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 3. 白 雪 姫 と 賑 や か な 学 び 舎 

 唯子ちゃんの学校はいわゆるお坊ちゃまお嬢様の通う金持ち学校だった。偏差値は公立の進学校並み、ただし、表向き、の注釈付きだ。実際は金が在る人間、良家の人間と言った上層家庭が幅を利かせている、まるで少女小説やら少女漫画やらBLやらに出て来そうな、小学校から大学までのハイソな学校だった。


   【 3. 白 雪 姫 と 賑 や か な 学 び 舎 】


「パンフレットは読んだか、唯子。問題をくれぐれも起こさないようにね」

 温度の超絶低い譜由彦様とご登校とか、凄い居た堪れないんですがねぇ。俺は下を向いてやり過ごす。あの男はいないよ。朝また消えてたよあのやろ。くっそー。いても実体無いから何の解決にもならないけど、大きな車の端と端に座る俺らの間に在る、人一人分のスペースに置いて俺にとっての壁にはなっただろう。本来なら生徒会長の譜由彦は先に登校するはずだった。

 だけど、お爺さんが「本調子ではない唯子を一人で登校など以ての外だ」とか抜かしやがって譜由彦が付き合う羽目になっちゃったってね。各務さんが「なら、私めがお送り致しましょうか」申し出てくれたのに「学校の中までは各務でも無理だろう。入校許可書は申請していないからな。譜由彦。玄関まで各務が送る。お前も唯子に付き添え」と来たもんだ。学校は校門から校舎正面の玄関までは車が入れるようになっていて、複数台被っても渋滞しないよう広い駐車スペースも設けられている。『入校許可書』なるものが無いと保護者以外は入れないのもセキュリティ上のことだけどっ。余計なことするなよー……これ以上溝広げないでお願いだから!

 俺が押し黙ってじっとしていると「聞こえたか、唯子」と問い質して来る。ちらと見遣れば、逆光だったけど譜由彦の表情をしっかり目に焼き付けてしまった。そうっと溜め息。……譜由彦はどうしたいのさ、もう……。口調はひんやりマイナスなのに「……聞こえてる……」気遣わしげに見ないでよ。若干砕けた物言いになってしまい口を覆ったが、譜由彦は何も言うことは無く外方を向いた。「着きましたよ」各務さんが知らせるまで車内は静けさに満たされていた。

 生徒用の玄関へ到着して、最初に顔を出すように言われたのは医務室だった。てっきり、校長室や理事長室だと思っていたから意外だった。

「お爺様が手を回して在るそうだ。理事長や校長へは俺が挨拶に行くから、気にしなくて良い。お前は医務室の先生にきちんと挨拶するように」俺を医務室まで連れて行くと、譜由彦はさっさと踵を返して行ってしまった。大きい分長い廊下に俺だけが残される。うぅ。俺一人か……心細い。

 金持ち学校よろしく保健室ではなく医務室、常駐しているのも養護の先生じゃなくて医師免許を持った歴とした医師なんだって。何でも、唯子ちゃんが落ちたときここへ初め運ばれて、ここの医師が病院への輸送を決めて入院したのだそうな。医務室は『医務室』とするより個人の医院みたいだ。設備も、余程深刻でないものはこちらでだいたい内々で処置出来てしまいそう。まぁ、そのための、設備だろうけど。金持ちは体裁が在りますものね。俺は息を深く吸って「失礼します」声を掛け中に入った。

「はい、いらっしゃい」

 俺はその声音に目をこれでもかと開いた。大きな唯子ちゃんの目に映し出された光景は俺をフリーズさせるには充分だった。いや、だって、どうして。

「せん……」

「ん、どうしたのかな? きみ」

“ん、どうした────『ゆり』”

 先輩が、いた。俺は突然現れた知人に頭が、得体の知れない感情でいっぱいになった。何で、先輩が? 俺の覚えているホスト姿とは異なった清潔感漂う爽やかな印象になっているが……間違い無い。先輩は白衣姿に白いシャツ、クリーム色のスラックスの出で立ちだった。あと、ホストのときはコンタクトだった先輩は現在眼鏡になっている。学生時代何度か見たことが在って殊更懐かしさが湧き上がる。

「きみはー……ああ、敦来唯子さん、ね。あ、もしかして報告かな? 感心感心」

 先輩は俺の頭を撫でた。昔の再現みたいだ。何で、どうして……俺が困窮していると「あぁ、」何かに思い当たったみたいに手のひらを拳で打った。

「敦来さんは事故に遭って僕の着任式にはいなかったから初対面だね。僕は椰家(やしや)と言います。椰家(あきら)。以後、お見知り置きを」

 先輩がお道化て胸に手を当て茶目っ気たっぷりにお辞儀する。つい噴いてしまった。そう言えば先輩って本名そう言う名前だった。俺は常用が『先輩』なので忘れていた。口元を押さえつつ笑えば「あ、笑った」先輩も破顔した。

「良かった。敦来さん、元気無さそうだったから。あ、記憶無いんだって? 大丈夫大丈夫。ゆっくり取り戻して行けば良いよ」

「はい、あの……」

「前任の先生からも入院先の病院からも、ちゃんとご連絡いただいてるから心配しないで」

「いえ、あの……」

「え、何?」

 どう言おうか。先輩、ホストじゃなかったんですか? か。待て待て何で唯子ちゃんが知ってるんだよ、おかしいだろ。けども、気になる。俺、まさか死んでから結構経っているの? でも男がタイミング良くって……待てよ。

 男は時間と言う概念は無い、って言ってた。それって、どうなの? 時間時代の逆行だって有り得るなら、男にとってたかが数箇月や数年の経過なんて大した差じゃなくない? 時間が世界に付随して男には無いなら、俺が死んですぐ唯子ちゃんの体に入ったとしてもブランクが無い保証にはならない。記憶だって同様だ。感化されるのは“この世界での五箇月”なんだから、当てにならない。ぞっとした。

 そう言や俺って、いつ、死んだっけ? 何月に? 季節は? 西暦何年だった? 「あ……」俺が声を洩らしたとき。

「大丈夫? 顔色悪いよ?」

 先輩が憂い顔で俺を見ていた。俺はすべき返答もしないで「先生は、」問い返していた。

「先生は、いつから医師に……?」

 先輩は確かに医学部の学生だった。一時期大変だったのも憶えている。けども、医師として働いていたことなど在っただろうか。……記憶に無い。消えちゃった中に含まれていたのかな?

「え、」

「あーいや何でも無いですははは」

 捲くし立てて誤魔化してみるも不可思議とめっさ出ている、あー、しくった。先輩は考え込んで数度瞬きしてから答えてくれた。

「それは、ここにってこと? なら、入れ替わりだよ。敦来さんが入院中で……丁度二週間前くらい」

「あ、そうなんですか……」

 なら、そこまでブランク無いかも。少なくとも十年とか、数年単位ではないはず。いや、待て。唯子ちゃんが事故ったのがいつかってのも在るだろうが。俺がひっそりあれこれ思索していると「……だけど、敦来さんが聞きたいことは別のことだよね」「え、」上の空だったところへジャブ。俺は避けられず「え、え、」と洩らすのみ。先輩は、一瞬だけホストの顔だった。どんなのかって言うと、お客さんと駆け引きして上手く行っているときの、無駄に色気振り撒いてあくどいって言うか、不敵って言うか。うぅう、やっぱりナンバー1になるだけ在りますよね。

「俺若いからよく訊かれるんだよねぇ。経験不足に見られるのかな」

「え、いや、そんな、」

「……そうだね。働きながら勉強していたよ。実家、病院なんだけどそこまで世話になりたくなくてね。てか逆に息抜き? 飲食店だったんだけど、そこのオーナーが昔医師をしていてね。教授選とか小説みたいなことが本当に在って、最終的に医師も嫌になって、辞めてお店を出していたんだよ。で、俺は父親の伝てで結構融通してもらってねぇ。無事国家試験に合格して、しばらく実家を手伝っていました。海外で研修だってしたんだぞー」

 へへ、と無邪気に胸を張る先輩に、ああ、そうだった、と。先輩は俺より五つも年上で、医学部は六年制だから俺が一年のときも未だ学生で大学に通ってて。忙しいのに、時間が出来ればサークルにも顔を出していた。先輩、人気者だったからなぁ。俺は何回か学生時代「先輩、無理しないでくださいね」と、身にもならない労いをしていた。先輩はうれしそうだったけど。「お前だけだよー」とかよくじゃれていたっけ。……うん、まだ憶えてる。つか、あの髭面オーナー医者だったのか。なぜ医者からホストクラブのオーナーになったんだか。

「卒業してからもお店で働いてたかな。急には辞められなかったし」

 店が辞められなかったのは、ナンバー1だったからだってことも憶えてますよ、先輩。ついでに俺のせいでも在ったよね。俺のこと放置出来ないってさ。フィクションの世界じゃないんだから医者一本になったらどうですかって言った俺に「フィクションで無く、ピアニストと医師の二束の草鞋を履いてる人を俺は知ってるよ」って頭撫でられたよ。

 子供扱いだったなぁと遠い目をしていれば「でも、」先輩の笑い顔が曇った。俺は疑問符を飛ばして先輩を見詰めた。迷うように笑って先輩は口にした。

「後輩が死んじゃってね……他にもいろいろ在ったんだけど、つらくてお店は辞めたんだ」

 俺のことだ。「せん、」とっさに声に出たけれど「……せい」『先輩』と呼べないのだと軌道修正した。先輩は「ああ、ごめんね。余計な話をして湿っぽくしちゃった。そこは忘れて」と笑った。俺はどうして良いか途方に暮れた。

「そんなしょぼくれないの。好きに俺が話したんだから」

 相変わらず先輩はやさしい。頭を、俺は唯子ちゃんなのに変わらず撫でられている。ああ、けれども髪だけは、髪を梳くみたいな撫で方だけはっ。セット乱れるっ。ホスト時代もだけどやめて、マジやめてっ。

 俺は先輩の手を逃れ、俺が、唯子ちゃんの中にいるのはあなたの後輩の白井優李だと告白出来ない代わりに。

「『先生』、無理しないでくださいね」

 精一杯微笑んだ。今度は先輩が瞠目する番だったようだ。過去の先輩の言によると先輩はこの科白を言われ慣れて無いらしい。幼少期から頑張るのが当たり前だった。結果を出すのが当然だったと。先輩は器用貧乏で多くのことはこなせてしまうのだと。きっと、これが誤解の元なんだろう。ゆえに、俺が現実に効力も無いだろう労わりを掛けると、必ずよろこんでくれた。小さい子みたいに。子犬みたいに。

「……ありがとう、敦来さん」

 立場も容貌も年齢も性別さえも変わってしまったけれど、これだけは変わらず出来たから、先輩に会えて良かった。先輩に再会出来て良かった。

 俺は初めて唯子ちゃんで生きても良いかもしれないと思った。


 学校は大きかった。以上。……他に言うこと無いもん。本当だもん。

「……敦来さんじゃない、あれ」「まぁ、もうご復帰されたのね」「今朝、敦来様とご登校なさっていらしたわぁ」「ま、譜由彦様とっ? 羨ましいわぁ。従妹と言うだけで」「敦来さんだけ特別なのよね」「だって敦来の直系ですもの。ぽっと出ですけれど」「ご当主のご寵愛を一身に受けていらっしゃるから、怖いもの無しでしょうねぇ」……他に言うことは無いよ! 怖いだけだよ!

