4. 白 雪 姫 の か え り 道
「何しているんだ、唯子」
いっえーい。嫌そうな顔。きれいなご尊顔が台無しですぜ! ……口が裂けたって言えないけどね!
【 4. 白 雪 姫 の か え り 道 】
なぜか、譜由彦が待っていた。玄関前の駐車場、車の前で各務さんではない人、多分正規の敦来家の運転手さんが待っていた。車も人も朝と違うから、俺は始めわからなかったんだけど「唯子様お迎えに上がりました」って呼ばれてウチの人かなーって。悩んだけど一応お嬢様だし? 近寄らず警戒していたんだけれど、先に中で待っていたらしい譜由彦が車窓を開けて、前述のお言葉をくださったのでございました。……何でいるんだよぉ、とは言わないし思わないけど。
「お兄様、お待ちでいらしたんですね」
反対側に回り込めば、運転手さんがドアを開けてくれるのでぺこりと礼をしつつ車に乗り込む。譜由彦からしたら、俺が学校に残っているのに帰ったりしようものならお爺さんに、こっ酷く叱責を食らうに違いない。俺が生徒会長の譜由彦より遅く、未だ残っていることを知っていた理由は、至極簡単な種だった。
「安房くんから、報告が行きましたか」
唯子ちゃんて、思うにほんっと、面倒臭い子なんだよね。日記からも負けず嫌いは滲み出るどころかまんま垂れ流していて、やられて流すタイプでもないから陰口の格好の的だったようだ。ゆえに大半の生徒は遠くから見ていたい、もっと言うと一切関わりたくない。だもので、声を掛けるのは譜由彦ファンの一部の過激派くらいだ。梓川さんみたいな。日記を読むと当時のことが如実に記されている。譜由彦は多忙な人種だ。この危なっかしくて面倒な従妹を、四六時中見張って置くことは出来ないだろう。とすれば、必要なのは自身の代替となる『眼』、監視役だ。
安房くんは譜由彦が配置した手駒、唯子ちゃんへ遣わした監視役だ。突然接近した富山くん、鵜坂くんは無い。富山くんはおとぼけだけど鵜坂くんはあれだけ顔を覆っているにも関わらずわかり易いから。梓川さんたちも、有り得そうだけれど、梓川さんと唯子ちゃんは犬猿の仲だ。消去法をして、残るとすれば彼しかいない。
「安房が言ったのか」
「いいえ。でもお兄様と昔いっしょに生徒会で仕事をしていたなら、有るかなって」
中学のとき、生徒会長だった安房くん。譜由彦も生徒会長だった。二年違いで入れ替わりでは在ろうが立派な接点だ。引き継ぎで仲良くもなるだろう。梓川さんも“可愛がられている”って悔しそうにしていたし。悔しそうに。譜由彦は黙然として是とも否とも言わない。車は会話する間に緩やかに発進していた。流れる風景を眺めていると、ぽつんと。
「椰家とは関わるなよ」
忠告して来た。Why? とかなったけれどしばらく置いて、譜由彦の指す『椰家』が先輩とイコールして俺は食い下がる外無かった。いやいや待ちーよ。何で、急に。
「ど、どうしてですか?」
だってだって、せっかく先輩に会えたのに。俺は良くしてもらったのにお世話になったのに、お別れもお礼も言えなくて、今も言えなくて、せめて、先輩にまた“無理しないでください”って、先輩他愛無いこんな言葉によろこんでくれるから、言いたいのに。俺の自我が在る内に。焦れて「どうしてですかっ」勢い込んで、一人分空いていた距離を詰めて訊く俺に、譜由彦は嘆息した。俺をじろり顔は向けず瞳孔だけ動かして、ひたと見据えた。反射的に詰まらせたのは、迫力負けした俺か譜由彦に従うことが染み付いてしまった唯子ちゃんの体か。
「どうしてもだ」
「そんなっ、」
ばっさり切り捨てられた。訳も教えてもらえず禁止されても困る。納得だって出来ない。俺が尚も粘ると譜由彦はきれいな顔貌を険悪にさせた。竦む身を奮い立たせ見詰める。再び譜由彦は息を吐いた。
「……お前は、そうとうあの男が気に入ったんだな。余程好みだったのか?」
呆れたみたいに蔑むみたいに、眼を眇める譜由彦に「違うっ」即否定した。「違わないだろう。初対面でそれでは、な」譜由彦は取り合わない。俺は「……どうして、ですか」食らい付いた。ここで引いてしまえば、先輩への接見禁止を命じられてしまうこともそうだけど、二の舞だと思ったからだ。あのときの。
叔父さんに襲われていたとき、助けてくれた譜由彦へ俺は萎縮してしまった。身の危険に晒されたせいで混乱していた、だけど、もう嫌だ。
唯子ちゃんの記憶なのか、もしか、ひとりで心細かった俺か。支えてくれた譜由彦に罵られるのはつらかった。つらかったんだ。
「私は、誰も誘っていない。そんな相手がいないことくらい、安房くんから聞いているでしょう。そんなに、信用出来ませんか」
「……。鵜坂宮と富山神はどうなんだ。仲良くなったらしいじゃないか」
「あの二人は友人です。変な勘繰りは止してください」
反論しつつ、初めて鵜坂くんが『宮』って名だと知った。『宮』……富山くんは『神』でしょ。二人合わせて“神宮”……すみませんでした。神様。考えて、男に殴られるヴィジョンが……あとで謝って置こう。何となく。
「勘繰りね……言うようになったじゃないか」
くくくっと喉を鳴らす笑い方。嫌な笑い方だ……あれ? 俺、前にも同じこと考えていたことが在ったような……いつだっけ……「とにかく」あー、じゃなくてっ!
