6. 白 雪 姫 と 祭 り の 前
『笑顔で挨拶運動』が効果を見せて来たのか、徐々に俺と挨拶してくれる人が増えた。とてもよろこばしいことで、これで唯子ちゃんもつらくないね、なんて思ったりしていたんだけど。
【 6. 白 雪 姫 と 祭 り の 前 】
「おはようございます!」
「え、ぇえ、お早う……」
食卓で、珈琲片手に新聞を読む叔母さんに滅茶良い笑顔で挨拶! 人付き合いは気持ちの良い挨拶からですよーって小学校の先生が言ってた。そう言や、いじめられてたあの子は、その担任の先生が大好きだった。……うん、まだ、まだ記憶在る。
学校復帰から一箇月。俺の記憶もだいぶ斑になっていた。思い出せるものもまだまだあるけれど。小学校の、あの時分の記憶なんて一番に消えそうなのに。印象が強いからかな。トラウマだし。先輩の記憶も幾つか消えてて、まぁ俺は現在唯子ちゃんだから全然問題無いけど、ちょっと本人がいる前でさみしいって言うか。家族との思い出は、在っても家族の顔がぼやけてしまっていた。
俺が好きだった、あのゲームもイラストレーターさんももう朧気でさみしい。何が好きだったんだっけ。こんなことなら、記憶が在る内に唯子ちゃんとしても買って置くんだったな。あとで捨てられても良いから「唯子ちゃん?」おっと危ない。呼ばれていた。
「はい」
感慨に耽りつつも着席して、運ばれたお食事に手を付けていた俺。顔を上げたら叔母さんが気遣わしげに俺を見ている。ふふふ。どうやら少しずつだけど、叔母さんは俺の術中に填まって来ているらしい。よーしよし。俺は内心ほくそ笑んで、表では何食わぬ顔で「どうかされましたか、叔母様」尋ねたり。叔母さんはもごもごして結局だんまりしてしまった。未だ言葉にするのは難しいようだ。うふふふ、嫌だ美熟女萌え。
心の中でだけ、うふふうふっと萌えていたら譜由彦が来た。少々疲れ気味らしく、麗しのご尊顔に隈が出来ている。俺より断然酷い顔だ。忙しいのかな。生徒会。このところ、帰宅も遅い。俺が復学したときはしばらくいっしょに帰っていたけど。
「譜由彦さん。ちょっと顔色悪過ぎじゃないかしら。ちゃんと体を休めているの、あなた」
叔母さんは譜由彦にすかさず質す。確執の在った唯子ちゃんとは違って息子には物が言えるようだ。当然だけどね。眉を寄せる叔母さんへ譜由彦は目も合わせず「大丈夫です、すみません」と素っ気無い。あら。いつも朝からぴしっと決めている譜由彦らしくなく、機嫌が悪いって言うかご機嫌斜めって言うか……覇気が無い? 常の朝からして低血圧ってんでも無いのに。叔母さんは、しばし譜由彦に話していたが、何のリアクションも起こさない息子にあきらめて食事を再開していた。社長の叔母さんも仕事だもんね。俺は余計な口を挟まず食べ進めていたので終わってしまった。ご馳走様でした、と席を立つ。
「唯子」
食堂を出ようとした俺を譜由彦が呼び止めた。振り返れば「すぐ食べ終わるから部屋で待っていなさい」顔も上げず言われた。顔くらい上げなさいよ、と反発を抱きつつも「わかりました」と了承だけ返す俺。超良い子。
譜由彦の言い付け通り自室に戻った訳ですが、一つ。そろそろ登校も一人で良いと思うんだよねーって。放課後は生徒会の仕事や、俺がごくたまに保健委員の仕事が在るからもういっしょじゃないけれど。
「……」
“敦来くんに言われたんじゃない? 俺に近付くなって”
あれから二人きりの仕事はしていない。誰かしらいるようになった。先輩の意図的なのか、譜由彦の力なのか。あ、そう言えば唯子ちゃんを保健委員にしたの、譜由彦なんだって。唯子ちゃんが気兼ね無く保健室に行けるようにだって。情報元、安房くん。どう言う意味かとかは問いません。何となくわかっちゃうし。ただ、唯子ちゃんはそんなに軟じゃないってこと。気が強いのだ。敵を増産していた程に。
