85 悪役令嬢は階段から落ちる
「何もこんな早くに出発しなくても……」
侯爵夫人は美しい眉を八の字にしてハロルドの手を取る。
「王立学院には行ったことがありませんので、明日の入学式より前に全体を見て回りたいのです」
「追々わかることだろうに……」
侯爵も残念そうな顔をする。
「家族で晩餐を取ってから入寮する者も多いぞ」
「家族で……」
ハロルドは侯爵夫妻の隣に立つ妹達と弟をちらりと見た。妹達は何も言わず、うるさく騒ぎそうなジュリアでさえも黙って義兄を見送っていた。
一瞬視線が絡み合い、マリナの心臓が音を立てる。
「決心が鈍りそうですね、ふふっ」
侯爵夫人の手を放し小さく頷くと、輝く笑顔を浮かべ、
「お父様、お母様、皆。それでは、学院へ行ってまいります」
とだけ告げた。
◆◆◆
「ねえ、マリナちゃん」
アリッサは読んでいた本を閉じ、窓の方へ歩いてくる。
「うん?」
「何だか元気ないねえ」
「気のせいよ」
窓辺に置かれた椅子に座り、ぼんやりと外を見ていたマリナは、妹を振り返らずに返事をした。
「……お兄様がいなくなって寂しい?」
「まさか」
「行方不明になって戻ってきて、記憶喪失になっちゃってて、お兄様はマリナちゃんに接触してこなくなったでしょう?」
「本来の姿に戻ったのよ。これでいいのよ」
「ダンスの練習はしたけど、それっきりよね?」
マリナの正面に回り込み、アリッサは目を見て続ける。
「王太子殿下から、妃はマリナちゃんだけだって言われても、迷ってたね。何で迷うの?国で一番の権力者の妻だよ?普通の令嬢なら喜んでお受けしますって言うよ?」
「セドリック殿下は、私を没落死亡エンドに落とす張本人なのよ」
「そんなのわからないわ!ジュリアちゃんが言うには、殿下はマリナちゃんが大好きで、ヒロインが現れても浮気なんかしそうにないんでしょ?今の王妃様みたいに、愛し愛された夫婦になれるかもしれないのに。マリナちゃんが殿下のお申し出を受けないのは、まだお兄様を……」
「アリッサ!」
紫色の瞳が鋭さを持ち、アリッサを一瞬睨んだ。
「……あなた、レイモンド様とお約束しているんでしょう?私と話す暇があったら、支度に時間をかけたほうがいいわよ」
「あっ、待って……」
マリナは椅子から立ち上がり、妹を部屋に残して廊下へ出た。
◆◆◆
若苗色のドレスに光沢のある白のショールを身に付けたアリッサが、階段を下りて玄関ホールに現れた時、レイモンドと居合わせた使用人達は息を呑んだ。
「素晴らしい……」
踊り場を過ぎて階段が残り十段ほどになったところで、
「レイ様!」
アリッサは花のように笑って駆け出した。
「走るな!危ない!」
案の定六段目辺りでドレスの裾を踏んでしまう。
――落ちる!
ふわりと身体が浮き、レイモンドの腕に収まる。
「まったく……君はいつまでも子供だな、アリッサ」
「す、すみません……」
抱きとめられながら、すぐ近くにレイモンドの息遣いを感じる。顔が近い。
脇の下を支えられて床に下ろされる。
「この間の一件といい、君には少々、後先考えずに行動するところがあるようだな。二年後に学院に入学する時もこんな様子では、考え直さなければならないかもな……婚約も」
――な、何ですって!?
「れ、レイ様、いや、婚約破棄なんて言わないでくださいぃっ。貴婦人らしくなるように頑張りますから」
「期待しているぞ。……さあ、馬車が待っている。行くぞ」
レイモンドは緑色の目を細め、口の端を少し上げて笑った。
図書館に着くと、レイモンドは王立学院の試験問題をアリッサに渡した。
「……これは?」
「今年の試験問題だ。家に帰ってから思い出して書き出したものだ」
「過去問……」
「ん?」
「いえ、こちらの話で。……レイ様、問題まで記憶していたんですね」
勉強チートは記憶力も恐ろしいなとアリッサは思った。公式設定では、王立学院の長い歴史の中で初めて入試で満点を取ったとか。
「ああ。解答用紙を埋めた後、他にやることもなかったんでな。アリッサが試験の対策をするのに役に立てばいいが」
「ありがとうございます!問題の傾向を掴んで、必ずやレイ様の御期待に応えてみせます!」
紙を両手で持ち、頬を紅潮させて意気込むアリッサを、レイモンドは誇らしげに見つめた。
「その意気だ……二年なんてあっという間だ。勉強していれば」
「二年……」
離れている時間を思い、アリッサの胸が急に苦しくなる。涙が出そうだ。
「学院から外に出るには特別な許可がいる。理由は冠婚葬祭くらいだろうな。会いに来られないのは皆同じだ」
「レイ様……私、寂しくて死んじゃいそう」
少し潤んだ瞳でレイモンドを見上げると、彼の顔色が変わった。目を眇めて、指先でアリッサの頬から顎のラインを撫でる。
――キス、されそう……。
期待で胸が高鳴り、自然に顔が赤くなる。
「……手紙を」
顔を撫でていた手が不意に離れる。
「えっ?」
――キスしないの?
「手紙をやり取りすることは認められている。時々様子を知らせてくれないか。俺も手紙を書くから」
「は、はいっ!必ずお手紙を書きますね!」
「負担にならないくらいでいいぞ。……この間の手紙は、一体何時間かけたんだ?」
アリッサははっとした。あの量は流石に毎日は書けない。
「えっと、一晩……です」
「一晩!?」
驚いて額に手を当てたレイモンドは、
「なん、て、こった……」
と呟いて椅子の背に凭れた。心なしか頬を赤く染めながら。