「あの男には近付くな。アイツは危険だ」
「何が、ですか? 唐突に言われても困りますっ。第一、具合が悪くなったらどうするんですか? 医務室に行くなと?」
「……俺か安房を頼れば良いだろう。すぐに敦来掛かり付けの医院に連れて行ってやる」
いやいやいやいや、何言ってるんですか。長ぁい足組んで格好良くポーズ決めて置いて、残念な発言は控えてください。
「……その間に死んだらどうするんですか。無茶苦茶ですよお兄様」
俺のほうが呆れる番だ。頭痛い。俺が頭痛に見舞われ額を撫でていると「そんなに、」譜由彦がこちらを向いた。肘置きに肘を突き頬杖をして、俺を捕捉し言い放った。
「あの男が好きになったのか。どんな手管で落としてくれたんだか……これだから水商売の人間は」
「……っ、先輩はそんな人じゃない!」
つい叫んでしまった。だって、酷い言い草だ。そもそも水商売の人に失礼だ。ホストだってキャバクラ嬢だって風俗だって、凄い人は凄いんだから。そりゃあ、彰吾みたいなのだっていたけど、特に先輩はやさしい人だ。医者って言うもう一つの職業柄かもしれないけれど、一度来た人の顔は名前共々覚えているし、その人の零した話も全部記憶している。ああ言うお酒の場で、限定された空間でしか本音を出せない人も多い。みんな、先輩に励まされたって、また元気になったって、がんばれるって。なのに、酷い。譜由彦が「“先輩”?」眉根を寄せた。「あ……」俺は唇に触れた。塞ごうとしたけれど、遅い。何言ってるんだ。俺は、後輩の『白井優李』じゃないのに。敦来譜由彦の従妹の『敦来唯子』なのに。どうしよう。どうしよう。俺が視線を迷わせていると。
「確かに、椰家は卒業生だから先輩に違いないが。現在は教諭ではないけど職員なんだ。医師なんだし、『先生』と呼びなさい」
叱られた。けど、先輩この学校の出身なんだ。そっか。そう言う伝てなのか。大学からは俺と同じところにしたんだな……ん? けれどもこの学校、お坊ちゃんお嬢様の学校じゃない? 一般生徒もいるけれど。先輩、坊ちゃんなのかな。あー、そう言や先輩の家って病院だったような……どっちにせよ金持ちか。
「……よもや、あの男が呼ばせているんじゃないだろうな」
てか、譜由彦も失敬だよね。先輩のこと、『先生』どころか呼び捨てやら“あの男”やら。俺は「違います。何でそう思うんですか?」唇を尖らせる。先輩が唯子ちゃんに『先輩』呼びさせるって意味不明じゃない。俺が抗弁すると、譜由彦は腕組みして座席に深く座り直した。こうしても足が余裕で下に着くんだから長いおみ足ですことで。一呼吸置いてから告げられた説明に目を剥いた。
「アイツは、お前を、亡くした後輩の代わりにしたいらしい」
あくまで予想だが、と濁しながら譜由彦は眉間の皺を増やして空を睨み付けた。俺は思考停止に微動だに出来なかった。今し方、譜由彦は何つった? “お前を亡くした後輩の代わりにしたい”? えと、『アイツ』って、先輩? 後輩は、なら『俺」? 唯子ちゃんを、俺の代わりにしたい。らしい。……なぜ。俺が混沌に突き落とされて真っ白になっていると譜由彦が「“無理しないでください”」洩らした。
「言ったんだって?」
「え、」
「どう言う経緯でそうなったか知らないが。アイツはこれを甚くお気に召したようだね」
「そのぐらいのことで、」
「アイツが言っていた。後輩も同様の文句を椰家に掛けていたそうだ。また、えらく厄介なヤツに好かれてくれたものだよ」
俺が思うよりずっと先輩は俺のことで傷付いていた、と言うことだろうか。俺は自覚無しに己の胸元を手繰るように握った。譜由彦が吐息混じりに「お前は、不安定なんだから」呟いた。実際には、小声で言ちただけで呟いた訳ではないようだ。俺を捉え続け様重ねる。
「お前は記憶も無くて不安定なんだ。ただでさえ常態からは程遠い。関わるな。何をされるかわかったモンじゃないんだから」
「先……生は、お兄様が考えるような方では無いと思います……後輩の方を亡くされておつらいだけですよ……」
「お前は……何にせよ、駄目だ。お前は知らないのかもしれないけれどね、唯子。
アイツの周りで人が死に過ぎている。昨今、アイツのそばで死んだのは件の後輩だけじゃないんだ。
アイツの周辺で、この短期間に二名、死んでいる」
「え……」
二名。どう言うことなのか。俺は耳を疑った。けども、別におかしくないんじゃ? 年を取れば取る程周囲の人間も年を取る訳で、死別の確立は十代より上がる。特に近年は二十代での成人病羅漢患者も増えているし……これは先輩の受け売りね。俺が疑問を呈すれば譜由彦は「そうだったら言うはずも無いだろう」一蹴した。
「二人とも不審死だ。一人は刺殺。一人は自殺。刺殺された一人が自殺した一人を恨み、もともと持参していたナイフで襲い掛かるも、返り討ちに遭い死亡。返り討ちにしたほうはこれを悔やみ自ら自害。発見者は、椰家で、通報したのも椰家だ。ここまでなら、凄惨な現場に居合わせた悲惨な目撃者だ」
「おかしなところは……無いように思います、筋は通っているようですが?」
「滅多刺しなのに?」
「え?」
「刺殺された遺体は複数、どころか十を優に越える刺し傷が在った。人体の急所を的確に。おかしいと思わないか? 返り討ちにしたヤツがやったのか? 悔いて自殺するようなヤツなのに? まさか怖がって?」
「……」
「恐怖に支配されたにしても逆上したにしても傷が狙いを定め過ぎている。辻褄が合わないだろうに」
突き付けられて矛盾点に口を噤む。第三者がやったと推理するのが普通だろう。スカートの裾を握る。俺も、腑に落ちない。でも。
「先生がやった、なんて強引過ぎやしませんか?」
「……白井優李が、隈倉を庇って死んだ、事実が無ければな」
え、と俺は譜由彦を見た。譜由彦は別段変化していない。俺は驚愕に瞳を極限まで見開く。譜由彦から、何だって今日びその名を、「しらい……ゆうり……」俺のことを聞くのか。
「ああ、椰家の後輩だ。かなり目を掛けていたらしい。死んだ二人の内一名は隈倉と言うウチの学校の女生徒だった。白井優李は投身自殺を図った隈倉を庇って車に轢かれ即死したんだ」
“隈倉って言うのは『隈倉アンナ』って言って、ついこの前死んじゃった子”
隈倉。隈倉アンナ。
“それもね、隈倉のヤツ、殺されたの。相手は入れ揚げていたホストだってぇ。邪険にされてキレた隈倉が、ホストに仕返ししようとして返り討ちに遭ったんだとかぁ”
