人狼騎士と人質令嬢
銀色の綺麗な毛色を持つ狼が、青い軍服を着込み、二本脚で立っている。
人なのか狼なのか……長い鼻先、真っ青な三角の目、ピンッと立った三角耳、毛深過ぎる体毛、鋭い牙も爪も、獣のものでしかない。走るスピードは馬よりも早く、振り上げられた腕は岩をも砕く。咆哮を上げれば本能出恐怖を感じるほど。でも、その足は華奢なものではなく、腰もまっすぐに立てている。太いながらに長い指は、獣にはあり得ないほど器用にものを掴むことができる。柔らかく器用に動く唇もないながら、その口は明瞭に人の言葉を操り、低く魅力的なバリトンヴォイスを響かせる。
私の住まうファンフォア国では、獣人なんていない。だものだから、初めて見たときは、本当に驚いた。でも、知識としては知っていたし、トカゲの獣人が英雄の話が巷であふれていたこともあって、怖いよりすごいというイメージの方が強かった。
屋敷のエントランスで私を迎えにきたその姿は、凛々しくも美しく見え、その瞳の奥に見える獣にはありえない知性の光と優しさがあって、胸は押さえようもなく高鳴っていた。
ファンフォワという国は、人の通えぬ山脈を背に、東を大国エルワーズ、南をメゥロンとティエン、西を十氏同盟と呼ばれる小さな国の集合体に囲まれている。十氏同盟は、我がファンフォワと和平同盟を結んでいるが、メゥロンとティエンとは長らく国境線争いを続けている。その二国が同盟を組んだという情報を受けて、ファンフォワはエルワーズに助力を求めた。
代償として、エルワーズが求めたのは、御年15歳になるお姫様の話し相手。もちろん、それ以外のものもあったのだろうことは、一緒にエルワーズ入りした荷物の多さから気づいているけれど、その明細は聞いていない。
ともかく、伯爵以上の年頃の娘がいない……わけではないのだけれど、三つ年上の辺境伯爵令嬢である私に白羽の矢が立って、他国交流に積極的だった父は、乗り気で送り出してくれた。もちろん、エルワーズ側は助ける代わりの人質のつもりなのだろうけれど、父の言う隣国の雰囲気を肌で感じてこれる貴重な体験というのは、ちょっと楽しみでもあった。
私の役割はといえば、午前中に予定されているお姫様の礼法や語学の勉学に励まれる時間を共有し、午後は誘われれば一緒にお茶を飲む程度のもので、それ以外はほとんど賓客待遇でのんびりすごせるというもの。城内はもちろん、供を付ければ自由に街に繰り出すこともできるし、前もって伝えれば小旅行も許可される。見張り役が付きまといはするものの、一定期間自国に戻ることすら許されるという自由っぷり。あれ? 人質じゃないの? いいの? とか思ってしまう緩さだ。ただ、それは、人などものともせぬ獣人たちの護衛……空に地に目を光らせる鳥人や昆虫人、逃げたところで匂いでの追跡に長けた狼や犬の獣人が、常に側に仕えているからこその安心なのやもしれない。
はじめの1日目こそは酷く緊張したものの……いや、昆虫人の、どこを見ているのかわからない眼差しには、未だに緊張が拭えないけど……それでも、エルワーズに来るまでの間に、私は獣人たちの間にいることに、幾分慣れてきていた。
だからこその気の緩みとも言えようか……エルワーズの国王に挨拶をすませ、三つ年下のお姫様と引き合わされ、一息ついたところで、ついとねだり言葉を向けてしまった。
「あのっ……毛に……毛に触れてみても、いいですか?」
一目見たその時から、その毛並はとても触り心地がよさそうで、触れてみたくてしょうがなかった。風に揺れるその様で、さぞかしさらさらとしているのだろうと胸躍らせた。日向でたたずむ姿を見ては、お日様のにおいがするんじゃないかなんて、勝手に想像していた。その手触りを存分に楽しんで、できればその背中にしがみつけたら、どんなに幸せだろうか。
とはいえ、普通の人であれば、どれだけ立派であろうと「お髭を触らせてください」と不躾に言えるのは、よほどの幼子だけ。髪の毛だって恋人か侍女でもなければ、そうそう触れることもない。強請りたくともこらえていたその言葉……でも、気が緩んでしまっていたのだろう、ついと舌に乗せてしまった。
ギクシャクしていた旅路も、後半でようやっと軽口も叩けるようになっていた。もしかしたら明日からは別の護衛が付くのかもなんて可能性もあり、たまたま二人きりになれたこのひと時、最初で最後のチャンスなんじゃないかなんて思えてしまった。だから勇気を出したと言うには、さすがに内容が内容だけに、断られて終わだろうと思いつつのことだった。
「どうぞ」
ふっと口元に笑みを浮かべて、彼は、低い低い声で了承の言葉を紡ぎ、私のために身を屈めてくれる。
