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 2. 白 雪 姫 の お 城 事 情 

「怖かったよーっ!」


   【 2. 白 雪 姫 の お 城 事 情 】


 唯子ちゃんの部屋だと通された場所は、可愛いけど思ったよりシンプルだった。だって、唯子ちゃんて髪の毛縦ロールで似合うけど、はっきり言って姫臭いから。譜由彦が持参した着替えの服も、フリルがところどころあしらわれたワンピースだったし。……これあの叔母さんが用意したって思い出して凹むわぁ。

 白と木目と、たまにアクセントでくすんだピンクや茶色が使われている室内。基調がはっきりすっきりしていて、悪くない。意外と、唯子ちゃんは華美より機能重視なのかもしれない。

「怖かった、何アレ!」

 だが部屋模様よりも何よりも、俺が一番に食い付いたのは。

「唯子は問題を抱えている。前以て説明はしたぞ」

 男が部屋の出窓に腰掛けて腕組みしながらそこにいた。忽然といなくなっていて俺は一人おろおろしていたのに、ここにいたとは! 「学校でやっかまれている、てことだけじゃないのっ?」俺は内心安堵しつつズカズカ踏み込んで男に詰め寄った。

 家でもなの? 冗談じゃないんだけど! 俺は自らの頭を鷲掴みしゃがみ込んで悶絶した。美少女のくせに蟹股になったやら、過らなくも無いけれどどうでも良い。

「何でぇ? 唯子ちゃんそこまで悪い子っ?」

「唯子は直系の生き残りだからな。叔母夫婦にしたら本家に摩り替わる絶好のチャンスにお前は邪魔なんだろう」

「あ、そう言う話っ?」

 俺は一般人だから考え付かなかったけど、そうかそのパターンか。え、じゃあ。

「俺、消されるんじゃね?」

 青褪めた。もしかして、俺、唯子ちゃんの体になった意味無いんじゃね? 俺は疑惑に剣呑な瞳を集中させると「消しはしないさ」男は余裕たっぷり微笑んだ。「消せるはずが無い」首を振った。

「どうして言えるの。……そう決まってるから?」

 疑って見上げる俺に「それも在る。が、目に見てもうすぐわかる」悪い顔で見解を放った。俺は男の言葉が釈然とせず男を見ていると、こんこん、と部屋のドアがノックされた。

「唯子様、少々よろしいでしょうか」

 閉まった扉を隔てて、譜由彦とはまた違う低い声が是非を問う。ちらり男に目を遣ったが病室でも捕捉されなかったと考え直し「はい、どうぞ」了承した。

「失礼します」

 入って来たのは、玄関で叔母夫婦といっしょに俺と譜由彦を迎え、譜由彦から荷物を受け取ったスーツの男性だった。チャコールグレイのスーツはぴしっと着こなされ、ネクタイは普通のとは異なり留め具の付いた紐タイだった。一見すると執事さんみたいだ。オールバックの短髪に銀縁眼鏡。ぱっと見叔父さんと変わらない年齢かと目測していたが、よく観察するとかなり若かった。二十代……後半程かな? 先輩や龍さんと変わんないかも。顔面偏差値も。

「───ああ、唯子様は今記憶があやふやなのでしたね。初めまして、大旦那様の、唯子様にとってはお爺様ですね、第一秘書をしております各務(かがみ)と申します」

 執事じゃなかった! 秘書だった! 胸に手を当て腰を折り、慇懃に一礼する各務さんに俺も「あ、ご丁寧に……」と頭を下げた。身長のせいか、俺のほうが各務さんより低い位置に頭が在り、各務さんに見下ろされる形になった。

「……真偽を疑っておりましたが、どうも真実のようですね」

 ぽつんと零された。え、となって俺が顔を上げると各務さんは鉄面皮を崩すこと無く俺を見下ろしていた。読み取れない面持ちだ。「あの……」俺が当惑していると「ああ、申し訳ございません」沈着と謝罪して来た。俺は齟齬を感じていたが、謝る相手に追及するのも気が引けて、俺は頷いた。

「唯子様。お疲れのところ申し訳無いのですが大旦那様が唯子様に会いたがっておられます。お会いしていただけませんでしょうか」

 伺いを立てている割に俺の決定権は無いような口調だ。ふと男を振り返った。男は動物でも振り払う如く手を縦に振って無声で「行け」と言う。男が見えていない各務さんは一連の動きに「どうかなさいましたか?」と訊いて来た。俺は「いいえ、行きましょう」各務さんへ進言して唯子ちゃんの部屋をあとにした。


「唯子様は、」

 各務さんに従うように後ろを付いて行く。しばし会話も無く静かに歩いていたのだけれども。

「お爺様のことお聞きにならないのですね」

 各務さんの発言にきょとんとすると顔だけ一回振り向き前に戻すと「唯子様は大旦那様のことは多少憶えておいでですか?」続けた。

「いいえ」

「そうですか。興味が湧かないのか、ご自分で手一杯なのか。もう少し気を配ったほうがよろしいですよ」

 周辺の人間が、果たして味方かどうかなど、容易く判別付きませんからね。ご忠告痛み入ります。身に沁みる程に。染みる、じゃないよ。沁みる、ね。さっきだって「面倒掛けないでよね、厄介者」って言われましたし。耳元で。

 ええ、叔母さんですとも。俺は声無く空笑いを浮かべるしか無かった。

 唯子ちゃんの敵の多さ。この子、いったいどんな子な訳ぇ? 俺が遠い目をしてる間に「大旦那様、唯子様をお連れ致しました」着いたようだった。

「唯子、来たか。すまないな、足腰の自由が利けばわしのほうから出向くものを」

 お爺さんは、数年前から体調を崩しているのだと、入室前に各務さんに聞いた。足は取り分け悪くなって、歩くのもつらいらしい。俺はぶんぶん横に首を振った。お爺さんは「ありがとう」うれしそうに笑ってくれた。

 唯子ちゃんのお家は、どうも代々美形のようだ。布団の上で座るお爺さんも、きっと若いころは美男子だったのだろうと思う男前さんだった。男前に、年の分だけ刻まれた皺をくしゃりとさせて、好々爺然と相好を崩す。俺は勧められるままお爺さんの前に正座した。

「お爺様」

「ああ、いい、いい。皆まで言うな。可哀そうに。譜由彦にはくれぐれも頼むと言い付けて置いたのに。大変だったな。あぁ、婆さん、ほら、唯子が来てくれたよ」

 お爺さんは俺の言葉を遮ると俺を労わった。婆さん、と首を巡らした先は仏壇だった。仏壇に飾られた遺影は二人の人物が写った一つだけ。二人とも若い男女だ。

「大奥様の、お婆様の遺影は上です」

 各務さんに耳打ちされて仰ぐと上には幾つもの写真が。代々の敦来の当主と妻、ってヤツだろうか。右から順に見て左端に品の良さげな老女がいた。老女だが、本物の美人は皺も美しさを損ねないのだろうな、って感じだった。譜由彦の顔はこの人譲りだ。柔和な美顔は性差を除けば生き写しだ。

