1. 俺 と 白 雪 姫
唇に何か当たったから、目が覚めた。そしたら男のドアップ。そりゃビビるっしょー?
だけど、一等驚いたのは、そのあと。
「えええええええっっ?」
きめ細かい白い肌。艶やかな黒い髪。きれいなアーモンド形の大きな瞳。ここまで来れば、当然大半の男は落ちるんじゃないのかな。落ちなくても「おお、美人」と、何か得した気分になるだろう。
ただし。
「……嘘でしょ?」
あくまで対象が他人限定で。あ、中には自分が美人でよろこぶ場合も在るよね。女の子ならそっちのが多いよね。だけど生憎、俺にそんな趣味は無い。嗜好も、価値観も。
だから、鏡の向こうで驚愕に大きい目を見開く美少女がよもや己だ、と感付いて歓喜する訳が無いのだ。
現時点への経緯を整理するには、先じて俺のことを思い起こすことが必至だ。
俺のこと、と言ってもよくわからない。いや、改めてどこを、って意味で。俺のことなんか然して何も無い。ただ、現状に関して、もしかしたら説明が成り立つんじゃないかなぁ、ってくらい。
端的に言って、俺はホストだった。けど辞めることに頭がいっぱいで、それと、極端な女の子至上主義者だった。
【 1. 俺 と 白 雪 姫 】
「お疲れ様でーすっ」
出入り口で、俺は扉に手を掛けたまま振り向き様に挨拶を放った。店の奥から斑に返って来た。閉店した店内にいたのは店長とオーナー、俺を含めた下っ端くらいだった。先輩ホストや売れっ子は皆、問題が無い人間はとっくに解散。帰途に就くなり自分のお客様とアフターで接待するなりしているころだ。俺は上着を羽織り半開きのシャッターの下を潜って外へ出る。店は地下一階に構えており、俺と俺の同期、あとに後輩たちが続き、全員気怠さを隠しもせず地上を目指した。螺旋状の階段を上り切れば向かい側のガードレールに一目散。目当ては、ガードレールに寄り添う形で設置された、少々お洒落な街の街灯みたいな吸殻入れだ。仕事帰り、そこで一服するのが、俺の日課。俺は仕事用に一纏めにしていた髪を解くと、ポケットから煙草を取り出し啣えて火を点ける。深く深く吸い込んでニコチンもタールもいっしょくたに肺に押し込んだ。で、深く深く吐き出す。そうしながら、今日も考えた。
「……あー……」
ホスト辞めたいなー。肩を少し流れる髪を掻き上げ、もうとっくに黒から青へ脱色を始めた四月の空を仰ぎながら感慨に耽る。もともと、俺はホストに向いてない。去年灰色の就職活動を完敗した俺へ、見兼ねたサークルの先輩が紹介してくれた仕事。それが、ホストだった……だけ。
先輩の中で俺はサークルの盛り上げ隊長だったから、まぁ、向いているだろうって。実はちょいとばかし迷惑、とか反感を抱いたのは秘密だ。好きで盛り上げ役だった訳じゃない。好きで、あんな、物の見事にチャラいサークルにいた訳じゃないのだ。……見た目俺もチャラいらしいけどね! 周りから浮かないようにした結果なだけなんだけどね! チャラ男が、就職有利とか商社やら銀行やら受けが良いとかなんて嘘だよ! 俺敗北し……あ、張りぼてのチャラさだからですかそうですか。
「優季さん、機嫌悪いっすね」
「……べっつにぃ?」
隣で共に煙草を吸っていた短い赤い髪の男、勝が話し掛けて来る。優季、とは俺の源氏名だ。本名は『優李』と書いて“ゆうり”と読むのだが、先輩やサークル仲間からは“ゆり”と呼ばれ「『優李』でも良いけど、せっかくホストになるんだ。なら線一本景気付けに足してみよーぜ」と、ナンバー1ホストたる先輩のよく理解出来ない鶴の一声で決まった。売り上げのヒエラルキーが物を言った単純明快な理由だ。どちらにしても女臭くて微妙だよね。
「優季さん、どうしたんっすか? 今日、指名本数良かったじゃないすか」
「そぉー?」
「そうっすよ。S客の場内指名も取ったじゃないすか。龍さんの盛り上げも卒無くこなしてたし」
それが憂鬱なんじゃん、とは言えなかった。S客とは、新規のお客さんのことだ。……しくじったなぁ。「良いっすよねー。ゆーきさん太客の指名客多くて羨ましいっすー」呑気に勝が言ってくれているが、俺は黙って煙草を吸っていた。正直、どうでも良い。だって辞めたかったから。こんな、業界用語だらけの会話も早くしないで済むようになりたいなー、とか。龍さんはナンバー2の人。先輩の派閥、ナンバー1のお気に入りとか揶揄される俺を、そんな風評気にせず仲良くしてくれる人だ。裏は知らないけど。
「何でナンバー入りしないんすかねぇ。優季さん、あとちょいで入れるんじゃないっすかねっ?」
だからナンバー入りもしない程度にしか俺は働いてないっての。だから先輩も龍さんも可愛がってるって言うか、重宝してくれてるんだよ。場の盛り上げ役に。ナンバー1を目指しているらしい勝はやたらに羨ましい羨ましいと囀っている。……あー、うっさ。
俺は本格的に辞めたかった。俺にとってはここ、お店の居心地は好いよ。でも、やっぱり駄目なのだ。
今日も女の子が泣いていた。かわいそう、なんてホストの俺がお門違いだ。だけど胸が痛むのだから仕方ない。
今日、正確には昨日の夜。店が営業中のことだ。俺は基本的にお客さんが自発的に「今日行くよー」ってメールや電話くれて迎えに行ったり、たまのお誘いに乗って同伴する以外はお店のそばで客引きしてる。俺はメンテナンス、つまり常連の指名客になってくれた人にメールしたり電話したり営業することは、あんまりしないから。今日“会いたいなー”とか露骨にしないでいつも来てくれたあとに今日は“楽しかったよ、ありがとう”って、送るだけ。どっちかって言うとメル友みたいになって愚痴聞いたりが多いかも。
