5. 夢 見 る 白 雪 姫
俺は、どうしてここにいるんだろうとか、思う訳で。
【 5. 夢 見 る 白 雪 姫 】
図書館だ。多分。本がぎっしりの本棚と、大きめの机が等間隔で並んで在る。俺はその一つに席を取って、勉強していた。服は袖が短いから、夏服だろうか。教科書は、中学三年生。“受験対策”と銘打って在る……目にした問題は結構難しめっぽい。俺はそれらと睨めっこしながらシャーペンを滑らせて行く。と。
「あ、」
消しゴムが転がって床に落ちた。俺が席を立って拾おうとすると、誰かが拾ってくれる。差し出されて受け取り相手を見て「ありがとう、っ」礼を飲み込む。消しゴムを拾ってくれたのは、制服姿の譜由彦だった。スタンダードなスタンドカラーシャツの半袖だ。……じゃあ、コレは唯子ちゃんの夢だろうか。眉間に皺を寄せて、気難しそうな表情。ちょっと畏縮してしまう。俺は席に戻った。俺が腰を下ろすと、譜由彦は、向かいの席に座った。俺はノートに落とした視線を譜由彦へ移した。譜由彦は、未だに不機嫌そうだ。黙っているだけの譜由彦に、やがて俺も勉強に戻った。
しばらくは、かりかりシャーペンの音だけ流れた。遠くの、窓の向こうの喧騒が響いて来る程、ここは静かだ。誰もいないように。唯子ちゃんの夢だし、心理作用かもしれないけどね。ふと、譜由彦が「唯子」呼んだ。
「……何、お兄様」
おお、初めて唯子ちゃんの声聞いた。あ、や、声は聞いてるよ。自分としてね。ただ第三者? としては初だねーって……俺の視点は唯子ちゃんなんだけど、話してるのは俺じゃない唯子ちゃんだ。奇妙な感じ。
「高校、公立にしたいんだって?」
「お爺様に却下されました。“危ない”んですって」
「だろうな」
ええっ、唯子ちゃん公立志望だったのっ? あー、でもそうか。唯子ちゃんて、今じゃお嬢様然としているけれど、もともと普通の子だったんだ。小学校も公立だもんね。お爺さん、過保護だなぁ。行きたいとこ、行かせてあげたら良かったのに。
「無理に決まっているよ。お前は自覚が無いのかもしれないけど、お前は敦来の直系、お爺様の孫娘だ。言うなれば王孫女だな」
何、“王孫女”って。王孫って……あ、王の孫ってこと? ……ああ、まぁ、そうだよね。敦来のお家、かなり大きいみたいだよね。会社名こそ敦来の名前じゃないけど本社、関連会社、子会社まで入れると大きいんだよね。うん、調べたから。つか、各務さんが教えてくれた。学校行く前に。
超口酸っぱくして“良いですか、唯子様は、敦来の後継者候補のお一人。決して変な人に付いて行っては───”って、待て。俺は子供ですか。あのときは各務さんの気迫に圧されちゃったからはい、はい、って首肯してたけどよく考えたら酷くない? 俺、二十年以上生きて来たんだよ? これでも。何だか「わかっています」……な、と。
唯子ちゃんの口調が硬い。譜由彦ぉ、駄目だよ、こう言う子は上から押さえ付けると反発するんだから「納得してないだろ」いや、する訳無いじゃんねぇ「……」ほら、唯子ちゃん黙っちゃった。
俯いて、ノートを凝視したまま動かない。この当時の俺は唯子ちゃんじゃないからか、唯子ちゃんが何を感じていたのかわからなかった。どんな想いを抱いていたのか。俺はむぅっと口をへの字にした。焦れったいなぁ。外野になってつくづく、この二人は擦れ違っていると思った。譜由彦が動いた。ノートを指差した。
「ここ、ここでこれを代入したら訳がわからなくなるぞ」