「唯子。ほら、お父さんとお母さんにご挨拶なさい」

 お爺様が手で仏壇を指す。俺は言われるまま仏壇の前へ座り直し小さな遺影を見詰めた。唯子ちゃんの亡くなったご両親だ。二人とも、若くして亡くなったのを如実に語る写真だった。お父さんはお爺さんに似た精悍さが在るが、どことなくお婆さんのやわらかさが在る。お母さんは肌色が透き通るように白い黒髪の清楚な、美女と言うより美少女と言う形容詞が似合う人だった。この二人から唯子ちゃんが生まれるのは確実だった。唯子ちゃんはお母さんよりお爺さんやお父さん似の美少女だけどね。

「わからないかい? 唯子」

 お爺さんの沈痛な声に胸が痛んだ。俺は唯子ちゃんじゃないから、お二人を知らないのだ。わかるわからない以前に、俺は知らない。

「ごめんなさい、お爺様」

 落胆させるのは明白だったけれど謝った。お爺さんは「そうか」と返した。

「唯子が謝ることじゃないよ。階段から落ちたのは事故だそうだし仕方の無いことだ。だけどね、唯子。お爺ちゃんはお前の両親を亡くして悲しかった。身が引き裂かれるかと思ったよ。今回の件も同じだった」

 お爺さんが一拍を置いた。お爺さんは体の調子が良くないようだ。見ていても、言うまでも無く威厳の在るお爺さんだけど、布団からは出ず寝巻きの浴衣から覗く喉元や腕は細い。

「お爺ちゃんのお願いだ、唯子。記憶なんかどうでも良い。思い出せないなら、それで良いんだ。どうか、どうか気を付けておくれ。唯子の無事がお爺ちゃんのこの上ない願いだ」


「俺、もう無理だわ」

 唯子ちゃん、きみのお爺ちゃん良い人だね。唯子ちゃんのお部屋に帰って、俺は唯子ちゃんのベッドに突っ伏した。ダイブしたときに捲れたスカートはきちんと直したから、お行儀悪いなんて怒らないで。

「騙すって、お前な」

「だって、俺唯子ちゃんじゃないし」

 マジ、きちーですわ、俺。あんな良いお爺ちゃん騙すのは嫌だ。俺がうんうん唸っていると、「第一もうお前は敦来唯子だ。騙すも何も、しばらくしたら本人になる」男が呆れたように言った。その言い草に俺は引っ掛かった。“本人になる”って何だ。だいたい、ずっと痼りになっていることが在るんだが。説明受けているときは譜由彦の登場に中断されてしまったけれど。

「だいたいさー。俺、男だよ? “バグはバグで修正”ったって性別くらい合わせてくれても良いんじゃないの? てか、唯子ちゃんは承諾してる訳?」

 お爺さんの弱々しい懇願が脳裏にふわっと過ぎて行った。あそこまで唯子ちゃんを想うお爺ちゃんがいるのに、俺なんぞに体を渡してしまって唯子ちゃんは良かったのか。徐々に憤慨して詰め寄る俺を鬱陶しいと蝿でも払うみたいに避ける。

「爺さんのことを気に掛けてはいたが、そいつを差し引いても向こうが良いんだろうよ」

 はー、と明らかに嘆息、と言った息を吐いた。ウザいって、零していた彰吾のようだ。突っ掛かる先より気になった。“向こう”って。

「例の、もう一つの体が在るって言う異世界? そんなに良いところな訳?」

『異世界』。この文字は心躍る。そうでも、叔母さんはともかくお爺さんを平然と置いて行けるものか? 俺は難しい顔になってしまう。

「お前は、白井優李は円満な家庭で過ごしていたのかもしれない。せいぜい、お前の挫折なんぞ就職活動とやらくらいだろう。あとはささやかな友人関係か。敦来唯子は違うぞ」

 苛立っているのか責めるような科白に俺もむっとして口を開いた瞬間。

「唯子ちゃん、ちょっと良いかい?」

 叔父さんだった。俺は慌てて「あ、はい」と姿勢を正した。男には乱れた格好でも構わないけれども、叔父さんはマズい。

「ごめんね、休んでいるところ」

「いいえ……叔父様こそどうされたんですか」

 お爺さんを『お爺様』と呼んで特段気もされなかったので唯子ちゃんは標準で様付けなのだろう。譜由彦だって『お兄様』だし。正解だったようで、叔父さんも笑うだけだった。少しの合間にこにこと笑い合っていたんだけども、俺は違和感に嘖まれた。「失礼するよ」ベッドの上に座る叔父さん。つい俺もスペースを空けてしまったけれど、コレ、何かおかしくない? 男を盗み見ると無表情にこちらを眺めている。いや、───軽蔑している?

「叔父様……何か御用でしょうか?」

 いや、マジ何の御用でしょうか。叔父さん、何で詰めてんですか。この距離どうなんですか。すっごい身に覚えが在る距離感なんですけども! 「唯子ちゃん……大変だったねぇ……」肩抱くなーっ! 耳元で喋るなぁっ! ちょ、何コレどー言うこと何が起きてるの! 不意に、男の言がリフレイン。

“そいつを差し引いても向こうが良いんだろうよ”

「唯子ちゃん……叔父さんねぇ、とても心配していたんだよ」

“お前は円満な家庭で現在は過ごしていたのかもしれない──────敦来唯子は違うぞ”

 叔父さんの吐息交じりの囁き声が気持ち悪い。間に、男の声。男の軽蔑の目。……もしかして。

「唯子ちゃん、叔父さんに何でも言ってね……」

 もしかして。

「……っ」

 唯子ちゃんは。

「唯子ちゃん、……」

 気色悪い。耳に掛かる息も、がっちり、いつの間にか手首を拘束しているかさかさの手のひらも、強い力で肩を押さえる体温も、気色悪い。「────放して」上擦りながら拒絶を示した。叔父さんは笑みを深くした。人の良さそうな叔父さんの笑顔は、瞳が好色に染まってた。寒気に襲われた。怖い。

 込み上げる恐怖に強張る。この恐怖は俺が感じたものだろうか。それとも、唯子ちゃんが日ごろ体験して体に馴染んだものだろうか。「どうしたんだい、唯子ちゃん?」俺、男だけどこの恐怖がどんな種類か知っていた。

 学生時代、とち狂った先輩に襲われたときだ。あのとき、俺は男だったから撃退出来た。先輩も酔っていたのでフザケた上だったろうし。藻掻く俺は現状唯子ちゃんだ。美少女唯子ちゃんは、華奢な見掛けを裏切らない非力さだった。怖い。暴れているのに要所要所押さえ込まれて抵抗は弱くなっている。嫌だ。怖い。「……唯子ちゃん」「ひぃっ」笛みたいな音が自らの悲鳴だとは思えない。ただでさえ、唯子ちゃんの音声で発していることにしっくり来なくて困惑しているのに。己以外感知されない男へ熱願するように助けを求めるが、男は先程と変わらず白眼視しているだけだった。

「唯子ちゃん……」

「……っ」

 どうしようも無くなって俺が目を瞑ったのと、扉がノックされたのは数瞬の差だった。

「唯子、いるかい?」

 譜由彦だ。叔父さんがびくりと振れ、ばっと立ち上がり俺から離れた。俺は返事が出来なかったのに譜由彦はドアを開けた。冷えた目だった。

「……父さん、何をされているんですか」

「い、いやぁ……ほら、唯子ちゃんは病院から帰って来て記憶も無いだろうっ? 不便は無いかとだなっ……」

「そうですか」

 焦って間誤付く叔父がどう映ったのか、譜由彦は冷視を注いでいた。髪質だけはよく似ている二人だが譜由彦は叔母さんの子供なのだろう。叔父さんは小物臭いが譜由彦はお爺さんに近い。立ち姿に、人の上に立つ素質みたいなものが見える気がした。……一応元ホストですから少しくらいは査定出来ます。

