妃になるのを認めなかった。二年の間に彼に何かが起こり、マリナがセドリックと結ばれても構わないと思い始めたのか。王宮から帰って狂おしいほどの嫉妬を向けられた日々は、もう戻ってこないのだろう。
「……お兄様」
ハロルドが眉を顰め、マリナの頬に掌を当て、赤く色づく唇を親指で辿る。もう片方の手を書架の段にかけ出口を奪う。
「兄と呼ばないでほしいと、言ったはずですが」
触れられている唇が熱を帯び、瞳が潤んでくる。自分は一体どんな顔で彼を見ているのだろう。
「……呼んでは、いけませんか?」
――二年ぶりに会ったのに、拒絶されるなんて……。
「あまり反抗的な態度を取るのは、いただけませんね」
ハロルドの囁きが、震える声に変わる。
「……いけない唇です」
長い指が顎にかかり上を向けられる。青緑色の瞳と視線が絡み、ハロルドの長い前髪がマリナの額を掠めた。