寿満子ちゃんの耳打ちして来た噂の子だ。ホストに殺された子。白井優李、俺が庇った女の子。じゃあ、……。
“死んでやる”
あの女の子が隈倉さんだった。あの女の子が、隈倉さんが殺された。ホストに。“入れ揚げていた”って。それって。
「……彰吾……」
「知っているのか?」
呆然と落ちた名前に譜由彦が反応した。俺がどうして知っているのかは「まぁ、学校では公然のことか」一人勝手に結論付けたようだ。俺はと言えばぐるぐる考え込んでいた。頭蓋骨が圧迫されそうなくらい疑義が埋め尽くす。彰吾が? あの無意味に自信家の彰吾が? 俺様で「そこが良い」ってお客さんにちやほやされていた彰吾。お客さんを持て成すと言うより、お客さんに持て成させていた感が強い彰吾が、纏わり付くから隈倉さんを? ……うん、ちょっと考え難いかも。
彰吾は王様気質だ。何でも思い通りになるって考えていた節が彰吾には在った。あれで同業者に評判は悪かったが、つるむ仲間たちからは人気が在ったようだった。昔、彰吾を訪ねて来たけど、如何にも彰吾と似たような感じの男女数人だったけども、仲は良さそうだった。確証は無いけれど、彰吾なら己の手を汚さずともやらせるなら侍らせていた人たちとかにやらせそうだ。殊、女性で。
しかも彰吾が自殺とか。無い無い、有り得ない。俺がパンクしそうに考量していると譜由彦が
「アイツは明言した。“白井優李以外の存在は無価値なのか”って問いに“宥めてくれたのはあの子だけだった。彼がいなかったら、俺はどうなっていたかわからない”って」
俺が眉を顰め「宥める?」問い返すと譜由彦は一つ頷いて答えた。
「労わって、と始めに言って訂正したんだ。白井優李が宥めてくれなかったどうなっていたかわからない……こう言うことを平然と吹聴出来るんだぞ。充分危険人物だと思うが?」
わかったら関わるな。譜由彦は終わりにしようとしていた。やー待ってよ。急転過ぎて動転ですよ? だいたい。
「先生は、どうなんですか。どう仰有っているんですか」
「……。突っ込む前にはぐらかされたよ。お前の名前を出して」
譜由彦は苦々しげに歯噛みしている。生徒会長の権限で追い出してしまいたい。この危険人物を敦来の力を使っても抹消したい。譜由彦としては、得てして狂人がどのような行為に及ぶともわからない、把握しないところで何かされても困る、だけれど強引に動くには先輩に欠点が無さ過ぎた。
たとえどれ程グレーゾーンでも、証拠は無く黒ではないのだから。狂人だって支障無く生活しているのだから。何より、譜由彦は品行方正、公平な人格者として生きて来た。決定打も無いのに排除なんか、出来やしない。譜由彦がこうした懊悩をしているころ。俺は別のことを気にしていた。
譜由彦は前髪を弄んでいた。毛先の柔らかな髪を指に絡めて引いて、解けてはまた絡めて、を繰り返していた。黙念するときの癖だろうか。俺は二度目のデジャヴを感じる。どこかで、誰かが同じことをしていた気がする。誰かが。……誰が?
俺も黙想して心当たりを探ったが出て来なかった。誰だっけ。俺が小骨の引っ掛かったような違和感に嘖まれている傍らで、譜由彦は現実に戻って来ていた。
「とにもかくにも、お前は関わるな。良いね」
「……」
「これ以上面倒事を増やすな。……風当たりが強くなるだけだから」
承諾も反駁もしなかった。先輩が悪人とか殺人犯かもなんて信じられないけれども。譜由彦は唯子ちゃんの名前で引き下がったんだ。俺は譜由彦が追及の手を止めたのが、はぐらかした方法が俺を、正確には唯子ちゃんを出したせいだとは露とも考えてなかった。今だって辛辣な口振りだって言うのに。
下唇を噛んだ。くっそ、卑怯だ。そう言う眼で見んなし。そう言う、顔するなし。
譜由彦は唯子ちゃんのことで気を揉んでいるんだ。譜由彦の心痛な面持ちに胸が痛むのは、俺が唯子ちゃんの体だからなのか。変に俺が譜由彦を信頼してしまっているからなのか。
あーっ! こう言う、顔、させたくないんだよっ、ちくしょー……。俺は俯いた。譜由彦の手が伸びて来た。俺の頭に置かれた。先輩とは違う、指より手のひらに重心を置いた撫で方。髪を梳くのではなく、髪も撫で付ける撫で方。天辺より後頭部寄り。ロールに着くと戻って再度微かな間を縦に滑る。
俺たちの間に言語は潰えた。運転手さんは余計なことを言わない。車は敦来邸まで作動音だけが満ちていた。譜由彦は車が敦来邸の門を過ぎるまで俺の頭を撫ぜ続けていた。
「ただ今帰りました」
「お帰りなさい、譜由彦。遅かったわねぇ」
譜由彦が挨拶したら待ち伏せたように中ボス……もとい、叔母さんが出た。凄ぇ艶笑している。息子にしてどうすんだとか思うが、口からははみ出ることもゆるさなかった。出てしまったら、俺の身が危うい。先輩より直結で。俺はタイミングを見計らっていた。何の、って? 勿の論で帰宅の挨拶のだよ。
「幾ら生徒会長ったってちょっと仕事のし過ぎではなぁい? 駄目よぉ。体は資本なんだから」
だーかーら、息子にしな垂れかかるなと……俺の存在を完全に死角に追い遣っている。譜由彦も慣れちゃってんのか「以後気を付けます、母さん」さらっと躱してるわ。凄いわぁ。流し方熟知してるわ。じぃっと成り行きを傍観していると「あら」叔母さんがこっちを向いた。よし。
「ただ今帰りましたっ、叔母様!」
超笑顔で元気に大声で挨拶してやった。どうだ。「あ、え、えぇ、お帰りなさい……」叔母さんは度肝を抜かれた、みたいな間抜けな面を晒していた。更に笑みを深めて意気揚々と俺は家に上がる。あーお腹空いたぁ。俺は叔母さんの崩れた美顔に、ほんのちょい気が晴れて鼻歌を歌いつつ自室に向かった。
部屋のドアを開けると、するり擦り抜けるように入り込み素早く鍵を掛ける。ふう、と一息酸素を肺から解放。私の体も緊張から解放。疲れる。ゲロっちゃうと、先輩より俺にとっては叔父さんが天敵だよ。扉を背にして室内へ向き直ったら「よぉ」男がいた。心臓と言う名の小鳥が口から飛び立ちそうだった。
「いるならいるで……一声掛けろ」
「ああ、悪いな。これでも気を遣ったんだが」
「どこに」
「急いで壁抜けたところとか。下手したら壁抜け中で首だけって言う俺と対面だぞ」
……飛び立った揚げ句完全に息の根止まるわ。てゆか。
「壁抜けしなくても、ぱっと出て来れるんじゃないの」
「滞在期間が減る」
よくわからない理屈なのだが、Webとかの通信量を超えると制限が掛かるみたいな話らしい。ふうん、生返事したらを胡散臭げに睨まれた。うっ、ここはスルー!