なので、まぁ、それでもそれなりに女の子は来てくれるもので。ちょっと繁華街から逸れた裏側に店が在るってのも利点かもしれないけど。他のお店とダブらないのが一番だからね。俺争い嫌いだし。で、通常通り俺がもう一人と客引きしてたとき。
「何でっ? 非道いよ、ショーゴっ」
「ああ? お前、何か勘違いしてないか?」
言い争う声が響いた。ガードレールの向こう、道路を挟んだ歩道にどう見てもホストの男と、遠目でも似合わないとわかるギャル服の若い女の子が揉み合っていた。俺と店のホストは騒ぎの中心である二人を知っていた。
「まぁた彰吾のヤツやってんのかよ」
マジウッゼェよな。白けた調子で同意を求められる。俺も「うん……」と小さく溜め息を付いた。そう、男女の揉め事なんか商売柄めずらしいことじゃないけれど、殊、今女の子に詰られている男、俺と同期の彰吾と言うヤツにおいては日常茶飯事だった。彰吾は原則禁止されている色恋営業、要するに枕営業していたからだ。客の女の子を惚れさせて指名を取る、人によっては汚いやり口。彰吾本人に誰かが問い詰めたことは無いけど、見ていれば一目瞭然だ。隠しているのかも不明だし。隠しているとしたら、無駄にデカイ顔して好き勝手やっているのに、お粗末過ぎる。
俺は嘆息した。飛び交う二人の怒号に、周囲の人も好奇の視線をやっては足早に立ち去って行く。いっしょに客引きしていたヤツは丁度俺とも彰吾とも同期で「アイツ、マジで営業妨害じゃねぇか」と気色ばんでいた。しばらく俺と状況を見守っていると「俺、ちっと絞めて来るわ」とか言い出したので慌てて止める。時を同じくして女の子が走って行ってしまった。俺はほっと息を衝いたけど、同期はそれじゃあ収まりが付かないらしく。道路を渡り何食わぬ顔で俺たちに手を振って向かって来る彰吾に噛み付いた。
「お前フザケんなよ」
「あ? 何が」
「さっきの。店の前ですんなよ。いい迷惑なんだよ、客が散るだろうがっ」
「あー……悪ぃ悪ぃ」
詰め寄る同期を軽くあしらって彰吾は中に入ろうとして────俺の肩に手を回した。顔を引き寄せられて胡乱な目を向ける。
「何?」
「アイツさーウザくね? 何で文句言われる訳? 俺より売り上げてから言えってんだよなー」
彰吾の態度も然ることながら、言い分にも呆れた。反省と言うものが無い。さすがに「店の前でやるからだよ」と返答せざるを得なかった。すると彰吾は鼻で笑った。「お前知らねぇのな。さっきの女、最初アイツの指名客だったんだよ。俺に鞍替えしたの」くつくつ喉を鳴らす、嫌な笑いだ。
「ま、目下ナンバー入りもしてないアイツとナンバー入りの俺じゃ張り合えないよなぁ。負け犬、マジウザだわ」
彰吾はそこまで言うと俺を解放した。首に腕を回して、半ば引き摺るみたいに階段下の店の前まで付き合わせて「じゃー、お見送りご苦労さん」コレだ。「……俺もナンバー入りしていないけど?」首を揉みながら睨めば彰吾は笑みを深め。
「……っ」
がっ、と頭を掴まれた。アイアンクローってヤツだ。痛くは無いので掴んだだけで力を入れていないらしい。
「俺、俺がナンバー落ちするとしたらアイツじゃなくてお前が蹴落としたときだと思っているから」
思い掛けない告白だった。微笑を消すと俺の頭から手を外し、彰吾はつまらなそうに前髪をいじっている。前髪に触るのは、考えながら喋るときの彰吾の癖だった。
「お前がマジじゃない内は良いけどさ。いつお前がマジんなって蹴り落とされるかって冷や冷やしてんだよ。だからさ、今の内に順位上げて置きたいんだよね」
「……」
凄い目で見られた。彰吾は言い切って扉の向こうへ消えて行ったけれど、宣戦布告された俺は肩を落とした。何それ。勝手に、追い落とされるかもってガクブルして敵視してるとか、超迷惑。女の子は泣くし、敵意は向けられるし。元来俺は打たれ弱いんだよ。静かに暮らしたいのっ。
「……」
トラウマは刺激するし。女の子の“何でっ? 非道いよ”が脳内で木霊する。別の声が被さったのを俺は、彰吾のせいで乱れてしまった髪を結い直して、意図的に打ち消した。
……とまぁ、営業中の顛末でしたが、その後彰吾はあんなことを、女の子をこっ酷い扱いして、俺に宣戦布告をして置いて、何も無かったかのように今夜のターゲットで在ろう女の子を手玉に取っていた。俺は、前述勝が述べた通りだ。こんなことも在れば俄然本気にもなるものだ。勿論辞職の方向に。
地味な工場にでも勤めようか。Iターンで農村に行って農業も良いかもしれない。もともと俺地味だし。解いて頬に触れる髪を耳に掛けながら、真面目に脱ホスト計画を練っていた「あっ」ときだった。
「へ、」
勝が「アレ、彰吾さんの指名客じゃないですか?」指差したのは、夜に喧嘩していたところと同じ立ち位置で俯く、件の女の子だった。とっさに待ち伏せか、と俺は警戒した。騒ぎのことを誰が店長の耳に入れたか、彰吾はアフターにも行けず閉店後来るようオーナーに呼び付けられていた。そう、まだ、いるのだ。店に。俺はマズいかもしれない、と推考していた。彰吾がどうなろうと知ったこっちゃ無いけど、店が損害を被るかもしれない。何と面倒な。オーナーと店長が下にいるはずだ。様子がどうもおかしいし、勝も同じ雰囲気を感じ取っているのか女の子を凝視している。言いに行くか、迷いは一瞬だったのに俺が決めたときには遅かったのだ。
「おー、お前らこんなとこで寒くねぇ?」