ノートを唯子ちゃんから取り上げ、唯子ちゃんのペンケースからシャーペンを取り出すと、公式を書き出し始めた。げっ、早っ。数学は元から得意じゃないけど、中三程度ならさすがに俺も解ける。大学出てますしおすし。だけど、これは入り組んでいるし難しい部類なんだよね。基礎も応用も頭に入ってても途中で式を間違えたりする。……何でわかるかって、俺もやったこと在るから。もっとも、この式は高校の先生がフザケて出したとき知ったんだけど。「高校の受験で、コレ試験問題に出すところ在るんだぞ」って聞いたときは、まっさかーと笑ってたんだけどね。マジだったね。
譜由彦はもう解いて「ここを、こっちに持って来るんだ」説明し始めた。ああ、成程……違うくて! 何で譜由彦より年上社会人の俺が関心してんの。俺のところもそこそこ偏差値高いはずなのになぁ。自信喪失するわ。こんな人種がわんさか世の中いるかもと考えると、俺なんかが就職落ちるのも頷けるって言うか。落ち込むわぁ。
「……お兄様は、」
噤んでいた口を開いて、唯子ちゃんが譜由彦の名を呼ぶ。譜由彦はノートから顔を上げ唯子ちゃんを見た。譜由彦の焦げ茶の虹彩に唯子ちゃんが映る。花のかんばせは萎れていた。今にも、涙を散らしそうに……ああ。
「お兄様は、非道いです」
苦しかったんだ。心の拠り所だった譜由彦が態度を変えてしまったせいで、原因が判然としなくて、悩んで来たんだ。唯子ちゃんは。
「お兄様は、私をご自身から引き離して置いて、戯れにやさしくする。……残酷、です」
とうとう、泣いてしまった。もしかして、唯子ちゃんは、譜由彦が────。譜由彦が席を立った。
「お兄様っ……」
抑えた声量で、叫ぶ唯子ちゃんを、譜由彦は一瞥して背を向け「……唯子」話し掛けて来た。いや、こっち向けし。
「唯子。俺はね……────今ここにいる『俺』は、お前の『お兄様』じゃないんだ。
ごめんよ、唯子」
どう言う、意味だったのだろうか。雫は、ぽろぽろ拭いもせず頬を流れている。……痛いなぁ……。
見てはいけないものを見た、そんな気がして俺の寝覚めは最悪だった。
「復帰したばかりなのに悪いね、敦来さん」
朝、俺は衝撃的な事実を知った。梓川さんの軽口に付き合い、富山くんや鵜坂くんののんびりトークを躱していたとき。字は間違ってないよ。交わしてないもん。安房くんが、林檎さんみたいに赤い頬の超笑顔で言ったんだ。
「言うの忘れてたんだけど、敦来さんは、保健委員だったんだよね」
ってね! 「で、今日保健委員の仕事在るそうだから仕事よろしく」だとか何コレ、今日見た夢の呪いじゃないだろうね、唯子ちゃあんっ!
「いえ、良いんですよ。お仕事ですもの」
「はは、真面目だなぁ」
譜由彦が頭に浮かんだけれど、前任のお医者さんからこの係だったんじゃ仕方在るまいよ……。あー、怒られそう。出来れば、譜由彦との間柄は修復させて置きたいんだよ。先輩との縁を断ち切る気は毛頭無いけども、譜由彦ともうちょい歩み寄ってからとかさー。俺の計画だだ崩れじゃない。もうっ。
「敦来さんは、お嬢様なのに手際が良いね」
「え、そうですか?」
現在放課後。俺と先輩は保健便りを作っていた。医務室の隅っこで並んで座って。……この学校に保健便りが在ったことにびっくりしていたら「小学校用なんだ」あー、付属小学校ですね、畏まりましたぁ。医務室は小中も各所と在るけど、保健便りは高校の医師も参加する決まりなんだと。まぁ、そこからはとんとんと。俺と先輩の二人きりで作業に従事していた。俺たちしかいないって、他の保健委員は忙しいのかね。
「一息入れよう。珈琲でも淹れようか」
「あ、お構いなくーっ」
座業だし、た、たかがプリントの整理くらいで……だけどもこの学校の生徒数が半端無いからね。小学校は六学年八クラスだもので。一クラス何人だっけ。三十人以上はいたような。うん、俺を気遣っているんじゃなくて先輩が休みたいのかもしれないし。俺が紙ホチキスを留めていると先輩がカップを二つ持って来た。俺に一つを渡しながら「今更だけど珈琲で良いよね」はい、今更ですが計算ですよねっ。笑ってますもんねっ。俺も極上の笑顔をイメージして「ありがとうございます」微笑んでご馳走になった。