「まー、いいや。お帰りぃ」
「……ここは俺の家か」
「良いじゃん。何細かいこと言ってるのさぁ」
俺は軽く往なしながら鞄を放った。どさっと重たい音がする。中身は教科書とノート、担任がくれたプリントだ。あの担任、髭面でガサツそうだけど、そこそこ気が利くようだった。わざわざ数週間休んだ唯子ちゃんのために単位が足らなくならないよう、全教科プリントを作って纏めて置いてくれたそうなのだ。少しウチの店のオーナーに似ているかも。オーナーは熊っぽいけど担任は狐っぽい。叔母さん叔父さんとは違う種類の。叔母さんが玉藻前なら担任はごんぎつねみたいな。あとで教科書とプリントに着手しないと。俺は制服の上を脱いだ。クローゼットを開けハンガーに掛ける。
あの学校、お坊ちゃんお嬢様学校だけれど進学校の皮被っているだけ在って、授業はそれなりに難しい。一般庶子の皆様で偏差値上げているのかと邪な見方していたけど違った。俺もそこそこ偏差値良いとこ行ってたけど、大卒の俺が舌を巻く程には難易度の高い問題を出している。付いて行けてやっとだ。上流階級のお勉強、恐るべし。考えてみれば、富山くんなんか起業を視野に高一の現時点で動いているんだよな。そして富山くんは言っていた。この学校ではめずらしくないって。怖いわ。先輩の母校だもんな。低い訳無いわ。贔屓目抜きで、ものっそい頭良いもんな。回転が違う。
「……」
“アイツは明言した。「白井優李以外の存在は無価値なのか」って問いに「宥めてくれたのはあの子だけだった。彼がいなかったら、俺はどうなっていたかわからない」って”
先輩が、隈倉さんと彰吾を殺した? 信じられない。先輩は、面倒見が良くて人当たりが良くてやさしくて、厳しいところも有るけど最後は柔らかく笑ってくれて、カリスマ性が在って……うわ、嫌なことに感付いたよ俺は。
出会い初期の譜由彦って、先輩に似ていたんだ。懐柔されちゃう訳だよ。無意識だった。譜由彦は嫌がるだろうなぁ。先輩を害悪と見做しているからな。敵認定しちゃってるから。もっとも似ていたのは最初だけだ。入院してた間だけ。今じゃ王子様から魔王様にジョブチェンしてるよ。泣きそう。俺は制服のリボンを外そうとして手を止めた。緩く開いた左手を見た。
“大丈夫だよ、唯子。俺がいるから。記憶が無いのは怖いことかもしれないけど、ゆっくり、生活に慣れて行こう。唯子は、いつだって強いんだから。急にウチに来たときだって何とかやっていたんだよ。大丈夫”
おろおろしている俺に譜由彦が言ってくれたこと。手を握って、安心させようとしてくれた。唯子ちゃんが何とかやっていた気は、まったくしないけれど、……あったかかった、んだよな。
“大丈夫だよ、ゆり。たとえその会社が内定くれなくても、たまたまなんだから。どんなに好きなアクセサリーでも、服に合わなかったり状況に合わなかったりしたら置いて行くだろう? その会社は、きっと今欲しい人材とゆりが違っただけなんだ。ゆりが欲しい会社は有るよ。がんばろう”
俺が就活中何社か落ちて、凹んでいたとき先輩が掛けてくれたもの。譜由彦といっしょで手を握ってくれた。俺は手をぎゅっと握る。
譜由彦に心配はさせたくない。そうでも、先輩にはお別れもお礼も出来なかったんだ。俺の意識だって、『白井優李』としての俺だって、いつ消えるかわからないんだもの。関わるなって、言われても、困るよ……。俺が沈鬱としていると、こんこん音がした。何だろう。俺が思案していると「各務です」おおぅっ! 俺はとっさに自らの点検をした。解け掛かったリボンはするっと抜いた。ウィングカラーのシャツは、うん、第一ボタン以外全部留まってるね。
学校のシャツは、タキシードのときとかウェイターさんとかが着るようなウィングカラーシャツと、ネクタイが要らない書生さんとかが着物の中に着るスタンドカラーシャツの二種類だ。式典だとウィングカラーじゃなきゃいけないんだけど、男子も女子も普段はどっちでも良いんだって。着崩しもOKみたい。だらしない格好でなければ、って校則に在るだけだからね。ウィングカラーを着るなら男子はネクタイ、女子はリボンタイしなくちゃだけど。梓川さん合歓さん寿満子ちゃんはスタンドカラーでした。
これは個人的な、あくまで想像だけど、女子でスタンドカラーは楽だって子か、譜由彦のファンだと思う。譜由彦、今日ウィングカラーで女の子たちが騒いでいたから。……譜由彦が今日ネクタイしてまでウィングカラーだったの、俺のせいじゃね? 何となく。ほら、校長やらに会うって言ってたから。うん、申し訳無いことを以下略。うん、スカートも良し。俺は「どうぞ」解錠して招き入れた。
「失礼致します……お着替え中でございましたか。改めましょうか?」
「あ、結構です。どうされたんですか?」
俺は下がって一応椅子を勧めてみた。机のですが。案の定各務さんは「いえ、このままで」断った。ですよねー。俺はベッドに腰掛けた。「唯子様は、どうぞお掛けください」と進言されたらねぇ。立っていると気遣わせそうだし。この人秘書だから。お爺さんのね。
「どう、と申されましても。そうですね。強いて挙げるなら現場調査でしょうか」
「調査?」
「譜由彦様が、とある人物をお調べでらして。その人物が唯子様も通っているあの学校の関係者と、大旦那様が小耳に挟みまして」
俺は、飲み物を飲んでいたら百パー噴いていた自信が有る。やーめーてっ。そりゃそうだよね。譜由彦がやってることなんかお爺さんの耳に入ってもおかしかないわな。もしかしたら譜由彦のことだ、わざとお爺さんに見せ付けている場合も。自分の手で負えずともお爺さんがやってくれるだろうと計算の元。あの知能犯め、超怖い。
俺は何と返答すべきか考えあぐねていた。この言い方は、先輩のことバレているよな。実名も職業も職歴も学歴も。個人情報だだ洩れだろう。てことはこんなところで隠し立ても良くないよねー。……よし。
「ああ、そのようですね」
「ご存知でしたか。唯子様の学校の保険医……や、あそこは医務室ですから校医、勤務医ですかな」
保険医も間違いじゃないだろうけど、設備は個人医院の金在るなぁレベルだもんな。つまるところ、ちょっとした処置は手術まで出来るっつーね。恐ロシア……え、古い? 最近だとすっとこドイツも流行ってんじゃないの? もう違うの? オワコンなの? オワコン、も時代遅れかね? あ、逸れた。そうそう、先輩ね、先輩。
