09 悪役令嬢は逃走する
次女ジュリアの物語です。
「ちょ、ジュリア!どういうことなの?」
翌朝、マリナが仁王立ちで行く手を阻む横をすり抜け、ジュリアは廊下を走る。
「アレックスと約束してるって言ったじゃん」
「彼がこちらに来るのでしょう?」
マリナが早足でついてくる。絶対走らないのが彼女のポリシーだ。
「んー。でもさ、たまにこっちから行かないとね」
ジュリアのポニーテールを握り、マリナが鬼の形相で睨んでいる。
「今日はあなたがお兄様と過ごす番でしょう」
「今日もマリナでいいって決めたはずだよ」
「決・め・て・な・い!」
「アリッサもエミリーも、それがいいって言ってたもん」
「いいから、黙ってついてきなさいよ」
「やーだーね!」
マリナは令嬢らしく廊下を走るなんて無作法なことはしないから、本気を出せばすぐに捲ける。ジュリアは全速力で走るとマリナを置いてきぼりにした。
「待ちなさい!」
待てと言われて待つ奴がいるか、と思った時
「うわ!」
ドスン!
「わあ!」
ジュリアは何者かにぶつかった。
遠くからマリナが走ってきた。何だ、やっぱり走るんじゃない。
「お兄様!ジュリア!」
マリナが自分より義兄を先に呼んだのが気になった。
前方を見れば、ジュリアとぶつかった衝撃で後ろに倒れたハロルドが、脚をさすって苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「あー、お兄様、ほんっとごめん!痛かったよね?」
両手を合わせて拝むような姿勢を取る。義兄は不思議そうにジュリアを見た。
「心配はいりません、ジュリア」
無駄にキラキラした笑顔で妹を気遣う。にしても、いつまで敬語使うの?
「そう?じゃあ、急いでるから、また後でね!」
呆気にとられているハロルドを残し、ジュリアは階段へ向かう。降りる瞬間に振り返れば、心配そうなマリナに介抱されてデレデレと端正な顔を緩めている義兄の姿があった。
「よかったねー、お兄様」
歯を出してにやにや笑うと、ジュリアは階段の手すりを跨いで一気に滑り降りた。
◆◆◆
ヴィルソード侯爵邸の中庭で、木刀を振り回していたジュリアとアレックスは、容赦なく照りつける太陽に文句を言いながら、侍女が持ってきた冷たい飲み物を口に含んだ。
「あぢい~」
「我慢しろよ、ジュリアン。家の中ではダメだって言われただろ」
「だって~。今日はじりじり、すっごい焼けそうじゃんか。ほら、服が汗でベタベタしてる」
ジュリアの白いブラウスは汗で腕や背中に貼りついている。前世の経験から、しまった、身体の線が見えてしまうと思ったが、九歳児の平坦な胸は性別不詳である。多少筋トレで鍛えたアレックスの方が胸板も厚く、胸筋も発達しているような気がする。胸を見比べてジュリアは負けたと思った。
「まあな。俺も暑い。部屋で着替えるか」
父の騎士団長の前では自分を「僕」と言うアレックスも、ジュリアの前では気を許しているのか「俺」と言う。赤い髪をかき上げ、喉仏の出ていない首筋を見せてシャツの襟元をバサバサさせると、流石に攻略対象キャラらしく、九歳とは思えない色気が漂う。
「ちびすけのくせにかっこつけて……」
「あ?何だって?」
「いーや。何でもない、ほら、部屋に入るんだろ?」
男としてアレックスに接するようマリナに命じられたジュリアは、言葉遣いや立ち居振る舞いも男らしくあるように努めている。男の姿が板につき、礼儀作法の時間は毎回散々たるものだが。
紅茶とお菓子が用意されているであろう客間へ向かい、廊下を歩いていると、
「……そうだ!」
アレックスが手をぱん、と打った。
「水浴びだ!こういうときは水浴びすれば涼しいぜ」
「水浴び?足を水の入った桶に入れるのか」
ハーリオン家でも時たま侯爵夫人が足だけ水浴びをしている。ジュリアが桶をひっくり返して大惨事になったことが幾度かある。母の顔を思い出し、苦い思いが胸に甦った。
「足だけでも少しはいい。だけど、もっと大きいの、湯船に水を張って入ろうぜ!」
ジュリアはフリーズした。
ゆぶね、は、まずい。
足だけなら靴を脱げばいいが、湯船は全裸になってしまう。どう足掻いても女だとバレる。
下着になった時点でアウトだ。
「いや、いいかな。今日は、そういう気分じゃ……」
「暑い暑い言ってたくせに、何怖気づいてるんだよ。……ははーん。分かった」
女だとバレてた?とジュリアはぎくりとした。アレックスが楽しそうに腕組みする。
「お前、水に入るのが怖いんだろ?」
弱点発見とばかりに目を細めてジュリアを見ている。
――逃れられない、どうしよう。
血の気が引いていくのが分かった。