「しっかし、ここの学校は毎度多いんだよねぇ、やること。教員や職員、生徒に平気で負担掛けるんだよ。理事会は踏ん反り返るだけ。変わってないなぁ、ったく」
ぼやく先輩を眺めつつ珈琲を啜る。美味しいなぁ。インスタントとは思えぬ。まさかまた先輩の珈琲飲めると夢にも……あ、嫌なこと思い出した。何であんな夢見ちゃったかなぁ。俺が遠い目をしてカップの縁をがじがじ噛んでいると、先輩が何か抜けた表情でこっちを見詰めていた。俺が小首を傾げて「何ですか?」尋ねると先輩は、はっとした顔で「えっ、あ、ああ」とおよそ先輩らしくなく珈琲をぐいっと飲むと、一瞬逡巡した様子で、次に口を開いた。
「カップの縁、」
「はい?」
「噛むの、癖だったんだ。この前話した後輩も」
……っ、しまったぁぁあああっっっ! 脂汗の滲む俺に、感付かない先輩は「何度言っても直らなくてね。こうなってしまうとすべてが懐かしいよ」回想に目を細めている。俺は、俺は気が気じゃないんですけれどねっ。何やってんだ、俺……。正念場で、上手く行かない、それが俺。各務さんのときと言い、本当に駄目男だよ。ダメンズだよ。ああ、俺現状男じゃないんだった。ちらっと窺った先輩は想いを馳せてる。過去に、かな。
少し空虚に見える先輩。俺のせい? 胸に針が刺さったような痛みが走った。あの夢を見てしまったときも痛かったけどね。
「敦来さんを見ていると、あのころみたいに安心するよ」
“アイツは、お前を、亡くした後輩の代わりにしたいらしい”
『代わり』、かぁ。正直言って、ピンと来ないんだよね。譜由彦はああ言うけども。俺自身、どこかですでに“唯子ちゃんの『身代わり』”な気がしているからかな。いや、俺は唯子ちゃんなんだけどね。今は。
何て表して良いか、俺はまだ『白井優李』だから。この人の後輩だから。『代わり』どころか“張本人”だから「……」むしろほっとするって言うか。
「ああ、気にしないでね。後ろ向きってことも無いんだ。どう言おうかな。うん。
敦来さんに会えて、前に向けたかなって思うんだ」
先輩は実に晴れ晴れとした、俺でも見惚れてしまう笑い顔だった。……譜由彦の忠告を守りたい意思は在るんだけれど。
先輩が俺に執着していて、俺の代わりに唯子ちゃんを据えようとしているようには、どうしても見えないんだよなぁ。どっちかって見ると俺の代わりってより、唯子ちゃんに気が有るのでは? って。美少女だし。こんな美少女が先輩の弱点キィワードたる「無理しないでください」を発動すればころっと行くんじゃないだろうか。……待て、ちょっと待て。だったら、俺、難しいポジションじゃね。どちらにしても。俺、先輩に迫られるんじゃないだろうな「……るぎさん」昔押し倒されたのは、酔っ払いのアレだし、いやーいやーそーれーはー無ー「敦来さん?」おおっとぅ。
「あ、は、はいっ」
うっかり没頭しちゃったよ。いけない、いけない。俺は頭を振った。リセットして先輩に向き直った。先輩は緩い苦笑を容色に乗せて「疲れちゃった?」訊いて来る。「そ、そんなこと無いです。ごめんなさいっ」慌てて謝った。先輩は仕様が無いなぁと言わんばかりに「良いよ。敦来さん、本調子じゃないんだもの。付き合わせてごめんね。もう粗方片付いたし、帰って良いよ」ああああほらまた気ぃ遣わせちゃってんじゃんんん。俺がわたわた言い訳を考えていると「それに」先輩が言葉を切った。
「敦来くんに言われたんじゃない? 俺に近付くなって」
「───」
無意識に飲み込んでしまった。先輩に射竦められて。
先輩は笑んでいた。先の朗らかなものとは異なる、嬌笑。毒を含んだ、嫌に艶めいた笑みだった。先輩はくすっと「嘘が付けないね、敦来さん」笑いを洩らし距離を詰める。俺は後ずさった。再び先輩が詰める。俺は下がる。