「何でも要注意人物とか?」
「私は、全然そうは感じませんけれど」
「……」
各務さん。形容し難い何某かの思いが浮かんだのはわかった。だけど、顔に出すなし。顔面いっぱいに表さなくても言いたいことは察せるわ。
「私にだって、警戒心は在ります、人を見る目だって」
なので、そう言う、疑わしいと言いたげな目線はくれんな。何だよー。「私としても信じて差し上げたいのは山々なのですが」……“ですが”? 眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら各務さんは断言した。
「以前の唯子様であればここまで憂慮することも無いでしょうが、今のあなた様では懐に入れた途端、怪しむこともせず信じ切ってしまうだろう、と危惧して止みません」
さっくり、言い切ってくれた。ぐはっ……否定は出来ない。叔父さんのこともそうだけど、あっさり部屋に入れたのって結局危機感無かったからで、何でかって言うと、玄関で凄い良い人だったからで。
“ゆりは、もう少し人を疑ってほしい。危なっかしくて見てられない”
先輩が言っていたことが過った。あれ、俺成長してなくね? や、だってさ、ほら、根っから悪い人っていないと思うよっ? 叔母さんだって、唯子ちゃんに意地悪するのは懐かないってのも在ると思うし! お父さんとの跡継ぎ問題とか在ったとしも! 俺が方便をあれこれ考えていると各務さんが。
「一切弁解はお聞き入れ致しません。……ご自覚がお在りなら、もっと疑うことを覚えてください」
譜由彦と言い各務さんと言い、どうして俺を「駄目だコイツ」と……お前もか、そこの男! 俺は見えているんだからね! くっそ、どいつもこいつも……。
俺が不満にアヒル口になっていると摘まれた。「あ、失礼を」各務さんにだ。いや、良いんだけどさ。
「各務さんでもこんなことするんですねぇ」
お茶目ですねぇ。微笑ましくなって笑ってしまった。笑う俺を見た各務さんは僅か瞠ってふっと、綻んだ。
「……今のあなた様は昔と違って警戒心の欠けらも無く、どうも危うく見ておりましたが……今のあなた様はよく笑顔を見せてくださるので、この各務、つい、“まぁ良いか”と思ってしまいます」
「っ……」
うれしそうに語る各務さん。俺が詰まるのはこう言う瞬間だ。唯子ちゃんがたいせつにされている、これを感じ取るとき。俺が、唯子ちゃんの居場所を奪っている気になる。唯子ちゃんがこっちの世界より、敦来家より向こうの異世界を取ったのに。お爺さん、各務さん、鵜坂くんや富山くんだって。梓川さんだって“張り合いが無い”的なこと言っていた。本当にみんなが必要なのは唯子ちゃんなのに、ここにいるのは唯子ちゃんの体の『俺』なんだ。唯子ちゃんは帰って来ないし俺は死んじゃってるしで仕方ないことなのに、酷い罪悪感に襲われる。
「どうかされましたか」
俺ははっとして首を振った。「何でも無いの」搾り出したが、各務さんは案じる表情だ。譜由彦もだけれど、この人にだって心労掛けたくないのに。何やってんだよ! 俺は!
俺はどうにか、誤魔化そうとしたけれどもどれも却下して、結果俺が窮していると悟った各務さんが、俺に配慮し諸注意だけして「夕餉までゆっくりお休みください」と出て行って終わった。情けない。
「何やってんだろう……」
俺はベッドで蹲り自己嫌悪に嘖まれる。先輩のことをはぐらかせたのは良かったけど、各務さんにあんな風にさせたかったんじゃないのに。ああ、莫迦だ。俺がひとり悔悟の思いに浸っていると。
「お前も莫迦だよな」
男がぐっさりとトドメ刺しやがった。くっそー! 何も異論は無いよ! あーもーどうしよう……「着替えたらどうだ」……ごもっともで。俺はベッドから降りて立ち上がるとシャツに手を掛けた────が。
「いるの」
「何だ」
「一応、中身俺ですけど体は唯子ちゃんなんですけど」
男なんだから出て行けば、と口にし掛け、「お前が見ている俺が男なだけだ」……そうでした。男が男の姿なのは俺の、てか、唯子ちゃんの? イメージで実物は実体が無くて性別も無いんだっけ。俺は容赦なく脱いだ。脱ぎながら、今日学校で考えていたことを質問することにした。
「ずっと考えてたんだけどさー、」
「ん?」
「俺、消えちゃうじゃん。そうしたら唯子ちゃんって、元に戻るんだよね? 性格とか」
そうなのだ。記憶や性別は体に付随する。ならば、俺がここで頑張って『唯子ちゃん待遇改善計画』を進行しても泡と消えるのではないか。だとして何とか残す方法は無いものか。習慣とか、癖とかにして体に残せないか。さっさと『白井優李』の俺なんか消えたほうが、唯子ちゃんを待つ人には最善かもしれないが「……」俺は脱いだ制服を順繰りにハンガーに掛けて行った。俺の話に男は大して間を置かず答えた。
「微塵も影響を受けないことは無いな。前に言っただろう? 魂は経験値を貯めるって」
「それがわかんないんだけど。記憶は留まらないんでしょ?」
俺は着るためにブラウスを取る。ワンピースと悩んで決めたのは、襟の縁と袖に黒いラインが引かれているブラウスに黒のショートパンツ……に、しようとして黒の七分丈パンツにした。叔父さんの目とか叔母さんの目とか。この両者の同じようで違うことを指しているのが怖いね! パンツはちょっと大きめのポケットが付いている。可愛いけどシンプルだ。これに濃いグレーが基調のチェックのハイソックス。アーガイルかと思ったらタータンが斜めに入ってる感じ。これで帽子でも被ったら英国風のお坊ちゃんだよね。俺は鏡で点検しつつ男と会話を続けた。
「潤滑油……いや、臍の緒みたいなもんだな」
「臍の緒っ? 臍の緒って何」
「貯まる経験値はお前にわかり易く言うと『感度』、『感受性』だ。魂は、最初まっさらな状態で生まれて来る。魂は消える魂と同等生まれる。赤ん坊は、羊膜に包まれているだろう? 外へ出たら剥がれる。この赤ん坊が魂。羊膜が記憶、臍の緒が経験値、外が……お前らの言う死後の世界と考えてくれて良い」
つまり、体は胎内と言うことか。男に尋ねれば「そんなモンだ」……ふうん?
