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 10. 毒 林 檎 収 穫 祭 ・ 後 片 付 け 、 懺 悔 の 葬 列 

 終わったあとは常にさみしさしか残らない。

 良くも悪くも賑わったあとの残響は、胸に苦しさを齎す。

 いつだって、『了』と言う文字は。


   【 10. 毒 林 檎 収 穫 祭 ・ 後 片 付 け 、 懺 悔 の 葬 列 】


 結果として、生徒祭は恙無く終わった。梓川さんのことも先輩のことも、学校側は事実を伏せた。ま、はっきり言えば隠蔽した。譜由彦たちは、裏であんなことしていたなんて一般生徒には誰にも悟らせず、何ごとも無く堂々とやり切った。

 俺も二、三日は消沈していたけれど、無事復帰を果たして英語史のカフェをやり終えた。元ホスト、元接客業ですものお手の物、キラッ矢印。……俺のドレス姿も、まぁまぁ反響が在ったらしい。最近手紙をよく貰い、読む間も無く取り上げられた。だいたい富山くん、鵜坂くん、時たま帰りに合流する譜由彦に。手紙くらい、と思うのだけど、三人共決まって「剃刀とか、何か危ないものが入っているかもしれないだろう」だった。意味がわかりません、とは言わないが。

「手紙をくれた方に失礼じゃないでしょうか」

「身辺を調べて、大丈夫なら会わせるよ。お前は危機感が足らないからね」

 くぅう……っ。ぐうの音も出ない。手紙を捨てている訳では無いし、俺も直に会うのはなるべく避けていた。別に人間不信なのではない。まったくの疑心暗鬼にならないかと言えば、嘘にはなるが多少他人を怖いと思っていても、信用しないと言う選択肢が俺は無いようだった。あんな目に遭って置いて呑気だと我ながら呆れるけれど。

 そう言えば生徒祭のとき思い掛けない邂逅が在った。カフェは俺の提案が採用されてシフト制で、俺は休憩時間に安李くんを捜しに行った。梓川さんのとき庇ってもらったのでお礼代わりのクッキーを持って……ドレス姿で。安李くんは割とすぐ見付かった。


「おぅ。敦来か」

 安李くんは二人の人間と談話していた。和気藹々としていて、俺は声を掛けるのを控えようとしていたんだけど、安李くんと話していた人の内一人が俺に気付いて教えてしまった。隠れるのもおかしいので、安李くんも含めて三人に向けて「こんにちは」と挨拶した。安李くんは「“こんにちは”とか、何か学校だと違う気がするよなぁ。間違っちゃいねーけど」男臭く笑っていた。家人曰く、同じ繊細な造作だったはずなのに俺と安李くんは全然異なった印象だった。俺も今や記憶が薄ぼんやりとするけども、決して安李くんみたいに言われたことは無い。やっぱ中身ですかね。中身ですね。

「へぇ、よく出来た生徒さんですね。こんにちは」

 俺が挨拶したことがそんなにめずらしいのか、安李くんと話していた二人の内男性のほうがやたら感心して来た。安李くんに会いに来たと言う二人は男女で、二人とも学校の先生らしい。男性が高校教師、女性が小学校の教師で二人は夫婦だそうだ。

「教師っつっても、まだまだ新任だよな」

「成り立てなんですか? にしては安李先生と仲が良いんですね」

 俺が言うと「ああ、コイツらはもともと顔見知りだったんだよ、先々月出張したときに再会したんだけどな」……年齢的に元教え子とかかな? とか俺は思ったけど思った途端、あ、この二人知ってる、と被せて考え直した。どこだかわかんないけど。『俺』か『私』かもわかんないけど。俺の心意を感付いた訳じゃないだろうけど、安李くんじゃなく女性のほうが説明してくれた。

「私たちね、彼の甥御さんの、小学校のときの同級生だったの。同じように出張だったこの人がね、安李先生を見て甥御さんにそっくりでびっくりしたのよ。会ったこと在ったのに、忘れちゃっていたみたいで」

 優李くんの家には、一番行っていたはずの人がね。女性が朗らかに男性を指しながら言った。女性の発言に、俺の中で一気にぶわっと記憶の断片が駆け巡った。

 トラウマと言うのは、どれだけ小さく些細であろうとも傷として深い限り、残るものだと感じた。このところ見掛けなくなってしまった男の「魂の傷にはなる」と言う言。感情が焼き付く、火傷のようになると言う解説も改めて実感した。

 男性のほうはあの子をいじめていたアイツで、女性のほうはいじめられていたあの子だった。面影やら特徴やらが一致した瞬間、俺は目を剥いた。瞠目した俺をどう捉えたか不明だが「ああ、俺、年の離れた姉がいるんだわ」と安李くんが喋り始める。あ、はい知ってます。だって一応、未だ噂の甥御そのものなんで。お姉さんは俺の母親でしたから。俺の衝撃は「同級生って、安李先生の甥御さんにしては年が行き過ぎてない?」と言う部類に取られたらしい。見当違いなのだけども、かと言って、そこじゃないですとは言い難く、俺は「そうなんですか」と相槌を打つに留まった。

「そー。んで姉貴が早くに結婚したからさー。俺は中学生にして叔父さんになっちまった訳よ」

 ええ、存じ上げております。俺、それでいじられてましたから。言えないし、言わないけど。本人がいるんだけど、知らないとは言え死んでて別の人間になったのを良いことに、安李くんは好き勝手言ってくれる。いや、普通に生きてここにいても言うだろうけど。

「何つうかぼーっとして危ないヤツだったよ。人の話を聞くには聞くけど、時たまどーっか思考回路飛んでてな。俺はアイツがちゃんと大人になるのか心配だったね」

 放、っ、て、置、い、て、く、れ……! ちゃんと大人にはなったよ? そりゃあ四大出てても就職出来なかったしさー? 難は在ったけど。俺働いてたし大人でしたよ! 卒業後始まった納税だってしてたよ! 抗議は飲み込んでいたけれど、仮に『優李(おれ)』として出来たとしてもデコピン一個で済ませられた気がする。これは想像だが俺の扱いなんかきっと、現実と差異は無かった自信が在る。

「そのくせ変に女にはやさしくてな。や、基本人が良いっつか、ぶっちゃけお人好し過ぎるんだけどな。特に女に弱くてさ。女好きってのでも無いくせに、女のためには無茶するんだよ。“女は凄い”なんて盲信してる親父、アイツにとっちゃ、じじいだな。そのせいだろうけど。終いには女を庇って死んじまいやがった。さすがに親父を恨んだね、俺は」

 はっ、と安李くんは笑って見せたけど……強がりが覗いた。俺は黙る。謝りたかったけれど、俺は『優李(おれ)』じゃない。唇を噛むしか無かった。しばしして、この空気を払拭してくれたのは、成長して小学校教諭となったあの子だった。

「優李くんらしいな、って私は思いますけどね。お葬式も、たくさんの女の人がいらしてて、“あー、優李くんは本当に女の子に好かれるなぁ”って思いました」

 優李くん、やさしかったですから。懐かしむように零す彼女の顔のほうがやさしげだった。一丁前に精悍な顔付きになったアイツも「そうそう。だから、優李は女にモテた。お前もあのころは優李が好きだったんだもんな」爆弾投下。えっ、そ、そうなの? 内心驚きつつあの子へ目線を向けると「嫌ねぇ。その話蒸し返すの? 良いわよぉ。あなたが非道いいじめっ子だったこと、ここで披露してあげましょうか?」と挑戦的な顔をして見せた。……昔おとなしかった彼女は、今やこうも強くなっていた。女性って、怖い凄い。