 平静を装っているけど、平常心を保てる気は一切しない。女子はほぼ全員陰口叩いてんじゃんよー。男子は視線を寄越すけど女子が怖いのか遠巻きだしよー。俺も混ぜてよ。いやいやリアルに混ぜてもらったら死亡フラグだわ。んな下手打てない。えーと、席、は、と……あああああ、悪口囀ってないで席くらい教えろやぁ! クラスには言って在るん違うんかーい!

 先輩との邂逅で前向きになった心境が一気に沈下したわ!

「敦来さん」

 何さっ! と俺が心内で荒れ狂っていると呼ばれた。顔にも出ていたらしく「っわっ、ご、ごめんなさいっ」なんて驚懼された。おっふ、般若面だったか。やばいやばい。俺は唯子ちゃん、俺は美少女。言い聞かせつつ深呼吸。呼んでくれた子が奇異な目をしているが、ちょっと待ってて外面準備中なんだって。

「敦来さん?」

「何かしら。ごめんなさいね、緊張で気が立っていたみたいで……」

 一旦顔を逸らし準備を終えてから振り向いた俺。ホストで培われた営業スマイルもばっちり決めただろうに、呼んだ子は先程より驚いた顔をして見せた。……え、何。加えて呼んでくれた子の肩越しに覗けたクラスの人たちが仰天していた。……え、マジで何。

「あの敦来さんが……」「ふ、譜由彦様がいないと愛想一つ返さない敦来さんが……」「近頃じゃ、それも無かったのに……」「笑った」「笑ったぞ」「笑いましたわ……」唯子ちゃん、きみはいったい何していたの。

「えーと、何だったのかしら?」

「あ、あぁ、ごめんね。僕はこのクラスの委員長で安房(あぼう)って言います。敦来さんが事故の後遺症で記憶障害って言うのは、クラス全員聞いているからね。遠慮無く言って」

 にこにこはきはき喋る安房くんは委員長の役職に相応しかった。俺は社交辞令を敢えて鵜呑みにして、思う存分利用させてもらおうと決心した。早速「私の席どこかしら」と訊いた。無論、0円スマイルは忘れない。「あ、ああ、席ね、席は、」頬が赤いのはやはり美少女効果よなほっほっほ。先輩の驚き顔は見ず知らずの生徒があんなこと言ったせいだろうが。安房くんが席へ誘導しようとしたのと同時に、クラスのドアが開いた。朝礼ぎりぎりの時間帯で殆ど揃っていたせいかクラスにいた人間が一斉に注目する。

 入って来たのは三人の少女で、一人を中心に二人が一歩後ろを歩き、王様に家来が付き従っている風な陣形だ。前を行く少女は毛先をふんわりさせたボブカット。顔は可愛い感じの美少女だ。だけども眉の撓り具合が、少女の気の強さを教えている。後ろの二人、片方は長い髪を結うこともせず流している。低血圧か気怠そうで、ぶっちゃけ唯子ちゃんと同学年とは信じ難い色気が在る。もう片方は眼鏡っ子。毛先がくるんとカールしたツインテールの二つ結い。何が楽しいのか、好奇心旺盛な小動物みたいに目を輝かせてきょろきょろ辺りの人間を観賞している。

「あら、梓川さんよ」「あらあら」「相も変わらず取り巻きをお連れね」「譜由彦様を煩わせたくせにまぁ」「鉄の心臓ですわね」「取り巻きの方々はよく付き合えますわぁ」

「────やかましい!」

 張り上げられた一喝に教室がしぃんとなった。皆が黙すると眠そうに気怠げだった美女がふんっと鼻を鳴らした。「……おお怖い」「さすが番犬ですわぁ」「まぁ、わんちゃんと同じにしては」「そうそう、せめて騎士ぐらい、ねぇ」全く以て悪いと思ってないよね、コレ。一連の流れに唖然茫然とはこう言うときの四文字熟語だと思う。呆気に取られた俺の手を、唯子ちゃんの白魚のような手をダンスよろしく取ったのは。

「姫だ」

「本真やー。生きてたんやな、自分」

 帽子に大きなマスクの怪しそうなひょろい男と、何か正気かってくらいぼんやりとした半目の方言の男。俺の手を引いたのはマスクの男だ。

「え、誰」

「あーマジだ」

「記憶無いとか嘘かと思たんにマジとかビビるわー」

 誰って訊いてるのに話を進められてしまった。脱力しそうなテンポだ。やる気無いなこの二人も。ええと、何だろう。日記に在った名前、学校関係は……。

“この前、変な二人組に目を付けられた。私みたいに浮いていて避けられているくせに、嫌われている訳では無い二人組”……日記の最後の記事だ。もしかして。

鵜坂(うさか)くん?」

「ん」

 マスク男が手を挙げた。ほうほう。こちらが鵜坂くんか。じゃあ。

富山(とやま)くん?」

「指差したらあかんでー姫様。そや、富山(じん)や。俺たちのことは憶えてるん? 姫様」

 おお、その通りだ。うっかり指差し確認してしまったが失礼だよね。「指差してごめんなさい。あと憶えていたんじゃないの。これも、ごめんなさい」と俺は素直に謝ったら二人は顔を見合わせた。え、何すか。

「謝った、なぁ」

「記憶障害って性格も変わるって言うから。それじゃ? っくしゅ」

 私見を出すと鵜坂くんはくしゃみした。それは、何か。唯子ちゃんは謝らない人なのか。ごめんなさい出来ない子は駄目だと思うよ、俺。馴染む前に人格矯正って出来るのかなぁ。次、男に会ったら訊いてみよう。俺の内は良いけどさ、気を付けるし。俺が飲まれて唯子ちゃんに順応しちゃったら元通りになっちゃう気がするんだよな。俺が脳内で目下使命の『唯子ちゃん待遇改善計画』を思案していると「ふ、二人とも」吃る声が上がった。目線を上げれば安房くんだ。

「敦来さんは復帰したばっかりで大変なんだから、駄目だよ絡んじゃ」

 あれ、頬が未だに赤いんですけども。仄かだけれどね。あれれ。もしや安房くんて赤面症? はきはき話せているのにねぇ。まぁそう言う人もいるらしいよね。活発なのに赤面しちゃうって。お客さんに昔いたなぁ。美少女効果じゃなかったのか、なーんだ。

「やから、声掛けたんやないかー」

「そ。姫と親しいのなんか俺らくらい……っくしゅ」

「そう言うこと言わないの!」

 安房くんの叱責も何のその、「姫の席、ここやでぇ」「はい、座った座った」飄々と俺に絡んで来た。や、親切ですよね。俺はあはははと口元を隠して笑うことしか出来なかった。

「……良いご身分じゃないの」

 とても最近聞いたことの在る文句。あら、周囲を見渡すとクラスは俺らのところ以外静まり返っている。聞こえたのは背後だったので振り返れば、さっき教室に入って来た少女が腕を組み仁王立ちで立っていた。双眸を吊り上げて俺を睨め付けている。

「復学した途端、男漁り? 節操が在りませんのね」

 再度どこかで聞いた悪態だおー! 怖いお! 一見可憐な美少女なのに怖いお! ……とか逃避でネットの掲示板っぽく嘆いてみたけど打開策にはならない。どうしようかなぁ……ん?

 先のとき、『梓川さん』とか人名が混じっていたような? 梓川って、さ。

“梓川のヤツ、飽きもせず嫌がらせ。よく続くものだ”

 唯子ちゃんをいじめてた子じゃね。

「何とか言いなさいよ」

「やめなよ、梓川さん」

 安房くんが厳しい顔付きで間に入る。あ、安房くんの頬の赤みが取れた。気を張ってるからかな。緊張って青くなることも在るから相殺したとか。しかしビンゴ。想像上よりずっと可愛らしいがこの子が梓川さんらしい。どっちかっつーと唯子ちゃんのがいじめっ子臭い、顔立ちのキツさ的に。俺が安房くんに守られる形になったのが気に入らないのか、剣呑な形相が更に歪む。怖いお。

「やめな、真苗(まなえ)

 剣幕の美少女梓川さんを止めたのは気怠い色気、……の、名前はわかんないけど先刻一喝の美女いぬ……もとい美女騎士様。いや、制服は一律よ。シャツが変わっているだけでよく在るブレザータイプね。決してこの人だけ制服違うとかでは無いのよ。何つーか抗い難いものが在る。眠れる獅子的な。うん、眠そうだしね。

「だって、合歓(ねむ)

 おっとー。名前まで面白いことに体を現しているぞぉ。在るんだな、そんなことって。無意味に感動している俺を残して、美少女と美女が言い争っておられる。俺はー……関わりませんよ怖いもの。

「だって、じゃない。謝るって言った」

「それは、そうですけれどっ」

「今回のこと、敦来様も事故だからってゆるしてくださっているけど、怒ってただろ。“謝罪は唯子が復帰したら本人にしてくれ”って。ご当主にまで庇ってくださって事無きを得たんだぞ。ここはきっちりケジメ付けな」

「ぅ……」

『敦来様』ってやっぱ譜由彦だよね。どこまでもスタンダードに『様』付けで呼ばれてんだ。口籠もる梓川さんは当時の譜由彦の様子でも思い出したのか、酷く落ち込んでしまった。もしくはお爺さんか。薄々感付いていたけども、事故の相手は梓川さんだったようだ。俺はちょっとかわいそうになった。元から、女の子の可哀そうなところは胸が痛む。俺が、何か発そうとした瞬間「そーだそーだ! 謝れーっ」楽しそうな合いの手が入った。えええぇ。何この子。

 合いの手の主は眼鏡っ子。おいおいおいおいぃ。きみは梓川さんの友達じゃないのかーい? 「寿満子(すまこ)! いい加減にしなっ」「いやーん、怖ぁいっ」美女、合歓さんに叱られた眼鏡っ子、寿満子。寿満子はどさくさに紛れて「ええぇぇぇっ?」安房くんに抱き着いた。あーあ、安房くん顔真っ赤になっちゃったよ。鵜坂くんと富山くんは「ひゅーひゅー」騒いでいる。

