7. 白 雪 姫 と 魔 窟 の 椿 事
不吉な事件の前に、俺のことも整理して置こうか。ま、ごちゃごちゃし過ぎて整理なんかされてないけれど。
一度は安堵していても俺は、生徒祭の準備で満ちる活気を楽しみながら日に日に、自我が再構成されることへ怯えていた。抗いようの無い変性に、徐々に忍び寄る侵蝕に反射的に震えた。
が、俺を嘖んだのは混在する、唯子ちゃんを慕う人への罪悪感だった。
唯子ちゃんを望む周辺に、唯子ちゃんでは無いことを隠し、唯子ちゃんに成り代わろうとしていることを隠し、偽ることが針を飲んだようだ。仕方ないことなのに。
泡になる人魚姫も、こんな気持ちだったのかな。
誰にも、王子様にも言えないで。
【 7. 白 雪 姫 と 魔 窟 の 椿 事 】
生徒祭準備期間の頭辺り。私は、……俺は、着せ替え人形になっていた。おかっぱ眼鏡先輩と、最近よく喋るようになった某証言者の女の先輩二人に、剥かれ採寸を測られ型紙を作られ。勿論男子生徒の皆さんは「さぁさぁ唯子姫のドレス作りじゃー! 男共は出て行けぇえっ」と蹴散らされ……もとい追い出され……いや、ご協力いただき、いない。俺が採寸していると他の、採寸していたりもう仮縫いを始めていたりした女子たちもこちらにやって来た。
「敦来さん細ーいっ」
「髪型も相俟って本物の貴族みたいね」
「色も白いっ。肌、超きれーい」
「あ、ありがとう……ございます」
口々に送られる賛辞に照れるしかない。私、や、俺は笑ってぎこちなく返した。……このところ、普段使っている一人称が『私』のせいか、『私』と無意識に使う頻度が増えて来た。あの『世界の管理者』たる男曰く魂に性別は無いらしいし、俺は唯子ちゃんとして生きなきゃいけないので良いこと、なんだと思う。
「……」
だけど、ちょっと複雑だった。俺は、だいぶ記憶が消えて曖昧になって来たと言え『白井優李』の意識は根深く、在る。『白井優李』じゃなく『敦来唯子』に塗り替えられて行くようで、どんなに理屈を理解していても、仕方ないとあきらめていても……抵抗感は拭えない。そのせいか、ついつい心中で直してしまう。
「どうしたの、敦来さん。疲れちゃった?」
おかっぱ眼鏡先輩が少し心配そうに俺を覗き込む。俺は我に返り「あ、いいえ、大丈夫です、大丈夫です」と誤魔化し笑いする。ああ、いけないいけない、気をしっかり持たないと。
俺の悪足掻きだ。俺は唯子ちゃんになる以外に道なんか無いのに。
「……凄い」
おかっぱ眼鏡先輩の凄いところは、俺の採寸をした次には型紙を作ってすでに型を取って仮縫いの段にまで工程を進めていることだ。驚異の早さだ。他の人みたいに、元在るものを作り変えたりアレンジしたりと言うのではなく一から作ってるのに、だ。おかっぱ眼鏡先輩は「私、こう言うの好きなの」目を輝かせて綻ばせた。何この子可愛い。
現在唯子ちゃんの俺ですが、『白井優李』では二十数年生きている。つまり、彼女は本来年下である。しかも実は好みのタイプだ。嬉々として「でね、コルセット、今着けているのは仮のだから、今度ちゃんと着けてもらうヤツ選んでほしいんだけど!」オススメはコレね、と勢い込んでカタログを見せて来る……うん、まぁちょっと変だけど、可愛いと思う。うん。
「本当にお好きなんですね。ドレス」
「洋装わね、好きよ。家が和物過多だから余計かな」
仮縫いのドレスに修正をしている彼女はこちらを向かない。目を離さずせっせっと微修正している。「へぇ。そうなんですか?」和物の多い家……それなりに旧いお家なのかね。おかっぱ眼鏡先輩は裁縫も得意のようだし着物問屋……みたいな? 反物関係とかかな。あとは、着物関係に限らず和物と言うと華道、茶道……和菓子、料亭、小料理屋なんかもそうかな? 他に何が在るかな。武道だったら剣道とか? 俺が予想に思考を巡らせていると「よし、コレはオッケー」ウエストの詰めが終わったらしい。
「……結構締めます? ウエスト」
唯子ちゃんて、細身でスタイル超良いんで、凄くぴたーってしたタイトなのも全然着こなしちゃうんだけども、あんまり苦しいのは俺、好きじゃないんだよね。俺も肉付かない体質だったからそこそこ細かったけど、見苦しくない程度には余裕の有る服着てたし。……まぁ、ホスト時代はスーツ着てましたけどね……あー、就活時代もか……。嫌なこと思い出したなぁ。身だしなみも喋ることもきちんとチェックして、内定取れた友達とも情報交換して全部準備万端にして臨んだのに、ことごとく落ちたんだよな……まさに軒並み。
しばらく通知怖くて泣きそうだった。先輩に背とか肩とか摩ってもらったり着信履歴やメールや留守電の確認してもらっていた……おかっぱ眼鏡先輩じゃなくて、現先生の先輩ね。先輩、海外からたまたま帰省してて、帰って来たばっかりだって言うのに甘えてたよなぁ……すみませんでしたぁっ。
“大丈夫だよ、ゆり”
事在る毎に励まして……ここでふと。
“大丈夫だよ、唯子”
「……」
先輩は、無理しないでください、に弱いけど。俺も人のこと言えないんじゃないか……? 俺が遠い目をしてると「敦来さん?」と呼ばれた。おおっと。トリップしてたなぁ。
俺は手伝ってもらいつつドレスを脱いだ。仮縫いだからね。うっかり破いちゃうかもだし怖いよね。仮縫いだから平気とかそんな問題じゃないしねっ。おかっぱ眼鏡先輩は、型紙とかデザイン画とかとドレスを交互に睨めっこしている。俺はそれを横目に制服を手早く着た。未だ精神的に男を棄てられないせいか、女の子の前で着替えるのは緊張する。外見は唯子ちゃんですけどね! 女の子と付き合ったことくらい在りますけどもね! そう言や何でか大学時代は長続きしなかったんだよなー。何でだったんだろう。高校から付き合ってた彼女も、二年に進級する前唐突に別れたし。俺、女の子受け良かったはずなんだけど。女の子側の俺に対する若干の同情は否めないけども。ほんの少しトラウマを掘り下げて微妙に凹んでいたら。
「敦来さん」
「はい」
「あとでもう一回、首回り調べさせてもらって良い?」
「……わ、わかりました」
俺が僅かに間を含んで答えるとおかっぱ眼鏡先輩はおもむろに噴き出した。「え?」と言えば「ご、ごめんなさい」……最近多くないかなー。各務さんと言い椰家先輩と言いおかっぱ眼鏡先輩まで。俺が不機嫌を露わにしていると更に噴かれた。ヒドイ。
「ごめんなさい……何か素直だなぁって思うから。感情を表に出すとか。今までの敦来さんだったら想像すら出来なかったことよ」
ああ、やっぱり。こうなりますよね。俺は目を伏せた。伏せ目がちになった俺へ「あ、ごめんなさい。わからないこと言われても、気分良くないわよね。記憶、曖昧だって聞いていたのに。無神経だったわ」申し訳無さそうに謝って来た。「あ、いや、……」俺は口籠もる。おかっぱ眼鏡先輩はまったく悪くない。往生際の悪い俺が悪いのだ。でも言える訳が無いので俺は首を横に振るっただけだ。おかっぱ眼鏡先輩は眉を下げて緩い苦笑で応えてくれた。あーっ、こんな顔させたかったんじゃないのに! 俺が何らか発しようとしたらおかっぱ眼鏡先輩が先に口火を切った。
「エリザベス・カーラーはやらないから、心配しないでね!」
もう笑顔だった。俺も「……。ありがとうございます」と笑んだ。おかっぱ眼鏡先輩がお終いにしてくれたのだから、俺は有り難く便乗しよう。大人だなぁ。おかっぱ眼鏡先輩。さすがに先輩か。実年齢二十数年が意味が無いと悟る瞬間だ。この差違はやはり男女によるものなのだろうか?