「あー、もー、悪かったよ! 好きだったのに別のヤツが好きってわかって、面白くなかったんだよ」

 バツが悪そうにぼやくアイツ。「“だった”?」「……あー、好きですよっ、今も!」頭が上がらない様子のヤツに、最早威張り散らしていた悪ガキマセガキの風格は無い。まぁ十年以上前だしね。結局二人の幼いやり取りに呆れた安李くんの「やめろ、教育者として俺の生徒の前で惚気んな」鶴の一声で収拾された。二人は取り繕ったけど半笑いの俺は、半ば死んだ魚の眼になっていたと思う。

 ……長い期間行われていたあのいじめが、俺のトラウマになっていたと言うのに、ちゃっかり当人たちは夫婦になっていたとかね。どの辺りで何でこうなったか知らないけどさー。絶句だわ、マジで。

 俺は眩暈を覚え、適当に断りを入れて場を辞した。クッキーは渡した。庇った意識は無いかもなので表向き生徒会への差し入れとして。量、多めにして来たし。背後で「凄ぇ! ちゃんと帰るときも断っている! しかも差し入れだって! ……ウチの生徒に爪の垢煎じて飲ませてやりたいっ」と感激の声を上げていた。……アイツは、どうした。やられているのは彼女にだけではないってことか。

 俺のトラウマとは何だったのか。肩を落とした俺だった。けどまぁ、良い気分転換にはなったよ。時間は動いているな、とも思ったし。


 そして俺は。

「失礼します、椰家先生」

 先生の病室に来ていた。今、先生は面会謝絶の体を取っている。梓川さんも、つい少し前まで警護の意味も踏まえて同じく面会謝絶だったけど、この前退院した。ちなみに昨日会った梓川さんは、変わらない梓川さんだった。

 あの日彼自身から何も聞くことが出来なかった。譜由彦が提示したものが信じるに値しない、とかではなくて、ちゃんと先輩の口から聞きたいのだ。先生は、ひとりベッドの上に座っていた。背凭れを起こし上体を預け、窓の外を眺めていた。

「先生」

 先輩は、どうだろうか。

 話して、くれるのだろうか。

「……いらっしゃい」

 先輩は懲りないね、とやわらかい笑顔で俺を迎えた。あの日の、得体の知れない怖さは感じられなかった。毒々しさの無い、俺が知る先輩、俺の知っていた先輩だった。

「お加減は?」

「悪くないよ」

「それは、良かったです……」

 話は続かなかった。しばらくの沈黙に一言、「……どうして、あんなことを?」ようやく絞り出した。

「あんなこと、ね」

「……」

 先輩は笑いを深くしただけだった。そこに嘲りの色は無いので少々安堵する。また会話は途切れた。扉で隔絶された向こうの物音がするのみだ。遠くの生活音が洩れ聞こえて来る程、ここは音が死滅していた。

 やがて口を開いたのは先輩だった。

「学校、どう? 何か騒ぎになったりとか、した?」

「いいえ、何も。一般生徒は何も知らされてませんし、みんな生徒祭で忙しかったので」

「そっか。それなら良かった」

「……。あの、」

「“どうして”、って言ったよね?」

 近況を訊く羅列に紛れていたから、一瞬反応が遅れた。余りに自然に尋ねたものだから余計に。俺は慌てて「は、はい」返事した。先輩は「そうだね、どこから話そうか」頷いた。

「最初から、」

「ん?」

「最初からお願いします」

 最初ねぇ、と先輩が言ちたので「由梨お姉ちゃんのこと、どうして好きになったか、から」付け足した。先輩は「そこから?」揶揄を滲ませ笑った。更に「あと、」俺は重ねた。揶揄う仕草は先輩の牽制だったのかもしれないが、俺は臆しもしなかったし構わなかった。訊きたいことだけ提示した。

「後輩、さん……『白井優李』さんのことも。なぜそうなったか、そうしたか。全部」

 先輩は目を丸くして「ゆり?」と鸚鵡返ししたけれど、俺は首肯のみ返した。

『敦来唯子』と『白井優李』はまったく交わらない無関係の存在だ。一点、間接的に先輩を通して繋がってはいるけども。だけどこれは先輩や譜由彦や第三者にとってのこと。

 俺は『白井優李(おれ)』で在り『敦来唯子(わたし)』で在るのだから。由梨お姉ちゃんのこと、『白井優李』のことを引っ包めてやっと事実確認は完了するのだ。

「敦来さんは、ゆり、……後輩とも何か関係有る? 親戚?」

「……いえ。でも、」

 言い淀んだけど、とあることを思い出して事無きを得る。

「先、生が、私を“『白井優李』さんの代わりにしたいと考えているんじゃないか”って、お兄様から聞いたので」

 以前譜由彦から聞いた“先輩は『敦来唯子(わたし)』を『白井優李(おれ)』の代わりにしたがっている”と言う話。どこまで真かはともかく、俺、つか、何の接点も無い『敦来唯子(わたし)』が興味を持ったと思わせるには充分だろう。疑わしくは無いはずだ。

「ああ……まぁ、別にゆりの代わりになんか考えてないよ?」

「でしょう、ね。先生からすれば、白井さんも由梨お姉ちゃんの“代替”だったんでしょ?」

「───……へぇ。敦来さんもやっぱりあの生徒会長の従妹だね。すっぱりさっくりざっくりと、棘を刺すところはそっくりだ」

「お兄様は……もっと手酷いですよ」

 棘を刺したつもりは無い。しかし出てしまったのならば仕様が無い。コレは前から頭に在ったことだ。先生がぼそりと「───……」小さな音量で呟いた。俺が聞き返すと今度は大きめの声で。

「代わりになんかならないよ、誰も」

「───」

 真っ直ぐ俺を見据えて、先輩が言った。言っていることは素敵なんだけど、如何せん、していたことがしていたことなだけに、安李くんとかみたいに胸に迫るものは無い。

「代わりは、いませんか」

 聞き出せるかもしれないから、合わせてはみるけど。俺が言えば「うん、いないよ」と先輩。そうして続投された科白にはっとした。

「誰の代わりもいなかった。由梨も、ゆりも、……母も」

 母。そうだ。先輩のお母様は亡くなられているんだ。なら、一等理解していたはずだ。誰もが代わりになどなれない、と。家政婦さんは先輩の世話をしてくれても、果たして愛してくれただろうか。先輩は幼いときから抜かりが無さそうだし、可愛がってはもらえたかもしれないけど、果たして。

「母さんの影を追ってたことは、幼いころには在ったよ。けど、誰も母さんではなかったし、由梨は由梨で好きだった。俺の勝手なイメージだけど、『母親』って包んでくれるような愛をくれるものだと思ってた。由梨は逆。由梨はね、出会った当初苛々したんだ」

「え……」

 苛々? 先輩が、由梨お姉ちゃんに? 信じられなかった。殺してしまったかもしれないくらい、愛した人へ最初抱いた感情が苛立ちだなんて。少なくとも、好意の類ではない。

「うん。苛々した。高校の入学式、小動物みたいに震えていたんだ。その年は持ち上がりが多くて、外部入学が少なかったからウチのクラスでただ一人の外部生だったし、無理も無かったんだろうけど。不躾な視線に下唇を噛んでいたよ。俺はその姿に憐れみと、“耐えていれば誰か助けてくれるのか”って思ったんだよ」

