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尼子の野面皮者、伊織之介  作者: 菜尾鹿芽
2/11

伊織之介参上


永禄2年 1959年9月

秋上伊織之介、この時19歳、

身長180センチ位い、骨太で筋肉質、

今で言う、格闘家的な雰囲気を持ち、

顔は頬骨が発達し、大きくつり上がった目が、より武骨さを増していました。


尼子家中では、ニューヒーロー誕生で湧いていた。


尼子家重臣、亀井秀綱の代々の家来衆で秋上家は武闘派の流れをくんでおり。


伊織之介は多分に漏れず、幼い頃より剣術、武術に優れ、その勇猛日間さに感銘を受けた秀綱が自ら弓の手ほどきをしていたほどでした。


15歳で元服し、その後秀綱と共に数々の戦に参戦し、秀綱隊の先鋒として活躍。


永禄元年 1558年の毛利元就軍との石見銀山争奪をめぐる、忍原崩れと言われる戦にも、尼子晴久率いる、25000の兵と共に参戦、あの尼子家、最強軍団だった新宮党にひけを取らない活躍を秀綱隊はなしとげ、見事、元就率いる毛利軍から石見銀山を奪取したのです。


永禄2年 1959年9月

またも元就率いる毛利軍が石見銀山奪取に14000の兵で攻め上がってきました、

降露坂の戦い(ごうろざかのたたかい)です。


石見銀山を奪取するためには、山吹城が最大の焦点であり、この城は鉄壁の山城で落とすには容易ではありませんでした。


山吹城を守る本条常光の抵抗は激しく、この頃に豊前国の毛利氏拠点である門司城(北九州市)を大友義鎮が攻め始めたこともあり、元就は撤退を決意しました。


毛利軍は、降露坂を下りながら温泉津方面へと撤退し始めたが、この撤退中に晴久率いる尼子軍の奇襲を受け、大打撃をこうむることになります。


これは秀綱が、この戦況ではおそらく毛利軍は撤退するだろうと、その帰路に待ち伏せし側面攻撃を仕掛ける作戦を晴久に進言したと思われます。


この時、元就は尼子軍の勢いと突然虚をつかれ、総崩れになる自軍に死を覚悟したと云われてます。


その時、毛利家家臣の渡辺通は

「お屋形様、それがしが身代りになります、お屋形様の兜と甲冑をお借りします!」

「お屋形様、早くお逃げくださいませ! 後はそれがしが、、」

そして渡辺通は馬にまたがり、6人の家臣と毛利の旗印と共に、

「我は毛利元就なりー」と叫び、尼子軍の中に突進していったのです。


尼子軍の軍勢は一斉にニセ元就達の方へ集まることになります。


「手柄は我に!手柄は我に!」

先鋒に立っていた、伊織之介は元就が逆走して向かってきたことに、

身体中の血液が沸騰し鬼の形相となっていました、

敵の大将が逆走して向かって来るなどあり得ないことと冷静な頭脳の状態ではなかったのです、

「我は尼子家、亀井秀綱家臣、

秋上伊織之介なるぞー!」

と叫び、鮮剣一閃!

見事に、渡辺通を入れ三名の毛利家臣の首を取ることができました。


伊織之介参上の瞬間となりました!


この事でその後、伊織之介は尼子家中で一躍、羨望の眼差しで見られるようになっていきます。


渡辺通ら7人が戦死した場所が、大田市温泉津町小浜の七騎坂と云われております。


無事安芸へ帰った元就は、渡辺通の献身に感動し、決して渡辺家を見捨てないと誓い、その後も重用した。その思いは毛利家の子々孫々まで受け継がれ、長州藩の正月の甲冑開きの儀式は代々、渡辺家の者が先頭の栄誉に与かることになったそうです。



その年の10月鈴垂城(松江市美保関町森山)

城内では伊織之介の戦功の宴が始りかけておりました、


秀綱が「今宵は我が家臣、伊織之介の

武勲を讃え、皆で大いに祝おうではないか!」

伊織之介 「ありがたき幸せでございます、これも秀綱様の数々の教えの賜物でございます、今後もご指導よろしくお願い申しあげます!」


秀綱は満足そうにうなずいていましたが、伊織之介の一挙一頭足に、これから人の上に立つべく謙虚さが欠けているようで、一抹の不安を感じていました。


亀井秀綱は永禄元年より晴久から

森山、宇井、福浦、美保関等の領内守護の命を受けていた。


日本海、中海水運の要綱、美保関の重要性を晴久が認識していたと思われます。


もっとも秀綱は晴久の側近として、富田城に詰めていて、時折、鈴垂城に帰り領内管理をしており、

伊織之介は約3キロほど離れた横田山城の城主として、命を受けたばかりでしたが、秀綱の側にいることが多く、留守番約は手島四郎三郎が務めておりました。


鈴垂城は境水道に突き出した、東嶺と西嶺に挟まれた広陵にあり、櫓、曲輪を持った堅牢な造りになっており、

普段はすぐ前の海はいつも穏やかで、(今の境水道)魚が跳ねる音が時折聞こえる程度でしたが、この夜は女、男の笑い声で夜の静寂を打ち消しておりました。


この宴には秀綱はもとより、その妻と、長女千秋(後の中山鹿介の妻)、二女時子(後の亀井滋矩の妻、婿入)