譜由彦は、唯子ちゃんを気に掛けていた。もしかして、離れたのも冷たくなったのも唯子ちゃんのため? 嫉妬する譜由彦ファンから遠ざけるため? うーん。少し違う気がする。譜由彦は、ある日から今の譜由彦になったって、聞いたもの。各務さんと、安房くん、途中からずずいっと出て来た梓川さんに。
唯子ちゃんの日記で日付が飛んでいるページが在った。唯子ちゃんの日記は毎日欠かさず、て訳ではないみたいで、一日二日は飛んでるところも在ったから気にしていなかったんだけど、十日近く書かれていない箇所が在った。多分、件の期間だ。
譜由彦が倒れて、昏睡状態だった期間。
譜由彦は、唯子ちゃんが中二、譜由彦が高一に倒れたらしい。倒れて、数日目を覚まさなかった。何が在ったかわからない。日記にはこの間のことは書かれていないし、唯子ちゃん自身何も知らされていないのではないだろうか。
とにかく、譜由彦は昏倒して、昏睡状態に陥って────『現状』の譜由彦になった。それまで柔和な王子様は変わらず人徳者であったけれど、『王子様』じゃなくなった。有無を言わさない『王様』になった。人格が変わってしまった。一皮剥けた、と皆は思っているけど、まるで。
「まるで、俺が入った唯子ちゃんみたいじゃない……?」
『誤生』や『劣魂』? だっけ? の修正した、あとの人間みたいな……俺は首を横に振るった。まさか。きっと、倒れて、目を覚まして「自分は何しているんだろう」って、考えて、はっちゃけただけだ。うん、きっとそう。開き直って、我が儘になっただけ。日記見る限り、倒れる前の譜由彦は手当たり次第気遣って笑顔を振り撒いていたようだし、うん、疲労で倒れた自分を省みてやめたんだ。今の譜由彦が本当の譜由彦なんだよ。
第一もし仮に譜由彦が、何らかの修正をされた人間だったとしてもすでに確認する術は無い。だって、男が言ってたじゃないか。期間は五箇月から半年。譜由彦が倒れたのは高一。二年は経ってる。たとえ譜由彦の中身が“譜由彦になった人”でも、今はもう体に馴染み切って溶け込んで、譜由彦なんだ。
それに。
「……」
“大丈夫だよ、唯子。俺がいるから”
“お前は記憶も無くて不安定なんだ”
“……風当たりが強くなるだけだから”
俺が知る譜由彦は、今の譜由彦だ。ぼんやり、俺が左手を見ているとノックがする。俺が応えると扉が開いて顔が覗いて「お待たせ、唯子」ノックの主は譜由彦だった。俺は鞄を取って急いで部屋を出た。
「お早う、敦来さん」
「お早う、ございます」
登校して靴を履き替えていると声を掛けられる。俺は最早習慣と化している笑顔で返した。アレは誰だろう? 知らない子だった。クラスメートかもしれない。とんとん爪先を蹴って履いた上履きを調整すると教室へ向かう。金持ち学校ゆえか知らないけど、上履きに悪戯ってされたこと無いな。唯子ちゃんは持ち帰っていたみたいだけど。俺は忘れて置いて行ったんだよね。あとから青褪めたものだけども、無事でほっとしたと言う。
まぁ事故後の登校だったからか譜由彦の手前かわからないけど、マジ助かった。教室に付いて扉を開ける。と。
「わっ」
「うぉっと、って、敦来」
開けた瞬間富山くんと衝突寸前だった。寸でで免れたけど。心臓に悪いわ。「敦来っ、悪かった! 俺ちょお急ぐねん!」あとできちんと詫びはするからと、体勢を整えた富山くんは走って行ってしまった。何アレ。俺は首を傾げつつ教室へ入った。
「大丈夫?」
席に着いて鞄を置くと鵜坂くんが横に立った。富山くんは何をあんなに焦っていたのか訊くと「選択教科の先生が提出物を急かして来た」のだそうだ。なぁんだ。俺は座りながら軽く笑った。そんなことであそこまで慌ててたの? どんだけやばいのさ、おかしいの。俺が笑うと鵜坂くんもマスクの上の目だけで笑い返してくれた。