口にしたら簡単にも叶えられた嬉しさに、有頂天になっていたのかも知れない。間近にあるのは、獣臭かったりごわごわしてたりしない、本当に綺麗に手入れされた銀色の毛並み。そっと触れてみると、さらりと指先を滑るその触り心地のよさに、さらにと指を這わせていくうち、手のひら全体でその感触を味わいたくて、思わず首筋あたりの長い毛を、両手でわしゃわしゃとかき乱してしまった。
くすぐったさを堪えるように、目を閉じじっとしていてくれる彼。普通の獣だったら、すぐさま嫌だと逃げ出してしまっていたところなのだろう……存分に触れる嬉しさに、思い切り調子に乗っていた。もっと触れたいと強請るように、両手で半ばしがみつくようになでくりまわしながら、頬を摺り寄せたところで、
「襲ってもいいのですか?」
低いバリトンヴォイスが耳元に響いた。
腰に響くというか、ずんっと心の奥底まで響き渡るような、その魅力的な声。そして、はたと見ればじっとこちらを見つめていた真っ青な瞳。ゆるく自分を囲うように差し出されていたその両腕。人と比べれば微かな差ではあるが、小首をかしげるようにして、口の端を引き上げたその表情は、面白がっているようにも見える。
はっと気づけば、自分こそがほぼ抱きつくようなその格好、本当の犬にでもしたのなら、犬好きが高じてと生暖かい目で見られるにすんだかもしれないが、相手は獣人……失礼ながらにも、人なんだっていうことを、今更ながらに思い出す。
思わず一歩二歩と後じさり、そのままへたりと床に座り込んでしまった。
「あ……いや、すまん、調子に乗った……冗談だ」
彼は慌てた様子で駆け寄り、私を立たせるべく腕をつかんでくれるのだけど、腰が抜けて足が笑って立てやしない。なにより、リンゴだってたやすく砕いてしまうその手が、思うより優しく私の腕をつかむことにうろたえて、思わず振り払ってしまった。
彼も、振り払われれば無理に立たせようとまではせず、その場に跪いて、私が混乱から戻ってくるのを待っていてくれる。それがまた恥ずかしくて、思わず子どものように膝を立て、両手で顔を隠してうずくまってしまった。
彼の、困ったような顔が目に浮かぶ。獣の顔だというのに、犬などではありえないほどはっきりと、彼の表情は読み取れる。言葉にしなくても、その表情が困っていたり、嫌がっていたり、嬉しがっているようだったり……わかるのに、違うのに、どうして、犬と比べてしまうのか。そもそもが、彼を、犬の上位としか見ていなかったという失礼さにつながってしまう。
触れたかった……会いたかったしもっと側に近づきたかったというのも、全て犬に向ける気持ちであれば、どれほど失礼な話だろうか。なんと言っていいかわからず、ただただ、恥ずかしさに耐えていても、彼はじっと側にたたずんでいてくれる。
「ヴォルフ様」
「は、はい、何でしょうかルディア様……っというか、どうか、呼び捨てで……」
私は、表向きこの国の賓客扱いだ。だけどその実人質である以上、こんな甘ったれた態度が許されるわけもない。一応は伯爵令嬢を招いたのだからと、接待役も爵位持ちの騎士であれば、本来こちらが敬意を払うのが当然のだが、お客様扱いしてもらっている。だからこそ、こんなわがまますら叶えてくれようとしたのだろう。
自分の立場をわきまえもせず、失礼な要求をした上、さらに失礼な気持ちでいた自分……しかも、今、立て直せもせず、未だ困惑するまま甘ったれた態度を見せている己の愚かしさ。
恥ずかしさは雪だるま式につり積もって行く中、それでも必死に言葉を紡ごうと、両手を退けて彼を見た。
「ヴォルフ様」
「……はい、ルディア様」
「ごめんなさい」
必死に紡いだ言葉は、あまりにも拙く、十にも満たない子どものよう。この国に来るに際して、改めて覚えさせられた礼儀もなにもぶっとんで、ただただ、恥ずかしさに耐えながら、謝罪を向けるのみ。なんと、なんと愚かしいとだろうか。わかっていながらに、どうにも出来ない、どうすればいいのかわからない。
そんな私を、さらに子どもに戻してしまうか、彼の大きな手は、そっとそっと私の頭をなでつけた。
「いえ……いえいえ、分かっておりますとも。この見た目です、どうぞ、今まで通り犬と扱っていただければ……不安な他国でも、少しは心休まりましょう? 側に常に誰かいるという恐ろしさより、大きな犬がいると思っていただいたほうが、よろしいでしょう」
優しく優しく言ってくれる、それは、思わず甘えたくなってしまう甘い響きを持っているけれど、そんな言葉に惑わされるわけにはいかない。
「そうじゃない、ごめんなさい、そうじゃ……あのっ」
そうじゃないんだ、そうじゃない、ごめんなさいは、犬扱いしていいと許されるべきものじゃない、そもそも、もう、気づいてしまった。もう、彼は私にとって男の人で、犬なんかじゃない。駄々をこねるように、頭の中でそうじゃないを繰り返すが、肝心の、言うべき言葉が見つからない。