 周辺はひそひそ話と無遠慮な視線の集中砲火。ひとり置いてきぼり感半端無い俺は席に座ろうか判断に困っていれば。

「おーい席着けー」

 チャイムと共に先生がやって来たのだった。


 お金持ちの学校と一口で言っても過剰な装飾品は数えるくらいで、校舎は少々余裕の在る私立の大学に造りが似ていた。学食の地続きでテラスは在る。コンビニも敷地内に在るらしい。お金持ちが牛耳っているし通う生徒の生活水準は間違いなく高いけれど、まぁ、まったく「庶民の暮らしなんか存じませんわ、ほほほ」な生徒は存在しない。そりゃそうだ。クラスも、生活水準で分けていることも無く平均が偏らないために成績順でもない。『特別クラス』と言えばこの学校では、盲目であるとか難聴であるとか身体に不自由が生じる生徒がいるクラスのことで、素行の悪い生徒やらその筋の家柄の人間が隔離されたクラスが在る訳でもない。中にはそう尖っちゃった子とかいるようだけども、こんなのはどこの学校もよく在ることだ。

「まー? 気張る程のことは無いなぁ。俺は寮生活くらい?」

「え、そうなの?」

「鵜坂もやでー」

「ん」

 鵜坂くんは一文字で返事するなっつーの。現在お昼時間真っ最中。俺はクラスメートの不躾な対応に、硝子のハートがブレイクしそうで避難中。朝渡されたお弁当を持って出たものの、どうして良いか右往左往しているところ鵜坂くんと富山くんが柱の影でなぜか来い来いと手を振っていた。鳥心臓が羽ばたき掛けたよ俺は。クラス出るときに微かに聞こえた「あっ」の二つはこの二人だったのかもしれない。

 で、俺は連れられるままどう見ても理科室と言う部屋で昼食を取っていた。こう言う教室って鍵掛かってるモンだと思っていたのだが、鵜坂くんが何と科学部と言うものの部長らしい。一年なのに部長なのって話だが兼部の富山くんともう一人と鵜坂くんの三人の部活だからだって。それで格好がマッドなんじゃないよね? 後ろ側列の真ん中のテーブルで食事してからで何だけど標本無いのが救いだね。

「寮なんか在るのね、ここ」

 寮かぁ、良いなぁ。俺も寮じゃ駄目だろうか……駄目だよな。お爺さんがゆるす訳無いわ。譜由彦の監視まで付けるお爺さんが。万が一許可をもぎ取ったとしても、下手したら譜由彦まで寮暮らしになって恨まれ度倍増の予感。背筋寒っ。ブルリと体を震わす俺を、隣の富山くんは不思議そうな顔をした。

「んーまぁでも、あんまり寮には入居者いないなっ、くしゅ、あー」

 俺の向かいにテーブルを挟んで座る鵜坂くんの話だと、金持ちは実家が遠くても高級マンションの一室を借るか、もともと家が所有している建物に部屋を用意してお手伝いさんを雇ったり家の使用人を派遣させたりするから寮の需要が無いのだと。うわ、勿体無―い。厚焼き卵を口腔に放り込む。うまっ。

「寮は手狭やしな。一般家庭の人間なら多少はおるんちゃう?」

「ふうん。二人はどうして?」

「お、姫からそー言う質問は初めてやな」

 富山くんがにやっとした。「え、そうなんだ」「ん」だーかーら、鵜坂くんは一文字で、「姫は、あんま人のこと興味無いみたいやったから」まぁ、唯子ちゃんはねぇ。人より自分で手一杯、って感じだったし。俺も変わらないけどね!

「でも、」

 お、鵜坂くんが喋るぞ。って思ったら再度くしゃみ。鵜坂くんって。

「もしかすると、鼻炎性アレルギー?」

 花粉症とかハウスダストが代表的なアレか。花粉症も酷い人って熱が出るんだよね。アレルギー怖い。「ん、ごめん」肯定と謝罪をしながら鼻を噛む鵜坂くん。良いよ良いよ。つらいもんね、アレルギー。しかも理解も案外されてないから「接客業は薬で乗り切れ」とか無茶言われるって嘆いていたお客さんがいた。ウチのホストはオーナーの理解でマジキツかったらキャッチ免除かキャッチ中はマスクOK、重症は店内でもマスクOKになった。アレ医者だったからだと今頃発覚。

「花粉症?」

 花粉症は杉の人が多いですが他にも春夏秋冬反応する人はいるらしい。白樺の人とか要るんですよ。嘆いていたお客さんも春夏秋冬だったらしく、接客から事務に異動したって顛末だった。

「が、年中と、っしゅ、くしゅ、いろいろ」

「長く喋ると出たりもすんねんて。てか今何に反応してんねん」

「それ、入院レベルじゃないの?」

 俺の意見はもっともであろう。が、鵜坂くん曰く薬で抑えられてくしゃみもいつも出ている訳では無いので入院まで行かないそうだ。鼻の粘膜をレーザーで焼く方法も在るけど。

「鼻にレーザー自体怖いんやてぇ。ま、薬は仰山在るからなー。コイツんち製薬会社やから」

「ふぅん、そうなんだ。あー……、そうねぇ、鼻は怖いわよね」

 鼻に何か突っ込むって恐怖だよね。一歩違えば脳に行っちゃうんじゃない? なんてね。ホラーだわー。いやいや、無いと思うけどさ。想像すると怖い話って在るじゃん。その域で。俺が納得していると富山くんが鵜坂くんを引き継いだ。

「俺は地方の出身やからな。あとは社会勉強と……起業するための仲間捜し」

「えーっ? 富山くん起業するの?」

 その年でもう起業考えてんの? ちょ、凄いんですけど? 俺が高一んときとか何考えてたよ。ふわぁ。偉いなぁ。俺が目を丸くしているのを、もぐもぐお弁当を頬張ってからさも当たり前のことを語るように富山くんは言った。

「何驚いてんねん。こんくらいこの学校のヤツらは普通ちゃうん」

「そ、そーなの?」

「一から起業とか言うヤツ俺くらいやろけど」

 富山くんのお家は一族経営なのだけれど、会社を継がせるのは一人だけで、これだけならどこの家でも同じなのだが、富山くんのお家は少し違って必ず起業させてから後継者を選ぶのだとか。

「起業させてから? 普通は会社の一部任せるとかじゃないの?」

「ようわからんのやけど、それだと勝手知ったる何とやらで本真の実力がはっきりせんかららしい。やから、一つ会社を興してやってみぃ、言うことなんやって」

「無茶苦茶な……」

 俺が苦笑するとうーんと唸りながら富山くんは頭を掻いた。

「けどまぁ、わからんでもないで、俺は。失敗しても穴埋めしてくれる会社におっても、経営の力なんか身に付かんやろ。裸一貫で一から始めて、責任の重さとかわかるんちゃうの」

「そーかなぁ……」

 大企業の損失もそうとう責任重大だと思うけど。ああ、そうか。そう言うことか。

「会社の損失を防ぐためでも在るんだね」

 俺の感想は当たったらしい。にまーっと面の皮を伸ばすみたいに笑った。こんな猫いるよね。それと、富山くんはいつに無く生き生きしているね。後ろの席だった俺の目に入った二人は授業中も無気力丸出しだったよ。鵜坂くんはアレルギーのせいで怠い可能性も在るけれど。

「そ。たかが家督争いで社員やその家族巻き込めんっちゅーこっちゃ」

 こう聞けば考えられていて社員思いだなって思うんだけど。ややリスクが高い気がするんだよね。俺の微妙な心持ちを察してくれたらしい富山くんは得意げにしている。

「失敗してもな、バックアップは在んねや。借金て形で背負わされ、後継者候補からは脱落やけどな。逆に、上手く行けば候補に選ばれんでも会社は自分の持ち物、独立するだけや。俺は巧いこと考えた思うけどな」

 己次第やなんて、ええやんか。この世界、ハングリーでなぁ潰れてまうやろ。富山くんは今日始めて活気に満ちた笑顔を見せた。そう言うものか。俺はお弁当へ目線を落とす。次いで各務さんの言が思考回路を駆けた。

“唯子様は、大旦那様が生きていらしている間は大丈夫でしょうが、お亡くなりになったあとの保障はございません”

 そうなんだよなぁ。俺も、うかうかしてられないんだよなぁ。そもそも唯子ちゃんは家だけ手に入れてどうするつもりだったんだろう。炊き込みご飯を咀嚼する。うま。

「姫も、何かやる言うてたよな。憶えてないんやろうけどー」

 ……何だと? 俺はぐりんっと富山くんに首を巡らせた。富山くんはもう気概が去ってしまったらしい。どうでも良いけど、富山くん語尾伸ばすの癖かね。俺も似た癖在るけど。

「それ、詳しく」

 頭にkwskとか出たけどスルー。大事なことだからね「詳しく」二回言いました。え。古い? 良いの大事なんだから。俺が身を乗り出すと富山くんは引いた。次に「ふぎゃ」鵜坂くんが俺の顔を掴んで押し戻しました。何で。見苦しいって? ごめんなさい。つい。が、鼻はやめようよ。せっかくの鼻が潰れてしまうよ。変な潰れた猫みたいな声まで上げてしまったし。鼻を撫でながら見た鵜坂くんは眉が寄っている。え、何怒ってるの? マジギレなの?