「赤ん坊も臍の緒から栄養や酸素を供給されるだろう? 魂を体と繋ぎ易くし、円滑に世界を回すため物質界、現世だな、生れ落ちて経験を積むんだ」
「繋ぎ易くしてどうなるの? 感度上げたってさー」
「世界の補強の意味も在るんだ。より順調に回すためにな。ただし、魂も傷が付く。傷が深いと生れ落ちても上手く行かないが。だから消える魂も在るんだよ」
「へぇ。消えちゃうんだ。てゆか、傷って何? 魂も傷付くの」
俺は一通りファッションチェックを終え椅子を引いた。背凭れを前にして跨いで座る。あー、ズボン楽だわー。背凭れに肘を突き男と向かい合う。男は動かなかった。説明をそのまま続行するらしい。
「生物の死について以前教えたと思うが」
「自然死が、老衰、病気、事故だっけ」
「そうだ。まず、生まれ立ての魂は人間以外の動物として生れ落ちる。基本的な情動のプロセス、本能、その辺りを覚えるためだ」
「へー、そうなんだ」
「阿呆面は見苦しいぞ。で、ある程度積み重ねると人になる。たまに動物で、人の言うことがわかっているんじゃないか、みたいなヤツいるだろう。そう言うヤツは次、人に生まれ変わる率が高い」
ああ、いる! と俺は小さいときいっしょに遊んでいた犬を思い出した。すっごく賢くって、老犬だったんだけど、そいつの、俺がじゃれるときの表情はマジで人間のお爺さんだった。「仕様が無いのぅ」って言ってるような! じゃあ、アイツもどこかで人に……。俺の思議が飛んでもお構い無しに男は講義していた。おおっとまた叩かれ「……」あれ? そう言えば、男は俺を叩かなくなったな。何でだろう。当時程ご教示願うことが無いからか。ん、でも。この前唯子ちゃんの事情のことを知ったときも、男は叩かなかったな。俺は先に進む前に気になったので訊いてみた。男は「ああ、もう無理だからな」と至極残念そうにした。……いや、残念そうにしないで! むしろ叩かないで!
「何で、叩けないの?」
「俺が、物質は基本触れられないことはわかってるよな」
そうだ。俺がとっ捕まえようとしたら捕まえるどころか擦り抜けたんだ。今だって壁抜けして、……え、じゃあ。
「どうして、俺が殴れたの」
「お前が、たとえるなら“水槽に浮かぶ魚”だったからだ」
「?」
俺のハテナマークが顔に浮かんででもいたのだろうか、男は視点を遠くに定めて、こめかみをぐりりと音がしそうなくらい押して再び俺を見た。
「お前の魂は突っ込んだばかりだった。あのときはな。お前の魂がその状況に在った。ゆえに、俺は触れた」
先程出た“水槽に浮かぶ魚”と言うアレ。男が例を出した。俺、正しくは『白井優李』が魚で、水槽が唯子ちゃんの体、男が飼育員で、譜由彦や各務さん、他の人が観覧者。観覧者は水槽越しになら魚に触れられて、魚も水槽越しにしか外と接触出来ない。飼育員は、水槽の上は開いているからそこからなら魚に直に触れるが、水へ潜った魚にはそこからは触れない。
「現状のお前は水に潜った魚だ。水に馴染み切ればもう取り出せない」
「そーなんだ」
「その内、俺の姿も視覚に捉えられなくなる。声もな」
「え、そーなんだ?」
馴染み切るまでの期限が五箇月、馴染んだら魂としての知覚? みたいなのも無くなるってことね。成程ね。俺は一人得心していた。男が見えなくなるのは困るなぁ……あ、でもでも男が見えなくなるころって俺なんていないのか、な……? 俺が物思いに捕らわれていると男は「戻すが、」軌道修正した。あ、はい、すみません。
「死ぬときに魂って言うのは器、体にこびり付いているものだ。生きている間に癒着のようになってしてしまうんだな。老衰や病気の場合、これがゆっくり剥がれる。接着剤……そうだな。シールとか剥がすときシールの表面はぐちゃぐちゃで、ごくたまに貼り付いていた側も跡が残ったりするだろう。物理的に見えたとすればあんなんだな」
あー。壁に子供がシール貼った跡とか、壁紙も駄目になることも在るもんな。あー言うのなのか。ふむふむ。俺は飲み込みながら想像した。壁とかに痛覚在ったら痛いだろうなぁ……。
「接着剤は、魂で言うなら感情だ。感情は記憶と密接な関係に在る。未練を残して幽霊になるって在るだろう。アレはな、この世界でも言われる『残留思念』ってヤツだ。機械でも壊れる前ショートすると火花が散るだろう。アレに近い。人間の場合は死ぬ間際の強い想いが世界に焼き付くんだ。発生する熱量で歪みが生じてな。写真の如く。ネガが魂と言って良いか。記憶が体に付随するってことは当然そこに含まれる感情も世界に属するから置いて行く訳だが……魂の傷になる」
俺は手を挙げた「火傷みたいなもの?」男は悪徳業者みたいに、にやりと笑って「冴えてるじゃないか。そうだ。その表現が一番近い」ほ、め、ら、れ、た……! 怖っ! 褒められたのに笑顔が駄目だよぉ! 常に目敏い男は俺の心情を放置したが、面倒で見逃したのか単に気付いてないのか何なのか。
「まぁ、事故死や殺しって言うのは動物でも在ることだが、人間は蓄積する情報量の差か付く傷の深さや数が違う。人間になると劣化も早い。『劣識』と呼ばれる現象だ」
「『劣識』?」
「『魂』って呼び方はお前たちに合わせて使ってる単語だからな。俺たちにとっては本来『意識体』って呼び方が一般的なんだ。“『劣』化した意『識』”な」
また不思議な語句が出て来ましたよ。俺が心中で『劣識』、『劣識』と何とも無しに唱えていると「ああ、」男が声を上げた。
「“『劣』化した『魂』”で『劣魂』って言うヤツもいたな。説明にはこっちのが便利だとかって。『魂』で統一しているし『劣魂』にして置くか」
ええええぇえぇ。良いの、そんな適当で。俺が言えば「言語自体、対象に合わせているだけに過ぎないからな」……あーそーね。性別も無い実体も無いんだから言葉も要らないやね。や、「どっちにする」って問われても。どっちでも、と言い掛けて男から舌打ち貰いました。えー……。俺は後ろ頭を掻きつつせっかく男が提案してくれたので『劣魂』を選択。「良い子だ」と言わんばかりである。……あ、気が付いたけど、このやり取り俺と俺の叔父さんのやり取りに似てるんだ。うん、俺には年の近い叔父さんがいてね『安李くん』て言うんだけど。母方でちなみにお母さんは『澪李』です。だので俺が『優李』だったと……うん、どうでも良いね。ごめーんごっ。