が、間の悪いことに俺は医務室の隅の事務机で作業していたのだ。奥に座っていた俺はすぐ壁際で、簡単に追い詰められた。俺は先輩を見上げていた。先輩は俺の背後の壁に片手を付いて俺を見下ろしている。椅子ごと後退していたからね。つか前に先輩、横に壁、後ろにも壁、壁と逆側には作業台だった机。
わーい、四面楚歌……ん? 覆水盆返らず……何か違う。七転び八起き……あ、「八方塞りだ!」声に出しちゃったぁぁああああ。俺は急いで口を覆う。恐る恐る仰ぎ見た先輩は、毒気の抜かれた顔で目を丸くしていた。次いで。
「────っぷっ、はははははっ」
お腹抱えて笑い出しましたよ。大笑いですよ。力抜けたのか座り込んで。良いとこ着地点に、元より先輩が座ってた椅子が在ったしね。俺は呆気に取られて、徐々に事態を把握して顔を押さえた。本っ当に、すみませんねぇええ。シリアス持続しない性格で! 先輩は一頻り笑ったあと俺に向いて「……ごめんね」謝罪した。収まり切らないのか口元はにやけている。けど、こんな顔すら格好良いって美形ってマジ得だよねっ。
「……急に、驚きました」
「そうだよね。敦来くん、生徒会長は俺のこと良く思ってないからさ、敦来さんも誤解していたら哀しいなぁって」
「誤解って……」
せつなそうな顔すんな。先輩とは言え言いたいぞ。この間の、犬みたいな鵜坂くんといっしょで免罪符になりませんから。……って、言ってもどうせ俺は先輩に甘いんですけどね。
「うん。俺も精神状態あんまり良くなくてさ。この前話した後輩が精神安定剤みたいなところも在ったんだ。だからね、俺からすると後輩が死んじゃったのって精神安定剤が無くなるのと同じなんだ」
大袈裟な……と俺が半ば呆れていたら「大袈裟だと思うでしょ」先輩に指摘された。だってねぇ。そして先輩の捉える“大袈裟”は、唯子ちゃんが思う他人の意見での“大袈裟”で、俺が思うのは当人としての“大袈裟”なので少々別なのだよね。訂正は叶わないから黙るけど。ささやかな差異だしね。
「俺の家はね個人病院でね。この学校じゃ多い、俗に言う一族経営ってヤツ。父も叔父も伯母もみーんな医者。母は看護師だった。小さいときに亡くなったけどね」
今度俺が目を見開く番だった。先輩のお母さんが亡くなっていたなんて初耳だ。先輩はいつだって、明るくて周りを盛り上げていて気遣っていて……頭が良くて顔も良くて人気者で。俺は当初「こんな完璧超人いる訳? 何か胡散臭い」なんて疑惑の目で見ていたものだ。お世話になる内に改めた。それと。
ひとりだ、って思ったんだ。先輩の周辺は常に先輩を慕う人で溢れていたけれど、先輩はいつだって、ひとりで抱え込んでいた。俺は不意に気付いてしまって、先輩に積極的に接して来たんだ。……まぁ、と言いつつ面倒を掛けていたもので。俺にも、気をゆるせなかったのかもな。うーん、少し、こう、指と指で輪っかにして隙間五ミリくらい? しか。ショックだなー。俺がひとり凹んでいる合間も先輩の語りは続いている。唯子ちゃんには話せるってのは、やっぱり性差なんだろうか。
「みんな医者ってのはね、厳しいよ。頭でっかちの集団だからね。母が生きていればまた違うかもしれないけれど。片親になったことで父の親としてのプライドも在ったのかもね。母への想いも有ったのかもしれない。俺を一人前の医者にすることだけ徹底していた。周囲もそう言う父を応援した。俺は家政婦さんが作ったご飯を食べて、家政婦さんが洗ってくれた服を着て、勉強に明け暮れた。一日が終わるころ、家に帰ると夕飯を用意してくれた家政婦さんが入れ違いで帰って行って、家政婦さんが掃除してくれた部屋で眠るんだ」