お前タイミング悪いんだよー! 叫べたら楽な罵倒を、俺は心で発する。彰吾は漂う空気を一切気取らず、弛み切って笑っているのだ。俺は、「なぁ、アレ……」と彰吾に目線で示した。彰吾はそれを辿って女の子に行き着くと軽く舌打ちをした。
「……っだよ、アイツマジ勘弁だな」
元はと言えばお前が蒔いた種だろう、と俺は詰ってやりたかったがそれどころでは無い。
「何かおかしいから。彰吾店戻んなって」
「はぁ? 何でだよ」
俺の有り難い助言を一笑に付すと、彰吾は俺を押し退けガードレールから身を乗り出して、言った。
「お前さー、いい加減にしてくれる?」
「ちょ、おまっ」
挑発すんなし! 制止するため彰吾の腕を掴んだ。俺の手を振り払いながら、尚も彰吾は女の子の地雷を踏み付けようとする。
「だいたいさー、指名客のくせして大して金も出さないとか何なのお前。酒は飲めないからって、だったら俺が飲むんだから入れろってんだよ。お前くらいのモンだぜ? まぁ? それなりに抱き心地は好かったからそっちで帳消しにしてたけどぉ。はっきり言ってお前客としても中の下以下ですからー」
あ、俺下の辺とか相手にしないのね、だからお前最下位ランクだよ。余りに非道い言い草に、俺は危機感より怒りが湧く。隣で成り行きを静観していた勝も眉間に皺を寄せていた。その暴言は無い。
「もう、やめなよ」
静かに止めに入る。さっきより力を入れて二の腕を掴んだ。彰吾が「ああ?」こっちを向いた瞬間。
「……でやる」
早朝の、空の白んだ道路は人気が無い。大通りより一歩入った、裏手側なせいも多分に在るだろうけれど、とても静かだ。だので、「……へ?」女の子の声は、しっかり二車線挟んだ俺たちの耳に届いていた。俺だけじゃなかった証拠に、彰吾も、勝も、女の子を一斉に注目したからだ。
「死んでやる」
再び聞こえた。声量は大きくは無かった。どちらかと言えば小さく、呟くような、地を這うような。だけど明瞭にはっきり聞こえた。ぞくっと、背筋が冷える。まさか、そんな、冗談だろ? 彰吾も笑うには呑まれてしまって、彼女が本気だと思い知るには充分だった。
そして最悪なことって重なるモンで。奥の十字路からトラックが来ていた。この道を抜けた先に在るコンビニの配送車だ。スピードは出ていないがゆっくりでもない。完全にマズい、とか俺が判断したときには、すでに女の子は道路へ身を投げ出していた。ここから俺は覚えていない。
気が付いたら、現在。お洒落で広い部屋はホテルの一室のようだけれど、ベッドの形状やそばにくっ付いている呼び出しボタンにネームプレートから、病院の豪華な個室ではないかと予想した部屋。俺は鏡の中の美少女と睨めっこしている。矢印イマココ。何がどうしてこうなった。記憶を何度も浚うけど、全く以て心当たりが無い。置かれている状況にも、美少女にも。何て言うか。目を覚ます前、最後の記憶はガードレールを飛び越えて走り出し女の子を確かに歩道へ突き飛ばしたはずなんだけども。
「そりゃあ、そうだろう」
どれだけ揉もうと、スイッチを押せば出てくる玩具じゃ在るまいし、抜け落ちた記憶は続きを出すことは無かった。代わりに、忘れていたもう一つの存在が声を上げた。俺は隣に向いた。「えーと……」男は、戸惑う俺を放置して「気は済んだか」話を進めて来た。いやいや。気が済むとかそんな問題じゃないから。
「えーと、どちらさん?」
「ここで、俺がその、お前の体になっている小娘の知り合いだ、って言ったらお前はどうするんだ?」
問われてはっとする。そ、そうだ。病室内にいたと言うことは、白衣も着ていないしその線が濃厚だった。俺は再度パニックに陥ろうとしていた。「ま、違うがな」男がさらりと前言撤回してくれた御蔭で免れたが。俺は胸を撫で下ろすと“何だよーびっくりすんじゃんよー”と悪態を付いた。当然、心中で。
「聞こえているぞ」
「おおぅっ?」
俺はとっても完璧な美少女の姿で挙動不審を繰り返した。
もう一度どちら様か尋ねれば、男は『管理者』だと名乗った。何の、と訊けば「聞いていなかったのか。世界の、だ」と。男の滅茶苦茶長い説明が一方的に始まったので、俺はベッドで掛け布団の下正座した。
拝聴と並行して男の説明を整理すると、生物とは、世界に必要な存在を世界自体が寿命の設定をして、ランダムに選択された魂をそこに落とすことで生み出される産物だった。雌雄が愛し合おうが、憎み合おうが、生殖行為で生まれる命は、須らくこの世界の工程の上で生産されている。……全自動で生の営みが運営されてるって何か無常だなぁ。
曰く、膨大な量の情報が世界の正体なのだと言う。当然だけど、パズルや積み木といっしょでひとつ抜けば穴が空く。情報の、たとえば単語を抜いてしまえば元の文章が無意味になるのと同じで、穴が空いたら無意味と化し崩壊する世界を、そうならないようこの穴を埋めるため、新しい存在は生まれるのだ。けれども全自動として、まったく手放しかと言えばそうじゃない。唐突に語られるのをへーと聞いていた。……ええーと、頭のおかしい人で……ったー。
「……だから、だだ漏れだ、愚か者がっ」
叩かれた。この体、美少女なのに! すっごい可愛いのに! 女の子殴るなんて最低だぞー。心の内で捲くし立てても、無言だったのにまた叩かれた。「学習能力無いのか」嫌味付きで。
どう見ても、男は普通の人に見える。顔は整っているけど、悪くない、て程度。黒髪黒目、典型的なアジア人。日本語喋ってるから、日本人……かな。服装は、普通に黒いハイネックに丈の長いベスト、と同じく丈が普通のスーツより長い黒のジャケット。トータルして多少変わったパンツスーツスタイルだ。どこをどう見ても、『世界の管理者』? とやらには見えないんですが……。
