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 8. シ ン デ レ ラ 事 件 と 毒 林 檎 収 穫 祭 ・ 前 夜 祭 

 硝子の靴を追い掛けて、王子様は胸騒ぎしたのかな。魔法の鏡は一連の出来事をどんな気持ちで傍観していたのかな。お后様は、子である姫に毒を盛るときの気分は?

 どの童話も、登場人物の心中はみんな簡素で、想像の域は出ない。

 ……全部推察したところで、正解は無いだろうけどねぇ。


   【 8. シ ン デ レ ラ 事 件 と 毒 林 檎 収 穫 祭 ・ 前 夜 祭 】


「いらっしゃいませ、わざわざお越しくださり有り難うございます」

 俺が退出したあとの生徒会室は重苦しい空気に満たされていた。さっきまでの、お道化た生徒会は存在していなかった。緊張した、どこか昏い面持ちの二人は、けれども大人の配慮なのか笑みを作った。若い男のほうが「いや、こちらこそ。お招きいただいて良かったかもしれない」整った顔立ちは翳りが窺えた。

「それは良かった。どうぞお掛けください、鹿見さん、畑上さん」

 譜由彦が微笑した。王子の如き美貌に、眼前の大人よりずっとずっと余裕を浮かべて、洞窟で獲物を待ち構えた獅子のように悠然と、極上の笑顔でパーテーションの奥を二人へ勧める。他の役員は各々、来客に立ち上がっているが微動だにせず静観に徹していた。全員能面を彷彿させる無表情だ。唯一恵比寿さんだけ微かに口元が笑みを作っていた。役員は皆隙無く来訪者を睨み据えて、王に傅く騎士が警戒をしているみたい。

 扉と内装に合った異様な重厚感。大人二人が数人とは言え、高校生相手に気圧され喉が渇いたのか、冒し難い静謐を湛えた室内で嚥下する音が響いた。


 そのころの呑気な俺は、送ってくれる安李くんが職員室に寄りたいと言うことで、一度階段を全部降りることになった。怖い。裾怖い。

「ねー、先生」

「あー」

 俺が呼ぶとやる気が無い、声と言うのも烏滸がましい音が返って来る。おーい。

「……何」

 俺が続けないでいると焦れた安李くんが問い返す。うー、と、……。

「この学校、段差多くない? 同じ二階でも全然高さ違うじゃない」

 階段のことじゃなくて。渡り廊下のことだ。裾に気を付けポイント多過ぎる。安李くんに紙持ってもらって良かった。両手使えるって大事だわー。足元も見えないからいちいち上げて確認しなきゃだし。

「んなことかよ。まあ? やや山の中だし? 都会だって意味不明に駅ビルやらショッピングモールやらに段差付けてんじゃねーか。良いんじゃねーの? 別段平衡感覚に支障来す訳で無し」

 そうだけどー。俺は唇を尖らせる。応答はしないで裾を捌いていた。

「……」

“さっきの人たち、誰?”

 俺の聞きたいことは別のことだったけど、俺が訊くようなものでも無いと打ち消したのだった。

 どこかで、見た気がしたんだ。でもどこかわからない。憶えが無いのにこれだけ気に掛かるのだから、消えた記憶の何れかで深く関わったのだろうか、と。や、もしかすると唯子ちゃんの記憶なのかもしれない。どちらにせよ、現在の俺が何か訊けるとも思えない。俺は息を付いた。

「……、れ?」

 嘆息した辺りで、階段を降りていた俺たちは二階から一階への階段に足を踏み出したところ。異常に気付いた。俺の声に安李くんも俺と同じところへ目線を向ける。異常は、当たり前に平衡感覚のことでは無く。

「何で、靴?」

 靴が、落ちていたのだ。片っぽだけ、十段在る階段の上から三段目のところで、ころん、と。

 上履き……だよね? 誰かが落としたの? 下駄箱や体育館ならわかるけど。体育館は体育館履きに履き替えるからね。けれどここは“校内の”階段だ。脱ぐ必要性は無い。非常時でも無ければ……「おい!」安李くんの切迫した声に俺は顔を上げた。

 安李くんはすぐ下の踊り場へ駆け降りた。廊下と階段は、日が在る内は電気を基本点けない。ここは太陽光が僅かで、北に面しているのかやや薄暗い。この薄暗い中の、更に陰が濃い場所で安李くんが険しい顔をして膝を折っていた。

 生徒祭で使う予定だったのか幾つかクッションが散乱している。その中で、ほっそりした足が投げ出されていた。足の感じから女性、少女だろう。ゆっくり、俺は視線を這わせた。一段、降りる。床に広がるスカート。一段、降りる。半開きの手、足と同じように投げ出された腕、上半身。一段……。シャツはスタンドカラー。服装は、女生徒の制服だ。

 そうして、顔へ焦点が。

「────っ、ぁあ……っ」

 俺は、とっさに悲鳴を上げた。横たわるのは─────『私』の、よく知る人。

「……梓川さんっ!」

 梓川さんが、糸の切れた人形みたいに、クッションに埋もれるようにして倒れていた。


 転落事故、だったらしい。俺は安李くんと共々校長や教頭、他の先生に事情聴取を受けていた。梓川さんは駆け付けた譜由彦たちによって外部の病院に運ばれていた。頭を打ってるかもしれない、他にも何か出るかもしれない、て、ことで。唯子ちゃんのときと同じだった。違うのは、梓川さんの落下地点には先に落ちたクッションが在ったこと。梓川さんがもともと取りに行っていたもので、生徒祭で使うため運んでいたそうだ。……一人で。

 なぜ誰より譜由彦たちが来たのかと言えば、安李くんが里見くんに連絡を入れたからだった。通常、勤務医たる椰家先輩に入れるべきだけどどう言う訳か里見くんに連絡したらしい。前回の転落事故を踏まえて、ここの医務室じゃ無理と判断したのかもしれない。外部と素早く連絡が取れるのはと、考えた末生徒会だったのかも。

 なら先輩は専門分野だから、いっそう診せなきゃいけない気もするけど。もしかして電話が通じなかったとか? そんなこと校医に在るのかな? わかんないけど。

「……」

 大丈夫かな、梓川さん。救急車には譜由彦が付き添いで乗った。生徒会長だからだって。事情聴取が終わって迎えが来るからと一人残される。そこへ鹿乃子先輩と証言者先輩たちがやって来た。

「……。コレ、着替えなくちゃと思ってね」

 余りのショックにぼんやりとしている俺へ制服が差し出された。きれいに畳まれたそれは紛うこと無く俺のものだ。ぼうっとしたまま「ありがとうございます……」受け取る。ああ、俺ドレスだった。汚してないかな。ほつれてないかな。せっかく先輩の作っているものなのにずっと着てて申し訳無いな。