「……そうは言うてもなぁ。俺らが姫と関わり出したの、姫が入院するちょぉ前やねん」

「だけど、聞いたんでしょ?」

「進路の話で出ただけやしな。そんとき、小耳に挟んだっちゅうかー」

 ちらーっとな、教える程も無いねん。首を傾げて富山くんはサンドイッチを摘んだ。サンドイッチ、鵜坂くんのですよね。然り気無く食べているけども。鵜坂くんは抗議しないところを見ると日常茶飯事なのかも。鵜坂くんのお弁当箱が大きいのは、鵜坂くんが大きいからだと解釈しておりましたがよもやこのためでは……。うーん、にしても進路か。進路だったら先生のほうが詳細知ってそうだな。あの担任か。この学校にしちゃガサツそうな。俺は塩味の茹で海老を噛む。良い塩加減と茹で加減だ……あ、そうだ。

「ねぇ。私と二人はどうやってお近付きになったのかしら」

 疑問だったんだよねー。日記には“目を付けられた”って記述しか無いから。あと何で『姫』呼ばわりか。俺が問うと「ああ、それはやなー」富山くんが答えてくれようとして、鵜坂くんが遮った。

「姫が、俺を普通に扱ってくれたから」

 予想外の解答に俺は固まった。“普通に扱った”? 解せない。俺がきょとんとしていると「姫は、俺を普通の人間として扱ってくれたから」繰り返して来るがごめん、わかんないよ。俺が富山くんに目配せで救援要請すると深ぁい嘆息。「あんな」、と訛った『あのな』を暮れた。

「コイツ、ちょおナリが変わってんやんかー」

 ちょっとどころじゃないけど。過ったが頷いた。にやぁと、緩慢に富山くんは笑う。“よく出来ました”、て意味かな。心情なんて読まれてるって訳か。

「んでな、俺も変わり者やねんかー。コイツはな、根は普通やねん。ってーより、もっと人見知りなんよ。せやが、人に合わせるんも苦手やねん。人より調子が遅いねん」

 体も弱いでなー。富山くんはそこで俺の水筒から了承も無く飲む。「何飲んでんの」「ええやんかケチ臭いー。てか麦茶苦っ」麦茶じゃなくて焙じ茶なんですが。飲んどいて言うなし。自前の加糖の紅茶を飲んでろっつの。

「他人に合わせるんか面倒やのにな。俺はわざとやけどコイツは違う。プラスこの格好やろ。その内に孤立してん。泣き付かれてなぁ。俺が来てんよ」

「二人って、学校で会う前から知り合い?」

 てっきり俺は学校でつるむようになったもんだと。俺が言うと富山くんは「俺ら、再従兄弟やねん」と衝撃発言をくれた。

「ええっ、そうなの」

「ばーちゃんが姉妹やからな。それぞれの家に嫁いどるからこの学校で知ってるヤツらはおらんのと違うかな」

 それは、うん、遠いなぁ。俺が富山くんから鵜坂くんに目を移すとマスクの下で微笑まれた。俺は、ど、どうしたらっ。

「って、」

「人の話の最中に姫に色目使うなや。そのマスクと帽子剥ぎ取るぞ自分」

 富山くんが鵜坂くんを叩いて脅すと即、富山くんから鵜坂くんは距離を取った。あ、サンドイッチの入った弁当箱は置いて行くんだ。

「ま。電話で泣き付かれてここに来ましたよって話や。ドゥーユーアンダスターン?」

「……今端折ったでしょ」

「何のことやらぁ」

 フザケた英語で締められた。面倒臭くなったなこの野郎。じとーっと目で見続けると首をぐいっと強引に方向転換される。痛い痛い。苦情を訴えようとしたら、俺の前には目を細めた鵜坂くんでした。マスクで面積の大半覆われている鵜坂くんの目は物を言う。な、何だよぅ。怖いよ?

「今度は睨むんやない。嫌われんで?」

「……!」

 体をびく付かせて俺を凝視する。すっっっごいんですけど! 犬みたい! 目がうるうるしてる! 花粉症のせい? あ、違う? これ、俺どう処理するのさ。富山くんに無声で助けを求めれば、連動したみたいに逸らした。くっそ。

「えーと、……別に嫌わないわよ?」

「……」

「本当よ?」

 じーっと攻防は続いたがやがて不承不承あきらめたようだ。一呼吸置いてサンドイッチを齧った。マスクを捲くって。さっきから指摘したかったんだよね。器用だよな。マスクしたまま食事って。

「……姫は、こう言うとき何も言わんよな」

 富山くんが、焦点を遠くに定めたまま零した。俺が「え、」と富山くんに聞き返せばふっと、富山くんは笑った。富山くんも鵜坂くんも顔面偏差値は良いんだよね。変人が勿体無いくらいに。鵜坂くんの場合マスクのせいだけどもね。

「普通のヤツはマスクが気になってうるさいねん。赤頭巾ちゃんの如くいちいち言うし訊くし。コイツも上手いこと言えんから黙るしかないやん。で、遠ざかるねん」

“赤頭巾ちゃん”って。「お婆さんの耳はー」ってヤツ? 「鵜坂くんのマスクはどうしてそんなに大きいの?」って? 成程ね、上手いこと言うな富山くん。

 唯子ちゃんは、今日の俺みたいにひとりご飯を食べる場所を探していたのだそうだ。晴れた日はこの部屋から見下ろせる裏庭で食べていた唯子ちゃん。二人は唯子ちゃんをずっと前から見掛けていたらしい。接点が出来たのは唯子ちゃんが事故る前日で、その日は朝から雨だった。裏庭は使えず雨の日に使っていた場所もこの日は使えなくて、唯子ちゃんは食べる場所が見付からず彷徨っていた。そこへ誘いを掛けたのが。

「鵜坂くん、か」

「俺もいたけどなー」

 渋っていた唯子ちゃんは誰も近付かないって好条件に誘いに乗った、と。

「何で、誘ったの?」

「興味が在ったんや、姫に」

 罵られいじめられても平然、嘲られても毅然としていた唯子ちゃんに「それだけやないよ」

「姫はな。下の裏庭で飯食うときはごっつーさみしそうやってん」

 唯子ちゃんが気になったのは主に鵜坂くんだったようだ。鵜坂くんは見ていられなかったのかもしれない。鵜坂くんも、ひとりが嫌で富山くんを呼んだ口だ。孤独に耐える様をかつての自身に重ねたのかもしれない。

「くしゃみするのが嫌で、呼吸が苦しくなるのが嫌で、マスク外せんコイツがマスク外すんわ、親に呼び出されてパーティとか連れて行かれるときか正念場だけやねん」

「嘘、外したのっ?」

 食事するのにも外さないのに! うわぁ、ちょっと唯子ちゃん。

 何できみはここにいないんだろうね。こうまでして、きみと仲良くなりたい人もいたのに。……はたと気が付いてしまったんだけど。

 鵜坂くん、まさか、唯子ちゃんが? いや、待て待て。早とちりってことも在るからね仲間意識のほら、同情ってことも在るよね? うん。このフラグは保留にして置こう。俺が心の内で勝手に収集を付けていたのと扉ががたんっと音を立てたのはコンマ差だったと思う。ちなみに、姫なのは、予想通り譜由彦のせいでした。生徒会長で学校の王子様の譜由彦の『特別』イコール『姫』なんだとさ。……良い意味に0.1も感じない。要らんよ、そー言うの。脱力した矢先に謎の振動音。

「────ちょっと! 開かないじゃないのぉぉおおっ」

 がっちゃんがっちゃんやっているのは、どうやら梓川さんみたいだった。薄い仕切り壁の向こうの廊下で喚く梓川さんに被る笑い声は……寿満子ちゃんだっけ? あの眼鏡っ子のようだ。てか、苛立って来ているのか音がどんどん鈍く『がったんがったん』に。やばいんじゃない? 二人は「うわ、いっちゃん面倒なのが来たわぁ」「開けたくない」「……開けへんかったらドア壊れんちゃう?」揉めていた。けれども富山くんの勝利だった。舌打ちして鵜坂くんは鍵を開けに行った。て言うか鍵掛けていたのか。梓川さん、きぃいいいっとか奇声発してるよ。怖いよ! ……俺今日幾度『怖いよ』って思ったかな。テレビのビビリ王なれそう、今なら。

「いるんじゃないの! 居留守使うなんて無礼ですわよ!」

「そーだそーだっ」

 力いっぱい引いていたのかぎしぎし言っていた引き戸が、止めるものも無くなり勢い余ってリバウンドした。転けなかったみたいで良かった。指は大丈夫かな。……きみはまたなのかい、寿満子ちゃん……。野次を飛ばす寿満子ちゃんに居丈高な梓川さんで、鵜坂くんの帽子の下の眉間に深々刻まれた皺が遠目にも見えます。俺はどうしようか算段を付けていた。ぶっちゃければ不介入を貫きたい。だって「面倒臭ぁ」うん、同意見だよ富山くん。

 火の粉を被るまいとじっと石化していた俺は、駄菓子菓子、もといだがしかし、梓川さんの殺人光線を浴びる羽目になったのだった。元より俺ですよね、梓川さんの標的なんて。俺が身を引いたのと、梓川さんの前を鵜坂くんが、俺の前を富山くんが庇うように躍り出たのは同時だった。むっと、梓川さんが口をへの字に曲げたのも。

「何ですの。そこをお退きなさい」

「そっちこそ何や。がっちゃがっちゃとうるさいなぁ? お嬢様がそないに粗暴な真似したらあかんのと違う? 真苗ちゃぁん」

 挑発ですかっ? 挑発されたら導火線に火が点くよ? 梓川さんってどの方面で鑑みても気が長いようには推察出来ませんけども? うん、富山くんの言い方は案の定梓川さんの気に障ったようだ。ここにストッパーと思しき合歓さんはいない。寿満子ちゃんは見るからにわくわくと楽しんでいて、富山くんは普段の無気力が鳴りを潜め好戦的だ。え、これって俺が間を取り持つ系? 鵜坂くんは……肩竦めたぞ! ちょ、放棄すんなし! いえいえ大役出来ません、と俺が逃げ腰でいると、一触即発の空気は突如破られた。

「ったぁああぁいっっっ」

「……人の目が無いところで何をやってるんだ、真苗は」

 梓川さんの頭に拳が落とされたのだ。ごっつんて視覚的に音が聞こえたよ……。後背から登場したのは、勿論「おちおち昼寝も出来やしない」気怠げ美女、合歓さんだ。ストッパー様、お待ちしておりましたぁああっっ。ところが心中で拍手喝采したのは俺だけのようだ。富山くんが指を鳴らしてかなり悔しがっている。えぇっ、そこ悔しがるとこじゃ在りませんからねっ? てゆか合歓さんは寝ていたんですか。昼食べると眠くなりますね、ええ。

「教室出られちゃって声掛けるタイミング無くなったから、放課後にしようって話になっただろ。何勝手に動いてるんだ?」

 あー俺の襲撃はするんですね。うわぁ、全然火の粉回避出来てないし。「まぁ仕方ないか」何がでしょうか。俺ライフ0なんですけど? あ、死んでるんだから当然かー。うん。逃げた。俺が虚ろに笑んでいると肩に手。鵜坂くんが心配げな瞳で俺を窺って来る。いつの間に。フッ……私を気にして犬みたいで可愛いーなんて絆されないからね! 放棄の恨み忘れないんだから……。……絆されないからね!