時間も丁度良く、終了のチャイムが鳴った。この時間は準備期間に設けられた特別時間だった。朝の一時限目と夕方の放課後、または午後授業丸々に放課後も、と言う感じ。今日は朝の一時限で、次は普通授業だ。俺は教室にまだ残る女子たちや、間借りしている隣の空き教室の男子たちへ壁越しに一声を掛けて一礼し後にした。
俺も手伝いたかったんだけど「ああ、良いの良いの」と方々断られ、あまつさえ男子のほうへ行こうとして全力で止められた。……俺、唯子ちゃんだからね。男子が着替えているところはいろいろマズいよね、すみませんでしたぁ!
────とまぁ、こうして日常は過ぎて行ったんだけど。
「ちょ、敦来さん動かないで!」
「はい!」
「ちょっとこっち向いてー」
「はーい……」
「だから動かないでって!」
「へっ、いや、えー……」
俺は、どうしたら、良いんですかぁあああっ! わかりませんよ皆さん! ドレスが、着々と完成に近付いて来た。それに伴って? 何か俺の周りも慌ただしい。うん。詰まるところ着せ替え人形だ。髪も顔もテストと称して様々なバリエーションを試されている。
コルセットも結局おかっぱ眼鏡先輩が選んだ。サイズはバレているので大丈夫だ、問題無い。むしろ彼女に選んでもらったほうが良いに決まっている。何せ作るのは彼女なのだから。俺は「このデザインだとー、ウエスト部分が実際より締まって見えるのね」「こっちだと胸元のボリュームが……」説明されてもよくわかんなかったし。
「……あ。やばいかも」
おかっぱ眼鏡先輩だ。声が上がったのは突然だった。手にした紙を見詰めながら、口元にもう片手を当てている。眉根を寄せて何事か思案中。え、何。
「どうしたのー?」
肩越しに、俺の着せ替えに勤しんでいた証言者先輩の一人が「請求書じゃん」おかっぱ眼鏡先輩の持つ紙を覗き込んだ。ああ、請求書か……ん?
今、「やばいかも」って仰有ってませんでしたか?
「……あちゃー。マジか」
「え、え、何ですか?」
証言者先輩の内、髪を前髪も合わせて引っ詰めてポニーテールにした先輩が、もう一枚紙を取り出して難しい顔をしている。俺は何が何だかわからなくてハテナを飛ばしていた。もう一人の証言者先輩、髪が緩くウェーブした先輩が「あらー。まーまーまー」と同じように覗いて零す。え、本当に何ですか。俺だけが取り残され、続々俺を玩具にしていた女子たち、衣装合わせしていた女子たちがおかっぱ眼鏡先輩たちを囲んで口々「あー……」「成程ねぇ」「うわーお」とか囀っている。待って、俺を残さないで置いて行かないで。
「どうしましょうねぇ」
「面倒臭いなぁ」
「でも放って置く訳にも」
「そうよ。評価とか、来年度の活動にも障るかも」
「困ったわねぇ」
「あ、のっ! ……どうか、したんですか?」
置いてかれた俺が声を張って発言すると、みんなこちらを向いたのでうっと俺はなりつつ声量を下げて問うた。「あのね、」とおかっぱ眼鏡先輩が口を開いたとき「そうよ!」ポニーテールの先輩が何か思い付いた様子で手を叩いた。え、嫌な予感しか無いんですけども。
ようやく入った情報を整理すると。
「つまり、予算オーバーってことですよね」
おかっぱ眼鏡先輩が俺の衣装作るのに計上した予算を、実費が大幅に上回った模様。でしょうねぇ。アレコレ買い込み過ぎだなぁとは思っていましたよ正直。
「全体で計算して、一部安く済ませた衣装やら食品の浮いたお金を回せば良いけど、そうしてもオーバーよね」
「拘って経費嵩ませてどうすんのよー」
「だって、妥協したくないもの!」
あの色にはこの布のほうが映える、このレースはデザインが良いけど弱いからここには使えないじゃあこっちかなー値段高いけど、コレは……エトセトラ。かなり無頓着に欲に走った気がするんだよね……。
「予算て、生徒会に申請して貰うんですよね、部費みたいに」
「まあねぇ。ウチってほら、金持ち学校じゃん? 文化祭は文化祭、体育祭は体育祭、生徒祭は生徒祭で、それぞれ費用分捕ってるから余裕は在るって話だけど……」
「等分で基礎費用、次いで各組んだ予算申請で前支給って感じなんだよね」
「じゃあ……大問題じゃ……」
証言者先輩コンビが提供してくれる運用事情を噛み砕くと、如何様に計算しようと予算は超えていると言うことで、え、コレって誰が払うの自己負担? とか考えていると。
「まぁそうでも無いのよね」
「え、」
「生徒会の皆様は、ちゃんとそこまで見越しているってこと。特に会計様は各所属してる生徒の特性とか把握してて別予算確保してるって話」
どんな為人でどんな生活しててどんな物の使い方するとか、すべてデータベースに入ってる……え、何それ怖い。証言者ポニーテール先輩の言に俺がこの時点では未だ面識の無い薬師依生へ不信感を募らせると、追い討ちを掛けて来たのは証言者ウェーブ先輩だ。
「情報収集しているのは書記の不動さんて話よね」
男女共に幅広い交友関係で知られる不動摩利。屈託の無い笑顔と快活な人柄で人気も高く、特に女子人気が在り黙ってても耳に入らない情報は無く、彼女程生徒間に精通してる人間もいないから教師すら頼りにしている……何この生徒会マジ怖い! 恐れ戦く俺を放置し証言者先輩コンビの新たな証言は進む。
「ま、一番怖いのは何と言っても『仏の恵比寿』よね」
「恵比寿様はねぇ……お家もお家だし」
「怒らせたら一番怖いわよね」
え、名前は七福神にいるのに何ゆえ一番怖いのっ? “お家もお家”って家は何をなさってるのっ? 生徒会に関しては詳細が日記には無かった。譜由彦が「心強い良いメンバー」とか何とか言っていたのを鵜呑みにしたらしいのと、唯子ちゃんが気を配ってられなかったからかは不明だけど……まー、“あの”譜由彦の仲間なら……さも在りなん?
「けど怖さは強さよね」
「うんうん。敵にさえ回さなきゃこれ以上の味方いないわよね!」
そ、そうか、も……そうかなぁ。何か引っ掛かる気がしなくもないんですけど。俺が引き攣った微笑を浮かべて是非を示さないでいると、「そう思うと、」二人の視線がこちらへ。え?