 意外だった。そんな高慢なことを先輩が考えたのが。先輩は申し訳無さそうに笑いながらも眉を八の字にして「ごめんね。お姉ちゃんのこと、悪く言われて嫌だよね」いやいや、それ以前に殺してるかもしれない訳で。そう言う気遣いは無用です。先輩の語りに水を注すまいと口にはしないが。

「由梨は『異分子』だったから。みんな扱いに困っていたよ。成績優秀で交友関係も浅く広く、一目置かれていた俺に水が向けられた。俺の言動を窺いつつみんなが指針を待っていたんだ。酷い話だけどうんざりした。由梨と言う外部生の『異分子』に対して忌々しい思いだった。が、高揚したのも確かだよ。俺の出方次第で、由梨の高校生活が決まるところなんだから」

 俺は困惑してコメントし兼ねた。何て言うか、歪んでいる、この一文に尽きる。自らの一挙手一投足が他人を左右する、このことに気負いや懸念よりテンション上げるなんて。それともこんなものなのか。俺がおかしいの? もしくは学校の特色なのかな。富山くんが言ってたじゃない。この学校では起業を考えているヤツはめずらしくないって。

 俺が高校生のとき、周りにそんなヤツはいなかった。大方大学進学して、起業を考えているヤツがいるとしても、大学からじゃないか。大学でも知り合いに数人いれば良いほうだ。社会に出るのだって大多数就職だろう。こう考えるとやはり特殊な思惟だと思った。起業する人が皆同様であるとは思わないけど。

「今、“おかしい”って思ったでしょ?」

 先輩が、悪戯を画策する子供のような笑みを見せた。俺は首を縦に振った。眉を寄せた先輩の笑い顔は苦味を含んでいた。俺は、無反応だった。反応しにくかった、が正しいか。

「まぁ、だけど俺は弱いものを嬲るの、好きじゃないからさ。優等生らしく声掛けたよ。“外部生? 緊張しなくて良いよ。みんな新入生だし、大きい学校だから初めて顔を合わせる人間も少なくないんだ”みたいなね。そしたらさ、

 すっごい良い笑顔をしたんだ」

 思い出し笑いを浮かべる先輩は穏やかだった。次の言葉で穏やか、なんて撤回したけど。

「何か餌を貰えたときの動物みたいな、能天気な笑顔でねー。いじめても良かったのかもしれないって思ったよね。好きだな、って思うようになってからも時折いじめたくなったっけ」

 やーめーてっ、怖い。この人怖い。うっとりした目をしないで。お願いだから! 嗜虐趣味! 先輩と譜由彦が似てるとか勘違いも甚だしいわ。譜由彦は絶対しない。弱いものに興味も湧かない気がする。気が向けば、義務的に処置はするだろうけど。

 先輩の変態要素に頭が痛い。この感覚どこかで……あー、そう、そう、叔父さんだ。叔父さんは今や敦来の家追放だけどね。

 いわゆる単身赴任だ。叔母さんが知らない内に、家政婦さんたちに夫の荷物だけ纏めさせていた。帰宅してスーツケースを叔父さんに投げ付け「よく働いてくれるあなたに特別業務よ。この支社に出向してちょうだい。秘書業務じゃなくて支社長としてよ。もともと社員なんだもの、仕事は出来るでしょう? ここに書いて在るマンションに荷物も送ってあげるから」玄関で出向先の書いて在るメモをひらっ、と叔父さんへ落とし鮮やかに、文字通り締め出した。

 スーツケースがぶつかった勢いで外へ転がり出た叔父さんは、唖然と転がったまま叔母さんを見上げていたけど正気に戻って、混乱しつつも必死で叫んでいた。叔母さんは無視して「さーお夕飯にしましょー」と良い笑顔で颯爽と家の奥へ行ってしまった。告知の仕方は置いて、体の良い別居だった。

 支社長になった叔父さんには秘書が付くそうだけど、この秘書さんは各務さんの仕込んだ後輩らしく、秘書と言うより監視の役目が強いかもしれない。

 あの叔父さんと同じ匂いを感じた。怖い、背中ぞわっとする。先輩が、不可解極まりない異星人に見える。俺の心中は表層に出ていないので、先輩は気が付いていないのだろう。先輩のことだから気付いていない振りかもだけども。先輩はお姉ちゃんのことを話してくれている。

「由梨は俺に懐いたよ。ちょっと親切にしただけなのに。でもね。由梨は思い上がることはしなかった。常に“ありがとう、椰家くん”ってね、お礼を言うんだ。俺は大したこともしていないのに。自然体で打算も無くて……無邪気に笑うんだ」

「だから……独り占めしたくて、変な噂流したんですか?」

 先輩は、『白井優李(おれ)』の人間関係を滅茶苦茶にしたと譜由彦が言っていた。同じことを由梨お姉ちゃんにもして失敗したのではないか、とも。先輩はお姉ちゃんと失踪した男子生徒とのことも交際してたんじゃ、って証言しているし有り得ないことじゃないと俺も踏んでいた。

「……由梨に変な噂を流したのは俺じゃないよ。由梨が生徒会に入ったのだって人気が在ったからさ。由梨はおとなしい子だったけれど、あの学校の生徒にしては純粋でね。男女共に人気が在った。羨ましいくらいだよ」

「羨ましい?」

「俺の周りは、計算か、欲で動く人間ばかりがいたからね。友達面をすることで自分の株を上げたいヤツ、恋人になって他との差を見せ付けたいヤツ、そんなのばっかりがさ。生徒会は俺と似たり寄ったりの集まりだったから居心地良かったんだ。その中で由梨だけが違った。本来なら、由梨みたいな子が会長になるべきなんだよ。だけど、ほら、由梨は人の上に立つことは苦手だから」

 由梨お姉ちゃんに生徒会へ入ってほしい人間が大勢いたから、断れなくて生徒会役員にはなったけど生徒会長は無理だった。そう言や、何か「やりたくない」って駄々捏ねていた気がする。家でじたばたしているお姉ちゃんをお母さんは「内弁慶はやめなさい」とか言って諌めていた、気がする……。不明瞭なのは『私』の浸透率の問題でなく、古くて引き出せないんじゃなかろうか。

「由梨の酷い噂が飛び交い始めたのはそのころからだよ。さっき言ったでしょ。由梨の外は、欲の塊に群がられていた者の集まりって。そう言うヤツからすれば、家柄も中流以下、自己主張も強くない由梨は、“上手いこと周囲に取り入って、俺たちにも媚びを売って生徒会(あそこ)にいる下劣な女”、って位置付けされるものだよ」

 言い掛かりも良いところだ。俺は顔を顰める。先輩も笑みこそ消さなかったが「勿論、都合良く歪められた誇張さ」複雑そうな表情をして「けれども、由梨はその後忙しくなってしまってね」続けた。「俺たちとの時間が極端に多くなってしまった。俺たちが勢い付いていろいろ試行錯誤した世代だったからだけど」言い添えた瞳は些か悔しそうにしながら、遠くを見ていた。

「中には妄言を鵜呑みにする連中もいたんだ。由梨は“役員たちとの時間を優先するために、自分たちとの時間を減らした”“役員たちといるために自分たちを踏み台にした”って思い込んでね」