「やっぱ、電波さんじゃ……あたっ」
「口に出てるわ。ったく。お前、鏡見て気付かないのか」
でなきゃ新興宗教……なんて考える俺に男が指したのは病室の鏡だ。姿見と呼ばれる大き目の全身が映るサイズ、の、二枚分くらい横は広めのヤツ。俺が座るベッドと平行して入り口横、壁付けされている。壁際のベッドに座ったままでも鏡が見られる、そう言う設置だ。
「あ……」
男は映っていなかった。どの角度に上体を動かして覗いてみても、鏡には呆けている美少女が一人。アレが俺とか、信じられない。俺の動きに合わせてポーズ変わっているから、間違い無く俺みたいだけど。視点変えて両手をにぎにぎしてグーパーしたり伸ばしてみるけど、うん、細い。華奢だ。俺も細いってよく言われたけど、やっぱり男特有にごつごつしてたし。つか。
「そっか、夢だ! あ痛っ」
「残念ながら現実だ」
痛ー。拳骨が脳天に降って来た。今までで断トツ痛いんですけど。だって、夢なら全部合点が行くじゃんよ。鏡に映らない男も、俺の美少女変身も。俺は痛む頭をさすり男を見上げる。コイツ、身長は在りそう。何それ羨ましい。俺、平均越えたくらいしか無いもんなー……。
「聞いているのか」
「ほわっ。……あ、すみません」
叩かれる前にガード。そうしたら、ちって舌打ちされた。仕方ないじゃない何度も殴られるのは御免です。
「ったく。まず、もう一回言うぞ。お前の状況だが。お前は死んだ」
わーお、さっくり。躊躇いも無く「死んだ」とか、凄いな。俺は随分なことを宣告をされているのに案外平気で受け入れていた。もしかしたら実感が無いせいかもしれない。だって、本当、死んだの? ってくらいだ。リアリティに欠けている。“苦しい”“痛い”“死にたくない”、こんな体験をしなかったゆえか。や、覚えていないだけでしたのかも。ほら、あんまり痛いと麻痺するって言うじゃん。漫画とか小説とかフィクションみたい。これが最新技術の粋を集めた壮大なドッキリって言われても信じたかも。この美少女は実は特殊メイクでー、とか。誰が仕掛けたかはともかく。現実味の無い俺が「ふぅん」て相槌を打つと、男が眉と眉を寄せて怪訝な表情を浮かべた。「驚かないのか」うん。「何か、そんな気しないし」ますます険しい顔をする。だってねぇ。
「死んだって、そのことを覚えてないもの。取り乱すことも出来ないよ」
絵空事みたいで何とも。俺が平然と感想を聞かせれば、男は納得が行かないと首を傾げる。何これ。立場が逆過ぎて笑える。つい俺が噴き出すと男が叩いた。もー、何度目かね。
「暴力はんたーいっ。女の子にはやさしくしてよ、男でしょー」
ぶーぶー抗議をすれば男は「ああ、お前には男に見えているのか」とかおかしな反応をした。俺はきょとんとして、まさか、と熟視した。え、でも。
「まさか、女の人?」
いやいやうっそだー。俺がへらっとして言うと男は「そう見えることも在る」と一つ頷いた。えー……やー、嘘でしょ? 「俺よりぜってぇ、背、高いじゃんんんっっ!」ほぼ悲鳴だ。在り得ないでしょ。俺だってきっと低いほうじゃない。百七十二は在ったのよ。縮んで、なければ……。俺が悲嘆に暮れていると男が「おかしなヤツだな」呆れ返っていた。うっさい、切実なんだよぉぉおっ。
俺がじと目で睨めば「俺は女じゃない」と言う。ううん?
「だって、今」
「あくまで“見えることも在る”ってだけだ。そもそも俺に性別は無い」
うん? ううん? 俺が混乱しているのに男……か、わかんないけど男にしとこう。男は待ったを掛けた。「取り敢えず、聞け」……はい。
「白井優李。お前は死んだ。これは良いな」
「はい」
余り良くないけれど、ここで意見しても仕様が無いので肯定する。まぁ実感無いしね。こくん、と俺が首を縦に振ったのを見届けてから男は説明を続けた。ってーか、俺の名前知ってるんだ。
「お前が死んだのは事故だ。だが事故は過誤だった。本来なら、お前は死ぬはずじゃなかった。て、言うか誰も死ぬ予定じゃなかったんだ」
俺は目を丸くした。だってそうでしょ。現に、俺死んだじゃない。俺が驚いていると、一つ、男が息を吐いた。え、あ、何かすみません?
「誰も死ぬ予定じゃなかった。お前が庇った女はお前が突き飛ばさなくても掠り傷で済むところだったんだ。事実、お前を始めに轢いたトラックは急停止で軽くお前を転がしただけだしな」
お前は急ブレーキの音聞かなかったか? 尋ねられても、覚えが在りません。「……」黙秘。
「女よりお前のほうがトラックに近かったから飛ばされたんだぞ。加えて女は横に転んで助かる予定だった。お前は必死で目に入らなかったんだろうが、ガードレールに片足引っ掛かってたんだぞ」
「……。えーと、」
男は渋い顔をしてらっしゃいます。事故の全貌が見えて来た。でも、はたと感付く。でも、それじゃあ。
「何で、俺は死んだの?」
軽く当たった分には死ぬことは無いと思うんだけども。俺が疑問をぶつけると「ああコイツ莫迦だな」と音声は伴わず目で、や、体全体で語って「それはな、」答えてくれた。
「対向車線に猛スピードの車が通って行ったからだ。お前はトラックに弾かれて、そいつに轢かれた。で、お陀仏」
おおぅふ……。我がごとながら何と運の無いことだろう。しかし、て、ことは……。
「お前が飛び出さなきゃ、運転手二人は前科付きにならなかったな」
うわぁああぁあぁぁ。やっぱりっ?