「そうへらへらしてもいられませんわよ、敦来さん」
背後からの声に背を若干反らし仰ぎ見ると、果たして、梓川さんが立っていた。どうして、と俺が尋ねると呆れたように答えて来た。
「教科対抗の出し物案なのでしょうから」
教科対抗? 俺が理解していないのを悟ってか梓川さんは「そうでした。あなた、記憶が無いんでしたわ」盛大な溜め息をくれた。おぉう、すんません……「良いですか?」ああ、説明してくれる辺り、梓川さんて結構やさしいよね。
「あなたは記憶が無くなっていて、まぁ? 覚えておいででないのでしょうけれど。文化祭の前に“生徒祭”が在るんです」
梓川さん曰く、この学校って全体の生徒数が半端無く多い。小中高に分けたとして回数が極端に増える。なので、文化祭はよく在る学校のお祭りではなく本意の文化の祭典にしているのだそうだ。一月に小学校、中学校、高校で三度の日曜日を分けて使い演劇部、吹奏楽部、美術部、茶道部に華道部、ダンス部などの文化部が作品を来賓に発表する祭典だとか。
しかしこれで他の生徒が反感を覚えない訳が無く、文化祭とは別に『生徒祭』なる学校の行事が誕生したのだとか。……体育祭に文句は出ないのでしょうか。この生徒祭、出来たのは最近で、しかも作ったのは。
「椰家先生が生徒会長だった当時の生徒会だそうよ」
先輩だったそうだ。元よりお坊ちゃま、お嬢様とは不満を募らせても滅多に行動を起こさない。世間では、我を通して人の意見を聞かないのが金持ちの子供と思いがちだけれど、そう言った層は一部で。良いとこの人間て言うのは私見を言うとき、覚悟を持ち正当性を示さなければならないと教えられ、間違っていると判断しても証拠が無ければ易々と口に出来ない。
そもそも、してもらうことが当たり前の生活をしているから、己で何かしようと言うのは無駄にハードルが高いと感じるんだろう。こうやって生きて行くと、ある程度自ら動くことを億劫に思うものじゃないだろうか。責任も取りたくないし。
だから、先輩と言う責任も背負ってくれ、指針を立ててくれる人物が提議すればすぐ様食い付いたって訳。賛成多数で自主性を重んじると言う放任主義な学校は、あっさり許可を出したらしい。勿論、先輩の企画書も完璧だったから、だろうけど。
「生徒祭ねぇ」
「文化部は文化祭が本番ですからね。生徒祭では皆出店ばかりになるのよ。一般生徒は、クラスではやらないけれど、選択教科で三学年合同でやるの。中学校や小学校も同じね」
小学校も高学年と低学年で三学年ずつ分かれてやるんだそうな。高中小、開催の日にちは別。
「へぇー。そうなんだ。選択教科って文科系以外でもやるの」
「むしろ文科系以外が主役ですもの。出し物の人気投票とかも在るのでそこそこ活気が有りますのよ」
「ああ、教科対抗ってそのこと」
ふーん。何か凄いなぁ。俺がぼうっとそこはかとなく考えていると「あなた、わかってますの?」と梓川さんが眉間に皺を刻む。きっと刻まれたのは文句だ。
「全員参加ですよ。あなたも無関係じゃ無いって言うのに、どうするの?」
どうって……俺は口を噤んだ。選択教科は二つ在るのだが俺が選択しているのは、えっと確か、「生物学と英語史でしょう」ああ、そうそう。生物と、英語史でしたね、はいはい。
この学校、科目は多岐に渡ってて細部まで分かれているのに、選べるのは二つなんだよね。一年は。で、学期毎じゃなくて一月毎に変更可能なんだって。変えなくて良い人は続行するだけだけど、変える場合月末の一週間前から申請するんだとか。で、俺、てか唯子ちゃんは生物と英語史だった。英語史って言うのは英語の成り立ちとか、この学校では絡めて英語で欧州史勉強したりする教科なんだよ。何それって感じなんだけど、歴史の先生でも専門で研究している人が教壇に立っているから、とても興味深い。学ぶ生徒も外交とか貿易とか家がその関係の人ばかりだし、もう留学や旅行での長期滞在経験者も大勢いて、時折飛び出すトンデモ体験談に笑いが起きたりと楽しくて勉強になる。