うん、そう似てるんだよ。安李くんは頻繁に殴ったりしないけどね。ときどきなら、ま、するけどね。……元気かなぁ。俺はちょこっとだけ郷愁に襲われながら男の話に耳を傾ける。顔が朧気なのはあきらめた。
「『劣魂』は生み落とされ人生を生きる内に進行する。苦行を歩んだ者はその分進行度も早い。“功徳を積む”なんて言葉も在るが、俺らからすればメンテナンスが増えるし魂の強度も極端に落ちるから勘弁だな。何事も度を超せば、だ」
「メンテナンスなんて在るんだ」
「在るさ。途中で割れても困る」
「割れるのっ?」
「ああ。ぱっきり」
素っ頓狂な声を上げる俺に、然も何をと言う態度で淡々と肯定した。両手で二つに割れるジェスチャーまで付いている。「ぱっきり……」俺は男の科白を繰り返した。ぱっきり。大層なことを聞いているはずなのに、何で淡白に言えるのだろう。俺も自分が死んだとき平静だったけどさ。『誤生』の話もそうだし。無常過ぎる世界の仕組みに俺は項垂れたが「だが、」男の一声に顔を上げた。
「魂は無量大数だ。点検の目を抜けて修理されず生れ落ちるモノも在る」
うわぁ、と俺の顔が引き攣ったんだろう。男は「言って置くが職務怠慢じゃないからな」なんて主張して来る。誰も指摘してないし。にしても、そうか、それは……「どうなるの?」俺は恐る恐る訊いてみる。男は遠い目をして「割れる」簡潔だった。
「割れる、て」
「生きている間に、割れる」
「えぇぇっ? ど、どうすんの……?」
「お前といっしょだ」
俺が怖々と伺うと、男が一言応答した。「いっしょ?」聞き返せば「いっしょだ」鸚鵡返しみたいにされる。はて、いっしょとは? 俺が首を傾げると男が次いで解説を始めた。
「世界は無数に在る。俺たちはこれらを管理している。世界が多く在ればバグも多い。が、『誤生』はバグの中でも特殊だ。数の問題でなくな。種別的に。更に唯子はその中でも稀なケースだ。だとしても、毎秒バグは生まれる。お前みたいな不定の死者も。浮いた魂は勿体無いが、どうにかするために『誤生』では間に合わない。なら、どうするか」
男が言葉を切った。男は俺を見据える。俺も一心に男を見た。男は空白を取ってから浮いた魂の解決策を教えてくれた。
「この辺で『劣魂』だ。『劣魂』によって割れた魂を回収し代わりに不慮の死で浮いた魂を押し込む。お前のようにな」
俺、みたいに。俺は意図無く胸を押さえた。淀み無く男は講じていた。
「『劣魂』になる魂は洩れなく皆、多く経験値を積んでいて消耗の激しいものだ。河原の石が丸いようにな。持って生まれた、と言う文言が在るが経験値の多い魂は総じて気性が凪いでいる。何やっても動じない。記憶は無いが経験値が染み付いているからな。あとは鈍いのも在る」
「鈍い?」
「感覚の伝達が上手く行っていないんだ。経験値が在るから機微には敏感だけどな。磨耗するためか己の傷みには無自覚だ」
そのせいで、劣化がますます酷くなる。男はそう結んだ。俺は男の講説を聞きつつ他のことで頭を巡らせていた。
不意に、彰吾や隈倉さんはどうなったんだろう、と。彼らも『劣魂』や『誤生』の修正に使われたんだろうか? とか。「まぁ、何だ」男がこめかみを押す。今更だけど、額を触ったりこめかみを押すのは男の癖なのかも。俺も頭痛するときや頭の中整理するのにこめかみ押すけど。
「経験値の多い魂程穏やかで在るように、お前の『白井優李』としての記憶は無くなってもお前自体の都度感じて来たモノはそのままだ。今のお前は性格変わった、って、言われるだろう。今この時点でお前が感じたこと、記憶は唯子の体に刻まれている。
お前が『白井優李』じゃなくなっても、『お前』は生きて、残るから」
「───」
唇が戦慄いた。急いで奥歯を噛み締めた。まさに不意打ちだ。俺は、俺の生きて来た二十数年間は、淘汰されて跡形も無く掻き消されてしまうのに。
完全に消えてしまうのではない。残り滓だったとしても遺るのだ。俺の生は無駄にはならない。『俺』は消えることは変わらないのに、去来したこの気持ちは、紛うこと無く安堵だった。
「唯子、ご飯……泣いていたのか?」
譜由彦ェ……。ノックしろよ、いやノックはしていたよ入室伺いの声もしたよ、だがしかし、俺が良いって言うまで開けるんじゃあねぇよー! 俺は「泣いてない」告げながらそっと涙を袖で拭う。……仕様も無い子を見る目で見るな! 溜め息禁止!
私服の譜由彦は、Vネックのシャツに同じように大きくVの字に開いたセーターとジーンズだった。質素なくらいシンプルなのに、漂うお洒落感と高級感と上質感は何ですか。お育ちですかそうですか。譜由彦は部屋に入ってドアを閉めると扉を背に寄り掛かる。俺は背凭れを前にして椅子を跨いでる……あ。
「言いたくは無いんだが、」
はうっ、叱られ……。
「泣くのは、夕食のあとにしろ。母さんの手前も在るから」
……なかった? 俺、絶対この体勢言われると「それと、はしたない」思った通りに。俺は「すみません」謝りながら立ち上がる。椅子を仕舞い譜由彦の元まで歩く。譜由彦の前に着くまで、譜由彦が俺に焦点を定めたままなので、辿り着いても居心地が悪くて発声出来ないんだけど。何言いたい訳も無いけど。視線だって床を這う。
「今日は、随分ボーイッシュなんだな」
何見てんのかと思いきや、洋服か! 何だよビビらせんなよ! 俺はおくびにも出さず「変ですか?」意見収集。俺は可愛いと思ったけど、いつもの唯子ちゃんらしくないとかイメージじゃないとか言われるかもしれんし。このところ私服はスカートばっかだったから良いと思ったんだけどな。叔母さん受けも考慮して。唯子ちゃんのクローゼットから出て来たコレは、間違い無く唯子ちゃんの私服なんだけれどね。
「いや? 新鮮だけども、よく似合ってる」
「……っ……」
ふわって、譜由彦が微笑した。笑った! 魔王様が王子様になられた! やー、ほら、入院中も見てたけどね! 今じゃ久し振り過ぎて、何か、何か、うわっ、絶句しちゃう! わーっ、どうしよう! 動悸がするんですけれど、くっ、これが美形効果か!