「そんな方々を纏める我らが生徒会長様は偉大よね」
「カリスマ性はますます磨かれているものね。……あら、今期の生徒会長様って」
「ええ、今期の会長様って言ったら」
「譜由彦様よ」
「譜由彦様って言ったら」
え、そこで黙って何で俺を見ますか? その黙視に威圧を感じるのはなぜですか? つか、話し方変わったのも俺が過敏なせいじゃないですよね? 真似してますよね? お二方の仰有っていた“上層”の人たちを。
完全に冷や汗だらだらの俺に先輩たちは「お願い、して良いわよね、敦来さん」訊いてるのに疑問符どこにも付いてねぇ! 無理ですとか言えねぇ! だって怖いから!
「敦来さん!」
後退りする俺の前に、先輩たちに隠れてしまっていたおかっぱ眼鏡先輩が躍り出た。あ、癒しが助けに来……。
「お願い、行って来て!」
……はい。俺は懇願といっしょに握らされた紙を、しっかと受け取り頷いていた。紙はいつの間にやら用意されていた、記入済みの予算追加申請の用紙だった。
予測していたとしても、多忙なこの時期機嫌が良い訳が無い。この学校のヒエラルキーの天辺に睨まれるのも怖い。そしたらほら、目前には掴める藁が! ……唯子ちゃんは、譜由彦と従兄妹ですからね。そうですよね。
先輩たちからしたら渡りに船かもしれないけど、譜由彦は幾ら相手が従妹ったって甘くないのよー。ビターチョコレート並なんだから。カカオ七十五パーセントの。ちっとは甘いかもなので七十五。
生徒会室の場所知らないし、と小さな抵抗見せてはみたけど口頭どころかはい、と唯子ちゃんの制服から生徒手帳を差し出された。生徒手帳に構内図在るって今知りました。全体じゃないけど医務室と講堂と校長室と理事長室、それと風紀室に生徒会室は、書いて在った。有事にってことらしいけど。必要? 風紀室まではわかるけど生徒会室、必要? 今役に立ってますけどー。
生徒会室は職員室の在る棟の一番上に在った。印刷室も在るあの棟だ。俺がいたのはクラス分けされた一般教室の在る校舎で医務室も同じ建物内に在る。簡単に解説すると、普通教室と医務室が在る棟をA、印刷室、職員室、生徒会室ついでに風紀室も在る棟がB、最近たむろってるとも言える理科室が一番遠いC。今改めて図解見て気が付いたんだけども、この学校『戸』の字に似てる。『戸』の異体字? のヤツ。
上の横棒と『尸』が繋がってる……『斤』の縦棒が無いヤツでも良いけど。上の横棒がA、真ん中の横がB、払いの部分が渡り廊下と直線で繋がるC。そんな感じ。あ、体育館入れたら『斤』かも。校庭挟んで向かいに在るから。講堂は横棒の先にちょこんと在るよ。小さくないんだけどさ、校舎がでっかいから、ちょこん、て風になるの。
Aを出て渡り廊下を通り階段を数段上る。この学校が高低差の有るところに建っているゆえか、渡り廊下は若干沈んでいた。校舎と段差が在るのだ。今気付いたんですけども、俺、ドレスで来ちゃってるよ。裾は、汚れないようにカバーがあらかじめ付いているから良いけど他を汚しそうで怖い。裾とかひらひらの袖とか引っ掛けてビリって行きそうなのが怖い。……から、段を上り下りするのは慎重に徹した。あと、時たま擦れ違う人の目線が怖い。恥ずかしい……。今日は放課後まで準備だからなぁ。まだ授業中で準備でみんな持ち場に籠もってるから良いけど、放課後になったらどうしよう。神様仏様。チャイム鳴りませんよーにっ。
Bに移り渡り廊下横の階段を上り切ると最上階だ。古いのか何なのか知らないけどさー、エレベーターくらい着けてほしい。ここ五階建てよ? いや、横にも大きいし、いっそ動く歩道付けてよ。俺は静まり返る廊下を歩きながら考えていた。ここまで来ると一般的に生徒が使用する部屋が無いので喧騒は遠い。生徒会室は階段の反対側、建物の奥に在った。
両開きの扉がどーんっ、と圧迫感半端無く鎮座している。え、コレ叩くの? 開けるの? 何かRPGのラスボスがいそうで嫌なんですけど。……いやいや、強ち外れてないか。いるの、魔王様だし。俺は深呼吸してノックした。誰何も無く「どうぞ」と促された。「失礼します」俺は言いながら重そうなドアを開ける。重厚な扉のドアノブは意外にも軽かった。
結果として、俺は「うっ」と固まった。顔面偏差値の高い連中にも視線の集中砲火なんてものにも、この二、三箇月慣れたものだったと思っていたけれど、豆腐メンタルはそこまで鍛えられていなかったらしい。
「敦来の姫じゃねぇか」
個性的で見目麗しい男女に凝視され、微動だに出来なかった俺は呼ばれたことに反応して横を仰ぎ見た。どうやら開いたドアの裏側に潜んでいたようだ。上から降って来たように聞こえたから仰ぎ見たんだけども、仰ぎ見て「え、」絶句した。
「おうおう問題児。お前何しに来やがった」
あ、この顔知ってる、って思った。口悪いのも懐かしかった。縁の青い眼鏡は、俺が買ってあげた。母さんが「まったく。似た顔して性格は正反対よね」と苦笑していたのも残る記憶を照らして思い出した。母さんの面立ちは、はっきりしないけれど苦笑していたはずだ。だって、いつだってそうだったから。……椰家先輩と言い、何でここにいるのさ。
「……? 何呆けてんだよ、姫」
無反応の俺に怪訝な顔をした。俺はどうしたら良いのか混乱してわからない。
「───安李先生、唯子に絡むのはやめてくださいますか」
俺が動けないでいると扉が開いた。あれ、引いた? 「このドアは両側に開くように出来ているんだよ」へぇ、そうなんだ……や、そうじゃなく! ねぇ。何で、ここにいるの。
安李くん。俺の、年近い叔父さん。
「誰が絡んでるか。相も変わらず失礼だなぁ、敦来王子。特指行きにしてやっても良いんだぜ?」
「ご冗談を。俺が特別指導とか有り得ませんよ、……? どうした? 唯子」
「お、お兄様……」
どうした、も、何も。この状況を誰か教えてください。男、男はどうした、男は! あの『世界の管理者』はどこ行ってんだよ! お前しかわからないじゃないか! ……もしかして、唯子ちゃんとの同化が激しくなって来ているから見えなくなった? 早くないっ? 完全にパニックを起こして譜由彦へ一目散に歩み寄る俺。譜由彦は訝しがりながら俺に問い掛ける。が、俺が答えられずにいるとしばらく置いて安李くんに向き直り。
「ほら、怯えているじゃないですか。何したんですか先生」
「はあっ? 何もしてねーしっ。つか、コイツが怯えるタマか?」
「前の唯子なら無いでしょうが、今の唯子なら有り得るんですよ。……唯子、大丈夫だよ。こんな人だけど悪い人じゃないから」