「科目も両方参加する人もいれば部活か、科目の何れかを選ぶ人もおります。……ま、あの人は全部で企画出して、通ったところで参加するらしいですわ」
あの人、根っからの関西商人ですよね。心底呆れたと言いたげに梓川さんは嘆息した。“あの人”は、紛うこと無く富山くんだ。富山くん、だいぶ欲張るねぇ。富山くんて、鵜坂くんの部と自分のとこと兼部してるでしょうに。まー、跡取り候補が試練として起業して行く毎に大きくなった訳だし、彼の生家は。富山くん自身、将来への挑戦を楽しんでいる。
「……」
将来、か。俺も、考えないと。
午後の授業から放課後まで生徒祭のための時間が設けられた。『特別合同授業』とか前日通達されていたけれども、こう言うことだったらしい。生徒祭では、取り敢えず英語史に参加することにした。
て、言うのも生物は研究成果を発表と、微生物などをシャーレに入れたものや普通のプレパラートに試料を封じ込めたもの、それらをあらかじめセットしてある顕微鏡と何もセットしていない顕微鏡、封縁処理して数年保存可能の半永久プレパラートと、樹脂の封入剤で固形化させた永久プレパラートを陳列して、好きなものを選んで見てもらう展示、あとは付け加えたような休憩スペースだそうなので。先輩数人と生物命な人と先生で回しちゃうからその他の一年は楽しんでおいでと追い出された。
……後学のために俺もいたかったけれど、自己紹介のあと「敦来のお嬢様に下働きみたいなことはさせられないよ」とやんわり真っ先に退去通告。ええー。
そりゃあさ、マッドな方々には俄かの一般なんて邪魔かもしれないけど。オタクの端くれだった俺だって「流行厨ウッゼ」と一回も思わなかったと言えば……爆発しろと思うことは数度在ったかな……いや、初見さんは良いんだよ。いっそ、カモーン! って感じ? 俺は……初見側で在りたかったなぁ。
だけど外される理由も「やんなくて良いんだラッキー」と言い出す勢いで消えた連中と違って“敦来のお嬢様”だからなぁ。どっちにせよやらせてもらえなかったよなぁ。
「……英語史は、追い出されませんように」
唯子ちゃんがツンツンになった要因は、こう言うところにも在るんじゃないの? とか。気落ちしつつ結果として、英語史は傷心の俺を受け入れてくれた訳ですが。
「洋装で、接客ですか?」
英語史では教壇を囲うように教室の前側に集まっていた。「英語での演劇はどうか」「英語史なのだから英語の変遷を、何かの形で展示出来ないか」「欧州史もやっているし、その辺で何かしたい」「生徒祭だし、演劇よりカフェとかしたい」─────話し合いの末、決まったのは英語史ならではの変わったカフェにしよう、と言うこと。それぞれ英語の変遷を服装や言語で表そうと言う。メニューもその時代を模倣したものにしよう、と。再現じゃなくて、何ちゃら風のようにするそうだ。接客も挨拶だけは時代と服装に合わせるらしい。
パターンとしては五つ。英語前史、五世紀から十一世紀中期ごろまでの古英語、十一世紀から十五世紀までの中英語、十六世紀から十九世紀までの近代英語、二十世紀以降の現代英語だ。まず五つのグループに分けそこから一人一人担当の時代の格好をすると……うわぁ、面倒臭いキラッ、みたいな。
「ええ、と、私は……」
さすが海外生活もお手の物の猛者たち。あれよあれよと主張して各々好きな時代格好を決めて行く。俺、どうしよう。俺が迷っていると突然「敦来さんは、近代英語が良いと思う!」と声が上がった。……はい?