俺が、熱くなる頬に両手を添えて静かにパニックを抑えようとしていると、譜由彦が俺から離れてクローゼットの横の棚へ向かった。何してるんだ? 俺が黙って注視していると、棚の小物入れから一つの髪留めを持って戻って来た。……どうして、譜由彦が唯子ちゃんの持ち物の在処を知っているのか「コレは俺がお土産であげたものだよ。唯子がここに仕舞って置くって言ったんだ」顔に出ていたか。
髪留めは挟む型の大きなバンスクリップかと思ったら、一つ縛りに出来るテールクリップだった。レースと花の装飾が付いてる輪っかだけど、ゴムじゃないからコレなら唯子ちゃんの縦ロールも崩れない。譜由彦は俺の後ろに回ると髪を纏めテールクリップで留めた。少々いじって調整しているようだ。俺は後ろ向きなので見えませんが、気配的に。
「白い髪留めだから、合うだろ」
白いきらきらした石が花びらとして囲う真ん中に黒い石、加えて周りを白いレースが飾っているデザインだ。一見少女趣味な気がしなくも無いけど、そこまで大振りでも無いせいか、絶妙に調和はしていると思う。俺は。
「外に行くならコレに帽子も良いな。さ、行こうか。母さんたち待ってるだろうから」
ドアを開かれぽんっと背を押される。そう言や譜由彦は夕飯を呼びに来たんだよね。わざわざ? お手伝いさんじゃなくて、後継者候補が使いっ走りみたいなことするかね。叔母さんがさせなさそうだけども。
「お兄様が直々にお呼びにいらしたんですね」
「おや。俺じゃないほうが良かったか」
食堂に向かう途中の談話。器用に片眉上げて意地悪げに譜由彦は笑んだ。いじめっ子め。
「そうじゃなく、」
「別に。どうせ俺も向かうから、唯子も連れて行くって言っただけだよ。家政婦さんとか、忙しいんだからついでに済ませられることくらい自分でするさ」
「……」
何でも無いように譜由彦は話すけれど、お手伝いさんとか、家で働いてくれる人とかのことそう言った風に心配り出来るのって実は凄いんだよ。傅かれるのに慣れた人間は、してもらうのが当たり前になってしまうんだ。ましてや、譜由彦は生まれからして人が世話を焼くのが自然だっただろうし。叔母さんなんか顎で使いそうだもん。多分、叔母さんはそれが当然だったからだ。勿論、人を使う分労うんだろうけど。譜由彦がしているのは、労う上効率を考えて負担を減らしてあげてるんだから。
譜由彦は、根底から人の上に立つ人種なんだろうな。しかも上等な。
夕食は不気味な程静謐を湛えているのですが、一個だけ。
「……唯子ちゃん。今日学校で良いことでも在ったの?」
学校はどうだったんだい唯子、と尋ねるお爺さんの横で叔母さんが俺に喋って来たんだい、わっほーい!
「敦来唯子、さんか」
俺がいろいろ在った今日、一日も終わろうと言うとき。俺の知らないところで唯子ちゃんの名前を、机に向かっていた『誰か』が、呟いていた。どこか恍惚とした声音。しばらく時を置いて、立ち上がって、硝子戸の付いた棚から戸を開くとポットのような容器を取り出した。参考書やら医学書やら並ぶ棚に、ぽつんと置かれていた容器の中身は粒の粗い白い粉で。
「ああ、“ゆり”が死んだのはとても残念だけど……」
『誰か』、は愛おしそうに撫でて。
「また、見付けられたし……ふふふ、楽しみ」
微笑んで、その白いポットに口付けた─────。
同時刻。譜由彦の自室では。
「……ああ、俺だ」
「めずらしいね、譜由彦が僕に電話して来るなんて」
唯子ちゃん以上に機能的な、言うなれば仕事に向いた仕様の室内、唯子ちゃんの部屋と同じ形の出窓に腰掛け、モバイルで電話する譜由彦がいた。相手は恵比寿だった。恵比寿の軽く揶揄う声調に、いつもなら苛立つ譜由彦も目的が在るせいか流す。
「頼みが在ってな」
譜由彦の応対に数瞬、恵比寿は沈黙した。咀嚼しているみたいだった。やがて「調べてほしいんだ?」問うた。短く「ああ」譜由彦も応じる。譜由彦にとっても恵比寿にとってもこの質疑は様式でしかなかった。わかり切っていたのだ。二人とも。
椰家が生徒会室に来たときから。
「過保護もここまで来ると病気じゃないの?」
「何とでも言え。唯子に敦来の自覚が在るなら苦労しないさ」
恵比寿の揶揄にも切って捨てる。譜由彦の対応に恵比寿は譜由彦の情態を察する。取り合う余裕も惜しいと言うことか。
「ちなみにだけど、薬師や不動じゃ、駄目なの?」
「まだ、そこまでの案件じゃない」
恵比寿は、前哨戦で充分ってことね、と思いつつ笑った。苦笑は在れど、機嫌を損ねることは無い。適材適所だと知っているゆえに。
「僕で良いって言うなら、引き受けるよ」
「ああ、頼んだ。こっちでも引き続き調べるが、お前の方面でも拾ってくれ」
「ねぇ、譜由彦」
未だ通話を切る頃合いではない、と話を続ける恵比寿。譜由彦は無言で促した。付き合いの長い二人の、すでに出来上がっている呼吸だった。
「譜由彦の、邪魔になるなら、僕はさっさと排除するよ?」
恵比寿は、何を、と明確に指さなかったけれど譜由彦は悟っていた。恵比寿も宣して置いて、次の譜由彦の答えが何で在るかわかっていた。
「いや、時期尚早だ。調べてくれるだけで良い」
「そっか」
わかっていた、ので、恵比寿もさらっと引き下がる。そうして。
「本当に、過保護」
「うるさい。切るぞ」
余分に、突っ込んで置く。時期尚早、この言い分に納得していない訳ではないが、これだけじゃないことも理解しているからだ。一喝されながら、肩を竦めて恵比寿は「はいはい。おやすみ」電話を切った。急場で無い限り、掛けられたほうが先に電話を切るのがルールだ。譜由彦は切れた通話にこちらも切るとモバイルを充電器に挿した。
一つ息を吐くと窓の外を仰いだ。考え事に、前髪を人差し指に絡めて引っ張る。引いて絡めて、間も無く、親指と挟んでぴんと前髪が張る。
“敦来唯子さん。良い子だね。「無理しないでくださいね」って”
「……冗談じゃないんだよ」
ふっと譜由彦は口角を上げた。嘲笑にも、泣き笑いにも見えた。