「じゃあ、今日はお疲れ。私たちは帰るから」

 証言者先輩の、ポニテのほうの先輩が言った。鹿乃子先輩は残る。俺の着替えは補助が必須なんだ。ドレスの着脱においては。

「……ドレス、」

「ん?」

「大丈夫でしょうか」

 汚れとかほつれとか。俺が尋ねると「大丈夫よ。汚れは拭き取るし染みなら叩いて拭うし、ほつれてたり破れていたら縫えば良いの。本番までは、どうでも出来るものよ」

 気になくて良いの。鹿乃子先輩は眉毛を八の字にして笑っていた。そう言えば里見くんは鹿乃子先輩の弟さんなんだよな。思い至ったら「弟さんに会いました」とぽろっと零してしまった。鹿乃子先輩は何を言われたのか把握出来なかったらしく一時置いて「ああ、そっか」と得心した様子で微笑んだ。

「ウチの話したこと在ったかしら」

「いえ」

 家のことどころか先輩の名前すらつい数時間前知りました、と莫迦正直には言うまい。と、言うより思考回路がいまいち動いていないのだろう。脳裏には今でも、血の気の失せた梓川さんの蝋人形みたいな横顔がチラ付いている。鹿乃子先輩はにこりと笑んで。

「私ね、愛人の子なの」

 爆弾発言。勿論俺はぽかんとした。きゅ、急過ぎる。俺は如何に答えるかを吟味したが、ボキャブラリーの限界を感じただけだった。鹿乃子先輩は平然と「よく在ることよ。相手は芸者さんだったそうよ」他人事の如く語っている。つまり、その方は先輩のお母様のはずでは。当惑して何も言えない俺を後目に、鹿乃子先輩は次々ドレスを脱がして行く。

「私の家は茶道の家でね。父はそこの跡目候補だった。妻帯者で、芸者との道ならぬ恋は人生の肥やしだったのよ。芸者さんもわかっていたから私を産んで直後に私を手放したの」

 跡継ぎ、身分差の恋、愛人の子、俺には御伽噺だ。だけれど鹿乃子先輩には現実で。

「……」

 唯子ちゃんだって……『私』だって、同じだ。身分差の恋で猛反対された。お母さんは天涯、孤独、で……あれ?

 今、何か……。俺が惑う最中も鹿乃子先輩の話は続いていた。喋りながらも手際良くドレスを脱がせてくれた。気付けば脱ぎ終わって、ドレスは鹿乃子先輩の腕の中だ。

「十石の母は立場を弁えている人だったし、父も母も私を差別しなかったけれど区別はされた。私は跡目候補からは外されているの。一通り、作法も何も教育はされたけどね。やっぱり、弟のほうが上手いのよね。当たり前よね。弟は生来の後継者だもの。厳しくされた分、出来て当然。だけどそれが……羨ましくも悔しくも在ったわ」

 ドレスを畳むと、鹿乃子先輩は待合室に備え付けられている机で広がっていた風呂敷に包んだ。もしかしたらこの制服を包んでいたのだろうか。渡された制服を手にしつつふと思った。

「よく在る話ったって口さがない人はいるもの。私は優等生として振る舞うことでしか、自身を守って来れなかった」

 鹿乃子先輩は終始笑顔だ。俺はどんな表情なら良いのかわからなくって、中途半端な顔にしかならなかった。

「否やは言わず、唯々諾々と従っていたの……でもね、私にも好きなモノくらい在ったわ。────『お姫様』

 ふわふわきらきらした世界が好きだった」

 絵本で見るたび、泣きそうな日に空想に思いを巡らせるたび元気になった。中でも魔法使いとお姫様はその象徴だった。

 けど、家とは縁遠い世界で羽目を外すのも怖い自分には、手が届かないって思った。ただただ遠くから見ていた。当時のことでも思い出しているのか、鹿乃子先輩は寂しげだ。俺は顔もそうなら、こんなときに掛ける文句すら無い。情けない。

「大きくなってもドレスみたいな服とかロココ調な調度品が好きで。みんな素敵で作る人とか神様のようだったわ」

 けれども、憧れは憧れよね。あきらめていた。鹿乃子先輩は言う。自分は跡目の数に入っていないけれど、常日頃から目が在ったから箍を外して好きなことをすることは、叶わなかった。一般の家庭でも現代じゃ在ることだ。なのに、先輩は居住権を得るためひっそり生活していた。

「弟も、同学年だったから余計ね」

 何と! 鹿乃子先輩と里見くんは同学年だったのか! てっきり一つ違いだと……「私が七月生まれ、弟が年越して一月生まれなの。年齢は半年程度違うかしら。別腹だから」……ああ成程なんですが“別腹”って言い方は嫌だな。よもや言われていたのでは在るまいな……。聴けば聴く程凹む話だけど、鹿乃子先輩の意図が汲めないので止めることは出来ない。この手の話は遮るのも悪いし。

「品行方正な異母姉を演じた私は、高校に上がる前にちょっとした嫌がらせを受けたの。弟は一部モテているから。姉弟でも近場の女はゆるせなかったみたい」

 あー、そう言う女いますね。何が気に入らないのか親姉妹まで敵視するヤツ。俺とか……従兄妹だから仕方ないのかもしれないが、鹿乃子先輩は半分とは言え姉弟だぜ? どんな邪推だマジウザい鹿乃子先輩に土下座しろ……平常より口が悪い気がするけど、絶対腹が立っているからだ。

「靴、隠されちゃってね」

 隠したヤツは理不尽に死ねば良い。そして劣悪環境の『誤生』か『劣魂』に再利用されろ、ゴミもリサイクル、エコの時代だぞ。鹿乃子先輩に何てことするんだ。

『私』は苛々していたが堪えた。すでに過去だ。きっと里見くんが何とかしたに違いない。てか、しろ。

「放課後、思い付くところを虱潰しに探したわ。けれど見付からなくて」

 何それ処刑決定。私が叩き潰してや、「そこへ、敦来さんがね、」……る……『俺』? 鹿乃子先輩の過去語りを拝聴しながら着替えはもう終わっていた。俺はウィングカラーなので、リボンタイを結ぶ。俺? 俺が何? 唐突に呼ばれて我に返ったけど、何かさっきの俺どす黒くなかった? 魔王譜由彦みたいな。どっちかってーと少々壊れ気味暴走に近いほうで。

「私の靴、見付けてくれたの。“探し物はコレ?”って。“違うんなら捨てる”って」

 捨、て、ん、な、し、俺! つか唯子ちゃん! て言うか今ふわっと映像が流れた。

 唯子ちゃん───『私』、が下級生みたいな先輩に靴を渡している。想像? ううん、実体験。私は、コレを知っている。

 だって、先輩の靴を発見したときの状態を知ってる。花壇に、チューリップと共に咲いていたのだ。地面から生えている靴を初め見たとき、コレはいったい何がしたいんだろうと首を頻りに傾げたものだ。花が可哀そうだったので掘り起こしたものの、捨てるか迷っていた。鹿乃子先輩と出くわしたのは丁度このときだった。

“探してたの、コレ?”