「父さん」

 びくっと、いちいち震わせる叔父さん。余っ程自分の血を分けた息子が恐ろしいらしい。や、譜由彦の後ろに透けて見える、叔母さんやお爺さんの影かもしれない。唯子ちゃんが叔母さんに似てる点や、男が叔母夫婦って言ってたところから見ても叔父さんは立場が弱い婿養子だし。死刑宣告を待つ囚人みたいに蒼白の叔父さんへ譜由彦は宣った。

「母さんが呼んでいます。早く行ったほうがよろしいんじゃないでしょうか?」

 零度を軽く下回った眼光に怯えつつ、叔父さんは「そ、そうかっ、では行こうっ!」脱兎の如く逃げ出した。残された俺は、へたり込んでベッドからずり落ちてしまった。ベッドの掛け布団も床へ落ちる俺に巻き込まれ、半分引き摺り落ちてしまった。茫然自失となった俺は涙目だった。叔父を見送っていた譜由彦が向き直る。……あれ。譜由彦の目線は零下のままだ。

「……帰って早々節操が無いな、お前も」

 唯子ちゃんの大きな目を瞠った。譜由彦は腕を組み俺を────唯子ちゃんを見下していた。物理的にも精神的にも。

「お兄様……」

 譜由彦を『お兄様』と呼ぶのだと、情報を仕入れたのは入院中。譜由彦は、入院している間も退院して家に帰る日も、唯子ちゃんを随分と案じては心を砕いていた。穏やかにうつくしく笑んでは俺を。唯子ちゃんを。

「お兄様、い、今のはっ……」

 言葉遣いも変わってしまっているし、まさか、今ので見損なわれたのだろうか。だったら、挽回しないと。俺のことは元より唯子ちゃんの名誉を。俺が言い募ろうとした。が、譜由彦に遮られた。

「ちょっとはおとなしくなるかと期待していたんだが、記憶が無くなろうと、淫乱は変わらない訳か。迷惑な話だな」

 御伽噺の王子様みたいに柔美な外貌が侮蔑を隠しもせず見せる。美形は、迫力が出るよな、って逃避したかった。うん、無理だった。彰吾もそうだった。何でそんなこと出来るんだろう。

「まったく。良いご身分だ。こっちはお爺様の厳命で、学校ではお前に何事も無いよう見張れと言われていて、常に気を張っていると言うのに。学校で好き放題しているんだ。家でくらいおとなしくしてくれ」

 心底卑下にされていた。叔父さんが無理矢理俺を押さえ付けていたのに、唯子ちゃんがまるで誘ったかのように。唯子ちゃんが悪いみたいだ。女の子相手にどうしてそんなこと出来るんだろう。……同級生のアイツとか、彰吾とか。

「だいたい、父さんを誑し込んでも無意味なのはお前も理解しているだろう。父さんに実権は無い。家では母さんが、会社はお爺様が握っているんだから。ああ、それとも」

 俺は顔を俯けスカートの膝部分を握った。どうして……譜由彦も。

「男なら、誰でも良いのか。各務も誑かしているようだしな」

 ここで、どうして各務さんの名前が挙がるのか。彼と唯子ちゃんは何か在ったんだろうか。俺の与り知らないことだ。是とも否とも弁明不可能だ。俺は、唯子ちゃんじゃないから。

「まぁ、各務は正解だな。お爺様のお気に入りだ。だがな、唯子。父さんを誑し込むのはやめて置け。母さんは父さんのことなんかどうだって良い人だが、人に横取りされるのは気に入らない性分なんだ」

 黙り込んでいる俺に言うだけ言い捨てて譜由彦はドアを閉めた。……ねぇ、唯子ちゃん。

 きみは、ここまで言われなくちゃいけない程に非道い子なの? 譜由彦の言う通りなの? 譜由彦の言う通り節操が無くて、男なら誰でも良くて、叔父さんとも各務さんとも関係を持っていて、叔父さんのアレは当然のことで、学校でも好き放題やってて、だから。

 学校で階段からも、突き落とされた? 俺がぼんやり物思いに耽っていると。

「わかったか」

 男が憮然と口を開いた。いろいろ一遍に起きたせいで頭が上手く働かない俺は一言。

「唯子ちゃんは、非道い子なの?」

 投げ掛けるしか無かった。この男は俺に唯子ちゃんとして生きろと言う。でも俺は唯子ちゃんじゃない。唯子ちゃんじゃないから。

「……無理だよぅ……」

 敦来家、嫌だ。お爺さんには悪いけど、唯子ちゃんが逃げ出した心意も頷ける。これは折れる。唯子ちゃんが悪いのか? わかんないから、途方に暮れてしまう。男が一つ息を吐いた。俺はのろのろと男を仰ぎ見た。

「唯子が悪いか、俺は知らない」

「……」

「お前が判断しろ」

 男は、突き放すように告げ顎を杓ってある物を示す。唯子ちゃんのシンプルな机だった。俺が汲み取れず男を見返せば、男は「引き出しを開けてみろ」と指示を出す。俺は諾々と机へ向かって引き出しに手を掛けて、「え、」開かない。「……ああ、そうか。机のペン立て引っ繰り返してみろ」言われたまま引っ繰り返す。かちゃんかちゃん転がる文房具に紛れて光る小さなものが転がった。初めは指輪かと「鍵……?」手にして小さな鍵だとわかる。「引き出しの鍵だ」よく見ないと見付からないところに鍵穴が在る。「唯子の特注だからな」余程、見られたくないものが在るのだろうか。鍵は軋んだ音を立てて解錠した。今度こそ引き出しを開けた。中には、分厚い本が一冊と、小物。小物はどれも玩具だ。指輪とか首飾りとか。唯子ちゃんの幼少時の宝物だろうか。「それ、読んでみろ」本を手に取った。ページを捲る。

 本だと思っていたものは、日記だった。分厚いだけ有って、ここ数年の日常が赤裸々に綴られていた。

“あんのクソ狐親父! 雌狐叔母様がいなきゃさっさと追い出してやるのに!”