「近代だから十六世紀から十九世紀か。ルネサンス運動が遅れてイギリスに入って来る時期だっけ」
「そう! あの時代のドレスをね、作るから、敦来さんには是非着せたいわっ!」
私が庶民をやるわ、敦来さんは貴族を、姫をと鼻息荒く捲くし立てて来る女生徒……ちょ、何か飢えた獣みたいになってます先輩! 授業で見たこと無いから先輩! 俺来たとき、すでにみんなの自己紹介終わってたから俺がするだけで知らないんだよ。
「えー。敦来さんなら十七世紀か十八世紀が良いんじゃない?」
「ロココとか、十七世紀が始めでしょう? 敦来さんにぴったりだと思うわ」
意気込む一人に異見が二つ。あー、唯子ちゃんは髪型縦ロールだしロココ調のイメージは在るよね。だけれどねぇ。ロココ時代ってパニエの巨大化で凄いもさーとしてなかったっけ。十八世紀のほうがスカート普通だったような……あ、でもスカートを広げるために骨組み付けるのっていつの時代だったっけ。
「そうなんだけど、私は十六世紀が良いのよ!」
首をふるふると振って力強く拳を作って言う先輩。「何でそうまで拘ってる訳?」ここで男子生徒が疑問を差し込んで来る。砕けた言葉遣いからこの人も先輩かも。俺も不思議で黙って成り行きを見守っていた。俺だけじゃなく周囲の人たちも不思議がっている。注目を集める中拘りの先輩は力いっぱい断言した。
「だって、『白雪姫』って十六世紀の物語じゃない!」
って。この発言を聞いた途端、英語史の教室が微妙な空気に包まれた。えーと。うん、唯子ちゃんは白雪姫みたいでは在りますね、はい。何でと先程問うた男子が「いやいや。『白雪姫』はドイツの童話だよ?」って突っ込んだ。うん、白雪姫はドイツですね。だが拘り先輩は「大元は英語だってドイツ語だってフランス語だって同じ源流から出来ているじゃない! それに“欧州史”よ? ドイツテイストが入っちゃいけないことは無いわ!」……間違ってないけど、大元って英語前史になるのでは……無茶苦茶な。
「あくまで、英語史を絡めた欧州史で、欧州史自体は別だろう? と言うか、『白雪姫』ってモデルいるらしいけど英語関係無いはずじゃ……」
「催しの主体は英国でしょう? 英語史なんだから。何より、歴史の再現しようって言うのに御伽噺を入れるのはナンセンスよ」
「大丈夫! 英国十六世紀風のドレスはちゃんと作るわ! だから、お願いっ、敦来さん!」
判断は俺に委ねられたらしい。ええー。英語史の皆さんに目を走らせ先輩を見る。先輩は俺、要するに唯子ちゃんだけど、より小さい。もしかして百五十無いんだろうか。眼鏡でおかっぱ。彼女は庶民をやると言っていたっけ。俺は一度息を吐いて。
「……良いですよ。私は先輩の好きになさっていただいて」
先輩の顔が、必死の形相から一気にぱあぁっと輝く笑顔に変わった。化学反応半端無い。取り残された俺を放置して小躍りしていた。どんだけうれしいのだろうか。俺はがっくし肩を落とした。ああ、もうっ。俺の女の子贔屓治らないなぁ。いや、女の子でも可愛い女の子の頼みは断れないよね?
「敦来さんて、やっぱり人を見捨てられないのね」
異見を出していた女子の内一人が俺に言った。“やっぱり”? ここのところの俺の話でしょうか。俺が唯子ちゃんになったせいで唯子ちゃんが“頼むと断れない人”になっているのを知っている。小耳に挟んだ。って言うか、梓川さんが凄い小言食らわせて来た。その場はとにもかくにも、梓川さんに落ち着いてもらおうと「す、すみません」と謝った。のに、今度は「簡単に謝罪なんかするんじゃ在りません!」と叱責を食らった。理不尽。
俺はどうせそのことだろうな、と半分聞き流す態勢でいたのだが次に訊き返す羽目になった。
「中学校のときから噂だったもの。敦来さん、困った人を見ると放って置けないんでしょう?」
今、何と。俺が目を見開いて証言者に向くと、彼女は一瞬びくっと体を震わせた。“中学のときから”、だと……? 「ど、どうしたの?」と挙動がおかしかったけれど俺が「中学からってどう言うことですか?」と尋ねれば、ああそのことか、とほっと落ち着きを取り戻した。すみません、俺の急変のせいでしたか……。突如俺が凝視したからだろう。だって聞き捨てならないじゃないですか。
「昔、いじめられていた子の靴を探してあげたこと在ったんでしょ?」
初耳過ぎてハテナマークが思考回路を占拠した。え? この情報は日記にございませんでしたが? 唯子ちゃんが?
