夏の日の記憶
どろりとした湿気を含んだ空気が揺らめいていた。濡れ縁の軒先に下げた風鈴も、先程からちらりとも動かずにいる。開けた庭には凶暴的な程に激しい夏の日差しが燦々と降り注いでいた。
濡れ縁には着物を着た女が座った状態のまま、上半身を横たえてうたた寝をしていた。庇の下から追い出され、日差しに晒される事となった膝から下の部分にだけ日の光が当たり、瑞々しい若草色の着物が鮮やかに輝いていた。
庇の作る影の下で眠る女の肌は透けるように白く、髪は墨を流したように黒い。無心に眠る表情はどことなくあどけなさの残る様子があった。
やがてしばらくの後、女は何の合図があった訳でもなく目を覚ます。黒目がちの目を気だるげに開き、それから自らの視線の先に人影を見つけて少し見開いた。
女の眠っている間に、同じ濡れ縁の女の頭を見下ろせる位置に男が座っていた。男は物も言わず、女が目覚めたのにも気づかない風情でただ見るとも無しに庭を眺めている。
男の様相は、どことなくやつれた風情である。元は端正な顔立ちであった事を伺わせるが、頬は少しこけ、顔色も青白い。着流しの下の体も風が吹けば折れてしまいそうな印象を受ける程に細く、とても健康そうだとは言い難い。
男の視線の先で、日の光は相変らず強烈な光を注いでいる。庭に茂った草々はそれに照らされて、あまりにも光が強いため、あるいは白くなってしまうほど輝き、その反対に影はより一層濃さを増して黒々と息づいていた。蝶が一匹、反射した光を撒き散らしながら羽を動かし、せわしなく通り過ぎて行った。
男は廊下を何かの用事で通りすがる時に女のうたた寝を見つけ、しばらくは側に座ってその愛らしい寝顔を眺めていたのだが、流石に長々とそうしているのも気が引けて、それでもその側を離れ難く、庭に目を移してその側に居座るうちに、いつしか考え事をしていた。
考え事の主たる事は、昨日届いた令状の事だった。令状が届いた事は隣に眠るいまだ幼い妻には話していない。
妻である女と男は病院で知り合った。お互い体が弱く、入院している者同士だった。
妻がその虚弱体質故にまだ幼く見えるせいなのか、周囲は二人の事を非難半分、羨望半分にままごとの夫婦だと言っている。だが、男にしろ妻にしろ、そのような事は気にも留めなかった。
ふいに、男の無造作に縁側の床に置かれた手の上に、ひんやりとした物が触れた。男が見れば、女のほっそりとした白い手が、軒の下の薄暗い影の中、男のやや節だった手の上に浮かび上がるように重ねられている。
「いつの間に、そこにいらっしゃったの?」
微かに笑みを含んだ瞳で悪戯交じりに問い詰めるようなその口調に、男は目元を和ませる。
「君があまりにも気持ち良さそうに眠っているものですから」
「それを、黙って見ていらしたのね」
女はその薄桃色の唇を尖らせて言う。男はただ穏やかな微妙を浮べた。
女はそうは言いながらも、起き上がる気配は見せずにそのままの姿勢で庭に目を向ける。男もそれに倣うように視線をまた、庭に移した。
「打ち水を、してくださったんですね」
女がぽつりと言う。
庭の地面には僅かに水溜りが出来ていて、そこに抜ける様な空が映っていた。
「この暑さではすぐに乾いてしまうでしょうけど」
男が言うと女は微かに首を振った。
二人して黙して庭を見る。
庭の夏草たちは、この熱気にも日差しにもまるで屈する事なく生き生きと茂っている。すらりと立つ葵の赤と桃色の薄い花びらが日の光を透かして、まるで自らが光を放っているかのように鮮やかに輝いている。妻が育てている朝顔が塀の側で小さな丸い花を日の光に反射させていた。何の草とも知れない雑草も、その根元に黒い影を作る樹木も、目に眩しい程に輝いている。
ふいに、男の心にまた、令状の事が思い出される。体の弱い自分は、それ故にいままで令状の届くのを免れてきた。だが、令状が来た以上、戦地に赴き、多分そこで命を落す事になるのだろう。
―――このままで、ずっといられれば。
そんな想いが強く押し寄せるのを感じる。
眩いほどに美しいこの夏の一日。妻と二人でこうして居られれば、他に何もいらない。この激しい夏の日差しが、このまま妻と自分とこの風景をこの場に写真のように焼き付けてくれはしないだろうかと。
だが、男はその気持ちを押し込めるように静かに一時目を伏せると、いつもと変わりのない穏やかな声でぽつりと言う。
「来年は、向日葵でも植えてみましょうか」
その声に、女の瞳が嬉しそうに細められ、こくりと頷いた。
その庭に向日葵が咲く事はなかった。
田舎故に、空襲の被害もあまり受ける事なく、その家は誰からも忘れ去られ、今は覆う雑草に任せて朽ちようとしている。
これは、その家の、とある夏の日の美しいひとときのはかない記憶。
ああぁぁぁ…。昼間の描写なのに朝顔咲いとる。ここはひとつ生命力の異常に強い朝顔ってことでひとつ…。