幼子をあやすかの如く俺を宥めるような譜由彦に「てめ、どー言う言い草だよソイツはー」苦虫を潰したみたいな様相で抗議する安李くん。譜由彦は嘆息して呆れたように目を細めた。
「ほら、そうやって恫喝する。唯子は記憶があやふやで不安定なんですよ。昔ならいざ知らず、現状の唯子に声を荒げたり不遜な態度は控えてください」
「恫喝してねぇしっ。て、あー……そう言えばコイツ、階段から落ちて一時期意識不明の重体だったんだっけか」
譜由彦の言葉に安李くんはバリバリと後ろ頭を掻いた。コレは、バツが悪いときの安李くんの癖だった。安李くんは粗暴で手より口と態度が出た。似ているのは本当に顔だけで、俺は小細工や誤魔化し無しで自分に自信が持てる安李くんが羨ましかった。
そしてこんな安李くんは意地っ張りなところが在ってなかなか謝れない。悪いとはわかっていても。
「以前の唯子なら平然と切り返し出来ても、今は病み上がりで、まして記憶も無いんですよ? なのに、チンピラや柄の悪いホストみたいに」
「あー、もーっ! 悪かったよ! 俺が悪かった。身内でてんてこ舞いだったって、姫にゃあ関係無いわな。忘れてて悪かったよ、気を付けるよ」
身内でてんてこ舞い。俺は譜由彦の陰へ無意識に隠れて俯けていた顔を上げた。身内って、もしや。だけど確かめる前に譜由彦が「落ち着いたか?」と尋ねて来たので機会を逸してしまった。次いで「唯子は何でここにいるんだい? そんな格好で」問われ当初の目的を思い出した。あ、そうだった。俺は手に持ったままだった紙を「コレ……」差し出した。
「追加予算申請の紙?」
「た、足りなくなった……って、先輩たちが、」
「───。誰だ?」
「え?」
「誰がお前に行くよう命じたんだ?」
な、何か「どう考えても俺の従妹だからって利用してるだろう」怒ってる……? 譜由彦から微かな怒気を感じて俺は畏縮する。俺が困惑して二の句が告げずにいると、横槍が飛んで来た。
「譜由彦ー。姫困ってんじゃん、やめなよー」
振り返ると長めの茶髪をコンコルドで纏めた、チャラい優男系のイケメンが頬杖を突いてこっちを眺めていた。間延びした喋り方に親近感と言うか懐古の情と言うかを抱く。何か安李くんとは別種の懐かしさがちょびーっと湧いた。
「そーそー。今さっきあんたが言ったんでしょー? 姫は不安定なんだからって。あんたの不機嫌だって負担になるんじゃないのぉ」
チャライケメンを援護したのは、チャライケメンの隣の席に座る女生徒。チャライケメンと真逆にベリーショートの黒髪でボーイッシュな美人さん。スタンドカラーシャツの第一ボタンを外していて、一瞬男の子かと疑った。でも声とかやや高いし睫毛長いし絶対女性。
「あーあー。正論だね、譜由彦」
「……。うるさい、恵比寿」
にこにこ弓なりになった瞳。一見おとなしそうな、整った顔立ちだけれど特徴の無さそうな人。ん、恵比寿さん……えぇっ? この人があの恵比寿さん? “怒らせたら一番怖い”“お家もお家”のっ? 見え、ない、けど……あー、けどアレか。“怒らせると怖い”だから、普段穏やかな人が雷を落とすのって慣れないし怒るときは余っ程だったりするから怖い……の、かな。うん。
「こちらへどうぞ、敦来さん」
俺がぽかんと一同を見渡していると、部屋の奥から声がした。給湯室か別室が在るようで、その出入り口に背筋の伸びた和風の、若武者みたいな雰囲気の少年が立っていた。切れ長の眼なのにあどけなさが残るところからして俺、てか唯子ちゃんと変わらなそう。あ、だけども、生徒会役員なら違うかな。一年の介入は秋とか聞いた……ような。梓川さんから。
生徒会室は、重い厚い扉と毛足の長い絨毯で様式美を重んじたサロンのようだけど、中はパソコンの在る事務机とパーテーションが置かれてオフィスみたいでも在った。バランスが悪いようでなぜか調和が取れている。色合いのせいだろうか。手のひらで勧められたのはパーテーションで仕切られた向こうだ。応接セットでも在るんだろう、とは察したのだが。
「お茶を淹れますから」
「え、でも、コレ、終わったらすぐ戻りますから……」
「座って待っていなさい、唯子。すぐ終わらないから」
「え?」
「そ。今の仕事が終わっても先に来たヤツの処理も在るからさー」
「この時期多いのよー。姫と同じ用件がー」
俺が戸惑いつつも丁寧にお断りしようとすると、方々から追撃される。そ、そうか。多いのかー。各所属の人間を把握して、見越して予算立ててるって聞いたっけ、そっかー多いのか……つまり、生徒会役員は仕事も増やされてるってことだよね。
「長い順番待ちだ。座っていなさい」
長いってことは結構多いんでしょうね。生徒祭の主導は生徒会だろうし、その仕事に追われて尚且つ追加予算申請の受理とか……機嫌損ねてもおかしくないなーって。俺は窺うように見回してみる。機嫌が悪いって言う感じは受けないけれど、作業の手が止まる気配も無い。総じて忙しいと一目瞭然な光景だ。
「私、一旦帰りましょうか、お兄様」
忙しなく働き続ける人の中で何か俺が、のほほんと茶を啜るのは如何なものかと思う。俺は生徒会とかやったこと無いけど、話しながらも手が止まらない点で凄いんじゃないだろうか。ブラインドタッチにも程が在る。アレで打ち間違いとか無いの?
「……いや、そこまで待つか? 薬師」
俺の進言に譜由彦は瞬時逡巡して、チャライケメンに向き直った。『薬師』……てことはアレが見越し会計様の薬師依生さんなのね。ほーほーほー。懐かしさ撤回。怖い人じゃん。でも庇ってもらったしなー、悪い人じゃないよねー? と。怖い人と悪い人は同義じゃないことくらいはさすがに知ってる。知ってる上で言ってる。
「んー? んー……この程度なら三十分? 一時間くらいかなぁ? 何なら先に姫終わらせちゃうよ? 待ってくれてるなら」
「だ、そうだけど?」
「い、いえ、順番通りで! ルールは守らないと!」
俺が言うと一拍間を空けてその場の皆さんが噴いた。え、俺、笑えること言ってないけど? 誘惑に揺らいだのがバレバレだった? や、だって先にやってくれたらーとか言われたら悩むじゃん! 言われなかったら気にならないけどさ、敢えて提案されたらさ! 俺が困惑しているとチャライケメン改め薬師さんが「いやー、姫可愛いわー」と笑いを殺さず口元を片方の手で覆った。続いてベリーショート美人も「可愛い! ヤバいマジ可愛い! 記憶無くすと人格変わるって言うけどー、姫は可愛くなり過ぎ!」と片手をタイピング、片手で机をばしばし叩いている。うわー、何かムカつ……ん? ムカ付く?