「それは……とても申し訳無いことを」
してしまいました。ここまでで俺の頭は、下へ下へと向いて最下へ行き着いた。相手は運転手さんたち本人ではないけれど、顔上げられません。本当にすみませんでしたっ。
「本当にな」
呆れた声音で突っ込まれた。いや、もう、弁解の余地が在りません。俺はひたすら下半身に掛けられた布団を見詰めた。
「で、ここから本題だ。お前の死は予定外だった。あの事故は起らざるべきなのに起きた。言うなれば“バグ”だ」
「はぁ」
「ここで言うバグってのは、予定外の出生、死を指す。死と言っても老衰、病死、事故死は寿命で起こることだから平常運転だ。例外は自殺、殺人などの場合だ。自然の流れではなく人為的、故意に起こされた場合、これは突発的な事項だからな」
「事故も、自然死に含まれるの?」
「事故を起こそうとして起きる事故は無いだろう。起こそうとして起き、人が死んだなら、これはもう殺人だ」
情報で出来ている世界の中には更に独立したプログラムが在る。例の、世界に穴埋めとして設定されて、産み落とされたはずの生物、意識を得た生命体だ。全自動の世界が、自動循環機能として創ったモノ。世界を廻し、常に運営するモノ。が、意思を持つモノは稀に世界の定めた規則に反した。自殺や殺人がこれに当たる。これも、バグになった。天寿全うからの新生が正規の循環なのだ。穴を埋める存在が忽然と亡くなれば勿論穴が空く。かと言って死ぬことを防ぐのも世界を捻じ曲げてしまう。バグはバグを呼び最後は大きなエラーになる。
エラーは戦争や飢饉や疫病、災害となる。こうした事態を避けるために手動で修正を掛ける存在がいた。男がその一人なのだそうだ。自浄作用も在るには在るが賄えないからエラーが起きる訳で。結果、男たち『管理者』が行うのはバグを最小限度で修正させること。
成程。俺はふんふんおとなしく聞いていたけれど、引っ掛かって「しつもーん」手を挙げた。
「何だ」
「俺、事故死だよ?」
俺にはさももっともな質問だったのだけど、お前聞いてなかったのかとばかりに双眸を細められた。ただ、想定内の問いだったのか溜め息一つでゆるされた。俺は頭から手を放した。ああ、庇ってたとも……だって痛いんだもん。
「お前、“轢かれても良い”って、端から轢かれる心積もりで行っただろう」
男にそんな気はさらさら無いのだろうけれども、咎められているようで俺はびくびくしてしまう。仕方ないじゃないか。間に合わないって悟って、そうでも体は反射的に動いてしまった。
ウチの母方のじい様は生粋の女性信仰者である。何言っているんだと嘲るなかれ。幼児教育ってやっぱ大事なんだよって話。俺は幼児期、近所に住んでいたじい様に事在る毎言われたのだ。「女の子は偉大なのだ」と。
曰く、偉い人だって母親無くして生まれない。この世で一番偉いのは女性だと。じい様は父親を早くに亡くして母子家庭で育ったので、余計女性信仰に拍車を掛けたみたいだった。だけども、確かに女の子は男性に比べて弱い。女性蔑視じゃなくて。女性だって力仕事出来る人もいれば男性でも頑健でない人はいる。適材適所の話ではなく、身体の造りとして女性のほうがやわらかいし、子供を産む辺り痛みには強いかもしれないけれど、外からの衝撃には弱いと思うし。ウチは母さんもばあ様も頑強そのものな人たちで、畑を元気に耕していたけど、肥料やら農具やら重いものの運搬は俺や父さんのほうが効率的だった。
こう言う家で育てばわかると思うけど、女性を力でどうこうしようなんて及び付かない。騙すなんてことも……。
……いや。もっと素直に白状しようか。俺にはトラウマが在る。
他人にしたら至極下らない、取るに足らないと共感出来ない人もいるかもしれないが、俺の育った家庭を踏まえてほしい。俺の家は女性を崇拝していると言っても過言じゃない。その「女の子は凄い、たいせつにしなくてはいけない」と教えられ育ったはずの俺。
そんな俺だけれど、子供のとき女の子を虐めたことが、在る。
虐めた、と言っても俺が直接どうこうした訳ではなかった。俺は何もしていない。そう、何もしなかったのだ。小学生のころ、切っ掛けは小三くらいだったか。一人の女の子がクラスの男子に虐められた。理由は「気持ち悪い」とか。俺はそう思わなかったし、男子も大勢がこうだった。だが言い出したのはクラスで女子にも影響力が在る男子だったのだ。俺はなぜかそいつに気に入られていた。うん。仲は良かった。
最初はみんなそいつは何言っているんだろうくらいだった。俺も能天気に「そー? そうかなぁ?」とか返していた。それからなぜかその子を虐め始めた。始めの内は言い出したそいつ一人だった。女子も「やめなさいよ」って庇っていた。だのに、徐々に人が増えて行った。一年を経て、俺が気が付いたときにはクラスの大半がいじめに加担していたんだ。あるいは気付かない振りで無視。俺はやめさせたかった。きれい事だけど。だけど怖かった。
その子が悲鳴を上げるたび、泣くたび、笑う群衆が。小四の俺は、何が楽しいのか笑う群れに勇気が無かった。一言を飲み込んでしまった。見て見ぬ振りしていた子たちも、同じだったのかもしれない。
やがて彼女は登校拒否になり転校して姿を消した。俺は見ているだけだった。そう言えば、あのときのそいつは少し、彰吾に似ていた気がする。