「……はははは……」

 唯子ちゃん。きみ、口悪かったのね。唯子ちゃんこそこんなナリなのに、口穢く罵詈雑言を書き連ねている。“マジ気色悪い! べたべた触りやがって!”叔父さんのあの行動は、唯子ちゃんにとっても耐え難いことだったらしい。「良かった」ぽつっと、つい溢れてしまう。ほっとした。

 譜由彦の言動から、唯子ちゃんがどんな子なのか不安だけがだだ積もりで、未知の領域に達していたから、安堵してしまった。

 開いたところからぺらぺら流し読みしていたけれど、一ページ目に戻って古い日付から追うことにした。古い日付は叔母さんたちと住むところから始まっている。驚いたことに、最初から叔母さんと住んでいた訳ではないらしい。

“中学に上がる前、お父さんとお母さんが死んだ。突然のことだった。私はお爺さんに引き取られるそうだ。”

 勝手に、もっと小さいときに両親を亡くしているとばかり。幼いっちゃー幼いけど、小六なら事情も理解出来る年だ。つまり、……つらいんだけどね。状況把握が出来ると言うことは悩む羽目になる。その上、選択肢は少ない。未成年と成年だけでなく、小学中学高校、どの年でこう言う事態に直面するかでまた変わるし。「唯子ちゃん……つらかったんだろうなぁ」独り言を落としてぱらぱらと、俺は読み進めていた。この家は広いせいか物音がそうそうしない。静寂に満たされた空間は、集中して物を読むのに適していた。


 四分の一読み終えて。明らかになったのは、敦来家の面倒臭さが想定外ってこと。まず、唯子ちゃんは最初からこの家の子じゃない。お父さんとお母さんは駆け落ちして、お父さんが敦来の跡取りの座を棄ててお母さんと結婚、天涯孤独のお母さんの籍に入っちゃった。勿論、お爺さんは激怒。お父さんを勘当した。それで叔母さんが婿養子を貰って跡継ぎに。叔母さんは煽りを食らった。叔父さんじゃない人と結婚する予定が、唐突に家を継ぐことになってお別れしたらしい。だので、叔母さんは唯子ちゃんのお父さんたちを、特にお母さんを恨んでて、唯子ちゃんが嫌いなのだそうだ。なるなる。ちょびっと叔母さんに理解が。……とは言え好かんよ。畏怖は一片も取り除けんよ。んで、ここまでならフィクションでよく有る展開なんだけど、ここから微妙に、事実は小説より奇なり。叔母さんは程々に優秀だった。叔父さんが継いだのかと思ってたら、叔母さんが女社長だった。凄ぇ。叔父さん秘書だって。てことは各務さんと同業じゃん。下手したら各務さんのが上じゃない? だって各務さんはお爺さんの秘書でしょ? 阿呆だ。だからさっき青褪めてたのか。婿養子ってだけじゃないのね。切り棄てられるのが容易だからか。うわ、阿呆ス。

 そうこうして、唯子ちゃんは敦来家に入った。で、いびられる日々が幕開け、ってところなんだけども。

 すっごいびっくりしたのは譜由彦の豹変だった。日記の前半、暮らし始めたころから中学の二年生までは二人は仲が良かった。慣れない環境に滅入る唯子ちゃんを譜由彦が支えていた。あの、俺にとって初対面だったときの譜由彦みたいにだろうか。ならば、日記でも「お兄様お兄様」言っているのも納得だ。変容したのは、唯子ちゃんの二次性徴が再発した辺りからだった。

 唯子ちゃんは両親が生きている間に初潮を迎えたようだが、両親が亡くなったショックで来ていなかったらしい。通うはずだった中学校から、急に私立の名門校に転入させられた唯子ちゃんはだがしかし、遠巻きにされ馴染めないものの比較的穏やかに過ごしていた。体は安定して来たんだろう。二年生のころ、月経が再開した。発育も人並みに始まったらしい。日を追う毎に女らしくなる唯子ちゃんはだんだん性の対象として見られて行く。女として扱われるに連れて増えたのがセクハラとやっかみだった。学校だけでもこの状態は疲弊が甚だしいと言うのに。被害は家でまで及んだのだ。

 ……で、“くたばれ、狐親父!”になるのね。確かに狸よりは狐だけどね。叔母さんの目が無いところで体は触る、捜しに来てうっかりした振りして風呂場に入って来ようとする、呼びに来た振りで着替えは覗こうする……。うわぁ、気持ち悪い。そりゃあさ、美少女がいたらあわよくば仲良くしたいのは男として察してあげるよ? にしたってね、ここまで来たら犯罪だよ? 先刻の今で冷静にいられるのは、直接目の当たりにするのでなく文章として読んでいて頭が冷えて来たからだろう。

 叔父さんのセクハラに比例して、譜由彦との距離が顕著になって行った。唯子ちゃんは余所余所しくなった譜由彦に苦しみ、叔父さんのセクハラに苦しみ、逃げ場としてお爺さんにべったりとするようになった。各務さんとも。この時期に親しくなっている。唯子ちゃんがお爺さんを逃げ道に選んだことは叔母さんの不興を買ったらしい。叔母さんは、裏では無視をしたりしてもあからさまな行為は無かったのに、この辺から嫌味、謗り、皮肉の応酬を開始した。肉体的に痛め付けることはお爺さんの手前せずに、でも何もしないのは気が済まない。叔父さんのセクハラも薄々感じ取っていたんだろう。譜由彦が言っていたしね。「母さんは父さんのことなんかどうだって良い人だが、人に横取りされるのは気に入らない性分なんだ」って証言してたし。店にも来てたなぁ。先輩が俺と話してても自分を見なきゃ嫌っておばさん。似た人種なんだろうな。ページを捲る。

「あー、ははは……」

 ……唯子ちゃんも決して泣き寝入りするタイプじゃなかったようです。途中から“やられっ放しは性に合わない。お兄様の前では遠慮して来たけれど、我慢の限界。こんな家、壊してやる。”物騒な言い分を翳し始めた。ここに至るまで唯子ちゃんの日記には悪態とか愚痴ばかりだったのに。“反撃開始。”この文字が目に飛び込んで来たとき浮かんだのは、唯子ちゃんが、にやりと笑った様だ。僅か二年足らずでジェットコースター展開だな。十二のころを入れたら三年足らずか。

“反撃開始。”。この日を境に、逃げてばかりの唯子ちゃんは精力的に動き出した。お爺さんとは変わらず接した。心配を掛けたくなかったから。お爺さんが両親と仲良くやってくれたら、もしかすると現況と違い両親も生きていて、とか考え付かなかった訳でも無いらしいが。可愛がられている今ifでしか無い以上、仕様が無いことなので棄て置いたみたいだ。とにもかくにもお爺さんとの付き合いは変えなかった。叔母さんへの目眩ましの意味も在って。唯子ちゃんは各務さんとコンタクトを取った。日記だと持ち掛けたのはもともと各務さんだったようだ。まぁあ? 唯子ちゃんは純粋な敦来の直系だもんね。叔母さんたちはあくまで分家筋。唯子ちゃんが会社を継ぐのが当たり前にも思える。けれども唯子ちゃんは継ぐ気は無かったみたいだ。“会社なんかくれてやる。でも、腹の虫は収まらない。家からは追い出してやる。”って在るし。

“会社経営なんて大きいこと私には出来ない。お兄様なら簡単だろうけれど。”……俺、感付いちゃったんだけど。唯子ちゃんて譜由彦大好きだよね。冷たくなったお兄様の悪口はひとっつも書いてないもの。ただ。

“私からお兄様が離れてから、お兄様信者のヤツらがますます嫌がらせをしてくるようになった。ブス共め。調子に乗っているが、こんなことしたってお兄様はよろこばない。自分たちが選ばれることも無いのに。醜い。”いじめはこのせいだった訳だ。また、あるあるだなぁ。店でも在ったなぁ。にしても唯子ちゃんも負けていないし。えーと、“梓川(あづさがわ)のヤツ、また絡んで来た。暇なのかしら。”『梓川』? あとからも何度か出て来る名前で決まって“絡んで来た”“嫌がらせされた”“擦れ違い様嫌味を言われた”など続く。この子が主ないじめっ子らしい。

「……ねぇ」

「読んだのか」

 棚に寄り掛かる体勢でいた男に声を掛けた。俺が読み終えるのを待っていたのか。俺はベッドに背を凭れ掛けてクッションを抱いて読んでいた。一旦日記を閉じる。この家に着いたのは昼ごろだったのに今やとっぷり日は沈んでいる。