 私と鹿乃子先輩は今より幼かった。私も小さかったけど先輩はもっと小さかった。初めは下級生かと思ったくらいだ。ゆえに、敬語じゃなかった。学校は学年別に示すものなんか無いし。

“そ、そうです……ありがとう”

“別に……”

 不意に落とした視界に入った、上履きの名前と学年番号で鹿乃子先輩が“先輩”だって知った。今更、悟ったところでどうとも出来ないけれど。幸い私の上履きには学年番号も名前も無い。頻繁に隠されていた時期でいちいち書き直すのが面倒だったから。まぁ私は上履きや体育館履きで、靴が隠されたことが無いのは帰るのが敦来の家でお兄様にバレることを危惧してだろうか。いやいや上履きや体育館履きだって耳には入ってると思うけど。とにもかくにもこれ幸いと私はタメ口を変えなかった。

“……花が、可哀そうだったから。それだけよ”

“花?”

 不思議そうに鹿乃子先輩が繰り返す。私は億劫だったけど手間じゃないしと教えてあげることにした。

“花壇で、花といっしょに咲いていたのよ。地面に刺さって”

“……咲いていた?”

“そう。爪先のほうを埋めて二つで扇状になる感じで刺さって、咲いていたわ”

 私が説明すると鹿乃子先輩は最初呆気に取られた顔をしてから、笑い出した。突然のことに私はぎょっとした。当たり前だ。いきなり大声で笑われたら誰だってこうなるに決まっている。

“さっ、さ、咲いていたのっ? 靴がっ?”

 彼女の笑いどころが私の説明だったと気付いて、せっかく教えてあげたのにと私は不機嫌になった。さっさと踵を返し帰ろうとする。後ろで声がしたが知らん振りして早足で帰った。

 人助けしたつもりも無かったし、個人的にどうでも良いことだった。お礼が言われたいとも、ましてや感謝されたいとも思っていなかった。

 ただ、こう言うことをすれば、またお兄様が私を褒めてくれるかもしれない、とか。

 浅はかで、ささやかな期待をしていただけ。

 お兄様は、私のこと、逐一ご存知で、いてくれたから……。

「……」

 あのときの上級生が鹿乃子先輩だったなんて。いや、うん、そう言やほら、上履きの名前『十石』だった。うん。……うわぁ。

 あのころの『私』、超必死だったんだなぁ。良いことしたって譜由彦褒めてくれそうにないけどなぁ。あーやーどうなんですかねぇ? 『俺』んときにはもうそりゃあ極寒な譜由彦だったわ、け、で……。

“大丈夫だよ、唯子”

 あー……。あの譜由彦を鑑みれば褒めて、くれたのかなぁ。つか、褒めてくれたのかなぁ、このあと。全く以てそんな気がしないけど「でね、」って、そうだった、鹿乃子先輩の話の途中だった。ついついぶあーっと、過って行った記憶に物思いに耽ってしまった。

「私がお礼言う間も無く敦来さん去って行ったの。格好良かったのよ、敦来さん。余分なことも言わずさーっとね。どこにどんな風に在ったか説明だけして。素敵だったのよ」

 鹿乃子先輩はほうっと頬に手を当てて、その場景を思い描いているようだけど、あれ? 俺が思い出した『私』の記憶と若干差が在るような。んんん? お、おかしい。鹿乃子先輩に大笑いされて、機嫌損ねたから不言で帰ったんだよね? 別段、格好良く決めて去った憶えは無いんだけど。

「偉そうにすることも恩着せがましく言うことも無く、さも“自分は当然のことをしただけ”って感じで。肩で風を切って堂々としていた。敦来さんは、いつも、そうだった。敦来会長のことで嫌がらせされても、降り懸かる困難を乗り越えるヒロインみたいに屈しないと胸を張っていた。……前に“本物の貴族みたい”って誰かが言っていたけど、私もそう思っていたわ。

 何ものにも負けないあなたは、私の憧れの『お姫様』そのものだった」

 胸が刺さるように痛んだのは、『私』が以前の『敦来唯子(わたし)』じゃないから。ああ、もう。安李くんが言ってくれたじゃないか。“お前しかいない”って。『敦来唯子』は『私』しかいないんだから。理不尽さを覚えても、飲み込むしかないんだ。『私』が未だに『俺』でも。堂々と胸は張れないかもしれないけど。

 受け止めて、飲み下すより他に無い。

「……なんてね」

 鹿乃子先輩が「けどね、」くすりと笑った。

「前のあなたは格好良くて憧れだったけど、今のあなたは少し違うの。“格好良い”より、“可愛い”、わ」

「……」

 一瞬、「今のあなたは少し違う」でどきっとした。幻滅させたのかと思ったら「可愛い」と続いたので、逆にコレはコレで返答に困った。“可愛い”、か。二十数年生きて来た『俺』でも今まで気張って生きて来た『私』でも、やや複雑だわー……。鹿乃子先輩のにこにこは可愛いんですけどね。癒されるんですけどねっ。鹿乃子先輩は俺に相槌も望んでいないようだ。話は終わっていない。

「敦来さんには記憶の無いことで困っちゃうわよねぇ。けれど私にはたいせつな思い出よ。私は、『敦来唯子の妹志望の会』には入らないけどねぇ」

 ああ、ですよね。先輩だけに年上ですしなるなら『姉』。いやむしろ俺が『妹』になりたい。鹿乃子“お姉様”。良い。

 俺が莫迦なことを考えている間に鹿乃子先輩は「……まあ、でも」とっくに俺を置いて話を進めていた。

「昔の敦来さんに助けられた私は、今の敦来さんにも救われているのよ。

 だって見掛けるだけだったあなたとお話出来て、更にこうして私の趣味に付き合ってくれてる。敦来さんが付き合ってくれる御蔭でね、私、洋装の趣味を家でもカミングアウト出来たの」

 鹿乃子先輩は満面の笑顔を俺に向けた。

「敦来さんに助けられたとき、何となくだけど“私も自信を持とう、前向きになろう”って洋装に手を出し始めたの。だけど、それまでは、こっそりしてたのよ。大っぴらにやるまではどうしても勇気出なくて。でもね、敦来さんが私に付いてくれるって思ったら、