「ほら、真苗」

 俺がひとり劇場をやってる間に事が進んでおりました。向かい合っていた鵜坂くんが入り口から退いたことで室内に入った梓川さん、合歓さん、寿満子ちゃん……。梓川さんは浮かない顔で合歓さんに背中を押されこちらまで歩いて来る。そのあとを、ひょこひょこ飛びながら付いて来る寿満子ちゃん。変わった歩き方だなーと見ていると寿満子ちゃんがにぃっと笑い返された。……怖いよ。

「敦来さん。お話がございますの。よろしいかしら」

 意を決した梓川さんは俯かせていた顔をぐわっと上げ、難しい表情をしながら告げた。必死な梓川さんには絆されそうになる。俺基本女の子には弱いし……と俺が何か口にする前に「よろしくないわぁ」富山くんが即答した。えー……。

「あ、あなたには申し上げておりません!」

「んなことぁわかっとるっつーのー。頭悪いんじゃないの、梓川」

「んまっ!」

 梓川さんて典型的なお嬢様だよなー。言葉遣いっての? おほほほーって笑いそう。俺は……本物の唯子ちゃんはわかんないなー、機会も無いし日記はああだし口悪そう。それにしても富山くんちょっと当たりキツいんじゃないかなーって気がするよ? 楽しそうに笑ってるけど。ここは俺助け舟出して良いところだよね。

 でも。

「だいたい、あなた何なんですの! 今まで知らん振りして置いて急に敦来さんに取り入って!」

 いや、富山くんは取り入ってはいないと思うよ? 敦来の家が凄いとしても、富山くんはそこまで標準の小物な考え方は持って無さそう。……うん、でね。

「はっ、取り入るとかそれ梓川やろ? 生徒会長様の機嫌取りたくて姫に近付いてるん違うか?」

 あー、譜由彦ねぇ。だけどさー富山くん、俺は、唯子ちゃんは譜由彦に避けられているから、徒労なんだよねぇ、俺におべっか使うのは。っつーか二人ともさ。

「何てこと言うの! この私がそのような短慮で姑息な真似をするとでもっ?」

「するん違うー? 幸い姫は記憶無いんやしぃ? 今の内に丸め込んで親友にでもなりましたって姫の家にでも転がり込んでみぃ。麗しの生徒会長様と既成事実でも何でも出来るやろがぁ?」

「何て下品なことを仰有いますの? そんなこと思い付くあなたのほうが余っ程危険極まりないでしょう!」

 俺に、喋らせる隙をくださいませんかねぇ? まさに口を挟む余地も無いよ? 俺だけだけじゃないよ、合歓さんとかもですからねっ? 俺や外野が成り行きを眺めている間も喧嘩はヒートアップして行く。きりきり眉を吊り上げる梓川さん、享楽に笑んでいるかのような富山くん。そして、富山くんは言ってはならないことを言ってしまう。

「姫の一件は事故や言うことになっているけど、本真は突き落としたんと違うんかぁ? お前みたいなヤツならやりそうやで」

「っ……」

 息を飲んで凍り付く梓川さん。見る見る内に青褪めて行く。合歓さんは気色ばみ、さすがに寿満子ちゃんも笑顔を収めた。鵜坂くんも呆然とする。富山くんはこの期に及んで嗤っていた。アイツみたいに。俺は。

「───ってー、」

 小気味の良い音が響いた。俺の手もじんじんする。周りは洩れなく目を瞠った。富山くんは頬を押さえている。人を叩くなんてやっちゃいけないことだ。けれど富山くんは人に言っちゃいけないことを言った。浴びせられた梓川さんは痛かったはずだ。つか。

「当事者でもないくせに、言わないで」

 そう。富山くんは唯子ちゃんじゃない。俺だって唯子ちゃんじゃないけど現在俺が唯子ちゃんだ。事故のことを俺はまだ知らない。だので権利が在るのか判然としないけれど、非難して良いのはこの場で俺だけだ。

「姫……何するん」

「富山くんが梓川さんに非道いこと言ったからよ。私のためでも、私、ちっともうれしくない」

「姫……」

「謝って。梓川さんに」

「……」

 富山くんはそれっきり黙ってしまった。俺は一つ息を吐いた。とにかく。

「ごめんなさい、梓川さん」

 謝った。再び梓川さんが息を飲んだ。俺は頭を下げた。富山くんが愕然としている。当然のことを俺はしているだけなのにね。俺のせいで梓川さんは傷付いたんだ。富山くんが俺のことで、唯子ちゃんのことで過ぎた発言に及ぶとは思わなかった。彼は余り周囲のことなんか気に掛けている風では無かったから。

 だからって、俺に責任が無いかと言えばそうじゃない。富山くんは俺に関しては僅か抱けども好意的で、その俺が事故の加害者とされる梓川さんといれば些少は気にするし、俺のこと庇ったっておかしくないし、何より梓川さんを良くは思わないだろう。俺がもっと采配に注意すれば良かった、て訳だ。

「姫……」

「私のせいで、悪く言われて、本当に、ごめんなさい」

 富山くんが焦っている気配を感じるが無視だ。俺はじっと頭を下げたまま静止した。ごくりと喉が鳴る音が微かにした。梓川さんだろうか。誰でも良いか。変に空間が張り詰めて、唾を飲み込むことも在るだろう。しばし膠着が続き、「頭、上げてくださいな」解けた。他でも無い、梓川さんによって。

「驚きました。敦来さんが私に頭を下げるだなんて。明日は雨かしら」

 豪雨ね、きっと。言ちる梓川さんはつんと鼻を尖らせたがさっきまでの険しさは無い。ほっとした。それと、やっぱり唯子ちゃんは待遇改善に加えて態度を改めさせないと。策を講じないとなぁ。

「富山くんの非礼でしょうに」

「富山くんは私を庇ったから」

「違います。あなた性格変わり過ぎよ。そこの男は単にあなたを出汁にして面白がっていただけ」

「そうかもしれないけど、原因は私だから」

「……随分お人好しの莫迦になったのね。頭を強く打ち過ぎたのかしら。私の反省すべきところね」

 わざとらしく大袈裟な所作で額に手を当てた梓川さんは俺を横目で捉えた。唇が弧を描いた。

「張り合いが無いあなたなんか拍子抜けね。ったく」

「……“ったく”じゃない。ちゃんと真苗も謝れ」

 今まで無言だった合歓さんが小言を滑り込ませて来た。良いぞ、もっと言えとはならない。うっと詰まる梓川さん。強気が嘘みたいに間誤付き出した。良いよ良いよ。俺は幾らでも待つよ。なかなか言い出せない梓川さんを静観していると、開けっ放しだった扉の向こうでばたばたと足音が響いた。目的地はここだったらしく教室の手前で止んだ。呼吸を整える音がしてから。

「敦来さん、いる?」

 果たして顔が赤いのは走ったせいか赤面症か。安房くんだった。囲まれている俺を認識して、次に梓川さんたちを認めて強張らせた。梓川さんも安房くんの変容を認知したようだ。可愛らしい面立ちを険相に変えてしまっている。ああ、ようやく和やかな雰囲気になったのにっ。

「梓川さん、何しているの?」

「別に。取り立てて言うことはございませんね」

 唯子ちゃんも梓川さんも、なぜこうもキツいのだろうか。ほら、安房くんが勘繰っているじゃない。俺がはらはらとしていると「梓川さんはこう言っているけど、」安房くんが俺に向いた。

「本当に何もされてない?」

「しつこいですよ、あなた」

「梓川さんに訊いているんじゃないよ」

「まぁあっ。ちょーっと昔生徒会長をやって譜由彦様に可愛がられていたからって、図に乗るんじゃ有りませんわ!」

 やーやーやー、梓川さん、それ関係無いから……生徒会長? 安房くんに視点を合わせるけど俺の視線に気付かず梓川さんと話している。冷静な姿勢は確かに生徒会役員もクラス委員も適任かもしれない。赤面症の気も、もし有っても適材適所で表は誰かにやってもらって裏方に徹すれば良いもんな。……生徒会長でそれが可能かは不明だけど。昔、ってことは今高一だから、中学のときか?

「だいたい、学校側だってぴりぴりしているこの時期に問題行動なんてする訳無いでしょう」

「そーそー。隈倉(くまくら)の件だって在ったし」

 梓川さんの反論に合歓さんが同意した。『隈倉』? 初耳の名称に一人事情が飲み込めないでいると、狙い澄ましたように寿満子ちゃんが「あー、姫は知らないんだっけぇ。てか、わかんないんだよねぇ。隈倉って言うのは『隈倉アンナ』って言って、ついこの前死んじゃった子。姫と、ぴったり入れ違いじゃないかなぁ」あっけらかんと喋る寿満子ちゃんに形容し難い複雑な気分だ。「へ、へぇ」と相槌を打つといきなり、話すトーンを下げた。

「それもね、隈倉のヤツ、殺されたの」

「え、」

「相手は入れ揚げていたホストだってぇ。邪険にされてキレた隈倉が、ホストに仕返ししようとして返り討ちに遭ったんだとかぁ。隈倉、隣のクラスでウチらと同い年なんだよぉ? それでホストクラブに通ってたってのも怖いけどぉ、そのホストに殺されるのもマジ怖いよねぇ」

 自らの身を抱き締めて言う寿満子ちゃんはまったく怖そうではなかった。って、言うか、“入れ込んでいたホストに邪険にされた”? どっかで知っているような……まさか、ね。彰吾に迫っていた女の子が脳裏を掠めたけども、今は置こうか。

「……ねぇ、」

「あ、ごめんね。梓川さんがうるさくて」

「ちょっと! 元はと言えばあなたが、」

「ストップ、ストップ。安房くん、私に何か用が在ったんじゃないの」

 俺を捜していたんだから在ると踏んでいるけれど、無いことも想定済み。中学校で、生徒会だったんだもんねぇ。俺が振ればああっ、と安房くんは声を上げた。

「そうだよっ、予鈴鳴ってるのに敦来さん帰って来ないんだもん! 他の、ここにいる全員もいないし。僕心配で捜しに来たんだ」

 一同驚愕し、一糸乱れぬ団体行動で時計を注視。うわ、ガチだ、授業始まってる! 「俺は知ってたけどな」呑気な富山くんの一言。この非常事態には梓川さんたちも慌てふためいて駆けて行ってしまった。「先に行って、上手く言って置くから、来てねっ」言い捨てて安房くんも去ってしまった。俺と鵜坂くんは慌ただしくお弁当を片付けている。うわー、まだ三分の一残ってるよーっ。勿体無い……。なぜか富山くんはゆったりだ。お弁当は校内の購買で買ったため捨てられるプラスチック容器で、ゴミ箱に捨て片手には紅茶のペットボトル一本。で。

「ちょ、行かないのっ、富山くん!」

「ああ、俺サボるー」

 な、ん、だ、と? 俺は見返ったが鵜坂くんに二の腕を取られ引かれた。「鵜坂くんっ? 富山くんが、」「時間」俺には向かずそう答える鵜坂くん。え、と俺が思うが早い鵜坂くんが早いか。鵜坂くんが言った。「あれで、結構堪えてる」富山くんが?