誰かと間違ってんじゃないの、と思ったところへ「あ、私も聞いたこと在る」証言その二。……マジで?
「私が聞いたのは別のだけど。転んじゃった人に手を貸してあげたって」
「敦来さん、絶対無言で何も喋らないし、怖い顔して不機嫌そうにしてるからって近付けないとか」
「お礼言いに言った子に“憶えは無い”“記憶に無い”“人違い”って追い返しちゃうし。……まぁ、敦来さんの場合周辺がうるさそうだから仕方ないのかなって」
唯子ちゃんが。
「知らないでしょうけど。そう言う人たちが密かに敦来さんの靴箱とか、持ち物とか悪戯されないように見張ってくれてるのよ?」
「敦来さんにはね『敦来唯子の妹志望の会』が在るのよ。ファンクラブみたいなものね」
ふぁんくらぶ……ファンクラブっ? 俺の、唯子ちゃんの口元が引き攣るのを面白そうに二人は笑ってる。「あはは、やっぱそうなるよねぇ」超楽しそう。待って、頭が付いて行かない! ええと、唯子ちゃんには中学校のときから人知れず誰かを助けるところが在って、これによって助けられた人たちがいて、何かわかんないけど、唯子ちゃんに惚れてしまって、妹志願になったんだけども、唯子ちゃんは周りに壁を作っているので表立って近付けず、ならば陰から見守りましょう! となって『妹志望の会』が出来た?
「まぁまぁ。敦来さんて、“お姫様”だからさ」
「良くも悪くも、ね。譜由彦様はいるしお家はあの『敦来』でしょ? ピリピリしても仕様が無いとは思うよ」
「最高権力者の中途台頭ってのは、一部面白くないって人もいたでしょうしねぇ」
女子のヒエラルキーって、個人戦の競争社会だもんね、下々の私らには関係無いけど。二人は談笑しているけれど俺は付いて行けなくて困惑していた。下に目線を落としたとき上履きが見えた。
「……」
きれいなこの靴は、名乗らない誰かが守ってくれたもの。何か、胸いっぱいで泣きたくなっちゃったよ。俺もお礼が言いたくなったけど、思い留まった。
『妹志望の会』と言うのを作った子たちは、何も告げず去った唯子ちゃんに憧れたんだろう。俺がここで礼を言ったらどんな事態になるのか。
会の子に、幻滅させ兼ねないんじゃないだろうか。俺は、未だに唯子ちゃんじゃないのだし。唯子ちゃんなら、唯子ちゃんだったら。
「……」
どうするだろうか……?