俺は静かに聞いていた。俺の子供のころ。家には必ず母がいた。父が帰って家族でご飯を食べて、本を読むのに熱中していると怒られて。顔も浮かばない、声も思い出せない。だけれど、あたたかい家庭が在った。子供の自分は、「ただいまーっ」って言えば「おかえり」って返って来る家に住んでいた。先輩はその時分、そんな風に過ごしていたんだ。
「詰め込む知識だけが俺の変化で成長だった。だけどね高校へ行って、ちょっとだけ楽しかったんだ。」
先輩の硬質だった面持ちが綻んだ。何が在ったんだろうか。心持ち声の調子も弾んだような。
「この学校の生徒だったのは言ったっけ?」
「あ、いえ……」
先輩からは聞いていません。譜由彦に聞いていますが。俺が否、と答えると「そうだよね、大学の話までだったっけ」先輩も頷いた。先輩から聞いたのは確かにその辺りだ。俺が肯定すると先輩は「そうだったね」微笑した。華やかだな、おい。
「高校のときはこの学校だったんだ。ああ、敦来さんとも先輩後輩に当たるね」
「へぇー、あ、あはははー」
その御蔭でこの前失言に対する追及は逃れましたからね。いやー、気を付けよう、マジで。うん。空笑いで相槌打って置きました。
「この学校で生徒会長を務めたんだ。凄いだろ?」
あー、先輩が生徒会長ね! 似合ってる似合ってる。似合い過ぎだわ。譜由彦もなぁ。『あの』、譜由彦だったらわかるもんねぇ。二人とも、似通ってるし生徒会には向いてると思う。言ったら命無さそうだけど「凄いですね」俺が素直に称賛すればうれしそうにしている。何だ、この可愛さはっ。
「そのときはね、好きな子もいたんだよ。生徒会のメンバーでね。会計だったんだ。『由梨』って名前なの」
え、と俺は洩れそうになった。寸でで引っ込めた。“由梨”……『ゆり』? 先輩の、俺の呼び方と同じじゃない。俺が何も発せずいると先輩は「由梨はね、」話し続けている。俺は貧困なボキャブラリーで場に合った返答も見付からない。放棄して、静聴するしか無かった。
「良い子だったんだ。頼まれると断れない。都合が悪くても、嫌だ無理だ言えないから、俺がよく矢面に立っていたよ。勿論、俺も立場を悪くしないよう周到にね。ところが、……」
「ところが?」
「由梨には別に好きな人がいて、俺は振られちゃった」
俺は、え、と今回は間に合わず口に出してしまった。ふふふ、と先輩は楽しそうに声を立てて笑った。先輩の中では笑い飛ばせる部類なのだろうか。ま、先輩モテるしね。由梨さんに拘らなくても彼女は出るだろう。苦笑いに「守って来たのに鳶に持って行かれちゃったって訳。ざまぁ無いよね」気にしてるんじゃない、先輩っ! ここは何、フォロー? どんなよ。ってーか。
先輩は好きな人、予想では未練が大いに在る女性の名前を俺に付けていたと。「……」何か、それって。
唯子ちゃん以前に、俺が、『代わり』だったんじゃないの? なんて。
ちょい落ち込んだ。いやいや、先輩に可愛がられていたのは確固とした記憶ではないですか。別に俺、元カノとかじゃないし? 『代わり』ったって名前だけじゃないさー。……でもさ。やったらめったら俺の呼称に固執したのはコレなのかと思うと、思うとね。得も言われぬ複雑さが在りますよ? 「でね、」ああ、続くんですね、聞きますよ、どうぞ。俺は言いようの無い気持ちで微妙にやさぐれていた。背中も心成しか丸くなった気がする。もう良いや。好きにしてくださいっ。
「いろいろ在って卒業して、俺は持ち上がりでなく外部の大学に進学したの。いたくなかったからね」
「へー」
彼女と、彼女の恋人が付属の持ち上がりなら、そりゃ嫌でしょうね。俺の返しが棒読みのおざなりになっていることも感付かないらしい。先輩の話は止まらない。結果として、俺の機嫌が持ち直すことになるんだけども。