無論、ホストが全部悪いとは考えてない。お客さんは皆楽しい時間を自身の好みの異性と過ごすためにお金を払っている。キャバ嬢とかだってそこはいっしょでしょ? あの女の子だって客である以上はギブアンドテイクだと理解すべきだった。同情はしていない。が、目の前で女の子が追い詰められて死のうとしていたら、とっさに行動するものではないだろうか。
まして俺は、今でも助けられなかったことを悔やんでいたから。
“何でっ? 非道いよ”
あの子と同じ非難を、あの女の子が口にしたから。あの子と同じ眼を、あの女の子がしていたから。
「───お前の生い立ちなんざ知ったことじゃないが、被害を諸に被っている身としては小言も零したくなるな」
「……ごもっともです」
「轢かれなくて済む事故で轢かれやがって。お前のせいで俺の熾烈を極める作業は増えたんだ。良い迷惑だったな。言ってもどうにもならんが。で、PCのプログラムと違って、部分的に対処すれば良いってもんじゃない。一部分だけいじって世界が崩壊したり雪達磨式に大災害を生む場合も在る。じゃあ、どうするかってーと」
男は一拍間を空けた。肩身の狭い俺は小さくして静聴に努めた。男は一息付いてから告げた。「バグには、バグで対応する」
「バグには、バグで……?」
「そうだ。最初に自己紹介したな。俺は世界の『管理者』だ。世界は幾つも在って、この『世界』もその一つだ」
何か、急に大きな話にシフトされた。ええと、つまり。
「どう言うこと?」
「この世界からすれば、異なる世界、────『異世界』が在る。そう考えてくれれば良い。俺はその世界共を管理しているモノだ」
「ふーん? えっと、だから……?」
「たとえてみるか? たとえば、そうだな。俺がPCのファイルだとしよう。世界がデータで、データにはゲームも絵も動画も音楽も在るだろう? だけど、管理は一つのファイルでも出来るよな?」
あ、ああ、何となくわかったかも。世界が他にも在って、それを纏めているところが在って、そこにいる人。要するに。
「……“神様”、ってこと?」
「相手によってはそう呼ばれることも在るな」
凄い。神様だって。こんなに平凡、って言うか印象薄いのに。それとも神様だから薄いのかな。俺の失礼な思考を読んだ訳じゃないと思うけど、神様が俺を再び叩いた。ガードが遅れた、痛いっ。
「読もうと思えばお前の考えることなんぞ読めるけどな、読むまでも無く顔に出てんだよ」
「うぅ……手加減してよ……」
俺の時代は雷親父なんていないし、ウチはガサツな人が一部いるけど、他はみんな家族おっとりしてるんだからぁあ。じんじん痛む頭を撫でさすって涙目で訴える。男は知らん振りだ。非道い。
「自業自得だ。……一つのデータが世界だとしてだ。多く運営していればそりゃあバグも多い。同時並行で管理しているがどれだけ慎重に行っていても出るときは出る。そうなったとき修正する訳だが……」
ちらっと俺を見遣ってすぐ逸らした。え、何ですか。気になるじゃないですか。俺は首を傾ける。心なしか、男はばつが悪そうだ。何よ何よ、お兄さん顔色悪いですぜ、とかジョークの一つも店なら飛ばすところだけど。ホストクラブにも男の人来るよ。ウチは男性禁制じゃないからね。女性同伴が条件だけど。だけれど、ここは病室だ。美少女の。あくまで美少女の、ね。
「────お前が入っている器、……体だな、それは名前が『敦来唯子』と言う」
男がとんとんとベッドのところのネームプレートを指で示す。ツルギ、タダコって読むのか……変わっているけど古風感漂う名前だった。この美少女は唯子ちゃんと言うらしい。へぇ。俺はにぎにぎ手を開閉した。意味は無い。敢えて申告するなら手持ち無沙汰だったためだ。男は遠くを見るように焦点を空に定めて諳んじるかの如く滔々と喋り出した。
「敦来家の長女、十五歳の高校一年生。一人娘で、当主の唯一の内孫だ。両親はとっくの昔に他界。現在は分家の叔母夫婦と敦来本家で暮らしている。年の二つ離れた従兄がいるな」
「おお、女子高生! へー。唯子ちゃんて凄いお嬢様っぽい感じ?」
何かよく把握出来てないんだけど、本家とか分家とか出て来るってそうとう旧いお家の気がするんだよね。俺のお客さんにもいたなぁ。見るからに上品で、先輩曰く「あの手の客は金払いが良い。なぜなら使いどころを熟知しているからだ」だって。旧家のお嬢様だったっけ、あの人。良い人で三日置きくらいに来てくれた、俺の極太のお客様。金払いの良いお客さんを『太客』って言うんだけれども、あの人は“極太”と呼んで良い。場を読むのも人を見透かすのも巧くて、俺の心情も見抜いていた節が在った。もう会えないのかなぁ。不意にしんみりしてしまった俺の頭を「だから聞けよ、本当に」男が叩いた。「はーい……」俺の返事に男は自らの額を宥めるように撫でた。
「で、この唯子だが……『誤生』だったんだ」
「『誤生』?」
耳慣れない単語の登場にハテナを飛ばすと、男はごほん、と口に拳を宛て咳をし改まった。ううん? 俺に一旦視線を寄越して戻した。
「『誤生』とは、“『誤』って『生』まれる”と書いて『誤生』と言う。まんまだ。唯子は生まれる世界を間違えたんだ」
「え、そんなこと在るのっ? な、何で?」
素っ頓狂な声を上げる俺に首肯して男は講釈する。「このケースは数的には稀だが、『誤生』自体は間々在る。世界は俺たちが一つのところで管理しているだろう? 多ければ、データをフォルダで分けていてもうっかり誤って分類してしまうことが在るだろう。『誤生』はこれだな」