 話し終えた先輩は「下らない、嫉妬だよ」と付け加えた。うん。下らない。至極下らない経緯だったけれど、噂に関しては先輩は関係無いと判明した訳だ。

「先生が、由梨お姉ちゃんを孤立させたんじゃないってわかりました」

 そこで「じゃあ白井さんはどうして?」と行きたいところだけど順序的には「なぜお姉ちゃんを死なせたんですか?」だ。

 ここに来ても未だ俺は、先輩が“殺した”と思えなかった。先輩が要因だとしても“死なせた”んじゃないかって。故意でなく事故だったんじゃないかと、期待していた。五分の割合で。

「それじゃ何で、由梨お姉ちゃんは死んだんですか?」

「……」

 俺が先輩に問うと、先輩はつらそうに一度瞼を下ろして、数秒してから上げた。踏ん切りを付けたように。口元からも笑いは消えていた。

「家族のきみを前に、こう言うのは言い逃れに聞こえるかもしれないね。けど─────由梨は事故だった。いっしょにいなくなったって言われる男子生徒は、違うけどね」

「何が、在ったんですか?」

 お姉ちゃんの死が事故ならば、なぜそうなったのか。男子生徒も……何が起きたの? 「……」先輩は閉口した。「……ごめん。ちょっと待って……」喋る気が無い訳じゃなく整理しているみたいだ。

「……」

 俺は待った。面会時間はまだ有る。焦る必要は無い。

「……────たまたまだったんだ。本当に。本当にたまたまで」

 三分程度間を置いて先輩が語り出す。俺は黙って聴いた。

「別に、ナイフだって常備して持ち歩いていたってことも無かった。封書を開けていたんだ。日ごろ使っていたペーパーナイフは無くて、近くに在ったデスクナイフで開けていた。そしたら、そのデスクナイフの切れ味が悪くて。砥石を引き出しから出して研いでいたんだよ」

 記憶を掘り起こしているのか、空に視点を定めたまま、探り探り言葉を落として行った。

「何か忙しいとさ、ついそう言う雑事に没頭したくなるじゃない。研いで行く内にどんどん刃が鋭くなるのが楽しくて。いつもならそこで竜也が止めてくれるんだけど……部屋には一人だったから」

 ……まぁ、確かに今やらなくて良いことを、忙しい最中ついつい真剣にやっちゃうことは有るよな。生徒祭の当日だし先輩は忙殺されただろう。そしてふと、使用中のナイフが切りにくくて砥石が在ったら……やらないとも限らないな。先輩は一人ナイフを研いでいた。それが、お姉ちゃんが死ぬこととどう繋がるんだろう。

「デスクナイフを研いでいたとき、権藤(ごんどう)が……」

「『権藤』?」

「由梨と消えたって言われていた男子生徒だよ」

 何か響きのごっつい名前だなぁ、「名前に似合わず、あどけなさが抜けない、小柄なヤツだったよ」ご当人は違うらしいですけども。

「落ち着きも無くてね。ただ書道家の息子らしく、字を書くときだけは別人かって程に静かなんだ。芸術家肌なんだろうね。ただし、それ以外はじっとしていられないし、人の話も書記をするときしか聞かないし、大変だったよ」

 纏めるの、苦労したんだろうなぁ……先輩の後背と顔の上半分に濃ゆい影が見えるもの。落ち着きが無くて人の話聞けないとか、幼稚園児みたいだ。

「思い込みの激しいヤツでも在った。幼い子の扱いに長けた由梨に懐いてもいた。……今にして思えば、由梨が言っていたのはきみだったんだね」

 何のことですか、と訊けば「由梨が言ったんだ。“ウチにも幼い子供がいるから慣れてるんです”って」あー、『私』、生意気な子供だったしなぁ。各務さん、お兄ちゃんを「私の騎士になれば良いのよ!」とか平然と言い放てるくらいにはやりたい放題の子供だったな。知らずと言え、恋人同士の二人の邪魔するし……。

「俺はさ、由梨が頼まれても嫌って言えない性格なのを熟知していたんだ。だから他意は無かったんだよ。初めは“面倒なことを頼むから持ち込まないでくれよ”って非難めいた考えも在った。他の役員は躱し方が巧かったり、権藤は言っても聞いていないし、由梨を庇う頻度が過多になってしまったのは当然の成り行きだったよ。────これが、由梨の例の噂に拍車を掛けていたけれど」

 先輩が庇うのは偏に、押し切られがちなお姉ちゃんに余分な仕事を持ち込ませないためだった。でも先輩に気が在る人間共はフィルターの分厚さも手伝ってか、到底看過出来ない。面白くない。そいつらは由梨お姉ちゃんを“やっぱりこの女は害悪だ”と断定したってことだろうか。

「このことを由梨が悩んでいたのは知っていたよ。知っていて、やめなかったんだ」

「どうして?」

「気付いてしまったからさ。由梨の孤立に」

「……?」

「きみが言ったんだろう? “独り占めしたくて変な噂流したんですか”って。噂を流したのは俺じゃないけど、途中から知っていて放置したんだよ。“独り占めしたくて”ってよりは“生徒会に閉じ込めたくて”、かな」

「……」

「俺が気を張らず呼吸を出来たのは、一人でいる以外生徒会室だけだったから」

『俺』には、先輩の気持ちはわからない。『私』も。前者は、気張ることは在っても呼吸が出来る場所なんて多々在ったし、後者は気張っていても一人でいる以外呼吸が出来る場所はどこにも無かった。多く在ったか皆無かの極端だ。先輩のように縋る場所など無かった。『私』の延長線とするなら、あの科学部の部室でも在る理科室は、先輩にとっての生徒会室的な憩いの場なのかもしれないけれど、このときには『俺』だったから、そう言う感慨は薄い。なので、先輩へ理解は出来ても共感は出来なかった。

「周辺と極力接触を断てば、お姉ちゃんがそばに留まると思っていたんですか?」

「俺だけはね。庇うことで、庇護している優越感も在ったかもしれない。俺だけは、そう歪曲した想いを抱いていたんだよ。だけれど、竜也と権藤は違った。由梨の相談相手は竜也だったんだろうけど」

 権藤は由梨にべったりだったから聞いていたんだろうね。先輩は皮肉げに笑った。ちょろっと悪意が見えた。俺は思い描いてみた。竜也さん、つまり龍さんだけど、あの龍さんに、ぼやけるけど何となく思い浮かべられる鹿乃子先輩に似通った女の子と、くっ付いている男子生徒が顔を突き合わせて話し合っている。

 空想に沈む俺の傍らで先輩は「その権藤が、」脱線した筋を戻した。

「校内巡回で人の出払った生徒会室に、大きな騒音を立てて入って来たんだ」

 権藤さん……幼げな風貌の人らしいが先輩と同学年だったかはわからないけど、生徒会同期ならかなりの年上になるだろうし、さん付けで良いよね。権藤さんは、先輩に入室するなり詰め寄ったらしい。“由梨に付き纏うな!”と。先輩は庇うことはしていても、付き纏ってはいない。幾ら同じ生徒会役員、何かに付け業務で共に行動することが在るとは言え、始終いっしょにいる訳無いだろうしね。仕事が在るもの。譜由彦たちが良い例だ。先輩は当たり前に「はぁ?」となった。

 多分、お姉ちゃんの人格と、先輩とお姉ちゃんの関わり合いを鑑みて“頼まれると断れなくていつも先輩に庇われている。噂にも巻き込んでしまい申し訳無い”と、相談自体はこの程度の内容だったんじゃないだろうか。だって、もし先輩が由梨お姉ちゃんに付き纏っていたらもっと、龍さんとかが二人を引き離すんじゃないだろうか。場を取り成すのが巧みな龍さんなら、上手いこと運べるだろうし。ところが権藤さんは“いつも付いて来る先輩が庇って来るから噂が立って困っている”、と取って、一人突っ走ってしまった。