ふっと自分に浮かんだ感情に違和感を覚える。苛々することはまま在れど、こんな場面でそんなこと思った試しは無い。『白井優李』時代を含めても、無かった。膨れるくらいなら在ったけど。ならば。
コレは、唯子ちゃんの感覚か。唯子ちゃんはこー言うとこで頭に来るのか。俺は傍観者染みた捉え方で受け流そうとした。条件反射としてするりと腑に落ちていた自分に、ぞわっと背中を何かが這ったのは気のせいだって思いたいから。
「唯子、ほら」
「あ、あの」
尚も「一度戻ります」と断ろうとしたんだけれど。
「もうお茶、ご用意したので、どうぞ」
若武者くんがトレーに日本茶の茶碗を一つ乗せて俺へ笑い掛ける。「笑った……」「笑ったわよ……里見が!」「めずらしいねぇ、余程敦来さんがお気に召したんだねぇ」「……は?」外野が騒がしいけど気にしない。譜由彦が何か何オクターヴ下げた声出したけど気にしない。だって怖いんだもん!
若武者くんは『里見』くんと言うらしい。パーテーションの内側へ案内され、ふかふかのソファへ腰を下ろすとそっ、と茶碗が置かれる。「粗茶ですが」「あ、いただきます」ぺこっと会釈し茶碗を手にする。温度も冷め過ぎず熱過ぎず適温だ。お茶を運ぶとこから今までの流れに、手慣れているなーって思った。
「……すみません」
「え、」
「敦来さん、英語史ってことは姉ですよね……その格好」
あ、と自身の服装を見直す。里見くん今『姉』と言ったか。姉……。
ぱーっと脳内で近ごろ親しくなった先輩たちを浮かべる。姉、と言うからには女の先輩だ。その中で里見くんに似ている人は一人だけだった。
「お姉さんは、おかっぱで、凄い濃い茶色の縁の眼鏡さんですか?」
「へぇ。あの眼鏡の縁が黒じゃないって、よく気が付きましたね。みんな他の方は“黒縁眼鏡”って仰有るんですけど。……はい、それです。改めまして、僕は庶務の十石里見です。姉の鹿乃子がご面倒をお掛けしています」
ビンゴっ。そーかそーか、おかっぱ眼鏡先輩は鹿乃子先輩と言うのか。やっと先輩の名前ゲットしたぜ……。若武者くんの『里見』って下の名前なのか。頭を下げる里見くんに俺は「あ、いえいえ、こちらこそ」と礼を返す。里見くんはふわっと笑った。……笑い方がお姉さんにそっくりなのね。
「最近意気揚々としていたので嫌な予感はしたんですよ。本当にすみません」
「いえいえ。私も楽しんでますから」
嘘じゃない。そりゃあいろいろ諸々在るけど、楽しんでいるのは確かだ。着せ替え人形は嫌だけどみんなで盛り上がるのは好きだった。……昔、好きでチャラチャラした集団といたんじゃない、みたいなこと考えていたけど、はしゃぐのも騒ぐのも好きだったんだ。だから。
「楽しい、です」
本心からうれしい。俺が心からの笑みを向けると里見くんは俺を瞠視して固まった。そこへ。
「……何しているんだ? 十石。早く資料纏めろ。お前の仕事だよねぇ」
譜由彦が乱入して来た。おぅふ。俺が拘束してしまったか。飛び込みで仕事増やした部外者の俺をもてなしてくれただけなのに。俺が「私のせいね、ごめんなさいお兄様」譜由彦に詫びると「……コイツが必要以上に入り浸っているだけだから。気にしなくて良いよ、唯子」しれっと返す譜由彦。……里見くんの頭を掴んでアイアンクロー噛ますのやめてから言おうか。うん。十石くんは顔色一つ変えず「このシスコンマジウザい」呟い……た? 俺が聞こえたのが幻聴では無かった証拠に「……聞こえているぞ、十石」譜由彦のアイアンクローの手の甲に血管が浮いた。いやいやいやいやちょっと!
「聞こえていましたか。まぁわざとです」
「良い度胸だ……他のヤツらに比べて常識人だと思っていたのが仇となったみたいだね」
「ははは。僕は常識人ですよ? 少なくとも敦来会長よりは」
「ははは。まったく面白くないよ、十石……」
い、いやぁああっ。何この応酬超怖いんですけど! てーかギリギリ音鳴ってるんですけど! 里見くんの頭から!
「ちょ、お兄様やめてっ、やめてください!」
「安心しなさい、唯子。単なるスキンシップだから」
「ええぇぇぇっ嘘でしょ絶対嘘! 音してますから! やめてくださいお兄様っ」
「……ちっ」
ようやく手を放した譜由彦だった、が、えええええっ。ちょっと今舌打ちしたよこの人っ。王子のルックスでたとえ中身が魔王でも舌打ちはやめてよ夢壊すよー? 譜由彦ファンとか……は、ギャップ素敵とか萌えてそう。あ、意味無いや。さすが顔面偏差値が高い方は違うわぁ……じゃなくて!
「えと、大丈夫ですか? 十石、先輩?」
譜由彦から解放された里見くんが両手で左右のこめかみを摩っている。良いとこ入ったのか……。言い淀んだのは、里見くん呼びは出来ないとして、先輩か悩んだから。いや、先輩だよね。まだ選挙前? だし。てことは、鹿乃子先輩は三年なのかな。あとで戻ったらちゃんと聞いてみよう。……誰も、俺が誰からも自己紹介されてないって気付いていないからね。
「……何やってんだ、お前ら」
パーテーションの上からひょいと顔を出した。進撃の……あ、何でも無いです。背の高いパーテーションより安李くんは順繰りに見下ろすと、背伸びをしていたのか引っ込んで「薬師ーっ。お前ちょっとこっちの計算算出しといて。んで、放送部の部長が、メディアクリエイティブ部と組んだ企画のせいで追加になった予算の受理早く欲しいそうだ。先にやっとけ」指示を出す。何、メディアクリエイティブ部って。俺が譜由彦に尋ねると安李くんが「いわゆる報道部だよ。生徒祭は一日校内のテレビ放映するって聞かねぇの」一足早く答えた。テレビ放映……何と本格的な。
「えぇ? でもあそこ、姫の手前に申請出したじゃん。姫はそこにいるから先にしても良っかなーって思ったけど何でいないのに、」
「ぐだぐだ言うなっつーの。アイツらは要望を適当に叶えとかねぇと、俺もお前らもまーた追い掛け回されんぞ。あと、こっちのはお前らの私用だろうが」
「ぅえぇっ。超面倒。可愛くなった姫のためなら何でもしてあげたいけどさぁ」
「あー、潰しちゃうー?」
パーテーションで見えないけど、嫌そうな薬師さんのあとにベリーショート美人の物騒な発言が飛び出した。陽気な調子なのに言ってることがっ。俺の頬が攣ったのと殆ど時差無く安李くんが窘めた。
「阿呆なこと言ってねぇで不動も書類の清書やれ。先週の記録の整理もまだだろうが」
ベリーショート美人は書記の不動さん……情報収集の凄まじい不動摩利さんか……。遠い目を瞬きして戻した。不動さんは不服そうに「はーい」と返事した。続いて安李くんは「ったく、ちゃんと監督しろ、会長」ぼやきながらパーテーションの中に入って来た。丸めて持つ紙束で肩を数度叩き譜由彦たちを見据えて。
「で、お前らはいい加減にしろ。王子も十石も戻れ」
ぴしゃりと叱責する。おおぅ。真面目モードの安李くんは迫力が在る。俺と似た顔なのに、俺より男らしくて俺より多分に格好良いんだよね。筋肉も俺より付いてた身長も……やめよう。すでに終わったことだもんね。と、言いますか。
「“王子”?」
「敦来の王子様に、お姫様だろうが」
安李くんはつまらなそうに譜由彦と俺を順に指差して言った。ここでもか……。譜由彦とワンセット、『敦来』の家名は付いて回るし譜由彦の影響はどこまでも及んでいる。好い気はしないよなぁ。唯子ちゃんの反発もわからいでかって感じだね。
「嫌そうな顔すんな。仕方ねぇだろーが。でけぇ家に生まれた自分を恨め」
安李くんは溜め息を吐いた。だって、つか表に出てたか……いけない、いけない。
「取り敢えず、王子は戻って書類チェックして署名捺印押せ。十石は纏めていない書類と資料をさっさとデータ化してファイリングしろ。姫は、俺がお守りしてやるから」
え、と安李くんを見たのは俺だけじゃなかった。譜由彦も里見くんも同じような表情をして安李くんを見ていた。譜由彦はみるみる面容を険しくさせ、その様を目の当たりにしていた安李くんは白眼を向けると。
「何考えたか知らねぇが、変な妄想してねぇでさっさと仕事しろ! このシスコン王子が!」
「痛っ」
持っていた紙の束で譜由彦の頭を叩いた。ねぇ、ここの人たち、少し乱暴過ぎない? 安李くん、あんまり手が出るタイプじゃないと認識していたんだけど。叩かれた頭を撫でながら退去する譜由彦、と、身を翻して「唯子、」俺を呼んだ。
「何かされたらすぐ声を上げるんだよ」
「とっとと行け」
譜由彦の真顔の言い付けを安李くんが切って捨てた。そんな安李くんにもめげず「良いかい? 唯子」と念を押して譜由彦は仕事に戻って行った。「ったく……」呆れ返った安李くんは俺の前に座った。紙の束を机に広げ……え?