「神は、悪趣味なところも在るけど、姫のことは気に入ってたから」

「……」

「人が困っているの好きな神が、唯一対価無しで接してるの、姫だけだから」

 俺にも、請求はしているからね。長科白にくしゅん、と鼻がむずむずしたのかくしゃみをする。富山くんが、ねぇ……。振り返った先で富山くんは背を向け手を振っていた。面様は窺い知れない。沈み込んでしまっただろうか。俺が気鬱になっていると引っ張られ走らされる。鵜坂くんは俺より、吐くと、白井優李時代の俺より身長が在る。なのに、歩調は合わせてくれていた。引っ張られたのは、スピードアップのためではなく呼んだからだ。

「気にしないで。姫は、間違ってない。姫が何もしないのに、っくしゅっ、神がすることじゃないから」

 俺を慰めると鵜坂くんはマスク越しに微笑した。鵜坂くんは、マスクと帽子のインパクトさえ慣れてしまえばそこそこイケメンなんだよなぁ。俺も礼儀的に笑んで返した。鵜坂くんは前に向き直った。


 俺は知らなかったんだけど、男も実はこの学校にいた。どこにいたかと言うと、譜由彦たち生徒会役員が執務をこなす生徒会室だった。譜由彦たち三年生は授業と言えば受験勉強だけ、それに、近い内生徒会も入れ替えなので常より何割か多く譜由彦たちは仕事に追われていた。この学校は二学期の始まった月に生徒会選挙を行い入れ替える。譜由彦が生徒会長に就任したのは去年二年生のときだった。メンバーも発足前、前生徒会から然程変わらず長い付き合いになった。皆良家の子女で才色兼備、何れは会社を背負い世の中に貢献する人材だ。ここで終わる付き合いでもなかった。

「そう言えば、“お姫様”、戻って来たんですって?」

 議事録の整理を行いながら尋ねて来たのは書記の不動(ふどう)摩利(まり)だ。ベリーショートで『お姉様』の愛称で男女とも慕われている、気の強い女性。高嶺の花っぽいけれど砕けた空気に人が随時集まっている。

「ああ、唯子ちゃんか。良かったね、譜由彦」

 答えたのは譜由彦ではなく会計の薬師(やくし)依生(いお)。派手めな生徒では在るが言動は印象より慎ましやかだ。長めの髪は電卓片手のパソコン業務には邪魔だったらしく、一つに纏めて前髪も髪留めで留めている。

「へぇ、そうなんですか。会長、お疲れ様です」

 続いたのは庶務の十石(といし)里見(さとみ)だ。薬師の席の横に立ち、出来上がった予算案を纏めていた。種類別時期別締め切り別と分けて、譜由彦が終わらせていた書類とクリップしている。茶道の家柄で育ったためか立ち姿一つきれいだった。

「唯子ちゃん、無事退院出来たんだね。おめでとう、譜由彦」

 最後に恵比寿(えびす)アサヒ。副会長でおめでたい名前と、譜由彦とはまた異なる和やかな雰囲気に『仏の恵比寿』と評判らしい。恵比寿は神様だと思うけどね。譜由彦を入れて五人。生徒会を回しているのはこの五人だった。

「ああ、ありがとう」

 礼は述べるものの、譜由彦は浮かない顔をしている。不動、薬師、十石は訝しげな眼差しを譜由彦へ投げてから、互いに見交わす。ただ一人、恵比寿だけが笑顔だった。

「過保護なんだよねぇ、譜由彦は」

 恵比寿はのんびりと、『仏』と称される顔で書類確認して印を押していた。過保護、と言う単語でようやっと他三人は、ああ、と悟った。譜由彦は物憂げな表情から不機嫌そうな顔に変わった。「違う」誰へとも無く呟いた。

「過保護じゃないよ、俺は」

「嘘ばっかり」

 即座否定したのは恵比寿だ。じろりと睨め付けるが効いている風でもない。涼しい顔のこの友人を、譜由彦はどう言うことか苦手としていた。中等部でも生徒会で共に過ごしていたと言うのに、面白いことに二、三年程の間に苦手意識が芽生えていた。前から有ったのかもしれない。譜由彦にもよく定かではないのだけど。ただ、あれからなのは確実だった。

 唯子が中学の二年生に上がってしばらくしてからだ。唯子を避け出したとき。譜由彦は時期がぴたりと嵌まることに感付いた。男は壁に背を預け譜由彦を観察していた。そこへドアがノックされる。譜由彦は「どうぞ」と許可する。この辺まで、役員皆手を止めていない。さすが学校で認められる役員と言ったところか。ゆるしを得て入室したのは俺の先輩だったこの学校の勤務医。

「椰家先生」

「頑張っているようじゃないか」

「先生っ」

 最初の譜由彦とは対照的に歓迎的な声を上げたのは、些かミーハーの気が在る不動だ。赴任して間が無い勤務医たる先輩がなぜ来たかと言うと、彼がこの学校の、しかも生徒会のOBだからに他ならない。「差し入れだよ」袋を見せ微笑んだ。俺こと白井優李と出会う前、彼は中高一貫の学校で日々を過ごした。譜由彦と同様に、中高生徒会役員で、高二から高三まで生徒会長だった。譜由彦とは違い家柄が抜群に良いことも無かったが、人気だけで言えば譜由彦に匹敵したそうだ。

「何か御用ですか、椰家先生」

「元生徒会役員としては様子見と、頑張ってるから差し入れをね」

「……ああ、成程」

 譜由彦は両手を組み頬杖を突いてうっすら笑みを浮かべた。目配せし腕時計を然り気無く人差し指で二回叩いたのは、ほんの数秒だった。役員たちは譜由彦の指示を一人も残らず察した。データを保存、そうしてパソコンの電源をオフにした。帰り支度を始める。役員の様子に先輩は不思議そうな顔をした。

「あれ、せっかく差し入れ持って来たのに、帰るの」

「あー、これも会長命令で」

「そーそー。私ら逆らえないんですよ」

「そうなの?」

 首を傾げはしても先輩は追及する気は無いようだ。譜由彦はいけしゃあしゃあと「時間ですから」と言ってのけた。実際は、目配せと指の合図が重要で、目配せして二回叩くのは“退室せよ”と言う意味だった。やった者以外は退去する。時には、どれだけ仕事に追われている最中でも、だ。帰宅しなければならない時間が迫っていたのは本当だったが。

「じゃ、お先に失礼します。『会長』も、余り無理しないように」

 みんな帰り支度を終え出て行く段になって恵比寿が挨拶ついでに釘を刺す。それが切っ掛けで次々ぶすぶす杭ならぬ返し針ならぬ釘を刺し始めた。

「そーよ。『会長』、また倒れないでよね」「あ、そー言や、在ったなーそんなこと」「『会長』が高一のときでしたっけ」「うんうん、あのときはびっくりしたな。過労だっけ」会長、と役職を強調しながら囂しい集団に「……貧血だよ」血管を切らさないよう努めて自己を保った。言いたいことを言って気が済んだのか口々に一礼し騒々しく帰って行った。どうも自分はアイツらに遊ばれている。嘆息しつつ、ふっと思い至った。

 唯子を避けていたのも恵比寿が苦手になったのも、昏倒したのも、同じ時期だった。あの日譜由彦は貧血で倒れ、数日眠っていた。思いもよらない符合に気を取られていたが「敦来くん」現実に戻った。そうだった。自分はこの勤務医と二人になりたかった。幾つか、確かめて置きたいことが在ったのだ。譜由彦は先輩と対顔した。取り敢えず、ソファを勧め自らも席から離れた。

「珈琲で良いですか」

 相手が着席したのを見届けると注文を取る。先輩は「お構い無く」と一言付けるけれど譜由彦が間に受けるはずも無く、手ずから珈琲を二つ用意した。通常なら十石の役目だったが今日は自分が帰してしまった。譜由彦が一人で残ることは多く己で飲み物を用立てることにも慣れていた。

「手馴れているね。忙しいのかな」

「インスタントですから、そこまで手間も要りませんし。残業は多いですよ。明日の分もやれるだけやりたいので。さ、どうぞ」

 先輩の前へカップを置くと自身は脇に立ったまま珈琲を啜った。「座らないの?」「このままで結構です。お聞きしたいことをお聞かせいただきましたら、仕事に戻りますので」「そう」単調な会話は、ともすれば不穏な匂いをさせた。譜由彦はカップを会長席に置き代わりに一つの紙束を手にした。「椰家先生」「うん」ぺらり一枚捲った後「先生は隈倉アンナをご存知ですよね」問うた。

「───」

 譜由彦は「ご存知ですよね」質疑を重ねた。語尾に疑問符は無い。そう。裏付けでしかないからだ。譜由彦の持つ紙の束は書類は書類でも『調査報告書』。調査対象は『椰家晃』。先輩だった。突発事態に無表情になった先輩を書類から視点を移動させて譜由彦は見た。譜由彦は「ご存知でしょう」積み重ねた。

「ご存知のはずです。隈倉が入り浸っていたホストクラブは先生が勤めていらした店舗でしょう。隈倉の事件のとき、先生が第一発見者だったそうですね。ホストとの諍いが発端だった。再三来てはしつこい隈倉に頭に来たホストが路上で滅多刺し。その後自殺していますね。先生は、二人の様子に胸騒ぎを覚えて現場に遭遇、救急車を呼び救急車が来るまで救命措置を行った」

「……その通りだ。その縁で俺はこの学校へ来ないかと誘われた」

「そのようですね」

「これは……何かな。尋問みたいだけど」

「お気になさらず。単なる身辺調査です。先生もおわかりかと存じますがこの学校は良家の子女や有望な人材が多い場所です。一種の社交場と言って良い」

「うん。知っているさ、身を以て、ね」

「そうでしょうね。ですから、なるべく把握して置きたいんですよ。隈倉の一件は影を落としています。先生が隈倉の件で関係者である以上無視は出来ません」

「疑わしきは、てこと」

「あらゆる可能性は潰すだけです」

 先輩は手に付けていなかった珈琲にやっと口を付けた。譜由彦は一旦紙に目を戻すと先輩がカップを置くまで待った。

「……似ていましたか」

「え、」

 カップが音を立てたが、今度はテーブルに置かれたと耳で知っても譜由彦は先輩を見なかった。そして続けた。

「ウチの薬師。先生の、亡くされた後輩の方に」

 薬師が生徒会室を出る際一瞬先輩の瞳が追ったのを譜由彦は見逃さなかった。先輩の両眼に険が滲んだのを肌で感じながら、先輩を見下ろす譜由彦は微笑を浮かべた。人の悪そうな、人を小莫迦にしたみたいな笑みに先輩は誰かを彷彿とした。誰かは思い当たらなかった。譜由彦はどこ吹く風で報告書を読みつつ珈琲を飲んでいる。先輩はそっと、吐息でもするように応答した。