「唯子ちゃんのことはわかった。大変だったんだなーってことも」

「で?」

「俺には荷が勝ち過ぎているよ」

 一番に来たのはこれだった。唯子ちゃんは小説もかくやの生涯を送っている。幾ら俺が死んで、タイミングが良かったったってさすがにキツ過ぎる。

「てゆか、俺男でしょ。性差だって在るしさー」

「そこは問題ない。魂に性別は無いからな」

「そーなの……って、そうじゃなくて、」

「性別は体に付随するものだ。いずれ、お前の魂も敦来唯子になる。このまま行けばな」

 証拠に、実体が無いこの男は前回は女に見られたそうだ。体が無いゆえ、男を認知したものの無意識下のイメージで映るらしい。無意識に、素直に従ってしまう人物像になるのだとか。じゃあ、この男は俺が素直に言うことを聞きたくなる相手のイメージなのか。けど俺にだったら女の子の姿のほうが良い気がするんだけど。「唯子の描いた偶像なのかもな」ああそっか。俺唯子ちゃんだしって、そうじゃなく!

「待って待って。唯子ちゃんになるってどう言うことよ。意味わかんないんですけど?」

「あの胸糞悪い叔父が来る前言っただろうが。記憶、性別、そう言ったものは体のものだ。“体で覚える”って言葉が在るだろう。体は俺らの場合脳みそも含める。記憶は魂に含有されない」

「だって、俺は意識が在るじゃない! 俺は白井優李だよっ?」

「お前が特殊なケースなだけだ。通常なら体が死んだ魂は回収される。次の世界次の器に落とすためにな。この段階で魂は記憶を失くす。新しい器がどんな形にせよ生れ落ちるまでは時間が掛かる。哺乳類で言えば胎児期から出産の間に記憶は無くなる。お前の場合この工程を経ていないせいで名残が在るに過ぎない。記憶って言うのは魂にとって体を動かす上で必要な道具みたいなモンだ。魂が運転手で体が乗り物だと想定してみれば良い。記憶は運転席だな。白井優李でない今、お前の魂に白井優李の記憶は用途の無い道具だ。直に手放すぞ」

「───」

 衝撃だった。死んだって言われたときも平静でいられたのは、多分俺がこうして現世にいられたからだ。俺は俺で何も変わらないで。けども、そろそろ自覚は追い付いて来ていた。唯子ちゃんとして叔母家族に接して、お爺さんに接して。駄目だった。俺は俺でなくなるらしい。そっか。そりゃあ、そうか。

「俺、死んでるんだ……」

 すでに数日過ごしてるけど、頭の隅っこで、夢だったりしないかなって希望を捨てていなかった。これは凄いリアルな夢で、自分は目を覚ますって。でもなぁ。夢にしちゃあリアル過ぎるわぁ。特に叔父さんに襲われた(くだり)

「嫌だなぁ」

 突如、俺の涙腺は弛んだ。焦って締める。泣きたくない。だって仕方ないのだ。泣いたって好転する訳無いのだ。没する前の二十三年間で身を以て経験したじゃないか。

「葬式なんかとっくに終わっているよなー……じゃあ、家族はー……」

 お別れの挨拶くらいしたかったなぁ、と考えて俺ははたと、気付いてしまった。

「……うそ」

 家族の顔が、思い出せない。じい様、ばあ様、父さん、母さん、一つも浮かんで来ない。ホストになって、実家を出るまでの二十二年間暮らして来た家族なのに。探るのに、脳内のどこにも無かった。こめかみに手を当てる。嘘だ。

「薄れて来ているんだ。もっと消えるぞ。肉体が無いんだ。留めて置ける場所が無い以上、白井優李の記憶は水に晒された砂の塊も同然だ」


 夕飯は辞退した。叔母さんたちの顔は見たくなかったり譜由彦に会うのが怖かったり引っ包めて。部屋に施錠して閉じ籠もった。ベッドに着替えもせず転がった。眠ることはしない。眠れない。寝ている間に全部消えてしまうんじゃないかと怖いんだ。

 男はその後言った。「死ぬことも出来る」と。

 俺の魂が唯子ちゃんの体へ完全に定着するまで五箇月から半年程掛かるのだそうだ。この期間内であれば、簡単に体から切り離して男が俺の魂を回収することが可能なのだと。クーリングオフみたいなモノか。

 俺の魂が唯子ちゃんの体に定着する前に離脱してしまえば、意識が塗り替えられることは無い。だからって、俺の記憶が消えない訳でも無い、と。魂がうっすら、白紙に戻るだけらしい。二者択一どの道、白井優李だった『俺』はいなくなる運命なんだ。唯子ちゃんの情況と同程度には切迫していたんだなぁ、なんて今ごろに痛感していた。

 どうしよう。どうしたら良いのかな。『俺』がいなくなる。寝返りを打つ。男はどこかへいなくなっていた。そう言や、男は入院中も譜由彦がいる数日間はいなかった。体を起こす。巻き毛が乱れた。きれいな縦ロール。取れ掛かってる。

 唯子ちゃんの髪は元来ストレートだった。反撃の狼煙としてこの髪型にしたらしい。唯子ちゃんの小さいときに好きだったヒロインと同じ髪型だって。日記に書いて在った。転落前は唯子ちゃんが、目覚めてからは、実はお洒落にうるさい俺が巻いていた。……オタクはモサいとか偏見ですよ。

 さてはて。俺には一つ疑問が浮上した。俺が目を覚ましたとき、唯子ちゃんの髪はきれいに巻かれていた。意識が無く眠っていた唯子ちゃんの髪を、誰が巻いていたんだろう? 意識が無いから微動だにせず、髪が乱れ難かった、と仮定しても、だ。カールは地の癖毛で無い限り一晩二晩で取れてしまうことも多い。誰かが、毎日、または何日かに一回の割合で巻いていたに違いない。誰が? 俺が知る上で該当するのは二人くらい。一人は各務さん。唯子ちゃんと共謀している人。けれど、俺はコレ、薄いと睨んでいる。もう一人は。

「……何であのとき来たんだろう」

 俺が最初に出くわした敦来の人間。譜由彦。たまたま? 様子見に来たのか。お爺さんに言い付けられて。有り得る。各務さんは曲がりなりにもお爺さんの秘書だもんね。お爺さんは未だ現役で重役職を退いていない。若い各務さんがお爺さんの手足になって働いているようだった。比べて譜由彦は、手伝いをしていると唯子ちゃんの日記に在ったけれど学生だ。雑事を頼むなら打って付けだったはず。……お爺さんにとっては大事でも会社に関係無いから雑事だよね。

 その譜由彦が、唯子ちゃんの髪を整えていた、としたら。それに。

「何で、わかったんだ……?」

 叔父さんが唯子ちゃんの部屋を訪れたときだって。この家は途方も無くデカい。敷地面積幾つ? ってくらい。和洋折衷の家は部屋だって、離れている。渡り廊下は在るし、通されたリビングはリビングっつーより大広間って名称のが合っている風だし、唯子ちゃんの部屋だって、出入り口と別に本棚とクローゼットの間に扉が在って何と風呂トイレ付き。風呂トイレは別。他の部屋もこうなっていると予想している。何が言いたいかって言うと。

 詰まるところ、譜由彦が偶然に唯子ちゃんの危機を察知するのは低確率、もっと言えば非科学的ってこと。非科学の象徴みたいな俺が言うのもアレだけど。

 カメラでも在るのかね。もしくは盗聴器。あー、あの譜由彦だったら有るかも。冷笑浮かべちゃう譜由彦、王子様じゃなくて魔王に見えたもんなぁ。俺はおもむろにベッドから降りて立ち上がると、眼前の縫い包みに手を伸ばし掛けて……止めた。

 譜由彦は、しない気がする。勘だけど。「病院でのお兄様はやさしかった、もんな」男の姿が影も形も見えなくなって、困っていた俺を記憶が無くなって不安定になったんだと勘違いして「大丈夫だよ」って微笑んでくれたのは譜由彦だった。中身は二十三の成人男性ですが、どうやら高三らしいDKに励まされたよ。や、唯子ちゃんが十五歳のJKで譜由彦二つ上だからね。学年的に高三でしょ?