 何か吹っ切れちゃった」

 鹿乃子先輩曰く、現在先輩には夢が在るのだと言う。洋裁を学んで服飾関係の仕事に就きたいのだそうだ。俺のドレスを作っていて、やはりコレがやりたいのだと強く感じたらしい。決意を固めた先輩は、お家の人にもようやく話せたのだと。

「私なんて、跡目にもならないなら家のために嫁ぐしかないもの。“もし縁談が在れば従うから、どうか私のやりたいことをさせてもらえないか”って。そうしたら“鹿乃子さんの好きにしなさい”って、母が言ってくれたの」

 聞けば今の家元はお婆様で、次代の候補にはお母様、要するに鹿乃子先輩には継母になる人が有力なのだそうだ。てか、お父様は鹿乃子先輩の生母の件も在り、候補から外されなくて良かったわねぇ? と言ったところだとか。表ではお婆様の息子であるお父様を立ててはいるが、本質的に実権を握っているのはお母様らしい。そのお母様が「好きにしなさい」と言ったからには誰も反対はしない、と言うこと。

 んー。継母からすれば愛人の子たる鹿乃子先輩は家を出てくれたほうが良いに決まっているし、鹿乃子先輩は家に未練なんか無いみたいだから万々歳ってことかな、なんて、意地悪な物の見方したりして。いやいや。鹿乃子先輩が良いなら良いじゃないか。丸く収まった、ってことだしね。俺が「良かったですね」と笑うと、鹿乃子先輩も「ありがとう」とほわって効果音が付きそうな感じで、笑ってくれる。

「だからね。今も昔も大好きなあなたが、元気が無いのは悲しいわ。きっと、梓川さんも、同じよ」

 梓川さんも。言われて、梓川さんも『私』に助けられた一人だったんだって。ならば梓川さんも、鹿乃子先輩と同じように考えるだろうか。ってーか、あの人なら「はぁっ? そのようなことで悄げてますの? はー、莫迦じゃ有りませんの?」って、腰に手を当てて胸反らせて偉そうにするんだろうなぁ。素直じゃないのよね。絡まれていると思ってたら全部忠告だったとか諌言だったとかさー。

 無意識に梓川さんへ難色示してはっとして、俺は『私』になりつつ在るんだなぁと実感する。が、この傍らであの梓川さんなら、そうね、あなたが気落ちしてても何にもなりませんわ! なんて言い切るだろうと考えて、よし、と気合を入れた。

 梓川さんと次に会うのが『俺』だろうが『私』だろうが、情けない顔は見せないようにしよう。アレでなかなかに繊細で気にする質だと復帰後知ったから。

「……鹿乃子先輩。生徒祭、がんばりましょうね」

 宣言はしない。気を取り直すのくらい、口にしないで出来る。何より。

「そうね、がんばりましょう」

 鹿乃子先輩はわかってくれる。


 ああ。

白井優李(おれ)』はいっぱい無くしたけど、『敦来唯子(わたし)』はいっぱい貰ったなぁ。

 もうどこかへ行ってしまった『唯子ちゃん(わたし)』へ。

 あなたの周囲には、とってもあなたを想う人たちがいましたよ。

 ちゃんと受け取った『私』が、大事にするから。

敦来唯子(あなた)』になることを、ゆるしてね。


 その後心配したお爺さんが各務さんを寄越して、俺は先輩と別れた。……え、『俺』ですよ。やー、だってだって『白井優李』としての意識は完全には消えてませんもの。俺は『俺』ですよ。『私』に塗り替えられていても一片でも残っているので『俺』です。はい。

 ゆーっくり、変わるんだと思う。寝てる間になんかさ、気が付けば『私』かもしれない。ホラー。恐怖半端無いけどね。良いかなって。思ってる。どーしよーも無いし? 死んだばっかりの、『私』になるってときとは違う観点で「どうしようも無い」って思っている。

 ほら、あのときは現実味に欠けてた訳で。現段階ではひしひしとしみじみと感じている訳で。

 そうそう! 考えたんだけど、生まれる前のこと憶えている子っているじゃない? あー言うのって、多分こう言う状況なんだと思う。新しい体に入って、記憶が消えて行くまで最短五箇月でしょ? いつ魂が入るかで憶えている子と憶えていない子に分かれるんじゃないのかなー。ちなみに俺は憶えていませんでした! きっと! てへ。

 ……って、逃避しているのは車の空気が重いからですよ! 梓川さんの一件で、今日送ってくれた運転手さんでなくお迎えの各務さんが運転しているんですけど。なーんか空気重いんだよね。何かさ。各務さんの機嫌が悪い? と言うかピリピリしてる? みたいな。声掛けづらいんですよ。なんで、車中は始終無言だった。

「……」

 仕事の邪魔しちゃったのかな。お爺さんの過保護もなぁ。普通に運転手さんで良いのに。家族が連絡すれば運転手さんだって校舎内に入れるんだからさー。俺は心内でぼやきつつ。今の俺は平時の精神状態を取り戻しているけど、これは鹿乃子先輩と喋っていたゆえで。鹿乃子先輩効果だ。鹿乃子先輩がいなければ今でも俺は不安で、運転手さんにご迷惑を掛けていたかもしれない。各務さんであれば少なからず気心は知れている。ご多忙中でお疲れの各務さんでも困惑させて苛立たせていたかもしれない。

「……唯子様」

「は、はいっ」

 突拍子も無く呼ばれ俺は吃った。いやービビった。気を抜いていたせいですね、はい。俺が返事をすれば各務さんは「少し、寄りたいところがございます。そちらへごいっしょしていただいてよろしいでしょうか」と尋ねられた。各務さんが寄り道……お爺さんの用かな? お仕事関係? 各務さんは仕事中に呼び出されて俺の迎えに行かされたはずだ。終わってない仕事も在るのかも。このまま俺も連れて、ってことは急ぎかもしれない。俺は車で待っていれば良いもんね。俺が「構いませんよ」と答えた。各務さんは「ありがとうございます」て、返してくれる。本を正せば俺が予定を狂わせたのでお礼を言われるのはおかしい気もするんだけど。車が方向転換する。いつもと違う道に流れる風景が目新しい。

「……」

 どこまで行くんだろう。会社かな。だとしたら結構遠くなるかも。……お爺さん大丈夫かな。帰ったら、各務さん超怒られるんじゃないの? うーん、スケジュールを妨げちゃったのは俺だから、俺が具合悪かったことにでもして置くか。あー、けど会社だとバレちゃうかなぁ。