「……似てはないかな。薬師くん程男臭い感じじゃなかったし。髪型くらいかな。よく、あんな風に髪を纏めていたよ」

「そうですか。俺は散々薬師には鬱陶しいから切れと言って来ましたが」

「そう。俺とは違うなぁ。俺は伸ばせって言ってたからなぁ」

「『白井優李』と仰有るんですね、後輩の方」

「……そうだよ」

 先輩は、やわらかい臓腑を鷲掴みにされるみたいな不快感を感じていた。たいせつなものを、あのときみたいに壊されるようで。

 あのとき。ナンバー1ホストだった先輩は彰吾の件で同席するようオーナーたちに言われ店にいたのだ。俺が即死だと聞いて、絶望を見た気がした、とはあとに聞く先輩の言だ。現段階で、俺は知らない。ここでのやり取りも。陶器製のカップが音を立てた。軋む音だ。まるで先輩自身の心の音だった。譜由彦は、気に留めていない。淡々と、確認していた。

「白井さんが隈倉を庇って亡くなられた件も一応お聞きしたいんですが」

 伺いを立てている割に、拒否権も黙秘権も有りはしなかった。不愉快極まりない、と表面には出さない先輩は頷いた。

「隈倉と白井さんはお知り合いだったんですか?」

「多少はね。だって客とホストだもん。彼女は別のキャストから加害者のキャストに指名替えしたんだ」

「“キャスト”」

「ホストのことだよ。どこの店でも店員は『キャスト』って呼ぶと思うけど」

「へぇ、ホストもそうなんですか」

「そうだよ。きみも知らないね」

「まぁ、今後の参考にさせていただきます。……で、その指名替えされたキャストが白井さんだと?」

「違うよ。別の子。ゆりは、」

「“ゆり”?」

「……俺は白井をそう呼んでいた。“優李”だからね」

 細かいことが気になるのか、と先輩は若干面倒臭そうに溜め息を吐いた。譜由彦は一度空中に視軸をさ迷わせて紙面に戻した。「……そうですか」調書の文字を目線でなぞりつつ前髪を指でいじっている。先輩は既視感に襲われた。……どこかで、見たことが在る、と。前髪を指に絡め引っ張る譜由彦。譜由彦ではない誰かで、先輩はこの仕草を知っていた。無論俺も。先の譜由彦に透けて見えた『誰か』と同一人物だ。先輩の視線を感じて「何か?」譜由彦は尋ねた。

「いや」

「気持ち悪いですね。何なんですか」

「非道いな。本当、何でも無いよ。ちょっと思い出しただけ」

「へぇ、……誰を?」

 譜由彦の眼光が冷たくなった。ぞくりと、先輩の背筋を何かが這ったが、どうしてこうなったか、理由が見付からない。「白井さんですか?」譜由彦がそう訊いた御蔭で「いいや」先輩は我に返った。

「まぁ、良いです。で、白井さんは隈倉と面識は在ったものの深い関係は無い、と」

「彼女は彰吾にご執心で他には目もくれていなかったからね」

「ああ、『彰吾』───『鹿見(しかみ)(てる)』ですね」

 鹿見彰、これが彰吾の本名だった。『彰』と言う字を“てる”と読むことは少なく“あきら”も“輝”も先輩が『(あきら)』で先にいたため使えなかった。ならば“ショウ”でも良かっただろうと思うのだが。彰吾の友人が“ショウ”とすでに呼んでいて、差別化も図るためだったとか、何とか。彰吾と言う男は、ああも偉そうで傍若無人且つ色恋営業にまで手を出すような最低男だったが、とかく細かい男だった。変な拘りが在ると言うか。付け加えるならそれでいて、異様に沈着とした男だった。

「彼、本当に隈倉を刺したんでしょうか」

「えぇ、どうして?」

 吃驚して見せているが、顔色に変化無し。やや優れないようにも見えるが。譜由彦はお道化る先輩に対して滔々と平坦に推考を口答した。

「彼は性格上とても喧嘩っ早い人物に思われがちですが、一度も感情に任せた行動をしたことは無いそうですよ。沸点は低くなかったようですね。勝算の無い勝負はしない、が信条だっだそうです。あと、強い者しか興味が無かった、とも」

 調査報告書にはそう書いて在ります、全部彼の友人の証言ですが。譜由彦は手の中の束をばさりと振って見せた。先輩は「じゃあ、」足を組んだ。

「敦来くんは、誰が隈倉さんを殺したと?」

「さぁ? ただ、どうも……あなたのそばで人が死に過ぎている気がします。白井優李さんの死が、封切りみたいに」

「そう、かな」

「ええ、不自然なくらい」

「そう……ああ、ところで。────敦来唯子さん」

「───」

「良い子だね。“無理しないでくださいね”って」

「……」

「言ってもらえたの、久々だ」

 舌打ちを隠さないことで譜由彦は喋り過ぎたかと言外に出した。立ち直る隙を与えたかもしれない。先輩は打って変わって愉悦を曝け出している。眦が上機嫌に下がり口角が上がる。譜由彦はヴェネツィアのカーニバルを思い出した。不気味だ。マリア・テレジアが仮面舞踏会を禁止したのは盛況過ぎたからだと言うけれど真意は別に在ったのではないだろうか。こんな気味の悪い顔が、顔とも呼べない顔面が埋め尽くして各々騒いでいたら、ぞっとしないだろう。事実、譜由彦は幼少期、上流階層の悪ふざけの仮面舞踏会に招かれ泣きそうになっている。……どうにせよ、相手に冷却時間を与えたことに間違いは無い訳だ。────違うな。譜由彦はさっと経過を浮かべ感付いていた。先輩が、どの時点で調子を取り戻させていたか。

「……あなたにとって、」

「ん?」

「白井優李以外の存在は無価値なんですね」

 勤務医が情動を顕にしたのは後輩について質問を連投したときだけだ。束の間だけ揺らいだ。白井優李に関することだけ。譜由彦を、親の仇みたいに睨んでいた。愛する人を犯した加害者を憎むような眼で。丸きり“穢すな”、そう言いたげに。

「あの子だけだったからね。“無理しないで”なんて労わってくれたのは、……や、宥めて、かな」

「“宥める”?」

「うん。彼がいなかったら、俺はどうなっていたかわからないよ」

 次は、譜由彦が背筋を凍らせる番だった。軽く語っているが全体に纏うものは酷く重たい。昏い、黒い。狂っている。先輩は憤怒が主成分で振れたが譜由彦は主に恐怖が湧いた。“彼がいなかったら”? じゃあ。

「じゃあ、今はどうなんですか……」

「今?」

 歓楽街から外れていたとは言え、そこそこ盛況だった店でナンバー1を張るだけの容色が、逸楽して歪曲を乗せる様は譜由彦に後悔を抱させるのは充分だった。先に立たないとはこのことだな、譜由彦は自嘲した。

「今はそうだねぇ……比較的に穏やかな気分だよ? もっと早くあの子の言う通り医師一本に絞れば良かったんだ」

 “あの子”が白井優李なのは明白だろう。「ああ、だけどね」不吉な予感だ。譜由彦は身構えた。勤務医は、先輩は、艶やかに酷薄に、僅少に快楽を交えて、譜由彦へ冷笑した。

「敦来唯子さん。彼女の御蔭で晴れたよ。ここに勤める楽しみが出来た」

 譜由彦の握る手に力が入る。報告書を持つほうからはぐしゃりと潰れる音が。もう一方は握り拳でぎりりと音がした。噛み締め過ぎか、歯軋りもした。

「……滑稽な三文芝居だな」

 どちらから洩れ聞こえたかと言うと男だった。コイツは一部始終を観覧していたのだった。頃合いを見計らうと酷評を残し、すうっと姿を消した。

 この出来事は遠くない未来俺の耳に入ることになる。誰に聞くかとか、そのとき俺の意識が残っているのか、完全に唯子ちゃんと化しているかは現在は捨て置くことにする。

 だって、俺はこの時分、自分で精一杯だったんだから。


 譜由彦と先輩が俺の知らないところでバトってたのと同時刻。

「……」

「……」

 俺は梓川さんと睨み合っていた。場所は学校の裏庭。そう。俺たちの教室が在る棟とは違う、あの理科室から望めて唯子ちゃんがお昼を食べていた。睨み合っているっつーても、俺は冷や汗かいているだけですよ。無口になっちゃうのは、梓川さんが可愛いお顔を凶悪な色に染めていらっしゃるからです。もう嫌だ。無理。むりぽ。

「早く言え。告白するんじゃ有るまいし」

「そーだ! いっそチューしちゃえっ」

「っ、はぁあっ? 何仰有っているんですの! 寿満子!」

 えええええ。寿満子ちゃん何その発想。その発想は無かったわー。遠くから勇気付けているようで野次を飛ばしている風にしか見受けられない。んで、ご立腹の梓川さん。あ、二人の名字が判明致しましたよ。合歓さんは『飛騨川(ひだがわ)』、寿満子ちゃんが『千町ヶ(ちまちがはら)』だって。でも、面倒だからこれからも心では合歓さん寿満子ちゃんて呼ぼっと。て、言うか何でそんなとこにいるんでしょうか。二人は裏庭自体でなく理科室から覗き込む形でこちらを見ている。何でいるんだよー俺がさみしいじゃないか。俺側は一人もいないしさぁ。

 俺がいいよって言ったんだけどね。午後の授業が全部終了しても富山くんは帰って来なかった。俺に付いて行きたいけれど富山くんも待ちたいと迷っている鵜坂くんと、俺から離れない安房くんは教室で待つよう言い付けた。安房くんは再度口論に発展する危険回避も兼ねて。言い付けた。笑顔で。

 うーん、スマイルは大事だよ。どっかの知事選の人もアピールしてたけど。大事だよ。あとやっぱ可愛いは正義だった。置いて来るとき。

「……僕も行こうか?」

「大丈夫。少しお話しに行くだけだから」

「でも、」

「大丈夫」

「……っ」

「私、ちゃんと梓川さんとお話したいの。ね、お願い」

 ……首傾けて上目遣いは効く。さっすがに手を握るのはしなかったが、食い下がる安房くんには効いてくれて良かった。いつもの何倍も顔真っ赤だったけど。で、笑顔で駄目押しな。いやー、良かったよ。誰かいると話し進まないから。進まないのに、梓川さんも追い払ったはずなのに、二人はちゃっかり見物して……あれ?