世界を構築する膨大な情報量を水流、意識を細かい砂に置き換えるほうが想像し易いか、と男。量が多ければ多い程、砂は詰まる。流れる速度も落ちる。下手すれば砂は正常に流れているのに弾かれる。その弾かれた砂と弾かれる現象が『誤生』、と思えば良いらしい。
そして世界はひとつじゃない。意識を落とすところで繋がっていて、世界を弾かれた砂は別の受け皿、世界へ落ちる。誤生の発生だ。修正しようにも、殺せば穴が開くので寿命を待つしかない、アクシデントでも無い限り……凄い話だ。俺は唖然と大口を開けてしまう。まぁ、唯子ちゃんの美貌でやっているので、先輩と言うイケメンによって顔面偏差値が高ければどんな表情も見苦しくないと知っている俺は、“きっと可愛いんだろうなー”程にしか思ってないが。うっかりで生まれる世界を間違うとか壮絶なことだ。俺以上の迷惑じゃないか。
「唯子の場合、こことは別の世界にもう一つ体が在る状態だった。もう一方の体は唯子の意識、魂とでも呼ぶか、わかり易く。魂が無い状態で生まれたときから眠っていた」
「それは……物凄い気になるんですけど、生きてるってこと、だよね? じゃあさ、どう言う状態? 眠っているって」
植物状態の人みたいに、栄養を点滴で摂取したりして寝ているんだろうか。それとも仮死状態? とか? 俺が乏しい頭を捻っていると男が何気ない風に。
「あっちは魔法だか精霊だかが実在している世界だ。力を借りて延命していたみたいだな。体と魂は繋がっているから死ぬことは無いし」
事務的に男が淡々と紡ぐ中に心躍る名称が。魔法? 精霊? ちょっ、何それ、た、の、し、そ、う……! 一人俺がテンションを上げていると、余程目が輝いていたのかあからさまに頬が紅潮していたのか、引き気味を隠しもせず男は後ずさった。
「ああ、そう言や……お前あんなナリしてオタクだったんだよな」
げんなり、って表現がぴったりな男に俺は噛み付いた。「何だよ、良いじゃないかー! フィクションに癒されないと世知辛い世俗に生きて行けるか!」猛反論噛ましますが何か。現実逃避は筋金入りですよ。
そうなのだ。俺はオタクでした。初めはね、ごくごく普通の文学少年だったんですよー。いや、当時から読んだ本の中にはライトノベルも在りましたよ? 読めるものは興味を惹かれれば読むので。しかも頻度で言えば少女向け過多でした。はい。けどこんなモンでした。はい。
転機が訪れたのは高校受験の時分。参考書と、小休止の息抜き用に洋書の和訳物を物色しようと大型書店に足を運んだ。来店した俺の視界に飛び込んで来たのは、とあるゲームイラストのポスターだった。
すっごいきれいで、俺はもっと見たくて、新書棚の平台に所狭しと積まれた画集を手にした。……こっからは坂を転がるみたいに、ゲームがやりたくなって受験勉強の合間、ほんの少し休憩だけにするからと親に断りを入れて貯めていたお小遣いから初めてゲーム機を買って、画集のゲームソフトを買った。んで、余り読まなかった漫画にも手を出し、我に返ったときには末期で、特典やグッズ欲しさに専門店にまで通うまでに至った。ま、隠してたんですけどね。見目的に俺は毛色が違うんだってぇさっ。思えば、この辺から俺選択肢間違えたよなぁ。
「あんなナリってね、髪の色が明るいのは俺のせいじゃないもん、生れ付きだもん」
黒髪の中で茶髪がいれば目立つだろうとも。何だよ最近流行ってんじゃないのかよーオタク男子。不条理だ。
「……それだけじゃないだろうがなぁ」
「溜め息禁止。で、続きは? 本題なんでしょ」
膨れっ面を晒しつつ先を促せばやれやれと肩を竦められた。何だよ何だよ苦い思い出掘り下げんなよ。傷付いているんだぞ。
「……お前が事故ったのと同時期、唯子も転落事故に遭った」
「はっ?」
「同級生と階段で揉み合って落とされたんだ」
「どうして?」
訊きたくもなるでしょう。揉み合ってって何よ。喧嘩? 階段から落ちたとか尋常じゃないじゃない。俺が顔を顰めたのをちらり見て男は少々仔細を話した。
「唯子は学校で孤立していたようだな。まぁその余波と言うか」
「余波で人落とすとかとんでもないよ?」
「……。とにかく。唯子は階段から落ちて全身を強く打った。頭も打った。生死の境を彷徨った訳だが、」
「が?」
「拍子で、魂が抜けたんだ。同じ時期にお前が事故で死んだ。アクシデントの発生だ。……良い具合に合致したんだな、機会が」
俺はさくさく明かされる事のあらましにだんだん悪寒がして来る。うん、杞憂である自信が無い。背中を冷や汗が伝う。死んだって聞かされたときだってここまでじゃなかった。頬が引き攣ったのは見逃してもらいたい。
「もしかして、もしかして……」
「言っただろ? バグにはバグで修正するんだよ。唯子の魂は、一部が二つの体の間で伸びたゴムみたいになっていた。大半は唯子の体に入っていた訳だが、魂が抜けた途端すこーんっと元の体に引き寄せられたんだ。すると、唯子の体が空になるよな? お前の魂も体が亡くなって浮いてるな? 空いた器と入れ物の無い中身。考えるまでも無い」
「てことはー?」
往生際悪く、へらへらっと笑む俺へ男は速攻で「唯子の体にお前の魂を移植したに決まっているだろ」撃墜した。
予測通りです有り難うございました! いや有り難くないよ、ある種有り難いか。有り得ないって意味で。どー言うことよ何で俺、と俺は勢い込んで男の服を掴もうとしたけれど、唯子ちゃんの滑らかな繊手は空を切った。俺はぽかんとしてしまう。男はそら見たことか、と小莫迦にした半目で俺を見据えた。