 なんてあれこれ俺が対策講じる必要無いわ。親が仕えていた経緯が在るとは言え、あの若さで会長秘書やってる各務さんに抜かりが在る訳無い。逆に面倒になるだろうからやめて置こう。

「……」

 だけども、車はビル街ではなく住宅街に入ってしまった。え、どこ、ここ。こんな住宅街に会社在るの? 無いとも言い切れないけど……。

 敦来の家が在る邸宅が割合を大きく占める高級住宅街とは一線を画すような、アパートとかコーポとか言う古めかしい、もしくはお安めの独身用賃貸共同住宅もちらほらしている、一般的な住宅街だ。一戸建ても庭が広く塀が隣り合ってるんじゃなくて密集してる風な。いや、マジにどこ行くんですかね。

 どんな用事かも聞いてないしなぁ。もしやアレか。取引相手のお家訪問的な。だったら俺、てか『私』、いたらマズくない? 譜由彦曰く『王孫女』でしょ? 会長の孫が密かに会ったりしたら叔母さんとか社長だもの。面子潰すことにならない? たとえ各務さんが主役でも、さ。

 でもなぁ。お爺さんも譜由彦も認める各務さんが、そんなヘマをするとは思えない。うんうん俺が唸っていると「着きましたよ、唯子様」車が停まった。

「ここは……」

 各務さんにドアを開けられたので俺は降りた。着いた先は、何の変哲も無いアパートだった。白くて古いけど、汚いって感じじゃない。テラスハウス? 小さな二階建ての一軒家が横に連なっている形式のアパートだ。明らかに独身用ではない。ファミリー用。

「ここは、昔唯子様がお父様とお母様がご健在の時分お住まいだった家です」

 あーそっかぁ。壁の色が変わってしまったけれど形状は似ている。さすがに十二歳まで住んでた『私』も忘れては無かった。……いや。

「私、ここに、たまに来てたわよね、各務さん」

 俺が微笑んで問うと、各務さんは微かに瞠目して「唯子様……記憶が……」と驚いた。俺は「ちょっとですけどね」苦笑した。各務さんにとっては“取り戻した”ってことになるんだろうけども、俺からしたら“得た”って感じだから。俺は家を仰いだ。

「私がお迎えに行けるときは、よくいらっしゃいました。住んでいらした間のことは憶えていらっしゃいますか」

「小学生までここに住んでいたわね。一階はダイニングキッチンとお風呂と洗面所とトイレと、両親の部屋。二階は私と……」

 ん? “私と”? 誰。俺は各務さんに目をやる。各務さんは建物の二階を見上げ。

「あなた様と……由梨の部屋が在りました」

 付け加えた。『由梨』……そう、由梨。由梨お姉ちゃん。お母さんの妹で、叔母さんに当たる人。お母さんと年が離れてて『俺』で言うところの安李くんだ。

 由梨お姉ちゃんは私が五歳のときいなくなってしまった。ある日帰って来なくなった。春休みが終わってゴールデンウィークが終わって、夏休みの約束をして、お姉ちゃんは学校にまた行くようになって、ある日……────え?

『由梨』? 『由梨』って、お姉ちゃんて……。

“『由梨』って名前なの”

 先輩が好きな子も由梨さんだった。十年前生徒祭を始めたのは先輩で、先輩は十年前高三で生徒会役員……。

「由梨は……高校三年の夏休みを前に消息不明になりました。唯子様が五歳、六歳になられる年です」

 俺はふと制服に触った。衣替え前の制服。お姉ちゃんの制服、この学校のじゃなかった? 可愛い制服に、俺が、や、『私』が羨ましがった、確か。

「各務さん、由梨お姉ちゃんは、」

「奨学生だった由梨は生徒会役員で、会計をしていました。由梨の生徒会が初めて行う学祭の準備で、毎晩遅くまで仕事をしていたそうです。……唯子様の学校で」

 予測的中。て、言うことは。

「椰家晃」

「……」

「めずらしい名字、医者の家系、けれど、まさかと思っていました。─────唯子様」

「……はい」

「由梨が失踪したとき、生徒会長は椰家晃。あなたの学校の勤務医です」

 あー、やっぱねぇ。先輩が好きだった由梨さんがお姉ちゃんだったなんて。凄い、偶然だ。俺は能天気にもそう考えていた。次いで放たれた各務さんの科白に唖然とするとも知らず。

「唯子様」

「はい?」

「私は、由梨の失踪に椰家が関わっていると思っています」

 は? 間抜けな声が出そうになった。寸でで堪えたけど。何で? 意味わかんないんですけど。俺が混乱しているところ各務さんが再度衝撃的な告白をしてくれた。コレは『私』も俺も「は?」声に出してしまった。

「私と由梨は、付き合っていたんです」

 各務さんと、由梨お姉ちゃんが……? 嘘。俺は『私』が否定するのを、だけど冷静に打ち消した。幼稚園のころ『私』と遊んでくれた人に、両親以外では由梨お姉ちゃんともう一人いることを思い出している。眼鏡を掛けたお兄ちゃん。詰襟で。今はオールバックだけれど、前髪を下ろせば、きっと。

「……二人で、仲良さそうにしてましたよね」

「思い出されましたか? ええ、そうです。私と由梨と唯子様で公園に遊びに行って、遊具で遊ぶ唯子様を二人で眺めていました。私と由梨が話していると走って来て“二人だけでお喋りしないで!”“ないしょ話なんてずるい!”って間に割って入って来るんです。それがまた可愛くて、ついつい二人で笑ってしまうんですよ。唯子様はそこでまた怒ってしまうんですけどね」

 そうだ。どうして忘れていたんだろう。『白井優李』だったから以前に『私』がつらかったからだ。由梨お姉ちゃんは忽然と消えてしまって、お父さんもお母さんも警察に行ったけど見付からなかった。お父さんもお母さんもつらそうで、お母さんは“唯子はどこにも行かないで”って泣いて、私も泣いた。

 大好きだったお姉ちゃんがいなくなってしまって、陰を背負う両親の姿に奥底に仕舞い込んでしまったんだ。お兄ちゃんも、各務さんも来なくなってしまったから。

「……。何で、お姉ちゃんの失踪と先生が、関係してるって思うんですか?」

 各務さんが由梨お姉ちゃんと付き合っていたとして、先輩が由梨お姉ちゃんを好きだったとして、このことを各務さんが知っていたとして、どうして由梨お姉ちゃんの失踪と関係が在ることになるのか。

 各務さんが偏った見方で不用意なことを言うとは思えない。この人は、この人も、言動の責任の重さを知る人だ。譜由彦も。

“アイツの周りで人が死に過ぎている”