 何か在るんだ。譜由彦には、譜由彦の実情が在るんだろう。

「……譜由彦は、」

 唯子ちゃんに生きていてほしいんだろうか。ぼうっと思索に没頭しているとノックがした。本能的に身構える。誰何すれば「各務です」緊張を解いた。各務さんかー。俺は鍵を開けドアを開けた。叔母さん家族じゃなきゃ今は誰でも大歓迎だわ。

「お食事をお取りにならなかったとか。大旦那様がたいそうお嘆きになられてますよ」

 どぞー、と招き入れた初っ端から、おっふ、開口一番に苦情! あー、頭がいっぱいで忘れてたけど、現今お爺ちゃんは唯子ちゃんラブなんでした。譜由彦に命じちゃうくらいには……あれ、コレ原因じゃね? 譜由彦の唯子ちゃん嫌いってもしや、思春期に有り勝ちな反抗期の発露? “何で俺がぽっと出の従妹の面倒見なきゃんねぇんだよ”みたいなっ? “下らないこと命令すんな”って? やだ有りそう。

「聞いてらっしゃいますか、唯子様」

「っは、ああああっすみません叩かないでください!」

 どこぞの暴力的な自称『世界管理者』のせいで、条件反射にも両手で頭を押さえて訴えてしまった。各務さんはぽかーんと見事に呆けてしまった。ああ、ごめんなさい。突拍子も無くお嬢様がキャラチェンしたら魂消ちゃうよね! ワカリマス! けども、俺は上手いフォローが見付からない。両手は外してみたが手元にカードも無い。誤魔化し笑いしか無いか。俺が腹を括っていたら、「……ふっ」噴き出した音と頭の上に風の感触がした。

「叩きませんよ。私はそこまで鬼畜じゃありません」

 次は俺が度肝を抜かれる番だった。敦来家に来て初めて鉄仮面の剥がれた各務さんを見た。くそ、普段笑わない人の笑顔は破壊力半端無いな。チクショー。店でもいたっけ。俺は逆にへらへらし過ぎて笑っていないと格好良いねぇって……あ、凹んだ。迂闊に古傷抉った俺を後目に各務さんが笑いを収めて改めて、と俺にフォーカスを合わせて来た。

「唯子様が記憶障害なのは承知致しました。ならば、唯子様が私とどのような関係かもおわかりでないと言うことですね?」

 ああ、成程ね。まーそりゃ、確認には来るよね。お爺さんはともかく叔母さんたちは敵だもんなぁ。ましてや各務さんは唯子ちゃんに敦来家を継いでほしいとか思っているらしいし。本心は何狙いか知らんけど。沈黙は肯定と取ったのか。

「私と唯子様の出会いは唯子様が幼稚園に入る年まで遡ります」

 各務さんは切り出した……って、待って待って! 幼稚園てっ? 唯子ちゃんはここにお世話になり始めたのは小六はずでしょぉ? 日記にだって、そんな記述は無い。

「ちょっと待ってください。私、自身の日記を見ました。各務さんとそこまで古い知人だとはどこにも……」

 叔母さんたちや学校の主犯格らしき子への呪詛ならたっぷり在りましたが。あと譜由彦へのさみしさとか。俺が戸惑うのを得心したかのように各務さんはああ、と相槌を打った。

「唯子様は日記を付けておられたのですね。ブログでは当たり障りが無い話題しか無いと思っておりましたが」

「え、ブログやっているんですか、ただ、いや、私」

「はい。ですが表向きのものでしょう。恐らく華弥子(かやこ)様の目を欺くための」

「誰?」

「唯子様の叔母上の華弥子様でございますよ」

 記憶の無い唯子様に自己紹介されませんでしたか、あの方は。なんて眉を顰める各務さんを余所に俺は、叔母さん、そう言う名前だったのか! と。字を聞いて更に、やたら豪華だな、似合っているけど、と思う。唯子ちゃんの『唯子』も“ゆいこ”じゃなくて“ただこ”って読むの、捻ってるなぁ拘ってるなぁと思っていたけども。不意に、各務さんの下の名前が気になって訊いてみた。「“えん”でございます。円高円安の『円』」何でそのたとえをチョイス……。

「と申しましても、私は孤児でございますゆえ。名前は唯子様のお父様が付けてくださいました」

「そうなんですか?」

「はい。代々敦来家に仕えておりました家の者であった父、私の義父でございますが、良縁には恵まれたものの子宝には恵まれず、大旦那様、唯子様のお爺様ですね、私を引き取ってくださいました。義父は大旦那様より年を召しておりまして、到底お父様の代には仕えられなかろうと私を養子に迎えられたと言う訳です」

「へぇー」

 はしたないですよ、と注意され俺は慌てて口を閉じた。だって俺とは遠い世界の話だったんだもん。まるで明治のお金持ちの逸話を聞いているようだ。紛うこと無く現代のことなのだけれど。

「お父様が勘当されてからも私とは密かに連絡を取り合っておりました。お父様が縞木(しまき)となって唯子様がお生まれになったときも、私めにいの一番に連絡をくださいまして。私もよろこんでおりました」

 自然と綻んでいる各務さんに、この人は偽り無く叔母家族を除く敦来家の人が好きなのだなと考えていた。

「『縞木』?」

「唯子様の前の姓です。お母様のものでございますよ。大旦那様、お爺様はご婚姻こそ反対されましたが訳有ってのことです。私めは意見も出来ませんゆえ何のお力もなれず、歯痒い思いを致しました。唯子様がお生まれのころ、私は学生でございましたし」

 無念と、悔やんでいるのを隠しもしない。そうして気が付いてしまった。各務さんが唯子ちゃんに家を継がせたい理由に。

「私個人と言うより、お父様の代わりに、私に敦来を継がせたいのですね」

 決定打を放っても何を今更、と。「それだけではございませんが」加えられた科白を取って付けたように感じなかったのは、纏う空気のせいか真摯な眼のせいか。

「唯子様は、大旦那様が生きていらしている間は大丈夫でしょうが、お亡くなりになったあとの保障はございません」

 大旦那様も結構高齢となられました。遺言状を遺すとしても、唯子様が未成年か成年かで分かれますでしょう? って……それはアレか。後見人うんたらとか言うアレか。そうか、言われて気付いたけど唯子ちゃんてかなりやばい立場なんだな。現状もアレだけどね! アレったらアレだよ! アレね! 超鳥肌のね! 各務さんいなかったら絶対、ムンクの叫びと化していたよ俺は。グラデーション式に昏くなる思惟で気落ちした俺に、各務さんは「とにかくですね、」軽く咳払いをした。

「お立場がご理解いただけたかと存じます」

「はい、そりゃあもう……」

 染みました。重くなって垂れる頭でイエスと返せば「まぁ、こんな話をする間柄なのですよ」え、締め括らないで? とっても肝心な部分飛ばされている気がするんですが。

「あ、そう! 幼稚園からって話!」

 各務さんの話だと、面識は幼稚園から在るってことでしょう? 唯子ちゃんは日記には書いてないけど知ってたの?