「あ、あのーっ」

「なーにーっ?」

 俺は口の両側に両手を添えて大声で上へ話し掛けた。同じようにして返したのは寿満子ちゃん。え、だって、二人がいると言うことは。

「富山くんはーっ?」

 富山くんは一人、理科室に残ったのだ。二人がそこにいると言うことは、必然的に富山くんはいっしょにいるか出て行くしか無い。

「私たちが来たときには誰もいなかったわよ」

 答えたのは合歓さん。うん。普通のトーンかよ。しかもここいらが静かなせいか余裕で聞こえて来るし。大声でやり取りしてる俺ら莫迦みたいじゃない。もっとも、寿満子ちゃんは気にしてなさそうだ。俺が細かいのか。にしても、富山くんいなくなったのか。教室に戻ったのかな。だったら良いんだけど。

「気にすること有りませんわよ」

 俺があからさまに悄げていたんだろう。梓川さんが言った。「あの富山のこと。どこか、購買やらコンビニにやらでも行っているのでしょう。アレで意地汚いですから、彼は」わぁおぅ酷い言われよう、「それに、」ん?

「私とあなたのことに口を出した彼の非です。あなたになら言われても仕方ないですが、彼に言われるのは我慢なりませんでした。あなたが引っ叩かなかったら私が殴ってましたわ」

 な、殴……。結構過激ね。ああ、そう言えばこの子と階段で揉み合って落ちたんだっけ、唯子ちゃん。不貞腐れた顔でそう話す梓川さん。うん? これ、もしかして。

「で、ですから、気にすることじゃ有りませんっ! おわかりかしらっ?」

 ちょ、照れてる! あの梓川さんが照れてる! 朝冷気しか漂わせなかった梓川さんが照れてる! 安房くん並に紅潮してる! うわーっリアルツンデレ! リアルツンデレお嬢様カワユス! 表に絶対出さないけど、ツンデレ属性じゃないけど、やばいマジやばい。あー、惜しいなぁ。男時代だったらなぁ! ちくしょっ! ……男時代じゃお近付きも出来ない別世界の方ですけどね。

 と、内面悶えていた俺だが表面はきれいな微笑を心掛けておりましたよ。唯子ちゃんのきれいな、身も心もきれいそうな純潔スマイルだ! 練習したからね! 鏡の前で! 一人で!

 純潔スマイルが上手く行ってるか不明だが梓川さんが顔を逸らしたから良しとしよう。俺は「ありがとう、梓川さん」とお礼を言った。「べ、別に、私はっ……」焦って口を開いてまた閉じた。いやーツンデレのテンプレじゃないですか。にやけちゃうよ、俺。

 その、梓川さんはもごもごしている。良いよー好きなだけもごもごして。やっぱり女の子は可愛いなぁ、どんな子でも。

「……」

 唯子ちゃんはどんな子だったんだろう。結局、何一つ掴めていない。申し訳無いなーって思う。日記や他の人から聞くに“だいたいこんな子”って大まかであやふやなイメージは在るんだよな。けれどそれだけで。

 申し訳無いなーって。ふうっと、肺の空気入れ替え。この動作にびくんっと反応したのは梓川さんだ。あ、ごめん、そう言うつもりじゃっ。慌てて弁解しようとしたがやめた。逆に良くない気がして。なので。

「あのね、梓川さん」

 アンニュイって言うの? 愁いを帯びた表情作って乗ってみた。梓川さんは途端に窮地に追い込まれたかの如く「わ、私っ」とか吃っている。あは、ごめんねぇ。ここは通させてもらうよ?

「梓川さん」

「……何」

 怯えないでよー。いじめようってんじゃなんだからぁ。意地悪過ぎる? 酷いよねぇ。人として。何だろう。俺Sっ気も無かったんだけど、何か梓川さんの困り果てている様子、何か可愛いんだもん。唯子ちゃんが染み出してるのかなぁって憶測しつつ。俺はすっと梓川さんの肩に手をやった。距離も縮めた。

「梓川さん」

「で、ですから何ですかっ?」

 可愛いなぁ。俺はにっこり笑った。咲いた、って表現がしっくり来るだろう笑い方だ。梓川さんが瞠視した。このインパクトに笑みを数ミリ、深めたなんて察せなかっただろう。俺は「もう、良いの」と切り出した。「い、良い……?」惑う梓川さんに、俺は大いに動揺したまえ、とか煽っていた。良いぞ、もっとやれ。俺は「そう、良いの」と復唱した。伏せ目がちにする。伏せ目がちって難しいんだよ。下手すると眠そうに見えるから。ホスト時代に練習させられたんだよね、先輩に。そうだった。あの人にスパルタで仕込まれたんだよ。うん、OKまだ記憶在るわ。俺はほんの少々眉根を寄せた。寂しげ、とか、哀しげ、とか連想する表情作りに徹する。これもホスト時代に以下略。表情一つ仕草一つ所作一つ姿勢一つ。どれが欠けても思う通りには行かないものだ。気は抜かない。俺は科白を投下した。

「あれは、事故だったんだもの」

 梓川さんが「っ」震えた。俺は構わない。目は未だ伏せがちにしたまま。まだだ。

「あの日のこと、私は覚えてない。だけどね、梓川さん。私も、きっと悪かったんだと思うの。場所だって、たまたま階段だっただけだし、さっきも言ったけれど、私は覚えてないの。だからね、苦しまなくて、良いの」

 俺は目を開く。完全ぱっちり開いた目を梓川さんに向けた。梓川さんは困惑の面持ちだ。俺は宣言した。

「私、忘れることにする」

「……っ」

「けど、これで無しにすると梓川さんが苦しいと思うの。そう思うから。梓川さん。

 一言、謝って」

 梓川さんがぽかん、とした。梓川さんの眼はちょっと垂れ目気味の大きな目だ。常時力強い光を湛えているせいで一見全体的にキツく見えてしまうが、もともと可愛らしいレトリバー系の瞳をしている。呆けたせいで、目に入れていた力が弛んだのか、つぅっと涙が流れた。……うん、もう一押し。俗な計算してごめんなさい。

「私も謝りたいけど、記憶の無い私が謝っても、多分梓川さんに対して失礼だから」

「……」

「……なので、別件で謝りたいと思います。あのときのこと、忘れてごめんなさい」

 梓川さんが刹那呼吸を止めて、次いで唾を飲み込んだ。そうしてから。

「……私も、ごめんなさい……落とすつもりなんか無かったの……」

 うん。そうだよね。クラスメートがひそひそ陰口叩いていたとき、合歓さんが一喝したけれど、梓川さんは黙って、甘んじていたもんね。富山くんが心無い一言を浴びせたときも、ショックを受けていたけども、反論はしなかった。

 唯子ちゃんの転落事故は、梓川さんにとっても大きな衝撃で傷になったんだろう。十代の少女だよ? 今日までどれだけつらかっただろう。俺は今日、俺としても唯子ちゃんが事故ってからも初めて学校に来たけれど、梓川さんはずっと来ていたんだろうから。あんな誹謗中傷を小声で囁かれ続けて来たんだ。堪らない。

「うん、これで、おしまいね」

 俺との間でだけでも終わらせてあげよう。そうすれば少なからず、梓川さんも荷が軽くなるよね。譜由彦絡みも含めてな。俺はえへへと笑った。照れ臭いのは本心からだけど、勿論打算も入ってます。ええ。ここで終わらせて置かないと、今後の俺の待遇改善計画に支障を来たす恐れが在るからね。うん。

 俺は割合笑顔全開だったけど梓川さんもぎこちなくだが笑ってくれた。……これは、この件に関しては和解ってことで良いよね? 俺らが笑い合っていると唐突に頭上でがらっと音がした。驚いて、二人揃って見上げる。音のしたほうを見るとそれはあの理科室の窓で、俺たちと同じく目をかっ開いて隣を凝視する合歓さん寿満子ちゃん。隣の窓には。

「梓川!」

 窓を開け放し、身を乗り出している富山くんがいた。常時のぼやけた顔じゃない真摯な眼差しだ。

「俺も! 余計なこと言って悪かった!」

 ……何、この青春映画。呆気に取られていたら考えてしまって、堪えていたのに「何、この青春ドラマ」合歓さんが、俺が考え付いたのと同義なことを零すから噴き出してしまった。梓川さんは、先程の笑いが嘘みたいに掻き消え唇を尖らせた。つんと上を向き。

「ふん。あなたが失礼なのはいつものことですからね! 気にしてませんわ。……それより、あなたは敦来さんに謝りなさいな」

 強がっちゃって。傷付いていたくせに、梓川さんは見栄を張る。連結した言葉には俺が瞠ってしまった訳だけど。梓川さんは皆まで言わないけれど俺が富山くんのことで頭を下げたことを指しているんだろう。富山くんも悟ったのか俺に移った。

「姫、……敦来」

 周りが揶揄や軽蔑も込めて口にする呼称じゃなくて名字に言い直す。俺も笑いを引っ込めた。富山くんを仰ぎ見る。

「お前が望んでもいないのに、莫迦なことした。ごめん、なさい」

 梓川さんとの舌戦を享受していた富山くんとは大違いな誠実さだった。俺は「良いの。気にしてないわ」と苦笑した。ただ、と付け足す。

「無闇に、痛いところを攻撃するようなことはしないで。罪から目を逸らす人はいても、逃れられる人はいないから」

 傷を負うのが被害者だけ、ってことはない。……俺だって聖人じゃないから、子供じゃないから、熟知してる。傷付かない加害者だっているって。こう言う人は価値観が違ってて無知なんだ。無神経。神経が通っていなければ痛い訳も無い。だけれど、陰にはなる。一生付き纏う、それは障害だ。もっと、重い。「……」小学生だったアイツも、少しは気付けただろうか。彰吾も。気付いていると良い。

 そして唯子ちゃんは、死ぬべきではないのだろう。もし唯子ちゃんが死んでいたら、梓川さんは現在より重いものを背負っていた。俺は唯子ちゃんではないけれど。唯子ちゃんは今、俺だから。

 俺は唯子ちゃんとして生きるしか無いんだろう。

“ごめんなさい”、か。家族に言えなかったな。“ありがとう”も。先輩にも。先輩は、そこにいるのにな。

 もう言えない。俺は、ここにいるのに。

「敦来さん……?」

「お願いね、富山くん」

 梓川さんの怪訝な声音には応えず富山くんに念を押した。富山くんは「……うん」と頷いてくれた。

 飲み込んだ重さは随分と現実的だった。




 消える潰れる、……ねぇ。

『俺』で良いの?


『俺』は、良いの?



 

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