“とにもかくにも、お前は関わるな。良いね”

 だけど、だって、でも。

「唯子様が、近ごろ椰家医師に懐いているとお聞きしました。私も、始めはたまたまだろうと考えておりました。けれど譜由彦様が調べ出し、私も調べる内、疑問が浮かびました。……いえ、思えば、由梨が失踪した当初より彼に疑惑を抱いていたのでしょう」

「か、各務さん、お姉ちゃんは、由梨お姉ちゃんは、」

「由梨が失踪したとき。もう一人男子生徒がいなくなったんです。そのせいで駆け落ちじゃないかと疑われました。在るはずが無いと、男子生徒のご両親と唯子様のご両親は学校の関係者に話を聞きに行きました。私も付いて行きました。初めて、敦来の家に嘘を付きました」

「各務さん……」

「面会出来たのは理事長と校長と教頭、生徒会役員が数名。その中で椰家の証言はこうです。

“由梨と彼は交際していたようです。自分たちは、それ以上存じ上げません”と。

 有り得ません。由梨と交際していたのは私なのだから。後に副会長だった人物、鹿見竜也と言う人物ですが“自分は由梨と頻繁にそう言った話をしていたが二人は何も無かった”と訂正しました。副会長の鹿見に、相談していたのは私も聞いていたので納得しましたが、奇妙だったのは鹿見の証言のあとの椰家です」

「……」

「目を瞠っていたんです。驚愕したように。彼は、何に驚いていたのか。私はずっと引っ掛かっていた。それと、鹿見へ由梨がしていた相談も。私は内容を知らないんですよ。“ちょっと学校で困っている”“相手は自分を好きなようだ”“自分も友人としては相手が大事、鹿見は共通の友人だから相談している”……私も最初、由梨の言う相手は由梨といっしょに消えた男子生徒のことかと思ったんです。ですが」

 言葉を切って、『私』が昔住んでいた家を仰ぎ見ていたのを俺へ視点を移した。無感情の瞳に捉えられ、肌が粟立った。思わず、制服の胸元を握った。

「椰家を調べた今こうも考えています。

“椰家が由梨の言う相手だったんじゃないか”、“由梨が付き合っている人間を消えた男子生徒と勘違いして二人を消したんじゃないか”とね」

 各務さんの指摘が鋭く刺さる。先輩。……いやいやいやいや。無いよ。無い無い。俺は首を振る。横に何度も何度も「唯子様」各務さんに呼ばれても嫌々するみたいに。だって先輩だよ? 椰家先輩が、在る訳無い。

「唯子様も、感付いていらっしゃるんでしょう?」

 先輩が何を。偶然でしょう? 俺の拒絶を、けども各務さんは除ける。

「今回だってそうです。おかしいじゃ在りませんか。椰家が来た途端このような事故が起きている。アイツは、唯子様を気に入っていると聞き及んでおります。此度の事故の当事者は、唯子様の事故のとき加害者だった女生徒なのでしょう? 唯子様のときと同じように階段から落ちるなど、おかしいでしょう。わざとでなければ」

 ですから、唯子様。椰家には近付かないでください。各務のお願いでございます。悲痛な表情で、訴える各務さん。お母さんと重なった。どこにも行かないで、と抱き締めて来たお母さん。お母さんのほうがどこかへ行ってしまったけれど。

 各務さんのお願いで会話は途絶え、各務さんが「行きましょう」俺を促して再び車に乗り込み、敦来の家へ帰途に就いた。


 様々在り意気消沈して帰宅した俺を待っていたのは、叔母さんのローキックの瞬間だった。

「ちょっと待ちなさいよ!」

 沈んでお通夜染みた雰囲気で各務さんと玄関空けたら、帰宅したばかりと思しきタイトスカートのスーツの叔母さんが同じくスーツの叔父さんにローキック噛ましてるんだよっ? えええってなるよね! 呆然とする俺と各務さん。ローキックを膝裏へ噛まされて倒れ込む叔父さんの背に、馬乗りになってヘッドロックを仕掛け首を締め付ける叔母さん。ホストやってた『俺』は話で聞いたぐらい、壮絶人生な『私』も男女の取っ組み合いで女性優勢は初で、激しい攻防を目前にしてどうして良いのかわからない。お爺さんに付いて修羅場慣れしているはずの各務さんまで対処に困っているようだ。……むしろ面倒臭そう?

 しばし玄関に立ち尽くす俺と各務さんの背後で音がした。振り向くと譜由彦が立っていた。梓川さんの事故で対応に追われて遅くなったのだろう。譜由彦が俺たちへ尋ねる前に叔母さんたちの状態が目に入ったんだろう。額を押さえて、さも何をやってるんだろうと言いたげにしている。溜め息を吐いて「ただ今帰りましたっ」いつもより大きめの声で帰りを知らせた。叔母さんたちはここでぴたっと止まり。

「お帰りなさい、遅かったわね……あら、唯子ちゃんたちもいっしょだったの」

「違いますよ。母さんたちのせいで唯子たちは上がれなかったみたいですよ。……何してらっしゃるんですか」

 呆れ返った息子の質問に頬を赤らめて、しかし叔父さんの首を絡めている腕の力は抜かないらしく、叔父さんが床を叩いている……夫婦、喧嘩? 一方的だけど。

 そんなこんなで現状、俺は叔母さんと居間で向かい合ってお茶を啜っている。紅茶だ。「驚かせてごめんなさいね、唯子ちゃん」本当だよ! びっくりしたよ! 叔母さんはこれから出張だそうで着替えていない。叔母さんたちは、ご飯くらいは息子と、と言うのが信条だとかで一時帰宅したのだけれど、当の譜由彦が今日は忙しくて遅くなってしまった。仕方が無いので先に済ませてしまったらしい叔母さんたちは、帰ったばかりじゃなかった訳だ……が。

 じゃあ、何だってあんなところで夫婦喧嘩? になったのかと言うと。

「あの人……何とかしてあなたの部屋の鍵を開けようとしていたのよ」

 噴いたよね。お茶。思いっ切り噴いたよね。向きだけは叔母さんから逸らしたので叔母さんに被害は無かった。叔母さんは「やだ、大丈夫?」なんて家政婦さんから手配した布巾をくれる。俺は受け取って「すみません」と口を拭う。叔母さんはテーブルを拭く家政婦さんのために、ソファに座ったまま退いていた。とうとうやりやがったかあの変態親父! 叔父さんは今叔母さんにぼろぼろにされたスーツを着替えている。各務さんはお爺さんに報告に行き、譜由彦は自室に籠もってしまった。二人とも叔父さんは着替えに行っていて、私は叔母さんに呼び止められて共にいるので安心して離れたのだろう。

