83 悪役令嬢は血に濡れる
大きな音を立てて馬車が止まる。馬が嘶き、御者の呻き声が聞こえた。
座席が横に大きく揺れ、アリッサは持っていた小剣を手から滑り落とした。小さくても切れ味抜群の剣はアリッサのドレスのスカートに刺さり、腿にチリリと焼けるような痛みを感じた。
「うっ……」
馬車が揺れた時に壁に頭をぶつけたのか、女は気を失っている。
「アリッサ!」
鬼気迫る声が彼女を呼び、派手にドアが開けられる。
レイモンドはいつもの落ち着き払った様子からは想像できない激しさで、ドレスを血で染めたアリッサを抱きしめた。
「追いついてよかった、アリッサ。ああ、脚を怪我しているんだね」
レイモンドは自分のクラヴァットを解き、アリッサのドレスを捲ると、血が出ている腿に巻きつけた。
貴族令嬢のドレスを捲るなど、いくら緊急事態とはいえ、許されるのだろうか。アリッサは震えながらレイモンドを見た。
「行こう、アリッサ。手当てしなければ」
上着を脱いでアリッサの足元にかけると、背とひざ裏に手を回す。
「つかまって」
おずおずとアリッサが首に手を伸ばして抱きつく。レイモンドは腕に力を込めて彼女を抱き上げ、後ろに停まっている公爵家の馬車へと運び入れた。
◆◆◆
オードファン公爵邸に着くとすぐ、アリッサは治癒魔法が使える魔導士に傷を治療してもらうつもりだった。スカート部分が裂けたドレスから脚が見えるのが恥ずかしく、レイモンドの上着をかけたままでいる。
「すぐにドレスを用意させるよ。君の脚を他の男に見られるのは我慢がならないからね」
レイモンドは椅子に腰かけたアリッサの前に跪き、かけられた上着を取り去ろうとする。
「レイ様?」
「強力な治癒魔法は使えないが、多少は心得がある。時間をかけて魔法をかければ治るだろう。おとなしく治療されてくれないか」
レイモンドは呪文を詠唱すると、アリッサの脚に優しく触れた。
「っ……」
脚に触られた緊張感とひきつるような痛みに顔を顰めると、レイモンドは様子を窺いながら少しずつ魔力を強める。傷口が塞がり、一本の線だけが残る。なおも指でなぞりながら呪文を詠唱する。上目使いでアリッサを見る彼と視線が合う。
「もう、大丈夫です」
「まだだよ、アリッサ。ほら、触ると傷が分かる」
前世ではミニスカートだってショートパンツだって穿いていたし、制服のスカートだって膝丈より短かった。脚を出すことに抵抗がないはずなのに、貴婦人は脚を見せないこの世界で過ごすうちに価値観が変わったのだろうか。レイモンドが傷に触れる度、とんでもなくいかがわしいことをしている気になって、アリッサは落ち着かなかった。
「治ったね」
アリッサの脚を撫で、跡形も残っていないのを確認し、レイモンドは満足そうに頷く。
「ありがとうございます、レイ様」
「礼には及ばないよ」
再度腿を撫でられ、アリッサは危機感を覚えた。傷が治ったのにいつまで撫でているつもりなのだろう。
ノックの音がし、レイモンドはアリッサの膝に上着をかけた。
「失礼いたします。仕立て屋からドレスが届きました」
「そうか。では、着替えを頼む」
名残惜しそうにアリッサを見たかと思うと、侍女が応援を呼びに行った間にすかさず口づける。
「またな」
銀の髪をくしゃりと撫でられ、真っ赤になったアリッサは椅子に崩れ落ちた。
◆◆◆
ハーリオン侯爵家の馬車が着いたのは、真夜中近くになってからだった。侯爵夫妻はアリッサがいる部屋に入ってくるなり、娘を抱きしめて喜んだ。事の顛末を宰相やレイモンドから聞いたらしい。
「アリッサ、ああ、無事でよかったわ。あなたが危険な目に遭ったと聞いて、私、胸が潰れそうよ」
「お母様……お母様ぁ……」
アリッサはたまらず泣き出した。泣きじゃくる娘を抱く侯爵夫人の頬にも一筋の涙が伝う。
「あなた」
「ああ」
ハーリオン侯爵は妻の肩に手を添え、娘の髪を撫でた。
「つらい思いをさせてすまなかった、アリッサ。四人の中でも特に私を慕ってくれているお前を取られてしまうような気がして、私も大人げなく意地になってしまった。レイモンド君が人ごみの中でお前を見つけて、馬車を追跡していなければ、今頃は……」
「お父様……」
侯爵の目にもうっすら涙が浮かんでいる。
「いいかい。もう二度と一人で外に出てはいけないよ。王立図書館に行く時は、私かレイモンド君と一緒に行くようにな」
「!」
ぱあっと表情を輝かせてアリッサは父を見た。侯爵夫人が目を細めて夫に問う。
「二人のことをお認めになりますのね」
「もう一度フレディと話し合ってみるよ」
歯切れが悪い夫を追い立てるようにしながら、侯爵夫人は部屋を出ていく。宰相であるオードファン公爵と話し合いをするようだ。溢れた涙をハンカチで拭ったアリッサは、足音がした方に振り返った。
「レイ様……」
「どうやら、君の父上は公爵家からの申し出を受けることにしたようだ」
「はい」
アリッサの隣に座り、レイモンドは背凭れに体を預ける。
「はあー、長かったな」
すぐにがばっと起き上がり、アリッサの小さな顔に手のひらを当てる。
「これでもう、思う存分キスできるな」
――き、キスって!もう!
薄い唇を歪めて笑うレイモンドから目を離せない。
彼ってこんなキャラだったっけ?もっとクールだったと思ったのに……。
逡巡しているうちに深緑色の瞳に魅入られて、アリッサは何も考えられなくなった。