やることは決まり、俺は手持ち無沙汰になった。メニューは後々先生監督の下決めるとして、衣装作りは例のおかっぱ眼鏡の先輩が作るし必要無い。飾り付けや内装も、家が建築家の先輩が考えて来てくれるらしい。……本当、やること無いんですけど。午後の授業二限分在ったのだけど一限分で終わってしまった。あと一限どうしよう。終わってしまったと言えまだHRが残ってるので帰ることも出来ないし、かと言ってうろ付くのも。
自分のクラスの教室は別の教科が使用中だ。必然的に、俺は理科室に向かった。
が、中には入れなかった。先客がいたのだ。
冷静に鑑みて、科学部がいるんじゃないか、と始め思ったのだがどうも違うっぽい。つか。
「お前も損な性分やなぁ」
「何ですの、急に」
梓川さんと富山くんだった。最初は「なーんだ、二人も早く終わってたの」なんて呑気に入室しようとした。けど、雰囲気が……入り込み難いと言うか。声掛けづらい感じなのだよ。うん。二人は並んで窓の外を眺めていた。考えてみれば貴重なツーショットな気がする。
俺は入室のタイミングをひたすら計っていた。気配を殺しているのも、機を窺っているのであって……! 誰にともなく言い訳して俺は覗いていた。ううぅ。ノゾキみたいで嫌だなぁ。機会を待つ俺に気付くことも無く、二人は会話していた。
「梓川さー」
「何ですの」
「お前、敦来のこと好きだよなー。あ、生徒会長のほうやないでぇ」
「はぁっ? 急に何ですの?」
素っ頓狂な声を出して梓川さんが返す。俺も驚愕に固まった。富山くんは、隠れる俺はともかく隣の怪訝な梓川さんに目もくれず、話を続けた。
「やってぇ、敦来が他のヤツらにちょっかい掛けられんようにわざと派手に絡んどってんやろー、自分」
「───」
衝撃だった。梓川さんが? 俺の、と言うか唯子ちゃんのファンクラブも到底信じられるものではないが、梓川さんが、唯子ちゃんを庇っていたと言うのも想定外だ。けれど富山くんの言はそれを示唆していて。梓川さんは黙して俺から捉えられる部分では微動だにしない。富山くんは、相槌も無いけれど遮ることもしない梓川さんへ、ちらりと視線をやって再び前を向いた。
「派手に突っ掛かるくせに、他人の目が無いところでは忠告しかせん。見られたとしても、嫌味な喋り方でしかせんから見掛けたヤツは“ようやるわ”って気にせぇへん。せやけどな、梓川、見るヤツが見たら、わかんねんで」
「……妄想でしょ。でなきゃ誤解です。どうして私が敦来さんをっ」
「お前やろ」
「何が、」
「膝、怪我して医務室連れてってもろたんお前なんやろ、梓川」
ようやく開口した梓川さんの返答を富山くんは叩き落した。
“転んじゃった人に手を貸してあげたって”
さっきの、聞き立てほやほやの情報と合致する。唯子ちゃんが助けた一人が、梓川さんだった? 尚も、富山くんは追及を続行する。
「“私に恩を売ったつもり?”」
「……」
「言うたんやって? 教室で。やのに敦来には“何の話”って、恩を売られて偉そうにされるどころかとぼけられて、終いには追い返されてんよな。知ってるヤツは知ってんのやで」
「……」
「せやから、隠れて恩返ししててんな、梓川は。そのくせ、階段から突き飛ばしたりして。何したいん、お前は」
「……私は、────」
梓川さんが沈黙を破ろうとしたとき、「……っ!」俺の体が強く引かれた。俺が身を潜めていた扉からすぐ横の、準備室に後ろから抱き抱えられる形で引き摺り込まれる。声は上げられなかった。口を塞がれたから。
「しー……」
小声で、耳元で囁く人に俺は心当たりが在った。何でっ。俺は唇を押さえる手のひらを退けて首を巡らせた。予想通りの人が愉快げに微笑んでそこにはいた。
「せんっ……せい」
椰家先輩。今は先生。何してんのびっくりすんじゃん先輩! 音量を下げて「何なさるんですかっ」抗議する。先輩は「ごめんごめん」抑えた声量で謝意を示すが、悪びれている風では無い。解放されて体を反転し真っ向から抗弁しようとすれば、一本立てた人差し指を唇に当てて“静かに”のジェスチャー。ああ、そうだった。隣の教室には富山くんと梓川さんがいるんだった。
案の定「今物音しませんでした」「気のせいやないか? まぁー学校やし人くらいおるやろうしなぁ」……やばい。別に、したくて立ち聞きしていた訳じゃないけれど、この状況は弁解の余地が無い。先輩がこっそり出ようと提案するので乗った。先立って先輩が隣を窺見し、手招きして来たのを合図に二人でダッシュ。脱出ミッションは、無事クリアしたようです。
「────……先、生っ……どうしてあそこにいらしたんですかっ?」
あの場を抜け出して、念のため理科室の在る校舎から渡り廊下を経て、別校舎に入ったところで足を止める。あー苦しい。俺は呼吸が整うのも待たず先輩に質問を投げた。先輩の仕事場である医務室の在る校舎と、理科室が在る校舎は棟が違う。それこそ、間に棟を跨いで。なのに。
「どうしてって、……印刷室に行こうとしたんだよ」
先輩の事も無げな返しだが、違和感が仕事し過ぎて納得が行かない。なぜなら、印刷室は理科室までに跨いだ棟の中、つまり隣の校舎で職員室に併設されていて、あの理科室まで来る必要は無い。俺が重ねて訊こうとすると、先輩が先じて教えてくれた。
「敦来さんが見えたから」
俺? 俺がきょとんと見返すと、先輩は困ったように笑んでこう詳細を説いた。
「プリンターの紙が切れたから、印刷室に向かったんだよ。そうしたら、前を歩く敦来さんが見えてね。驚かせようと思って跡を付けてたんだ」
音を消して悪ふざけを企んでいたら、理科室の前で俺が聞き耳を立て始めるのでなかなかチャンスが無く、仕方ないので頃合いを待って襲撃したらしい。……成程、辻褄は、合ってますねぇ……だがしかし!