「俺は相手にしなかったよ。言っている意味がわからなかったからね。何言っているんだと。クラスもいっしょ、役員もいっしょ、他の役員に比べ、俺が由梨と関わる度合いが段違いなのは知っていたよ。だからって、いや、だからこそ、わざわざ付いて回る必要は無かった。むしろ、権藤のほうがクラスも違うのに休み時間も無駄に引っ付いていたし。俺は疲れていたしね。権藤の言い分も話半分で聞いていた。俺はひたすらデスクナイフを研いでいた。苛々していたせいで、殊更集中したくなったのかもしれないね。権藤は、取り合わない俺に腹を立てた。俺からデスクナイフを取り上げた。勢い良く振り上げて……後ろに人がいるのにも気が付かずにね」

 先輩の発言に嫌な予感がした。まさか、それ。

「まさか……」

「そうだよ。戻って来ていた由梨が、俺と権藤の間に入ろうとして権藤の背後に歩み寄ったタイミングで、権藤は振り上げるようにナイフを取り上げた。ナイフは由梨の首を切り裂いた」

 俺は息を止めた。何てこと。想定内ったって、あまりに最悪の事故に俺は空中を瞠視したまま、身動ぎ出来ず動揺を隠せない。先輩は一息を吐いてから喋る。

「由梨の喉を裂いた権藤は混乱状態に陥った。俺はとっさに由梨の傷口を塞いだけれど、頸動脈が切られていてね。どんどん溢れる血に、俺は勤務医へ必死に連絡したけれど間が悪くてさ、一般客、生徒の保護者に病人が出ていたらしくて。そっちの対応に追われていて、繋がらなかった」

 ハンカチと、生徒会室に在った大きなタオルも、そのとき使ったんだけれども、即、真っ赤に染まってしまった。先輩が言う。“使った”、って、止血に、ってことだろう。

「電話は繋がらない、由梨は冷たくなって、役員は戻らない。救急車を呼ぼうにもこの状態の由梨を、一人で動かせないから」

 凄惨な事態に絶句しつつ聴きながら“あれ、「一人」?”と思った。「そこまで頭を巡らせて、ふと権藤がいないことにようやっと気付いたんだ」解答はすぐ貰えた。

「パニックを起こした権藤はその場にいられなかったんだろう。逃げていたんだ。俺は由梨から離れられないし構っていられなかったから、放置した。自分の家に連絡したんだ。父に。院長だった父は院長室で事務仕事をしていた。事を説明したらすぐ来たよ。由梨は運ばれて行った。秘密裏にね」

“秘密裏”? 「人集りの中救急車が来れば大騒ぎになるでしょ? 下手を打てば大混乱になる」確かに一理在る。「ましてや、初めての試み、生徒たちにも保護者たちにも初の行事だった。出来るだけ騒ぎは避けたい。まぁ、秘密裏ったって、催しから遠い裏口に来てもらっただけだけど」先輩が目頭を揉んだ。今日は調子が良いと聞いていたけれど、疲れて来てしまったのかもしれない。先輩が呷った毒は、遅効性に加えカプセルでの摂取だったから後遺症が残る程ではないけど、本調子にはまだ遠いそうだ。

 俺が「休まれますか? もしつらいなら日を改めます」と伺いを立てれば「いいよ。今聞いてもらわないと……再度来られるとは限らないし」先輩が苦笑した。譜由彦でも脳裏を過ったのだろうか。緩めた面立ちを引き締めて、先輩は話す。

「由梨が運ばれて俺は権藤を捜した。由梨は出血の量から駄目だろうって思っていたよ。でも、権藤は捜さないと。由梨を狙った訳じゃないから殺人じゃない。立派な事故だし、たとえ何か罪に問われるとしても傷害致死だ。警察は呼ばなきゃならないしその前に、と。捜す俺の前に信じられない光景が広がっていたんだ」

「え、……」

「権藤も首を刺して自殺していたんだ。由梨の首を切って、逃げてからほぼすぐだったんたろうね。木に凭れた権藤の刃を抜かれた傷に、ハンカチは由梨の止血で使って無くなっていたから、ポケットに入っていたネクタイを押し当ててみたけれど……すでに出血量は微量で息絶えていた。権藤の制服はぐっしょり、濡れていたけどね」

 愕然としたよ、て呟く先輩にまさに俺がです、と頭の中で返答をした。何それ。それこそ、隈倉さんを刺し殺したらしい彰吾みたい。混乱、後悔、自殺なんて。や、彰吾はそんな玉じゃないけど。譜由彦も言っていたけど、薄れる記憶でもアイツは不貞不貞しかったと告げている。

「さすがに、俺も一瞬頭が真っ白になったよね。どうしよう。初めて思った。どうしよう。困り果てていたよ。そのときにね、歓声が聞こえたんだよ。裏手の奥の、真逆の場所だったのに。ステージ、校庭で造ったのを思い出したんだ。上がった歓声に、停止した脳みそで駆け巡ったのは“せっかくみんな楽しんでいるのに、ケチを付けたくない”、だった」

「……」

「おかしいと思うでしょう。おかしかったと俺も思うよ。だけどさ、この学祭は俺が企画者で、今の生徒会でやる初めての行事だった。成功したかったんだ。するつもりだったんだ。責任も在ったけど、それより失敗したくなかったんだ。今期の生徒会で、俺の生徒会で、失敗したくなかった」

「……それで、どうしたんですか?」

「電話した。父さんに。電話して……初めて、情けない声で父さんを呼んだよ。由梨のときは大丈夫だったのにね。事情を説明する声が震えていた」

 自嘲する先輩が痛々しく俺には映った。現在でさえ押し潰されそうな先輩に、高校生のとき、こんなに重責を負ったり、するものだろうかと考えた。こんな異状にまで直面して……。

 俺だって、梓川さんは死なずに済んだけど、あの蒼白な顔が怖かった。血の気の失せた人面は、あんなにも怖気震うものかと今思い返しても痛感する。不意に譜由彦を彷彿した。生徒会長、重責、直面の辺り。しかし譜由彦は、何でかな。あんまり浮かばない。どんな局面も、平常運行と変わらず制してしまう気がする。……何でかな。譜由彦のこう言うところって、彰吾にも在るような……。や、もうわかんないんだけどね! 『俺』の記憶うっすーくなって来てるしさ。あくまで、予想の域を出ない、みたいな範囲。物凄い自信家だった、し? うん。

 全然、別なんだけどね。印象。譜由彦はやわらかい。とにかく柔和。先輩と、似てた、と思うくらいには。彰吾は硬派って言うか俺様。黒いところが似てるのかな。肉食のところもか。譜由彦はロールキャベツ、彰吾は外見も肉食の差は在れど。……譜由彦は、あれで紛うこと無く肉食だと推察している。

「由梨のときは未だ微弱でも息が在ったからさ、平気だったんだ。だけど権藤は事切れていた。由梨の処置、搬送、権藤の捜索、合わせたって三時間は経っていない。この短時間で死ぬなんて、と考えたよ。でも、事実権藤は死んでいて由梨も……俺は父さんの指示に従ったよ。隠したのは由梨じゃない。権藤だったんだ。権藤が倒れていた近くに、低木で隠れていた隙間を見付けた。丁度良いと思ってね」