甚次郎(鹿介、この時は養子入)

立原源太兵衛、手島四郎三郎、八戸清衞門、小磯又四郎、安田左近将鑑(先白手城主、米子市大篠津町)等とその家族が集まり、伊織之介の武勲を祝って大騒ぎの最中でした。


晴久からの褒美の品は舞刀と云われる名刀で、それを皆で廻しては腰に差したり眺めたりしているうちに、千秋、時子の舞いの披露となり、一同拍手のうちにお囃子が大広間に

鳴り渡り始めました。


16才の時子は人前に出るのが嬉しくてたまらない、活発な娘で楽しそうに踊ってましたが、19歳の千秋は伊織之介の幼馴染みでありながら、なにか、つまらなそうな雰囲気が印象的でした。


伊織之介は酒を飲みながら満足そうな顔で、千秋をずっと見つめていましたが、千秋は一度も目を合わせることがなく淡々と踊っておりました。


料理は海の幸が所狭しと並んでおり。


誰かが「うん!このイカはうまい!

今が一番美味しい頃でござるかな?」

「なにを言う、イカはもっと暑い頃じゃ!」と秀綱が返す、続けて、

「もっともこの頃はな、(10月)隠岐島を知ってるか?その昔、後醍醐天皇が流罪になった島のことじゃ、


そこにイカ寄せの浜と呼ばれる浜があってな、この頃には何百、何千のイカが押し寄せてくるそうじゃ、素手ですくい放題で、一面がイカだらけでまるで、この世のことと思えない光景だそうじゃぁ、、、 なにやらその昔、近くに由来姫神社があってな、

神社の祭神・由良姫さまが桶に乗って杵つき大社から隠岐に向かう途中、

イカがお姫様の足に絡みつき悪さしたそうじゃ、イカの大将はお姫さまに詫びを入れて許してもらい、それ以来

毎年この浜には、イカの群れが謝罪のために集まって来ると云われおるのじゃ、今日のイカはその隠岐島のイカだそうじゃ」

皆が感心した表情で、そのイカの刺身を食べながら話しを聞いているところへ、


高岡城(境港市竹内町)城主武良内匠頭が遅れて入ってきました、

「秀綱様、遅れて申し訳ございません、それがしの家来がこの宴の時刻を

考え違いをしておりまして、きつく叱っておきましたでございます、

伊織之介殿、この度はおめでとうございます」

深々と頭を下げ謝罪を述べ、一番の下座へとなにやら、へこへこしながら下がっていきました、

平気で人に責任を架し、黄道色の顔色が不気味で信頼がおけない男と皆は思っており、どうして秀綱が高岡城ほどの大事な城(当時は伯耆の国、鳥取県西部地方は毛利の所領になっており、鈴垂城の出城として、東からの守りの要となっていた)を任せているのか不思議に思ってました。


源太兵衛が「また、どうせ女の所へ入り浸っていたんじゃないか!」


武良は表情ひとつ変えずに、手酌をしながら料理を黙々と食べておりました。

源太兵衛が「チッ、つまらない奴!」



この地域に古くから伝わる、踊りを家臣の家族達が披露しながら宴は延々と続いていました。


ふとした時、秀綱が見慣れない少女に気づき、

「その小さい娘は何者ぞ!」

その少女は家臣の家族達の後ろにちょこっと座ってました。


色白で、目がくりっとした、

誰がみても可愛いい少女でした。


伊織之介が「その娘は両親、身内を毛利に殺されて、伊吹山城下で泣き叫んでおりましたので、あまりにも不憫に思い、それがしが連れて帰ったのでごさいます、 名はお七と申します」


秀綱が「それは、良い事をした、幼子が身寄りがなければ、後は不幸になるだけじゃ、そのうち伊織之介の侍女として奉公させればよかろう」

「はっ!」

秀綱 「お七こっちに来い! 顔を見せてみろ!」

「可愛いいの〜 しっかり伊織之介の奉公をするのだぞ、、、、、、

はて?これは何ぞ?」

秀綱はお七の首から紐でぶら下げていた、黒い物体に目をやりました、


それは、輪っか状の物に小さい塊があり、その真ん中がなにやら点滅していました。


秀綱は暫しそれを凝視し、

「不思議な物があるもんじゃなー」



宴はその後、延々と続いていきました。









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