「え、そこですか? これと言ってエピソードはございませんが、強いて挙げるなら唯子様に“騎士認定”されたことでしょうか」

 え、ごめんけどそれも違うと思うんだけど。俺が聞きたいこととズレちゃったってーか。ついでにその話何気に唯子ちゃんの黒歴史っぽくない?

「唯子様はお父様にお仕えしたかった私にこう仰有ったんですよ。“お父様が駄目なら唯子の騎士になれば良いのよ”って。唯子様は当時お姫様がお好きだったようですね。シンデレラや眠り姫、それに、白雪姫。アニメを見るのは勿論、絵本を読んでくれとよくお父様や私にせがまれました」

 とても微笑ましいけども、唯子ちゃんとしては恥ずかしいと思うっ! パパのお嫁さんになるとかパパ大好きチューに近い、面と向かって言われると恥ずかしい思い出だと思うの当人には! 俺で言うなら初めて一人で寝た日に結局さみしくて母さんの布団に潜り込んじゃったってヤツですよ! アレ、家に遊びに来ていた先輩に母さんが喋っちゃって恥ずかしかったよ俺。

「か、各務さん……」

「私も忙しい身でございましたから頻繁にはお会い出来ず、だからでしょうか、唯子様は私にべったりで。お父様に焼き餅を焼かれたものです」

 うん。俺は唯子ちゃんじゃないから全っ然平気だけどかわいそうなんだよね。なので止めたのに止まんないしっ。俺の声も聞いてあげてよ、もー! 各務さんは良い顔でぽんぽん話しているけどね。

「……えーと、」

「ああ、私としたことが。唯子様が聞きたがる余りつい」

「えぇっ、聞きたがってませんけどぉっ?」

 全力で全否定したらば凄まじく不服そうな表情なんですけど! 黒いオーラまで可視化されてるんですけど! 訂正はしない!

「……私と各務さんの関係は大方掴めました」

「よろしゅうございました」

「私と各務さんは私の幼児期からお知り合いだった、と」

「ええ。この家にいらっしゃったときまったく憶えていらっしゃいませんでしたが」

 サーセン! だろうなー。来たばっかのころ付け始めたらしい日記には、一文も無かったもの。まぁ俺に至っては唯子ちゃんじゃないもんで記憶はごっそり無いけどねぇ。ただ、男の文句が引っ掛かっているけれど。唯子になるやら性別と記憶は体に付随するやら。これって、唯子ちゃんの記憶もその内俺に引き継がれるってことだろうか。

 今はまだ、俺が白井優李で在るから何の兆候も無いけどいつかは俺の、白井優李の意識も薄れて擦り切れて、唯子ちゃんに塗り潰されて消えるんだろうか。

「唯子様?」

 目線を下げ口を噤んだ俺を各務さんが不思議そうに見る。俺は振り切るかの如く勢い良く「何でも無いでっす!」笑った。笑わなければやっていけなかった。だけども、ひとつ問うた。

「ねーぇ、各務さん」

「はい」

「わたしが、いなくなったら、かなしぃー?」

 一人称以外、俺の調子で質問した。虚を突かれたって言う様で各務さんは俺を見詰めている。

「ねぇ」

 後ろ手に組んで背の高い各務さんを覗き込む。答えが聞けたのは「当たり前でしょう」数秒置いた。

「あなたがいなくなれば、私も大旦那様も号哭するでしょう。私も大旦那様も場を弁えるよう努めましょうが、もしかしたら形振り構わず人目も憚らず崩れ落ちるやもしれません」

 今まさに直面しているみたいに苦悶を浮かべる各務さんに苦笑を洩らした。そっかー。

「そっか」

「下手なことを仰有らないでください。唯子様が学校で階段から落ちたと耳にしたとき、生きた心地が致しませんでした」

 そーですか。愛されているねぇ、唯子ちゃん。俺も、そうだったら良いな。俺が死んだとき、泣いてくれたかな。顔もすでに浮かばない家族だけども。そうだったら、良いな。

「唯子様……」

「この話、前もしました?」

「はい?」

「幼稚園からの知り合いでー、各務さんに懐いていたって話」

 重ねて尋ねてようやく合点が行ったらしい各務さんはああ、と頷いて「していませんね。何となく機会が無かったもので」答えてくれた。俺も、納得した。唯子ちゃん本人は知らないのだ。知っていたら、お爺さんの外に慮る人がいるのに『異世界』へは行かないと思ったから。

 疲れてしまったのだろうか。好機だから棄ててしまったのだろうか。想像だけど、唯子ちゃんは自分を各務さんは利用しているって見立てていたんじゃないだろうか。見当違い甚だしいのに。俺は根本的に? 他人だから「唯子様?」各務さんは非愛そうな人だけど、最初仏頂面だったし強面っぽいけど、しれっと嘘も付けそうだけど、何と表そうか唯子ちゃんには誠実そうなんだよね。今だって眉が寄っている。一見怒ってるようにも見えるけれど、心配してるんだって瞳が言う。不器用な人なんだろうな。

「もっと早く言ってほしかったかな」

 呟いた。物質なら、口からころん、と落ちたような体で。「唯子様?」不可解そうに困った顔で俺を見る。もっと早く各務さんのことを見直していたら、唯子ちゃんは向こうの世界へ行かなかったんじゃないだろうか。詮無いことを思ってやまない。俺は唯子ちゃんじゃないのに、こう俺に、各務さんが心を砕こうとする事態も起きなかった。それでも。

「大丈夫」

 俺が現在唯子ちゃんだから、返事をする。

「大丈夫」

 上手く出来ている自信は皆無だけれども微笑んで。


「やっと帰って来た」

 男が俺のところへ戻って来たのはあれから数日あとだ。俺は抗議せざる得ない。放ったらかしとは何事だ! と腰に手を当ててぷんぷんと怒ってみた。

「帰るって何だ。俺の家かここは」

 男が言うには、男には実体も無いが時間って概念も無いらしい。時間は世界のもので、世界に属さない男には時間が無い。だから男がいない時間も、俺にとっては数日でも男にとっては数分間だったりするらしい。時代が違うどころか文字通り世界を跨ぐ男にとっては俺と会わない数日は他の世界での一日や数分に相当するとか。

「……何が起きた」

 男のいない間、俺が出来ることと言えば『唯子ちゃん研究』だったからだ。今の状態を今風で言うなら「激おこなんだぞぷんぷん」みたいな。……おい、引くな。思いっ切り引いた目でこっち見んな。

「唯子ちゃんてー、ちょっと損してるみたいだったからさー。この容姿なのに、使えてない、みたいな」

 日記を読んで思ったのはまずそこだった。唯子ちゃんは美少女だ。それはもう、美少女。艶めいた黒い巻き髪、何も塗らなくても赤い唇、手入れをここ何日間怠ったのにすべすべの白い肌。だのに、この唯子ちゃん、中身で損してるっぽい。