 三人がこの場に居合わせなくて良かった。叔母さんの暴行レベルだけじゃ済まないところだった。

「私もさすがに愛想が尽きたわね。元から愛想も何も、愛なんか無かったけど」

 叔母さんの一言に二度目の噴出も在るかと言えば無い。予想外でも無いしね。

 叔母さんたちは、『私』の両親のせいでせざるを得ない、したくも無い政略結婚だった。愛情が無いのは仕様が無いとして……情くらいは在るんだよね? 恐る恐る俺が見遣れば叔母さんは肩を竦めた。

「会社のためにした結婚だけど別にね、譜由彦の父親だし、長年仕事を支えてくれた人だから情くらいは在るのよ。情くらいはね」

 つまらなそうに右の髪を絡めて弄んでいた。譜由彦が前髪をいじるときに似ていた。譜由彦の癖は叔母さんに倣ったものだろうか。俺がじっと見詰めていると、叔母さんはぽいっと遊んでいた髪を投げて緩く笑った。

「私ね、あなたのこと嫌いじゃないの。憎いだけ」

「───」

 自覚は在ったしショックも受けないけど、憎い、とはなかなかにパンチの効いたお言葉だ。俺は頷きもせず合いの手も入れず口を噤んだ。返すべき文句も浮かばないし。叔母さんは再度肩を竦めると手に持っていたカップを置いた。かちゃんと音がする。

「憎いのも、あなたにあなたのお母様の影を見るからね。だってゆるせないでしょう? あなたのお父様、私のお兄様は輝かしい敦来の後継者の座を追われた。お兄様は私にとって目標だった。あなたにしたら譜由彦みたいなものね。更に言えばお兄様には婚約者がいたのよ。その人は、私の憧れた同級生だった。あなたのお母様がいなければ、私の大好きな人たちが今も私の理想通りにいたかもしれないと思えば、ね」

 よく出来た兄が、慕う同級生からどこの馬の骨と知れない女に奪われた、大好きな二人の仲を裂いた。うら若き叔母はゆるせなかった、のか。……うーん。まー理解出来なくもないかな。『私』だって譜由彦が変な女に引っ掛かったら嫌だもんねぇ。俺でもそれは無いってなるかもしれない。ってもねー、『私』の両親でお母さんで終わっちゃったことだし、そのことで目の敵にされても困るっつーか。

 顔面に思っきし出ていたのか叔母さんが大笑いした。え、つか、叔母さんのキャラじゃないですよ? 崩れてますよ? 美熟女だけど。

「はっはっは……正直ねぇ。嫌なこと嫌って顔に出すのはまぁ、あなたの調子が戻って来た証拠かしら?」

 うわぁ。叔母さん、敵をよくご観察でらっしゃる。や、俺如き『私』如きが敵とか烏滸がましいか。豪快な笑い方も絵になるなぁ。女傑って感じ。まぁなぁ、譜由彦の母親で社長で、やり手。女傑だろう、立派に。叔母さんからすればお父さんを追い掛けた結果かもしれないけど。叔母さんは笑いを収めると髪を掻き上げて私に改めて向き直った。

「私もね、私なりに後悔はしてるのよ。お父様……あなたにはお爺様ね。もっと早くにお兄様と不本意だけど、一応お義姉様ね、あなたのお母様を認めてくだされば、私も意地を張らずにいられた、とか。反対に私が取り成せば、とか。どちらでも良いから、そうしていれば……お兄様たちは亡くならず済んだのかしらって」

 叔母さんが自嘲するように笑んだ。細部の仕草に、本心だと察した。叔母さんはつらかったんだ。『私』や俺が当たりを付けた理由とは別のところに叔母さんの思いは在ったんだ。

「叔母様……お父様たちは、事故でしたから……」

「そうね。きな臭い事故だけど」

「え、」

 きな臭い? 叔母さんの発言へ訝しげにすると「あなたももう幼い子供じゃないし、言っても良いかしらね」叔母さんが少し考え込んでから言った。

「お兄様たちの事故は故意に起こされた可能性が在るの」

「……」

 俺がフリーズしたのはおかしいことじゃない。だって急過ぎる。何それ。故意に? 事故じゃないじゃん。それって……。

「殺された、ってことですか」

「可能性よ。あくまでね」

「何で……お父様たちは、恨まれていたってことですかっ?」

 思いも寄らず声が大きくなってしまった。仕方ないじゃないか。何だって唐突に……。俺が動揺していると叔母さんが「だから、可能性なの」噛んで含めるように話す。

「恨まれていたのか、わからないの。ただ、わざとぶつけられたんじゃないかって。お兄様たちの事故には加害者がいてね、お兄様たちの車両にスリップした加害車両がぶつかって、高台のカーブから落ちた。よく在る玉突き事故の様相……ってことだったんだけど。現場の状況に妙な点が幾つか在ったみたい。けれど警察は事故と断定した。加害者とお兄様たちに接点が無かったの」

 動機が無い。被害者の両親は死んでいる。加害者はハンドルが取られたの一点張り。利害関係も見付からない以上警察は判断を下すしかない。理屈はわかった。だったら、どうして故意に起こされた事故なんて……。

「お兄様たちは由梨さんを捜していた間の事故だったの」

「由梨……お姉ちゃん?」

「記憶戻ったの? ああ、曖昧なんだったかしら。にしても憶えていたのね。そう。あなたといっしょに住んでいたお義姉様の妹。男と駆け落ちしたんじゃないかって噂の」

「お姉ちゃんはそんなことしない!」

 俺が声を荒げると叔母様は「お兄様たちも同じように言って聞かなかった。お父様はそうじゃなかったけど」と三度肩を竦めた。

「お爺様、が……」

「由梨さんは奨学生で生徒会役員もする優秀な子だったけど、周囲には敵が多かったみたいね。あなたみたいに」

 ちらっと、一度意地悪な笑みを浮かべて叔母さんは俺を見る。……放って置いてください。

「だけど、由梨さんはあなたと違って家の威光も無ければ、強気な性格でもなかった。そのためか変な噂が多かった。“男に媚びている”とか言う系統のがね。噂の信憑性なんて高が知れているけど、お父様は“噂が立つようなことをしていないとも限らない”って。生徒会の子の中にも、いっしょに消えた男子生徒との仲を示唆する証言をした子がいたようだし」