「プリント……?」
「お前、怪我理由に補習来なかっただろ。担任からプリントは貰ってやったと思うが、それだけじゃ不十分じゃねーかって話になってたんだよ」
聞くに職員会議で、俺が、もとい唯子ちゃんが事故で休んだ期間が入院自宅療養合わせて長いので、元来単位を補填するために補習をやらねばならないのだけど、安静を理由に保護者、つまりお爺さんが断ったのだと言う。それならプリントで、となったらしいんだけど、前にやった分じゃやや足らないとのことで。
「ま、お前は授業に付いて行けているから学力の心配はしてないが、単位ばかりはそうも行かないからな」
「わかりました……けど、どうして安李、先生が……?」
“安李くん”て言いそうになったけど安李くんはもう安李くんじゃないんだった。俺の質問に、安李くんはプリントを俺へ向けるため下げていた視線を上げた。安李くんと、真正面から目が合わさった。
「俺は生徒会顧問だが、一年の学年副主任も兼任してるんだよ。加えて、一年の進路指導もやってる……ここまで言えば納得したか」
「担任はされてないんですか?」
俺が現段階で覚えている『白井優李』の時代に聞いたのは、受け持ったクラスと顧問になった部活の愚痴だけだ。何か、知らない間に偉くなった? 安李くん。俺の問いに安李くんはしばし口を閉じて開く。
「お前、んな他人に興味持つようなヤツだったか?」
はっとする。そうだ。俺は『白井優李』じゃない。うっかり安李くんのことを訊いてしまったが、本来の唯子ちゃんは譜由彦以外を気に掛けない性分だ。やってしまった。俺が後悔していると、安李くんは俺から目線を外し明後日の方向を見て「まぁ」言った。
「他人に興味を持つのは悪いことじゃねぇよ。他人に目を向けられるってことは、自分に余裕が出来たってことだ。良かったじゃねーか」
「……」
少々違うけれど否定はしなかった。どこが違うのか、説明出来ないのも在った。黙りこくる俺に安李くんは追及せず、教科別に纏められたプリントを並べて胸ポケットのペンを一本取り出すと、俺に渡して来た。ああ、俺今筆記用具無いんだった。シャーペンと、消しゴムもくれる。安李くんてガサツだけど、凄い面倒見も用意も良いんだよね。
「ありがとう、ございます」
「ん。制限時間は……丁度一時間な。薬師―っ、今から一時間で姫の分も含めて仕事終わらせろよー」
前半は俺に、後半はパーテーションの向こう側へ投げる。応答は「イエッサー。楽勝楽勝っ」だった。まぁ、ずっと手が動いてたもんねぇ。一日の仕事量がどんなものか俺はさっぱりわからないけど、そうなのかもしれない。問題は……俺か。かなりの分量在る気がするんですが。やるしか無いよね。俺は安李くんから借りたシャーペンを握り直しプリントに手を付け始めた。
「はい、やめ」
シャーペンを止めたのと同時にプリントを取り上げられた。くっ……梃子摺ったけどどうにか制限時間内に終わらせられた。毎度思うのは「この学校どんなレベルだよ」ってこと。上が在るんだとか『白井優李』がいた世界なんて全然狭かったって実感する。最後まで書けたけど自信は無い。テストじゃないし、間違ってても良いんだろうけどさ。
「本当なら、答え合わせしながら解説するんだけどな。近い内正誤と解説付けて渡すから」
安李くんは一度一つ一つ右上を留めていたクリップを外しとんとんと揃え直した……安李くん、何気細かいよね、そう言うとこ。
「はーい……」
シャーペンと消しゴムを渡しつつ俺はふっと、昔こんな風に勉強見てもらってたんじゃないかなぁと。記憶は無い。家族の記憶が薄れるの一等早いとか俺どんだけ薄情なんだ。それとも唯子ちゃんの、俺にとっては新しい家族がいるせいか先輩みたいにそばにいないせいか。戻らない記憶は、気が付けば水に沈んで、攪拌するようにぼやけて消えてしまった、イメージ。もっとも意識自体も、だいぶ暈されて滲んで確固とした形は失い掛けている。
「……不安か?」
上の空だった俺がはっとして見れば、安李くんが難しそうな顔して俺を見詰めていた。俺はその表情に何事か話そうとしたけれども声は出なかった。適した単語が、並列出来る文言が見当たらなかった。閉口してしまった俺に安李くんはどう感じただろう。一つ息を吐いて「まぁ、」と言った。
「不安だわな。記憶が無いお前からすれば、いきなりこんなとこ引っ張り出されて、身に覚えの無い事柄が多過ぎる。……王子が構い倒す理由もわかるよ。確かに不安定だ」
「……」
「けどな。……敦来。お前はそれだけ必要とされてるってことでも在る。お前を好く人間は勿論嫌うヤツらも」
安李くんが呼び方をフザケた『姫』呼びから名字に変えた。真剣さを表すためだろう。
「嫌う、人も?」
「そりゃそうさ。お前がいなけりゃ嫌えないだろ。好き嫌いは言動こそ逆のものだが『関心』て意味じゃ同じなんだよ。嫌いなら見なきゃ良いのに目が追う。放って置きゃ良いのにわざわざ関わる。好きな相手にだって同じだろ? 好きだって、束縛が強い人間はまるでいじめているのと同じ行動してるだろう。んで、言うんだ。当人には“お前が悪い”周りには“アイツが、”もしくは“コイツが、悪い”」
「……」
「『執着』ってヤツだな。一歩誤れば碌なことにゃならん情動だ。だから一番大事なのは『自制心』だなんて言われる。自分をコントロールするための気持ちだな。……この学校のヤツらの中にはその『自制心』が弱かったり狂わせ易いヤツがいる。抑え過ぎて爆発させて、壊れるヤツも。一定数な。もしかしたら、外より多いかもしれないなぁ、割合は」
安李くんの話を聞きながら、『私』は思い起こす。『唯子』になってからの日々を。じろじろ見る観衆、ひそひそと交わされる世間話。
譜由彦に命じられて監視しつつサポートしてくれる安房くん。以前の『唯子』に惹かれて今もいっしょにいる鵜坂くん。鵜坂くんのことから『唯子』に興味を持って、現在では何だと言っても助けてくれる富山くん。『唯子』を隠れて慕う人、最近『私』と仲良くしてくれる人たち。
以前『唯子』にやたらと突っ掛かって来て、『私』が『唯子』になる切っ掛けを作った梓川さん。