「……じゃあ、ネクタイのあの血は……」

「うん、権藤のだね。ジャケットを汚したのはそのときだよ。シャツは由梨の血で。血塗れのシャツで探し回ったら騒ぎになるでしょ? 急いで羽織って捜しに出たんだけど。権藤を隠し、着替えた。敦来くんの言う通り、ウィングカラーシャツの予備は無くてね……着替えながら、さてどう言い訳しようと思っていたら、由梨の血に気が付いたんだ。普通の教室なら拭き取るなり出来たけれど……生徒会室、知ってるよね。絨毯だったから」

 俺は先輩の質問に頷いた。毛足の長い、赤い絨毯だった。まぁ、十年の間に何度か備品は入れ替えているはずだしとっくに別物だろうが。

「考えた末、自分のジャケットとシャツ、絨毯に、黒インクをぶち撒けた。役員には、“新しいインクの在庫を開けたんだけども、手が滑って引っ繰り返してしまった”って伝えたよ。苦しいけど、誰もここで流血沙汰が起きているとは思っていないから、一人として疑いもしなかった。いや、竜也は、感付いていたのかもな。由梨と権藤が消えたと知ったとき」

「……」

 龍さんは、先輩を疑っていたのだろうか。犯人如何は置いて、何らかの関与はしているだろう、と。けれど、俺は思う。先輩は隠蔽工作をしただけで、人は殺していない。由梨お姉ちゃんは事故でやったのは権藤さん。権藤さんは自殺。だとすれば、先輩が黙っている必要在るのだろうか。先輩のお父さんも関わっているから? 湧いた疑義に俺が首を傾げていると、先輩は感じ取ったらしく「何で黙ってたか、不思議?」尋ねて来た。俺は素直に「はい」答えた。

「俺が黙っていたのはね、その後の二人の処置さ。権藤は死んでしまったからそのまま葬られた。けども、由梨は……」

 先輩は「由梨は……」繰り返して押し黙った。言いにくそうだ。俺は話が再開されるのを待った。数分か、はたまた一分も経っていないのか。先輩は意を決したように口を開いた。

「由梨はね、」

「……」

「搬送後亡くなった。それから、ドナーにされたんだ。本人の承諾も家族の承諾も無いまま、治療中死ぬ前に検査をされてね」

「ドナー……って」

「正常で新鮮な若い臓器だ。総合病院だからね。使わない手は無かったんだろう」

「……そんなっ」

 余りのことに言葉が閊える。やり場の無い衝動でわなわな震える俺に先輩は「うん。俺もあんまりだって思ったよ」悲しげに目を伏せた。

「抗議だってしたさ、最初は。そうでも……説得されたとき俺は同意してしまったんだ。医者の性なのかな。ううん、これだと他の人に失礼だね」

 お父さんの説得に共感したことを、先輩は、おぞましい、と感じたらしい。感じても、得心している自分に反論出来なかったそうだ。

「誰に、渡ったかわからない。臓器も、網膜も。当時入院していた患者だろうとは思っても、上から緘口令が布かれたようで探れなくてね。下の人間は誰も知らない。由梨も事故で亡くなった若い女性ってことにされていたようだったし……誤りじゃないけど、さ」

 由梨お姉ちゃんは切り刻まれていた。死んでからも誰かの役に立てるのは、由梨お姉ちゃんが誰かの中で生きているのは、由梨お姉ちゃんの性分としては本望かもしれない。けれど、それはお姉ちゃんも、お姉ちゃんの家族である私たちも受け入れている上での話だ。美談どころか犯罪じゃないのか。浮上したのは臓器の密売……売られていないから、“密売”ではないか……や、どうだろう。売られていないのかな? 俺は唸るしか無い。

「俺が誰にも言えなかったのはこのせいだよ。こうなると、きみのご両親の事故も、父さんが起こしたのかもしれないね」

 ごめん、と先輩が顔をくしゃりと歪めて項垂れた。俺も、呆然と俯いた。入って来る情報の処理に困り果て、途方に暮れていた。

 惨殺よりキツい、かも。身勝手な惨殺なら把握出来た。突飛な展開に、憎むことも出来ない。……憎むとすれば、今回の場合先輩のお父さんか。先輩を憎める気がしない。聞くだけで許容量越えるのに、当事者だった先輩はもっとだろう。好きな人と仲間の死に、揺さ振られっ放しの先輩を追い詰めたのは、先輩のお父さんだ。

「当時、何人か移植を待つ患者さんはいたんだ。だけれど、そんなのはどこの病院もいっしょだし、いつの時代もそうだ。助けたいからって、内臓の鮮度に限りが有るからって、無断でやって良いことじゃない。……父も混乱していたのかもね。息子が訳のわからない大事を引き起こして」

 お姉ちゃんを切り分けて取り出したパーツは、幾人助けたか知れないけれど。

「先生がしたんじゃないのに?」

「要因は俺に在るよ。由梨のことを放置した俺が悪いんだ」

「先生が、何か出来たと思えませんが。手を出せば尚更拗れたかもしれない。ああ、そっか。手を引けば良かったんですね。お姉ちゃんが困っていても、手を出さず関わらず。他の役員が如く」

「物言いが、敦来くんみたいになっているよ」

 茶化すような先輩に「……元を正せば同じ遺伝子ですもの」俺は憮然と返した。先輩は力無く笑った。

「お姉ちゃんの、残った体はどうなったんですか?」

 どこかへ移植された部分に拘っても仕方ない。他の部位はどうなったのか。私たち家族も知らない間のこと。私たちが引き取っていない由梨お姉ちゃんの遺体の行方が気懸かりだった。

「最悪、処分ですよね」

「ううん……ウチに在るよ」

「は……、」

「ウチに、在る。火葬して、骨は、俺が持っている」

 うん。ショック薄い己に、ああ、もう麻痺しているんだなぁと自認する。表情筋も動かない俺に「返すよ」と先輩が言う。俺は何と答えようと考慮して結局「ぜひ、お願いします」と小さく応答した。

「俺の部屋にちゃんと保管して在るよ。誰にも触れられないように」

「権藤さんのもですか?」

「俺の部屋じゃないけど、別の場所にね。いつか、返そうと思ってはいたんだけど……」

 返せず仕舞いでここまで来てしまった、と。何と評そうか「……」“由梨お姉ちゃんの遺骨だけ部屋に置いて在る”ってところが、とても引っ掛かる。ので、俺はつい訊いてしまう。訊かなきゃ良いのに。

「部屋の……見えるところに在ったりして」

「うん。硝子戸の固定した戸棚に置いて在るよ」

 専門書とかといっしょに。目が眩んだ。「容器まで、硝子じゃないですよね……?」「え、何でわかったの? 保存密閉容器でたいせつに保存しているよ」普通は陶器だと思います! 普通は陶器です! 移し変えたの? じゃあ何? 先輩は、硝子の容器に入れて丸見えの遺骨を、更に硝子戸の棚に置いて見えるところに置いているって言うの? “専門書といっしょ”、ってことはマジに普段から使う棚に置いているってことでしょ? 俺は頭痛を覚えた。痛みって、麻痺から返るのに本当は有効なんだよね。だが、過ぎた鈍痛はこの限りでないと。大変勉強になりました。