「医療に特化したところ、と言われ続けたんだけどね。普通の四大に行ったんだ。行って良かったんだ。後輩に、ゆりに会えたから」
「……」
良い笑顔で仰有られても。俺は、俺は……くっそ、晴れてるぞ。気分が晴れてるぞ。ちっとだけだけどね! 先輩はしあわせそうな笑いを浮かべている。そこまでの顔されると、俺としても如何ともし難いんですが。先輩は上向きに空へ焦点を定めて追想に耽っている。俺は目線を落とした。
「ゆりはね、男なんだけど良い子でね。きれいな子なんだ。外見より、中身がね。やさしくて、よく周りを見ていて、他人のために平気で自らを差し出せる、そう言った、子だったんだ」
俺は! そんな聖人君子じゃありませんんんーっ! マジでやめてください! 俺はスカートの裾を握った。でなければ叫び出しそうだったから。何なんですか! 気恥ずかしい! 面映い! 先輩は本人じゃないと思っているから、にこにこしてるけど俺は、未だ『白井優李』なのでつらいんです! ああああ、叶うなら今すぐ先輩の口を塞ぎたい。俺が葛藤して耐えている間も「ゆりはね、」とか賛辞を垂れ流している。羞恥プレイも良いとこだよ、コレ。先輩の口が駄目なら、こっそり己の耳を塞いでも良いだろうか。俺が途方に暮れていると、いきなり先輩が話をやめた。盗み見ると先輩は視点はままに無表情になっていた。今までの起伏が抜け落ちたかの如く。そうして、ゆっくり、唇を動かした。
「死んじゃった、んだけどね」
「……っ……」
泣きたいのをあきらめて飲み込んだ微笑みだった。俺は、思わず手を伸ばした。先輩は、吃驚したことだろう。体が強張ったし。一女生徒、一保健委員でしかない唯子ちゃんが先輩を抱き締めたら、おかしい。けれども、このときの俺は衝動に任せて、後先なんか考えていなかった。
「無理しないでください……っ」
ぎゅっと強く先輩の頭を抱く。先輩は一度動きを止めると体の緊張を解き、ぽつりと。
「ゆりもね、“俺がつらそうだ”って抱き締めてくれたなぁ」
そうだっけ。記憶に無い。消えちゃったのかな。俺は無言で先輩を抱き込む力を強めた。え、顔に唯子ちゃんのバストが当たる? んなこと構っていません。
だって、こうしなければ先輩が消えてしまう気がしたんだ。死んでいるのは、消えるのは俺なのに、先輩のほうが死んで消えてしまいそうだった。先輩がぽんぽん、あやすように背を叩く。ふふふ。笑い声が耳に入る。……もう、先輩と来たら。不満に唇を尖らせた。離れず微動だにしない俺は、ぼそっと先輩が零した科白を聞き逃していた。
「……やっぱり、良いな、敦来さん」
俺の腕の中で、にやりと妖艶に笑んでいたなんて、俺は露程も察していなかった。
同じころ。生徒会室では暗雲が立ち込めていた。主に、生徒会長のせいで。生徒会長って言えば。
「ちょっと落ち着きなさいよー、譜由彦」
そう、譜由彦である。手を止めず皆黙々と各自の仕事をこなしていたのだが、重い空気に耐え切れなくなって不動が文句を付けた。当の譜由彦は「落ち着いているだろう」と取り合わない。「黒いオーラ背負って何言ってんだか」続いたのは薬師だ。これにも「背負ってない」認めない。「眉間の皺も、凄いですよ」十石が言うも「いつものことだろう」言い切る始末。三人は顔を見合わせ嘆息した。ここで「譜由彦は、」『仏の恵比寿』こと恵比寿御大のお出ましで在る。三人は手を休ませず心中で拍手喝采した。譜由彦も、恵比寿の前では手を止め顔を上げた。それで一言。
「俺は過保護じゃない」