「お前からすれば傍迷惑なことかもしれない。だが、煩わしいことすらお前がいなきゃ始まらないことなんだ。わかるか敦来。
お前が善悪問わず、必要とされているってことだ」
「……」
『唯子』は必要とされている。でも。
それは生まれながらの『敦来唯子』であって『白井優李』だった『私』ではないんじゃないか。いや、わかってる。『白井優李』は『敦来唯子』になってる。だけど、……ああ。
『俺』、結局どうしたいんだろう。黙りこくる俺を安李くんは静観していた。やがて、一呼吸置いて再び話し出した。
「お前は、前のお前じゃないかもしれない」
俺は知らず下がってしまった目線を上げた。安李くんが困ったように笑っていた。「コイツ仕様が無いなぁ」とでも言いたげの笑顔は、途方に暮れる程やさしい。
「記憶無いっつか曖昧なんだろ? おまえからしたら“そー言やそんな気がするなぁ”くらいの認識か? でもさ、そんなんどーでも良いんだよ。ただ、宛て先がいれば良いんだ。向かう先に。────あ、勘違いすんなよ。宛て先なら、“誰でも良い”って意味じゃない。
“お前がいれば良い”
ってことだ」
もっと言えば“お前しかいない”。
そう言うことだ。
静かに安李くんは言った。『俺』は、どうして良いかわからない。どうして良いのか。安李くんは何にも知らないのに。ここにいる甥のこと。何で。
「はいよー、姫ごっめんねー? 思ったより掛かってさー今終わっ────……譜由彦ぉおおお! 安李先生が姫泣かせてるぅうううー!」
仕事を終えたらしい薬師さんが喋りつつパーテーションの中に入って来て、開口一番に叫んだ。あ、俺泣いてんだーとか呑気にしてたら物凄い音がして「……っ、唯子っ?」譜由彦、今どっかぶつけたでしょ。鈍い音したよ。差し詰め、机の引き出しでしょ。立ち上がるときに膝とか。もー。
「お兄様、大丈夫ですか?」
焦り過ぎて転がり込んで来た譜由彦に尋ねれば「そんなことは良いんだ! 何されたんだい、唯子っ」譜由彦さんキャラ変わってませんか。クールで泰然自若で傲岸不遜極まりない魔王様譜由彦様はどこへ行ったのさ? 生徒会長の余りの醜態に、ほら、薬師さんと安李くん、二人して「うわあ」ってなってるよ。声も無く。
「王子……お前そこまで行ったらもう病気だぞ……」
「ごめん、譜由彦。さすがにフォロー出来ないや……」
「別に要らないよ。先生、どう言うことですか? どうして唯子が泣いているんですか?」
とうとう安李くんに詰め寄り始めた譜由彦を、慌てて止めようとしたけれどその前に。
「はーい、どうどうどう。譜由彦、落ち着けって。安李先生に限って生徒に手を出す訳無いじゃん? ね?」
薬師さんが割って入った。譜由彦は顰めっ面でとち狂った発言をする。
「唯子にならわからないじゃないか」
「ちょ、譜由彦、マジ落ち着きなって」
譜由彦の反論に薬師さんも半目になったが根気強く宥める。
「姫は凄い美少女だよ? 特に近ごろは可愛くなって、つい道を踏み外したくなるくらい、魅力的。だーけーど、」
「だろう? 今の唯子は危ないんだ。危機感も無いし……て言うかちょっと待て。薬師、まさか……」
「人の話は遮んなっつーの! つか顔! 凶悪面やめてぇーっ。譜由彦が考えているのは事実と異なりますからぁ!」
俺はひたすらこのコント染みたやり取りを見守っていた。行き着く先はどこなんだろうか? 到底着地点が在るようには見えないけど。
「あーあー。呆れて物も言えねぇなぁ」
「……は?」
「て、姫が」
えぇええぇぇ? 俺ーっ? ちょ、安李くん然り気無く俺に擦り付けないでよっ。呼び方も『姫』に戻ってるし。俺はともかく平静を保とうと「お、落ち着きましょうか、ね? お兄様」呼び掛けた。剣呑な目付きでしばらく譜由彦は俺を黙視していたけど、一つ空気を抜くみたいに息を付くとバツが悪いときの安李くんみたいに、頭を掻いた。
「お前は、あまり、泣かない子だから」
言いながら薬師さんが手にしていた紙を奪い俺に近付いて来た。
「不意に泣かれると、どうしようって気になるよ」
薬師さんから取り上げた紙を俺に差し出す。“泣かない子”、か。
「お兄様、それは、
昔の『唯子』ですか? 今の『唯子』ですか?」
真ん前に立つ譜由彦を見上げた。生前の『白井優李』より身長在るんじゃないの? 頭も良くてスタイル良くて顔も良い。残念な性格だってこんな完璧なら萌え、でなくて、チャームポイントだ。神様は不公平だなぁ。じっと見上げている俺に譜由彦は「どっちもだよ」答えた。
「昔のお前は虚勢を張って周囲を威嚇していたし、今のお前は誰にでも愛想良く気を遣って笑っている。どっちも、弱さを隠していて滅多に泣かないじゃないか」
「───」
「俺は、だから、お前が泣くとどうして良いのかわからなくなる」
譜由彦も答えてくれてる間ずっと俺を見返していた。答え終わると「ハンカチは?」と訊かれた。あ、俺ドレスのまんまだから持ってないや……。俺が答えられないでいると、譜由彦が紙を持つ手と反対の手でポケットを探った。出て来たのは、ぴしっと皺一つ無い白のハンカチだった。シルクでは無い。念のため。渡してくれるのかと思いきや譜由彦が持ったまま涙を拭ってくれた。最初そっとだったのが、顔面にタッチした途端ぐいぐいやられてちょい痛い。割とガサツよねお兄様。
「……ねー、従兄妹でロマンスするのは良いんだけどさー」
俺たちが一段落着いたと判断した薬師さんが声を挙げた。ロマンス? 何の話? 俺が言われた内容を理解出来ずにいると、譜由彦の声無き抗議が入った。……だからアイアンクローはやめましょうよ、お兄様。
「いっ、いててててっ痛い痛い痛い譜由彦タンマ!」
「棄却」
「え、ええぇぇぇっ! 何でぇっ? 棄却とか意味わっかんな、あだだだだ」
先の里見くんのときは立ててなかった爪が、薬師さんにはきっちり立っているように見える。違いが判然としないが苛立ちの差とか、もしや安李くんは先生だから、物理攻撃出来ないことへの腹癒せも加算されているんだろうか? 取り敢えず、止めたほうが良いよね……?