何を言いたいのか、どう言うべきなのか、そもそも何を伝えたいのか……分からなくなってぎゅっと両手を握ると、私の言葉を聞き逃さぬようにとでも思ったのか、彼が耳をそっと近づけてくる。
「はい?」
「嫌わないで……」
言えたのはそれだけで、思わずその場から逃げ出してしまっていた。
「……なぁ、ちょっとかわいいなって思う子に、犬扱いされてたらどうする?」
「最低だな! おい、俺たちの人格は無視かよ」
仕事から上がって友と飲んでいれば、おのずと本日一番印象に残った出来事を口にしたくなってくる。何気なくも口にしたつもりが、言い終える前に、共は憤怒したとばかりにドンッとコップをテーブルに叩きつける。飛び散った酒は、綺麗なクロスに吸い込まれ、しみを作ってしまった。
彼もまた獣人なれば、そんな経験は腐るほどあるのだろう。いや、黒いアーモンド形のつぶらな瞳に、たれた耳……彼の方が幾分優しげな外見をしているのだから、俺よりよっぽどそういう経験は多いのだろう。
「ああ……そうだよなぁ~」
だけども、彼のぶつけてきた憤怒の表情とは異なり、俺の気持ちは凪いでいた。いや、むしろ、心躍らせていたという方が正しいのだろう。
「なんだよ」
いぶかしむように彼が問いかけてきても、何と言っていいのか困ってしまう。
「ちょっと、犬でもいいかななんて……」
思わずぽろっとこぼした言葉に、彼はずざっと俺から離れて行った。
明らかに、間違った解釈をしたに違いない友に、だが、言い訳でも重ねれば、ますますおかしな方向へ話が行くのではないかと思い、口をつぐんで酒をあおった。
「どんな世界の扉を開けちまったんだ?」
恐る恐るというように問いかけてくるが、何といったものか困ってしまう。
思い出すのは、あの、なんとも幸せそうな顔。人の顔なんて、どれものっぺりとしていて似通っていると思っていたのだけれど、あの、幸せそうにほころぶ顔だけは格別だった。はじめて出会った頃より、かわいらしい方だとは思っていたのだけれど、花がほころんだが如きその笑顔は心まで浮き立つほど。
嬉しげに伸ばされた手と摺り寄せられた頬に、ちょっと、イタズラしたくなってしまったのだ。
「わしゃわしゃって撫でられたとき、最高に幸せだった」
「っぶ……まぁ、いーんじゃねぇの」
ちびちびと酒を飲みながら吐露すると、酒を含んでもいないのに噴出した友は、改めて酒を継ぎ足し、俺のコップにチンッとカップの縁を触れさせてきた。
「ヴォルフの初恋に乾杯……か?」
初恋……なのか? まさか異種族相手にそんな気持ちを持つとは思ってもいなかった。しかも、まだ、発情期にはちと早い。その時期にというのであれば、しょうがないとあきらめもするが、今、こんな春めいた気持ちになるというのはどうしたことか。
思い悩んでいたところで、コンコンとドアがノックされた。入るよう言えば、メイドが1人室内に入り、まるで兵士が如き敬礼を向けてくる。そういえば、下っ端女兵士が1人、ルディア様の侍女になったななんてことを思い出した。こんな時間に尋ねて来るにしては、急を要した風もなく、色めいた感じもない、どこか楽しんでいるようにすら思えるその表情に、とりあえず敬礼の仕方が間違えていると指摘するよりも、理由が気になって発言を促した。
「ご報告申し上げます」
「なんだ」
さっさと言えといいたい気持ちを堪えて問えば、ビシッと音がしそうなほど直立不動な姿勢をとり、まっすぐに俺を見つめてくる。
「ただいまルディア様は、ヴォルフ様にお召し上がりいただくため、身を清めておられます」
「なんでだ」
「そこでご相談なのですが、ソースは何がよろしいでしょうか? おすすめはビネガーですが、やはり、肉の臭みをなくすために、少し濃いめの味付けの方がよろしいでしょうか」
お召し上がりいただく? しかも、身を清めてビネガーをふりかける? 何の冗談だと、侍女の言葉に眉間にしわよせ、隣でニヤニヤ笑う友を見た。
「今頃、香油の代わりに塩でも塗りこんで、下味処理してるんじゃねぇか?」
なんでそんなに楽しそうなんだという言葉の代わり、思い切り睨みつけると、ひょいと首をすくめて酒をあおる。
「ワインは白と赤、どちらをご用意いたしましょうか?」
「喰わねぇよ!」
思わずそう叫ぶと、俺は、脱ぎ散らしていた上着をひっつかみ、ルディア様の部屋へと急いだ。
とりあえず身を清めておられるらしいから、そこへ飛び込んで行くわけにはいかないが、彼女自身がディナーの皿の上に座るのは阻止しなくてはならない。いや、ちょっとも興味がないと言ったら嘘になるが、さすがに食人はしないというのに、どういう誤解をしたものか。
からかいはしたが、あまりにもな誤爆をした彼女に、さて、どう説明したものか……廊下を駆けながら、思わず頭を抱えてしまった。