「……。権藤さんも?」

「権藤は普通に陶器の骨壷に入れているよ。必要ないから」

 何の、“必要”ですか? え、訊かないよ? 聞きたくないもん。

 一般的に考えて、死人の骨をそばに置く、しかも、目の届くところに。好きな人の遺骨だからと言えばロマンチック? なんですかね。ああ、待て、と思索を修正した。

 好きな人の遺骨だからそばに置いた、と言うより、罪の象徴として視界に入るところに置いた、と言うことなのかもしれない、と。成程。

 俺は往生際悪く、未だ何処かで先輩の心意を理解したいと思っていた。ようやく、共感はおろか理解など出来るはずも無いと悟って来た。先輩とは生きて来た道の違いもさることながら、壮絶な経験を俺はしていない。『敦来唯子(わたし)』でも立場が違い過ぎてその範疇にいない。上から押さえ付けられはしても、左右には寄り掛かられることは無い。先輩はそうやって、足を踏ん張っていたところに判断不能な事変に見舞われた。……譜由彦なら感じ入ることも有るだろうか。叔母さんや、もしくは叔父さん……叔父さんは立場はともかく変質的な箇所で。

 俺では、想像を絶する。で、あきらめたところで、これだけは聞いて置きたい、てものだけ訊いた。

「……もし、返せなかったらどうするおつもりだったんですか?」

 だってこんなことでも無ければ、ずーっと先輩は真実を抱えたまま終わった可能性も在った訳で。だとしたらこうして俺、いや私が引き取れなかっただろうし。そうしたらば、お姉ちゃんたちの骨をどうしたのか疑問が残る。先輩は「そうだな、」あっけらかんと言い放った。

「権藤の骨はどこか地方から配送で権藤の家へ送り付けて、由梨は……俺の家の墓に入れたかな。お姉さん夫婦が亡くなったから引き取り手いなくなったと思ったからね」

 お姉さん夫婦とは、私の両親のことだろう。やめていただきたい。お姉ちゃん良かったね! 先輩の家の墓に入らず済んだよ! ……うん。

 俺は蔓延る頭痛を振り払うように話題を切り換えることにした。お姉ちゃんのことはわかった。顛末も遺体の行方も。ならあと確認したい事項は二つ。

「白井優李、さんは……どうして?」

 どうして孤立させるようなことを? ……俺としては、絶対聞いて置かなきゃならないことだ。聞かなければ、俺は浮かばれない。成仏するのではないけど、『敦来唯子(わたし)』になる上で、塗り替えられる『白井優李(おれ)』が昇華されない気がする。一生痼りになる、そんな気が。

「ゆりはね……優李は、」

 先輩から『優李』なんてちゃんと下の名前呼ばれたの久し振りだ。殆どすぐ『ゆり』呼びになったから馴染みは無いに等しいけど。

「始め、凄い警戒していたな、俺のこと」

 はい。そうでした。先輩の影に怯えていたと思います。俺、ヘタレでしたし。声掛けられても丁重に辞退していた。あのころは何の根拠も無かったけれど、本能的に察知していたんじゃないかな。本能って凄い。当たってんじゃん。

「人当たり良くて誰とでも上手くやっている。初対面の人間とも屈託無く接していて、由梨とは正反対だったね」

 あー、そうですね。だけれど先輩には上手く出来なくて、やや避けるのに露骨になったときも在ったけど。俺はそうで、「でも、」先輩が反語を出した。ん?

「だから、無遠慮、ってことじゃなかった。優李はいつも線を引いていたよ。アレはお互い傷付かないための境界線だったんじゃないかな」

「……」

「由梨とは違う、天使みたいにやさしい子だったよ」

 先輩の顔が、強張っていた顔が緩んでやわらかくなった。やめてっ。俺は、そんな人間じゃないですってー! 平常を装う内側で、恥ずかしさに身悶えながら耐える。何よ。コレ。「天使、ですか」「うん、天使みたいだった」やめてよ。拷問だよ? 前も在ったよね? 再来だよ! つか、“由梨とは違う”って何。由梨お姉ちゃんだって天使のようにやさしかったじゃない。俺は不満を抱きつつも決して表には出さなかった。

「それに聡かったね。俺を避けていたくらいだから、勘は良かったんじゃないかな。だからね、考えたんだ。“この子を騙せたら、俺は完璧に周囲を騙せるんじゃないか”って」

「───」

 はっきり『騙す』って、言われた。先輩は騙す気だった。先輩を宇宙人みたいだと、理解なんか叶わないとあきらめてはいたけど。

 先輩を嫌うか否かは別問題だと思っていた。

「騙して、いたんですか」

 零れてしまったのは仕様が無い。涙を堪えただけでもよくやったほうだ。

「うん」

 先輩を怖がっていて、いざ先輩が『白井優李(おれ)』に意志を以て欺いていたと知ったら痛むなんて、俺もほとほと愚かな人間だね。自虐で、わらえてしまう。

「けれどね、こんなの、建前だったよ」

 俺は地面に這わせていた目線を上げた。先輩が柳眉を顰めたまま口角を上げた。『建前』……騙せたら、と言うのが? だったら、それは。

「誰に対しての?」

 先輩の友達、たとえば龍さんとか? オーナーに先輩を監視させていたらしい先輩のお父さん? それとも……『俺』?

 ねぇ、いったい、……。

「俺自身、へ対しての、だよ」

 先輩自身に。なぜ? 意味がわからない。いや、先輩はわからないって、気付いたじゃないか。でも、わからないから努力しないのは違う。理解出来なくても判然としない中でも、知ることは大事だと思う。知れば、寄り添うことは出来るから。

 人は、『個体』だから。概ね理解出来たとしても、理解出来ないところは確実に在るって。

「詰まるところ、俺はただ優李の傍らにいたかったんだ。優李の近くにいられたら安心出来る気がした……優李は、聡明な子だから、俺のことも受け入れてくれる気がした。俺の異常性に感付いても、見捨てないで“これはこれ、それはそれ”って傍らに置いてくれる気が。その意味でも、線引きの上手な子だったよ」

 ……。四六時中いるのは、勘弁だけど。

 強ち、先輩の読みは外れてない気がする。俺、退避距離保有はすると思うけど、撤退逃亡はしない。きっと。付き合い方を変えながら、俺は先輩と合わせるんだろう。

「……じゃあ、どうして孤立させたんですか?」

「優李の彼女を盗ったことは認めるよ。けど、優李の友人に嫌がらせとかしてないし、就活の邪魔もしてない。そこは敦来くんの邪推だよ」

 盗ったことは認めるんかい……。まぁ? 盗られる以前に倦怠期ってか離れてはいたけどさー。だからって盗られて良い気分はしないよ? 言えないから言わないけども。友人から遠ざけたり、就活の邪魔はしてないって言う。じゃ、譜由彦の“協力したって人がー”ってのは何? 噛み合わない場所の摺り合わせをするしか無い、かな?

「ですが、協力者がたくさんいらしたんですよね? お兄様の話だと」

「会社の話? “口利きをしてもらったかも”って話だよ。俺は“後輩が今度御社を受けるんですよ”って、言っただけ。その後どうしたかまで俺は把握してないよ。そりゃあ、口にしたんだし些少心付けするかなとは思ったけど」

「……」

 あれ? 何か推測と違う。むしろ、この話だと先輩は俺の就活を有利にしようとしてくれてる。けど譜由彦が言ったこととは真逆になる。え、どゆこと?

「訊き方だと思うけど。“俺に何か言われたんじゃないですか”“面接や試験に口出しさせたんじゃないか”って。コレならどっちとも言えないよね」

 ああ! 言われてみれば。つまり先輩側は“受からせてくれないかと含んだ”的に言ってるんだけど、譜由彦側は“落ちるよう暗に指図した”的に訊いていて、訊かれたほうは協力したことしか答えてないから、齟齬が在るんだけども訂正されないまま、と。筋は……通っている?