「俺は実体が無い。お前が目視している俺のビジュアルもお前に説いているこの言語も、お前のイメージでしかないんだ。物体じゃないんだから触ることも叶わない」
ああああそうですかぁ。そうですかぁっっっ。俺は気分的どうしょうも無くなって項垂れた。行き場を失った心持ちの手で顔を覆い、ああ唯子ちゃん可愛いから、落ち込んだかんばせも絵になるんだろうなー……って現実逃避をちょろり。逃げ道ください。
「……ちょっと待って」
薄っぺらの認識で、付いて行けてなかった俺は聞き流していたけど。だって未だに夢なんじゃねって希望を捨ててなかったんですよ、実のところ。いやいや。あー死んだんだーとは思った。納得とか別に。だけれどもふわっふわっとした感覚じゃ伴わないんですよ。でも、ね。
「唯子ちゃんて、何か問題抱えてるみたいなこと言ってなかった?」
人のこと、だなんて対岸の火事眺めるように平静でいたけれども、うん。要するに男は俺に唯子ちゃんとして生きろと言っている訳だ。それって、唯子ちゃんの抱えるものも背負うって話じゃ……。
「ああ、唯子は─────」
男が何某か応答をしようとしたとき刹那。がらっと、病室の引き戸が開いた。
「唯子、目が覚めたのか……」
ベッドの上、上半身を起こし男と話していた俺を、姿形は美少女の唯子ちゃんを呆然として瞠目する人物が一人。え、誰? とか俺も吃驚して見入っていた。人物は、男だった。多分。骨格的に、男だろうと。年は若そうだ。青年、とするのが妥当な外見だ。髪は遠めにも柔らかそうで明るい色。俺より明るくて、茶色よりは金色に近いかも。自然な色合いだし地毛だろう。白いセーターと細身のジーンズ。顔立ちは、ウチの店もそこそこ、イケメンランクの高いホストクラブだったが、ここまでのはいないんじゃないかなってレベル。あ、ナンバー1の先輩と2の龍さんはこれぐらいかな? とにもかくにも、イケメン、つか、美形。美青年。美形は崩れた面相だろうが見れたモンだ。良いなぁ、美形は。
どれ程睨み合っていたのか、固着されたみたいに止まった空間を先に壊したのは美青年だった。
「……っ、先生と看護師さん、呼んで来るよ」
ぱたぱた駆け出し、けれど病院なので小走りに美青年は去って行った。
これからは早かった。
医師と看護師が呼ばれ、俺が中にいる唯子ちゃんは検査を一通り受けた。あれよあれよと精密検査も終え、数日で帰宅の段になった。美青年は譜由彦と言った。唯子ちゃんの、あのいっしょに住んでいる従兄と言うヤツだ。奇妙なことに、唯子ちゃんの付き添いは譜由彦しかおらず、同居しているらしい譜由彦の両親、唯子ちゃんにとって叔父叔母に当たる人たちは来なかった。理由は帰宅して判明した。
帰宅して、玄関で叔母夫婦は出迎えてくれた。
「唯子ちゃん、お帰りなさい! 心配してたのよー」
「おお、お帰り。良かったなぁ、思ったより早く帰れて」
「ただ今……帰りました」
黒塗りの車で帰途に就き、到着したでっかい家にあんぐりと口をおっ開げていた俺。家に合わせて広い玄関にて、待ち構えていた叔母さんには抱き着かれた。叔父さんは叔母さんの半歩後ろで悦に入っている。やっぱ叔母さんが血縁者なんだな。黒髪色白の美人マダム。叔父さんは特別格好良くは無いけど、華は在るダンディなおじ様……譜由彦は叔父さんに髪は似たんだな。唯子ちゃんの荷物を持ってくれていた譜由彦が、叔母さんたちと共に出て来たスーツの人にその荷物を手渡しながら「異常は無いらしいんだけど、」ぎこちなく叔母さんの腕に収まっている俺の代わりに答えてくれた。
「頭を打ったせいか記憶が曖昧みたいなんだ」
あはははー中身俺なので。譜由彦と対面した俺が「大変付かぬことをお伺い致しますが、どちらさんでしょうか」と尋ねてしまったため記憶障害と断定されたみたいだ。あ、ごめんなさい。美青年が憂いてる。絶景になるけども大いに刺激されるね! 良心が。
「まぁ……可哀そうに……」
叔母さんは一度離れて憐れむ目を向けると再び抱き締めて来た。叔父さんは叔母さんの肩に手を置いて「なぁに。僕たちが付いていれば大丈夫さ。唯子ちゃんも安心しなさい」なんて微笑んでいる。ちょい、ウチの父に似てるかも。じーんと、俺はして「ありがとうございます」気持ちを込めて礼をした。
「父さんも母さんも。唯子疲れてるんだから、早く家に上げてあげよう」
知らぬ間に譜由彦は上がっていた。気遣いが出来る美青年はポイント高いよね。うん、素敵だよ。「ああ、そうだね。母さん」同意した叔父さんは叔母さんに呼び掛け「ええ、そうね。さ、上がりましょう」叔母さんは俺を放し肩を抱いて促した。逆らう気も無いので従っていたら。
「───……」
耳元で、ぼそり。えっ、と俺は叔母さんを注視した。俺の身から離れ「あ、そうだ、お茶の用意をお願いしてくるわね」一言残し消えた叔母さん。いきなりの囁きに自失となるしか無い。
「どうしたの、唯子。置いて行くよ」
譜由彦に呼ばれはっと正気に戻った。……こっわーっっ! 叔母さんこっわー! やさしげな、どこと無く唯子ちゃんに似た美貌に騙されるところだった。余りの恐怖にお茶をいただく間も居た堪れず、痙攣する口元を抑えて愛想笑いする俺を、本調子ではないから早く休ませてやろうと気の遣える美青年、譜由彦に送られ部屋へ向かったのだった。
叔母さんの裏の顔に気を取られて全然気が付かなかった。
譜由彦の態度が、若干外界でより冷やかだったことに。