恵比寿が何事かを告げる前に遮った。このときの一同の思いは一つだったと思う。“え、またなん?”と。恵比寿は周囲の思惑も放置して「まだ何も言ってないよ」と明るい笑いで言った。譜由彦の顔面は、この世のモノとは思い難いレベルで歪んでいた。言わずもがな、怒りで。「うわぁ……」と呟いたのは不動だ。事の発端がわかったのと、各所仕事が一段落したのは同時だったらしい。十石が「お茶淹れます」立ち上がり、薬師が背筋を伸ばし、不動は「今日顧問の先生がお土産持って来てくれたよー」と引き出しから菓子折りを出した。睨み合っていた、と言ってもそう思っていたのは譜由彦だけ、恵比寿は相好を一切崩さず「あー」と声を上げた。続く単語は顧問の名だ。
「安李先生、帰って来たのか」
顧問の下の名前である。この若い教師は若いながらにデキる教師だった。見た目、特に服装は黒シャツ白スーツとホストみたいなチャラさだし、言動は粗暴でたおやかといっそ言ってしまえそうな美貌もことごとく裏切っているのだが、裏腹の能力で生徒会の顧問に伸し上がっていた。この学校は自主性と言う都合解釈の元放任だ。その学校の中でも最たる放任主義で、責任だけは取る、と豪語して生徒の好きにさせるこの教師は、歴代の生徒会顧問で一番の人気と功績を残していた。譜由彦たちの代が優秀で結果オーライなだけ、とも言えるが手前勝手にやって怒られない環境は、確実に生徒会を育てていた。……で、この教師。
実は俺こと『白井優李』の叔父の安李くんである。よもや唯子ちゃんの学校だったとは俺は夢にも思っていなかった。
「みたいね。今日会ったんだけど。取り敢えず挨拶だけ、みたい」
「そーなんですか。早く復帰していただきたいですね」
「まーね。確認してもらいたい書類も在るしねー」
口々に意見を囀る右から不動、十石、薬師だったけども、めずらしく神妙に笑みを収めた恵比寿が「仕方ないよ」言ちた。
「安李先生、出張の最中に甥御さんを亡くされてるんだから」
恵比寿の言う甥御は当然『白井優李』なのだけれど、紙面でも知るは譜由彦のみだった。譜由彦は眉の間の皺を減らすこともせず前髪を指に絡め弄んでいる。恵比寿がその様子に「聞いていないね、譜由彦」上の空と断定。譜由彦はすかさず「聞いている。安李先生が帰って来ているんだろう」即答したが恵比寿は「譜由彦はこれだから、」と愚痴った。恵比寿の小言はたまに在るが愚痴やら苦情は殆ど無い。この辺が、『仏』の異名に拍車を掛けているのだけど。
「譜由彦はね、ちょっと過保護過ぎるよ」
「またお姫様関係? 飽きないわねぇ、あんた」
「別に。それに俺は過保護じゃない」
「いやいや、自覚してぇ? 譜由彦さ、今日マジ怖いから。不機嫌度MAXじゃん。姫以外でそうなるなんて無いからね」
「うるさい、薬師。俺だって不調の日も在る。あとお前、髪を切れ。お前が髪を切ったら直るかも知れないよ」
「えぇえっ、絶対無いよ! 髪切り損でしょ! 報われないことしないよ俺は!」
「薬師、うるさいですよ。でも変ですね。今日、姫に関して特に悪い噂や事件は耳にしていませんが」
「そうね。階段から落ちて以来人が変わったようにおとなしいって言うか。私の妹分たちも“会話するようになった”とか“不気味なくらい人当たりが良くなった”とか。評判良くなっているけどねぇ」
「違うよ。そうじゃないんだよ」
それぞれ、不動は封を開けたお菓子を摘み、薬師は不動が抱え込んでいた菓子の箱をテーブルの中央に置き、十石は全員分の茶を淹れ、恵比寿はそれを受け取り全員に配っている。各々役割を全うしつつ喋り倒していた。恵比寿の発言に譜由彦以外が疑問符を飛ばしている。譜由彦だけが、仏頂面を晒していた。
「何でも、保健委員にしたことを悔いているんだって」
「はぁっ?」
「何でまた?」
「譜由彦ぉ。まさかこの前の二人で会っていたのって、保護者面談だったんじゃないだろうね?」