「声くらい、掛けてください! てか、肩叩くだけで良いじゃないですか!」
猛クレームだ。だって、心臓が凄いことになったんだからねっ? 俺が猛口撃を仕掛けていると、超絶美麗なお顔で艶然とご指摘くださった。
「良かったの? 盗み聞きしてたの、バレちゃうよ?」
ぬっ……俺は刹那唖然として、即刻反論した。「盗み聞きなんてしていません!」断じて、盗み聞きじゃないもん! 時機を見ていただけで! 俺が勢い込んで言い募れば“あーはいはい”と言う風体で往なす。むぅうっ、大学時代もホスト時代もっ、そうやって流されましたけどね! ちくしょっ。
俺が歯噛みしていると先輩が「あ、」と声を上げる。俺と目を合わせると「用紙取りに行かなきゃ。敦来さん、悪いんだけど付き合ってよ。この時間にここにいるってことは暇なんでしょう」と誘う先輩。……何の罪悪の曇りも無い晴れた美貌で。ちっくしょぉーっ。反感を覚えたのは瞬きの間だ。あきらめた。先輩は屈託が無い。昔から。人を振り回す天才なのだ。大学の後輩時代言ったこと在ったけど「ゆりのほうが、その点では上だよ」って苦笑していた。あれはどう言う意味だったのかな。俺、身に覚え無いんだけども。
俺が先輩に「良いですよ」と承諾しようとしたとき。
「あ……」
「残念。チャイム鳴っちゃったね」
終業の音だ。教室に戻ってHRだな。俺が「先生」と申し訳無く思って呼ぶと先輩は笑って「良いよ、またね」と背を向けた。印刷室に向かうのだろう。今日の保健委員は別の子たちが手伝いに入ると先日聞いたので、俺は教室でHRが終われば帰途に就くだけだ。俺もぺこり、頭を下げて去ろうと「あ、敦来さん」したんだけれど。
先輩が俺を呼び止めた。振り向き様と言ったポーズで静止した先輩は、やはりナンバー1ホストだっただけ在るなぁと感心するくらい様になっていた。俺も踵を返そうとしたまんまで止まって、先輩に視点を定めた。先輩は、前触れも無しにこう言ったのだ。
「敦来さんを落としたの、さっきの子だったんだね」
さっきの。梓川さんのことだ。そうだった。先輩も二人の話を聞いていたんだった。俺は「そうです……でも、事故でしたから」答えた。この応答は間違っていない。嘘じゃない。梓川さんは俺を、と言うか唯子ちゃんを落としたけど、落とす気は無かったって言ったもの。「もう、終わったことです」お互い謝罪し合った。方は付いている。
俺の科白に先輩は笑った。その笑いは。
「敦来さんは、やさしいね」
何だか、なぜだか、怖かった。
もし。ここで、俺がこの感じた恐怖について言及していれば、あんなことにはならなかったのだろうか。
「……」
「……悪い条件じゃないと思うよ」
「……でもっ……」
「きみの家にも、ね」
「っ、」
「彼女のそばに近ごろいるんだ。簡単だろう? ……ねぇ?」
────言及して、いれば。
ドレスの裾を捌きながら階段に転がった靴の主を追い掛けて。
「梓川さん!」
辿り着いた踊り場で、クッションに埋もれて華奢な肢体を横たえる、彼女を見付けず、済んだのかしら。