傷は語る
あらすじに書かれているとおり、罠を仕掛けてあります。どうぞ、お楽しみください。
『傷は語る』
わたしは顧問の先生が嫌いだ。いつも厳しくて、笑顔を見せない、怖い先生。
見た目は美人なのだが、よくよく観察すると、どうしても、左の目頭に視線がいってしまう。そこには、五センチはあろうかという切り傷が、深々と刻まれているのだ。
そのため、持ち前の美貌を凌駕する……いかつさ……不気味さ……。今の医療技術ならば傷跡を限りなくゼロに近い状態まで治せるはずなのに、理解できない。
おそらくそれで迫をつけて、生徒を従順させる魂胆なのだろう。
高校最後のインターハイということで、わたしたちは◎◎高地の湖までやって来た。先生の話では、酸素の薄いこの場所でなら体力もつき、また、粘ついた湖の水が、泳ぎのスピードを強化できるとのことである。根拠のない理論だったけど、従うしかない。
生徒はわたしを含めて五人。
着いてそうそう、休む間もなく練習が開始された。先生の乗用車にぎゅう詰めにされ、こっちはヘトヘトなのに信じられなかった。
引っ張っていた小型のボートをリヤからはずして湖へ。みんな乗り込んで沖へと出発。
聞くところによると、この練習方法は先生が学生時代からの恒例となっているそうだ。沖から陸までの長距離を泳ぐ。それを十セット。かなりハードだ。
陸地がだいぶ小さくなったころ、ボートは止まった。ここから陸までひとりずつ泳いで行く。
わたしは早く先生から離れたかったので、最初に始めたかったのだけど、先生が順番を決め、結局最後になってしまった。
一人目、二人目、三人目と飛び込んでいく。
いよいよわたしの番、一刻も早く距離を置きたい、と思っていたら、先生が語り出した。
「どうしてわたしを嫌っているの? あなたにだけ特別きびしくしているつもりはないのだけど」
そう言った先生の表情は何処か寂しげだった。
湖面の強い風が、わたしたちの間を通りぬけた。すすり泣きのような音を、風が運んでいる。その風とゆらゆら揺れる波が、気づかぬ内に、わたしに寂しさを植えつけていたのだろうか。自分で自分のこころが今どういう状態に陥っているのか、わからない。だけど、負の感情が芽生えているのは確か。だからそれを追い払おうと、喉の奥から吐き出した。
「厳しさだけが教育や指導ではないと思います! 先生は厳しすぎるんですよ。それに、失礼ですが、その傷をどうして隠そうともしないんですか? わたしだけじゃなくみんな怖がっていますよ。先生に怒られたら、まるで脅されているように感じます。ときどき、説教されているのか脅迫されているのかわからなくなるんです」
ここまでまくしたててわたしは口をつぐんだ。怒鳴られる覚悟をした。
先生はじっとわたしの眼を見つめ返している。怖い。今すぐ飛び込んでみんなの元へ行きたい。
沈黙を破るように、再びすすり泣きが聞こえた。風も、恐怖を感じているのだ。
先生の罵声、凝視、無言、暴力、それらが脳裏によみがえる。同時に、叩かれた過去の痛みも浮上する。
わたしは《恐れ》を、隠しきれずにいたのだろう。ふと、先生は視線を逸らし、過去を見るような眼で、ゆっくりなぞるようにして、言葉を発した。
◎
そのとき、陸の方から悲鳴が聞こえた。風の音ではなく、明らかに人の声。
悲鳴が聞こえてきたあたりに視線を走らせると、わたしの前に飛び込んで行った生徒が水飛沫を立てていた。彼女は半ばパニックを起こし、浮上したり、沈んだりしている。
溺れている。
わたしは考えるより先に飛び込んでいた。なぜならば、今溺れている生徒はわたしの親友だったからだ。
彼女までの距離はおよそ三十メートル。急がないと危ない距離だ。
ちらりと背後に眼をやるが先生は気づいていない。
わたしのチカラでなんとかしなければ。
焦っていたのと、練習不足のせいだろう……親友の元にたどり着いたときには、わたしの体力も限界に来ていた。
陸までの距離、約二十メートル。脳裏に二人の溺死体がよぎる。
今になって先生の気持ちが伝わった。水と関わっているということは、つねに危険と隣合わせなのだ。だから、真剣に取り組まなければならない。《だから》、厳しくしていたのだ。
ごめんなさい、と無事に帰れたら素直になろう。ごめんなさい、こころの中でもう一度、謝罪する。
背後を振り返るが、まだ気づいた様子はない。
自力で救わなければ。
わたしは親友を抱きかかえようと近づいた。とその瞬間、暴れている親友のひじがわたしの目頭にぶつかった。激痛で脳がグラグラと揺れた。水を大量に飲んだ。それでも、わたしは親友を救うため手を伸ばした――――――いない。
眼の前で苦しそうな顔を浮かべていた親友の姿が見当たらない。
水中に顔を入れ、彼女を探す。
いない。
何処にもいない。
水面でわたしは泣いた。
大声で親友の名を叫んだ。
――と、そのときボートが近づいて来て先生がどうしたのかと尋ねる。
目頭の傷口から血が滴り落ち、先生の姿を真っ赤に染めていた。世界が、変わっていた。
◎
先に泳ぎ終えた生徒たちがわたしの名を叫んでいる。
「わたしの話しはこれでおしまい。甘えていた自分への戒めとして、この傷は一生残すことに決めたの。甘えが生んだ親友の死。あの悲劇を誰にも味わわせたくないから、わたしは厳しくしている。この話しをしたからといって優しくするつもりはないわよ。覚悟はいい?」
わたしは大きくうなずいた。
先生の傷跡が、今では誇らしい、とは言わないけれど、何処か、かっこよく見える。
了
いつかやりたいと思っていたトリックです。物語をもう少し長くしてもよかったと思うのですが、まあ、使い古されたものだということで。