 叔母さんの言に、先輩がそう言ったと各務さんに聞いたことを思い出す。先輩……。俺が黙ってしまったのを見届けて叔母さんは当時を語る。

「お父様かんかんに怒ってね。“そら見たことか、妹が妹なら姉も姉だろう、碌なことにならない、あんな女は棄てて、唯子を連れて家に戻れ”ってお兄様に言ったのよ。コレがお兄様の逆鱗だったと言うか。お兄様はお父様に認めてもらったら唯子ちゃんに会わせる気でいたのにね。お兄様から絶縁宣言が出たのは言うまでも無いわね」

 お母さんは、お父さんや『私』を抜けば唯一の肉親である由梨お姉ちゃんを失ったのだ。ましてやお父さんは、由梨お姉ちゃんとも共に暮らしていて家族としてたいせつにしていた。二人を悪く言われてゆるせるはずは無い。……各務さんも凄い耐えたんだろうな。今でもあんなにつらそうにする程想っている恋人を、悪く言われたのに仕えている訳だし。各務さんは孤児だったから恩義が在るとしても……よくまぁ耐えられたと思う。

「で、お兄様はお父様と決裂しちゃった。お兄様はお義姉様と二人で由梨さんを捜していたの……もしお父様が、でなくても私が手を貸していれば……敦来の力でお兄様たちも、安全なところから由梨さんを見付けられていたかもね」

 詮無いことだけど、と叔母さん。そう言えば、と俺は『私』の記憶を探る。『私』が寝てからお父さんたちがどこかへ出掛けていたことが幾度と無く在った。アレがそうだったのだろうか……ん、待てよ?

 お父さんたちが死んだのは『私』が小学校卒業を控えたころだ。由梨お姉ちゃんがいなくなったのは『私』が五歳くらいだったはず。俺が訊けば、叔母さんは事も無げに返した。

「だからね、時間が掛かったのよ。敦来の家に戻りでもすればもっと早く確実に突き止めたかもしれないけど、当時のお兄様は一会社員よ? コネが幾らか在ったと言ってもねぇ。手掛かりの無い失踪に、お兄様は素人だもの。数年掛かったって不可思議じゃないでしょ」

 もっともだ。じゃあ「数年掛けてようやく、手掛かりを見付けたんですか?」見付けたから、殺された? 叔母さんはこう考えているってこと? 俺が目線を投げれば「逆だったかもしれないわ。お兄様かお義姉様が恨まれていて、由梨さんは巻き添えかもわからない……だから、可能性、よ」繰り返した。

「何にせよ由梨さんが何者かに消されたとして、お兄様たちが突き止めたとして、加害者との接点も無いし加害者は普通の善良なトラック運転手だった。身辺も洗ってみたけど何一つ不審な点は無かった。気になる点と言えば、せいぜい病気の娘がいることくらい」

「病気の……娘?」

「そ。もしかしたら娘の治療費とか立て替える代わりに、なんてことも考えたんだけど。治療費は加害者の貯金で賄われていたわ。由梨さんも噂の外何も無いし、お兄様やお義姉様が恨まれたとして矛先が幼児だった唯子ちゃんでなく由梨さんに向かったと言うのも変だし……。ね、お手上げでしょう?」

 叔母さんは手を上げるジェスチャーをしたが俺は反応出来なかった。叔母さんの示す可能性に、見当を付けてしまったのだ。

 お父さんたちを殺す引き換えに、治療費ではなく医者の腕だったら……? ははは、待て待て、んな都合良く……。俺は疑念を叔母さんに怖々とぶつけてみた。

「その病気の娘さんて……その話だと入院してらっしゃったんですよね? どこだったんですか?」

「えー? 市民病院じゃなかったかしら。ああでも、転院したのよ。確か……私立の病院じゃなかったかしら。個人経営だけど医院じゃなかったと記憶しているわ」

「……そう、ですか」

 市民病院と耳にして安心したのに。叔母さん、二段オチとか要らないです。俺は口元を押さえた。夕飯前だけど、胃から込み上げて吐きそう。叔母さんが付き合えって呼び止めたからまだ制服のままだけど、もう布団にダイブしたかった。あからさまに血色が悪かったんだろう「大丈夫? 顔色、良くないけど……こんな話したせいかしら。ごめんなさいね」叔母さんは向かいから隣に移って背を撫でてくれた。叔母さんの見解は半分当たりで半分外れだ。俺は項垂れた。

「────何をしているんですか」

「あら、譜由彦」

 譜由彦は、俺の背中を摩る叔母さんと俺を交互に見て怪訝な面持ちをしていた。叔母さんはぽん、と俺の背筋辺りを叩くと離れ立ち上がった。譜由彦の後ろに着替え終わった叔父さんがいたのだ。叔母さんが寄るとびくりと体を震わせる。……同情の余地は無いよ、叔父さん。

「遅かったじゃないの。先に行って車の用意をしてちょうだい。……唯子ちゃん」

 叔父さんに指示を出し追い払うとこちらへ振り返った。俺と目が合うと。

「あの事故が故意のものだったとしたら、由梨さん延いてはあなたのお母様に出会わなければ、敦来にも守られてお兄様は死ななかったのにって、コレが私があなたが憎い原因。反面、私たちがお兄様たちにきちんと歩み寄ればお兄様たちが死ななかったかもしれない、て悔いているのよ。だからね、言い訳だけど、あなたが来てからどう接して良いか悩んでいるのよ」

 眉を寄せて苦く笑う叔母さんは真意で悩んでいるようだった。『私』も当然複雑だけれど、叔母さんも同様なのだろう。

「お父様があなたを猫可愛がりするのも同じね。お兄様は、私なんか足元にも及ばない程優秀だった。期待だってしていた。意固地になったことを後悔しているのよ。わかってるけど、見るたびにムカムカするの。贖罪みたいに可愛がるくらいなら、って。何も知らず甘えるあなたにも、ね。あなたのこといっそう小憎らしく思っちゃうの」

「叔母様……」

 叔母さんの吐露される真情に、込み上げて来て俺は叔母さんを呼んだ、ら「けど、」背を向けた叔母さんから声が……ん? 「それとこれは別ね。安心して良いわよ、唯子ちゃん。あの莫迦亭主はきっちり私が始末を付けるわ」再びこちらを向いた叔母さ……まの容色は一段と輝いていた……。

「……何が在ったんだ、唯子」

 己が親ながら不気味だったのか、叔母さんが出て行くとき身をズラして道を明けた譜由彦が、叔母さんの去った出入り口へ疑わしげな視線を注いでいた。いやー、ねぇ。

「え、えーと……」

 俺は空笑いで誤魔化すしか無かった。


 明くる日、俺は医務室の前で佇んでいた。推測だけでは不穏な結論にしかならないから。

 先輩の口から、聞きたいのだ。

 否定でも、たとえ、肯定でも。

「失礼します、椰家先生」



 

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