「お、お兄様……」
「何だい、唯子」
うん、王子の背景は薔薇だと思うの。絶対、「いーででででっ」なんて呻き声やアイアンクロー噛まされた人ののた打ち回る動きじゃないと思うの。良い笑顔なとこ悪いけど怖さ増すだけだからー! 俺も若干引きながら「や、やめて差し上げてください」と諌言してみた。
「ん? 大丈夫だよ」
え、何が? 譜由彦の笑い顔に何一つ安心出来ない。不穏なモノしか感じない。魔王様。完全形態ですか? いや、前段階ですか? 第二段階とかですか? あの取り乱しは前兆でしたか? 俺は繰り返し「大丈夫には見えません。どうぞお放しください」と要請した。里見くんのときと同様に「……ちっ」一拍置いて舌打ちし薬師さんを解放した。
「……ああー、いったぁー。姫ありがとね。譜由彦、いつもならこうも余裕が無い訳無いんだけど」
こめかみ近くの額の端に片手を添えて、へらっと力の抜けた笑いを浮かべた薬師さんから礼を言われる。俺は「いえ、お兄様のしたことですし。お兄様は……心配性なので」と苦笑で返した。俺の様子に「姫、……苦労してるね」と同情の眼差しを向けられた。oh……、と思ったけど仕方ない。譜由彦のせいだ。唯子ちゃんになってからの苦労は譜由彦だけのせいじゃないけども。
「勝手に憐れむな。唯子を見るな。減る」
「何がっ?」
うん。譜由彦、何が減るのさ。薬師さんと同じように俺も譜由彦へ憐憫の視線を向けていた。これを区切りとしたのか安李くんが「はいはい。お前らいい加減にしろ。特に王子。お前だ生徒会長」と譜由彦を指名し続けた。
「生徒会。お前ら今日客来るんだろうが。そろそろ切り換えろ」
お客様が来るのか。生徒祭も在れば文化祭も近い。生徒会は主導して動くのだろうから、来賓や関わる人間が会いに来てもおかしくは無い。話を聞いていた俺はさっさとお暇しないと、と「お兄様、あの、私もう行きますね」と申し入れた。譜由彦はさっきまでの姿が虚像だったかの如くあっさり消失した。「もうそんな時間でしたか。わかりました」この切り換えの早さが上に立つ者の素質……とかぁ? ……えー……。俺がパーテーションから出ると後ろからぞろぞろ付いて来る。俺が先に出たのは促されたからだけど。レディファースト? ん? 違う? 出て来た俺たちに「お帰りー。姫泣かされちゃったんだってぇ?」揶揄するように不動さんが言った。「先生、敦来さん泣かさないでくださいよ」里見くんもどこか厳しい目線を寄越す。恵比寿さんは外出中みたいでいなかった。安李くんは飄々と「へーへー」と意に介さず返答する。してから「じゃあ、俺は姫を送って来るわ」と言い出した。当然、譜由彦らは「は?」と呆気に取られた声を異口同音で出揃えた。譜由彦は少し低めだった……のは気のせい、きっと。
「だって一人じゃ危ねぇだろ、コイツ」
ちょっ、ちょっと待った! 俺挙手。異議有り! 「はい、姫」安李くんに発言権を貰ったので早速「私ちゃんとここまで来れたんですよ?」異議投下。「それが?」安李くんが何言ってんだと言外に言うので「なので、私一人でも平気です!」と力いっぱい主張するも「はい却下」えぇええぇえええっ? 何でですかどうしてですかっ。
「……。涙目、ドレス、お前の今の性格」
うんざりしたように胡乱な目で、検索ワードみたいに言葉を並べ立てた。え、何。
「お前ね。お前は危なっかしいの。ただでさえ。昔の恨み辛みはおろかお前に懸想してるヤツだっているかもしれない。お前、自分の見てくれが良いのは鈍いお前ですらもわかってるだろう。そんなヤツが一人涙目でうろうろしてみろ。何し出かすヤツが出て来るか、想像だけで恐ろしいわ。しかもお前の格好。ドレスだし。逃げられるのか? 常の制服姿だって不利かもしれないのに。王子は過保護過ぎるけどな、もっとお前も危機管理能力値引き上げろ」
レベルは四だ、と言い切られる。安李くん、俺は、ウィルスですか。クラススリー安全キャビネットやら通り抜け式オートクレーブは必要ですか。じゃあ何か。俺が歩いただけでバイオハザードなんですか。あ、俺、ゲームは初期が好き。初期厨じゃないけど信者じゃないけど。シンプルじゃないですか。あ、何だっけ、ミニスカ看護師姿の、エロティックなクリーチャーゾンビさんが出て来るヤツ。静かな丘のヤツかしら? あのシリーズ、妙にクリーチャーエロいよね。怖いし超ビビったけどアレちょっと好き。……はい、落ち着きます。
「てことだから、行くぞ。王子の負担軽減だ」
納得行かないんですけどー。丸め込もうとしてるしさー。俺は渋々安李くんに従った。譜由彦に至っては「よろしくお願いします、先生」と牙を剥いていたくせにこの変わり身の早さ。俺が半分睨んでいれば「良いんだよ。どこかの馬の骨に急襲される危険性を考慮すれば、安李先生に送らせたほうが。……何が起きても始末し易いし」……最後! 最後音量滅茶苦茶下げて言ってるけど、ばっちり聞こえてますからねっ? 嫌だもう怖いぃいい。
「時間だな。ほいじゃー行くぞ、姫」
俺から紙をするり引き抜いて行ってしまう。紙くらい持てるのに、と俺が言い掛けると「あ? 手持ち無沙汰だし良いんだよ。つかな。お前、そっち気にしろ。裾とか襟とか。うっかり破ったら作ったヤツに泣かれるぞ」ごもっともでー。
薬師さん不動さん里見くんそして譜由彦に挨拶して踵を返す。扉を開けて待っててくれる安李くんに急いで走り寄り退室しようとした。ら。
「お帰りですか? 敦来さん」
外出先から戻って来た恵比寿さんと鉢合わせした。俺は「はい。お邪魔しました」とそそくさと頭を下げて去った。や、別に恵比寿さんが怖かったからじゃないよ? みんなから恐れられている恵比寿さんが怖いから避けてるとかじゃないよ? 恵比寿さん、ぶっちゃけ譜由彦よりやさしげだし? そうじゃなく、恵比寿さんが人を連れてたからで。
件のお客様だろう。二人いた。二人は男性。俺の予想よりだいぶ若く見えた。俺は親くらいだろうって思ったから。高校生の親って言ったら四十五十くらいじゃない? 三十代も、まーいなくはないけど。でも二人は片や二十代前半片や……三十代後半? あ、こっちは保護者の可能性在るか。だとすると、二十代っぽい人はお兄さん。在るかもです。
ただ、俺は引っ掛かっていた。何となくだけど。
あの二人、どこかで見たこと在るような……「おい」あ、置いて行かれる。俺は先を行く安李くんの元へ小走りで駆け寄った。裾に気を遣いつつ。背後で。
「失礼します。鹿見竜也様、畑上五郎様がご到着されました」
中へ恵比寿さんの来訪を知らせる声がした。