「友人関係なら、優李が懐いてくれたから遊ぶことは多かっただけで。友人関係の協力者って言ったら優李の彼女盗ったときお願いしただけだよ」

「盗ったときだけ、って……」

“だけ”って凄い語弊が在るような。“だけ”って言やぁ“だけ”ですが。何か納得行かない。……ん? 待て。待って。

「それって、友達も先輩と彼女が付き合っていたのご存知だってことですか?」

「うん」

 淀みなくきっぱり小気味良い回答が来たが、ちょい待てよ? 俺と彼女以外共通の関係者は皆知ってたってことじゃない? え、ちょ、俺が先輩に彼女NTRって周知の事実ってことっすか。あ、『NTR』は“寝取られ”って意味で……ぇええええ?

 地味にショック……。何だよ。何か恨みでも在った訳? うぁー……友達なんて元からいなかったんやー……いやいや洒落にならんよ。

「彼女、高校時代は優李一筋だったみたいだけど、大学入ってからは男遊び激しかったらしくてね。元々は第三者……優李と同じ高校の出身だったヤツからの愚痴だったんだけど……自分を棚に上げて“迎えにも来ない”“メールも全然くれない”“スケジュールは自分に合わせて当然”、とか言いたい放題。最後は甲斐性無しとか、俺にも悪口雑言吐き散らかしていた。……ゆるせなくてね」

 まぁねぇ。碌に会わない連絡もして来ない彼氏なんぞ、仕方ないですかそうですか。男の暴言はゆるせないけど女の子の陰口も怖くて嫌だ。にしても俺、彼女にそんなこと言われていたのか。俺と会うときとか「会いたかったーっ。優李がいなくてさみしかったよぉ」とか甘えて来たり、忙しい合間にメールとか電話しても「大丈夫だよー。優李は頭良いとこ行ったんだし頑張って!」とか。穴埋めだってしてたはずなのに! 記念日やイベントごとは押さえていたのに! 地味にショックのパート2。

「だいたい男漁りしている分際で、優李にまで“自分を第一に考えろ”なんて厚かましいにも程が在るよ」

 先輩っ、黒いです! 背景が暗雲立ち込めてますー! 俺が現在『敦来唯子』だから簡易的に当時の状況説いてくれているんだろうけど……実際は、より酷いのかもなぁ。とは言え、反芻して腹立たせるのはやめてください。怖いです。

「まぁ、アレだよ」

 どれだよ。

「優李に変な病気が遷る前に切り離す必要が在ったんだ」

 今、先輩、無意識なんでしょうか。今日一番の超良い表情です。その超笑顔で、立てた親指を首横一線したあと下に向けるの、やめてもらえませんか。

「……で、協力をしてもらいつつ白井さんから彼女を引き剥がしたんですね」

「あの手の女は、大学卒業したら特厚の面の皮で優李の奥さんにちゃっかり納まりそうだし、下手したら誰の子かもわからないくせに図々しく“出来ちゃった”って妊娠の責任を優李に取らせそうだもの。優李は人の感情の機微には敏感なのに悪意には疎いし」

 疎いってか、頓着しないんだよ、あの子は。先輩は嘆く。あー、リアルに在った、かも。無いって断言出来ない心当たりが在り過ぎる。今の記憶薄弱の状態でも。

「と、取り敢えず、……白井さんの件は誤解ってことで……」

 良いんですよね? 語尾まで言わず窺い見れば「俺はそう思っているよ」とお答えが来た。うん。そーだよね。先輩が俺を困らせるなんて……。

 俺は安易だけどほっとした。先輩のこと、怖いし理解なんて一切出来そうも無いけれど、信じていて良いんだと思って。先輩は俺を傷付ける意思は無いんだと。

「じゃあ、」

 梓川さんのこと。一番謎だ。何だって先輩が梓川さんを落とすのか。個人的な怨嗟でも在るのか。病院関係とか? だったら逆にこんなことしないよねぇ? もしかして、由梨お姉ちゃんのこととかで梓川さんが何らかのことを掴んだとか? 偶然。うーん、成程わからん。譜由彦とか各務さんは『私』のためみたいに言ってたけど。

「衣替え」

「え?」

「完全に終わったんだね」

 今日、俺は制服で来ていた。パフスリーブ、ウィングカラーのシャツにスカートの、夏服だった。学校によって違うのかもしれないけど、ウチの学校は衣替えの期間が一月在る。季節的に肌寒かったり蒸し暑かったり、体感温度も個人差が在るからだろう。生徒祭は月末なので本番が終わるころ丁度良く完了する。

「失敗しちゃったな……」

「先生?」

「恥ずかしいんだけどね……呼び止めようとしただけなんだ」

「は?」

「呼び止めようとしたら、驚いたみたいで……振り返った拍子に足を滑らせたようで落ちた。彼女は何とかバランス取ろうとしていたし俺は手を伸ばしたけど、間に合わなくて」

 梓川さんは転落した。何それ。まるで。

「私のときみたいじゃないですか」

「え、」

「梓川さんは、私を落とそうと思って手を差し出したんじゃない。私を引き止めようとして、私が振り払って、バランス崩して落ちたの……梓川さんは落ちる私に手を精一杯伸ばしてくれたけど……間に合わなかった」

 そう。『私』の、俺が『私』になる前の、生来の『敦来唯子』の最後の記憶だ。何かとあーしろこーしろ譜由彦様にも迷惑が掛かる敦来の家にも良くない、と、うるさい梓川さんの腕を鬱陶しいと振り払った。帰宅するために階段を下りる途中で呼び止められて、無視する私に梓川さんが私の肩を掴んだ。私は力任せに振り払って勢いを殺せず反動で落ちた。アレ、入学式から十日経ってなかったんじゃないかな。高校の。大多数が持ち上がりだから始業式みたいなモンで、三日目からは早々授業だったけど。鵜坂くんたちに声掛けられたの六日目の昼だったし。翌日とか、富山くん言ってなかった? アレは別だっけ。

 そう、憶えている。日付感覚は定かじゃないけれど。私が落ちる瞬間、目にした梓川さんの顔は、憶えている。梓川さんの顔は、梓川さんが落ちて気絶していたとき以上に青褪めていた。

「私のときと同じように」

「うん……そう、なるのかな」

「……そっかぁ」

 梓川さんも不慮の事故だった。なぁんだ。良かった。私は……俺は、安心して笑った。

 ほら、先輩は、理解出来ない人だけど……悪い人じゃなかった。良かった。

 俺は安心したけれど、いろいろ今回の事件で在るらしく、先輩はしばし警察のお世話になるそうだ。当たり前だ。俺のことや梓川さんのことはさて置いて、由梨お姉ちゃんのことは刑事事件だ。先輩のお家の病院も大変なことになるだろう。自業自得かもしれないけど。どれだけ助けたい患者さんがいようとも由梨お姉ちゃんを、一人の少女を独断で無許可に切り刻んだのだ。ゆるされることじゃない。

 俺は先輩の病室を後にした。車で待つ某方が痺れを切らすころだし訊きたいことは聞けた。先輩の体調も在るし。先輩が許諾したとは言っても、長時間の面談は精神的にも体力的にも負担を強いただろう。あのあと幾らか世間話をして挨拶して場を辞した。病室を出る俺に先輩は「ごめんね」と言っていた。俺は頭を下げただけに留めた。先輩の美しい容貌には微笑みが浮かんでいたが、随分と空虚に感じた。



 

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