怪訝に譜由彦を見遣る三人。しかし譜由彦は口を硬く閉ざしていた。一人、恵比寿だけが「黒なの?」と尋ねた。三人はこの問いにも訝しげな目を向ける。「多分な」譜由彦はそう答え茶を飲んだ。三人は展開が読めなず困惑だけを深めていた。ふっと、恵比寿がようやく標準装備の笑みを造った。これを発言権を得たと取り、薬師が手を挙げた。「はい、薬師」恵比寿が指した。薬師は居住まいを正した。
「椰家先生が何したのかわかんないけどさ、とにかく“何か”在って、譜由彦が警戒してるってことだよね?」
「そうだ」
「でー、その真偽をこの前質した、のはわかった。……先生は、譜由彦の『敵』ってこと?」
一見しておかしな質疑だ。が、この場で誰一人として、この質疑をおかしいと感じていない。譜由彦も至って平然と「『敵』だな」断言した。薬師はそれだけ聞くと「そっか」と引き下がった。次ぐ挙手は不動だった。
「『敵』認定はわかった。何で? 理由は?」
普段の快活な雰囲気は鳴りを潜めていた。不動の瞳はまるでプロの勝負師だ。鋭いが無感動な光を宿している。
「人が死んでいる。直近で三人。内一人は事故死だ。一人は刺殺。一人は自殺。事故死の一人が椰家のたいせつな後輩だった。刺殺されたのはウチの隈倉。自殺したのは隈倉を殺害したホスト。椰家は目撃者で通報者。表向きはな」
「つまり、譜由彦は、椰家先生が殺ったって思うの?」
「出来過ぎているからな。刺し殺された隈倉を庇って後輩は亡くなっているし、後輩以外に価値を置いていなかったようだ。椰家は」
「成程ぉ。動機は在るのね。当の本人は何て?」
「否定も肯定もしなかったね。宣戦布告擬きはされたけどな」
「唯子ちゃんが懐いてるんだって」
「あらぁ。それはご愁傷様っ」
恵比寿の補足に常態の不動が戻った。明るく茶化すが目の色は変わっていない。だけども気が済んだのか茶を飲んで菓子を口内に放り込んだ。最後は当然、十石だ。
「証拠は在るんですか?」
この問答には不動と薬師が何を言ってるんだと言いたげに十石へ返事した。
「在る訳無いじゃなーい。在ったらこんな優雅に緑茶を啜ってないわよぉ」
「そーそ。譜由彦が『障害』じゃなく『敵』と見做したんだからそーんな間抜けじゃないってぇ」
からから笑っている。軽いなと呆れながら譜由彦は多くを語ろうともしなかった。ひたすら茶を口にしていた。一巡したところで恵比寿が譜由彦へ報告を始めた。
「譜由彦」
「何だ」
「椰家先生だけど……難しいよ」
先輩の実家、椰家の病院は個人病院で在る。規模も大きくは無い。けれど、患者層が異常であった。政財界の重鎮から広域暴力団のトップまでが掛かり付けとして利用しているのだ。表では他にも掛かり付け医や病院も在るのだが、必ず共通して受診先にこの椰家の病院が名を連ねている。要は。
「無くなると困る後ろ暗い権力者が数多ってことだな」
「後ろ暗くは無いけど、ウチもね」
恵比寿が間髪入れず進言した。譜由彦は皮肉な笑みで応じた。
「恵比寿組の跡取りも御用達って訳か」
「僕じゃないよ。僕は普通の病院に主治医がいるよ。ウチの“若い社員”が結構厄介になってるみたい。あとね、譜由彦、ウチは金融と不動産と風俗と飲食店の多角経営だよ。暴力団のように言わないでほしいなぁ」
「歴史と土地と武器だけは莫迦に在る、ね」
暗雲が過ぎれば冷気と来た。残念ながら、この生徒会には正常な神経の者はいない。皆平静を保って茶飲み出来る者ばかりだ。冷戦状態の二人を後目に菓子の批評会をしている。二人は二人で、しばしの後、折れたのは恵比寿だった。
「まー良いよ。敦来を怒らせると商売出来なくなりそうだから。そう、でね、譜由彦。椰家先生なんだけど。不審な点は直近の三人だけじゃ無さそうだよ」
恵比寿の仕入れた情報によると、隈倉、彰吾の死者の外に行方不明者が二名いるらしかった。その内一人は。
「縞木……由梨」
先輩が会長だったときの会計で好きだった人。
それから、唯子ちゃんの、お母さんのたった一人の妹だった。