「日記でも孤立の原因はいじめって在ったけど、それだけじゃないと思うんだよね。殊、唯子ちゃんのつんけんしたところにも要因が在ると思うんだ」

 いじめられる子みんな原因は在ると思う。当然、被害者に必ず非が在るかと言えばノーだ。いじめとか嫌がらせは、大抵加害者が被害者を気に入らないから。興味を惹くから。つまり、良くも悪くも気になるからってこと。気にしなきゃわざわざ関わらないモンだよ。野生の動物を見ればよくわかる。

 小学校のときのアイツもあの子に惹かれてしまったのだろう。良いほうにか悪いほうにか定かじゃないが。紛れも無く悪い方向へ作用した。

「初めの一歩が譜由彦の従妹だったってことで在ったとしても、唯子ちゃんが対処を間違えなきゃ孤立なんかしないよ」

 いじめの加害者にも依るけど。ベッドに座り、俺がここまで持論を展開していると男が繁々と俺を見ている。

「何」

「俺のいない間に随分、その気になっていると思って。敦来唯子になる気になったと言う訳か」

「ああ。───わかんない」

 俺が答えると「何だそりゃ」と突っ込まれた。俺ははぐらかすように笑った。

「うーん。だって何とも言えないし。俺はもう死んでて家族の顔も思い出せないし、唯子ちゃんはここの人にとっては生きてて唯子ちゃんに生きていてほしい人がいるってことでさ」

 俺は死んでしまって、一方的でも白井の家族はお別れをしてしまったに違いない。唯子ちゃんは今中身俺だけれど生きている。生きていてくれて良かったと思う人がいる。

「俺が唯子ちゃんになりたくないって言うのは、唯子ちゃんが死ぬことなんでしょう?」

「……肯定も否定も出来ないな」

 男は肩を竦めた。え、何それ。

「俺が唯子ちゃん辞めても誰かいるってこと?」

「いや。いるとも言えんしいないとも言えないんだ。ただ、お前程好条件はそう無いって話だな」

『誤生』にもいろいろパターンが在って、多くは世界を間違って生まれただけのパターンで、唯子ちゃんのように、生まれるはずだった世界にも体が在るのに別の世界に生れ落ちたパターンは稀疎(きそ)、他にも多種多様在るらしい。で、寿命って言うのは自動的に世界が決めちゃうものだからハプニングでも無いと迂闊に手は出せないのだそうだ。

「世界が、決めちゃうの?」

「時間は世界のものだ。一年の尺も違うのに寿命はいっしょだと思うのか。穴埋めのために存在を造ると言っただろうが、初見に。自浄機能が間に合わなくて世界がパンクするぞ。エラーの元だわ」

「あーなるほどぅ……」

 ふっと頭に「異議有り」って出たのは気のせい。

「お前みたいには行かないもんだ。たまたま唯子が事故に遭い魂が元の世界へ還りお前が同時期、同世界に死んだバグだったからスムーズだった。普通はこうは行かない」

 もともと寿命を迎えて死んだ魂を再生する世界はいつだって同じではなく、むしろ違う世界なのが当たり前なんだって。いろんな経験値を得るためになんだと。記憶は溜まらないのに経験値は溜まるの。変なの。そしてこんな事例が起きたら、大きなエラーを防ぐため性別はおろか年齢も問わず時間時代を跨ぐのは当たり前、最悪逆行したり別の世界から持って来て無理圧状に突っ込む……って。

「補うにしても強引なのね……」

「崩壊して、大規模な災厄が起きたりしないだけマシだろう。あれでリセットされることも在るんだぞ」

「……前に聞いたときも考えたんだけどさ、災害や疫病とか飢饉はわかるけど、戦争って、政治とかの問題じゃないの」

「どこの国でも、“あの偉人が生きていれば”って言わないか?」

 ああ、在りますね。あーそう言うことなんだ。腑に落ちたところで俺は伸びをした。難解な話だった。あ、欠伸出た。男は見ません。見たく有りません。

「じゃあ、俺が唯子ちゃん辞めても他がいるんだ」

「いたとしても、お前が一番良いと思うがな。タイミングが合わないことも多いし。今死なれて順応出来る魂なら良いが」

「だって、記憶は無くなるんでしょ? 体に馴染むって」

「そうなんだが……お前、江戸時代の大名が女子高生になって馴染むまでの間平気だと思うか? 縄文時代だったら……」

「あ。もう良いっす」

 俺は男を遮った。そうだった。五箇月最低でも掛かるんだっけ。確かに無茶だよね。縄文時代のおっさんが唯子ちゃんとか反対に可哀そう。この待遇で。あと。

「異世界からも来るんだもんね。今唯子ちゃんのいる世界も精霊やら魔法が在るんだから、逆にこっち来る人とかやばいね」

 俺は妙に納得して頷いてしまった。逆行だったら未来の人が唯子ちゃんとか。未来人は文明の古さに慣れなさそうだし、やっぱり俺が良いのかもしれない。俺が唯子ちゃんであるのが、多分。

「理解出来たようだな」

「うーん……自信は無いんだけどねぇ。がんばっては、みようかなって」

 唯子ちゃんは愛されているから。お爺さんも各務さんも悲しむ。それにきっと、譜由彦も。……いやいや、取り敢えず脇に置こう。俺は頭を切り替えた。

「まー唯子ちゃんとして生きるとしても、大いにやることは在るけどね」

 そうなのだ。俺は唯子ちゃんだ。だけども唯子ちゃんの環境はとかく生き難い。敦来の家や学校での孤立。俺が唯子ちゃんの体に淘汰される前に改善して置くのは必至だ。俺の初志を述べると男は「良い心掛けだな」黒くない微笑をして褒めた。めずらっ!

「で? 『唯子研究』って」

「ん、ああ。だからさ、唯子ちゃんてちょっと不器用さんってか、無駄に意固地みたいなんだよね。齢十二歳そこらで複雑な家庭環境に落ちたら、仕様が無いんだろうけど、いじめられたら真っ向から噛み付いたり、叔母さんは全面拒否で避けるでしょ。叔父さんは全面拒絶で良いけども……これじゃあ、無援になってもねぇ」

「ほう。ではどうする」

「敵をやり込めるには何も敵である必要は無いの。こっちは無害ですよーって懐に滑り込まなきゃ」

 ふふん、と日記から予測した唯子ちゃんがするであろう笑い方をした。男は片眉を器用に上げた。「致命傷を与えるためには手出し出来ない状態に状況に追い込まなくちゃ、ね」俺が思い付く限りの不敵な笑みを見せた。憂い顔の男に拳を握り突き上げてガッツポーズして見せた。

「大丈夫! 俺これでも元ホストですし! 戦略ゲームもミッション攻略ゲームもギャルゲーも乙女ゲーも、全部好成績でクリアして来たから!」

「……」

 あっれー。ここ称えるところだよ、ほら、拍手。男に目を向ければ明後日に逸らされた。おっかしーなぁ? 唇を尖らせながらも「あ、」思い出したことを男に告げた。

「俺、明日から唯子ちゃんの学校へ復帰するから」

 その日俺は唯子ちゃんのモバイルを初起動させて、ブログに初登校の旨を書き込んだ。



 

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