遥かの桜
消毒液の匂いが鼻腔を撫でた。
無機質な電子音、心拍計が奏でる音が、辛うじて彼が生きていることを伝えている。
清潔さと純白ゆえに、どこか近寄りがたい雰囲気を出す病室。その中央のベッドに、しなびた枯れ木が横たわる。
「……おい」
得体の知れないチューブにつながれた、その物体がかつては生き生きと働く脂の乗った青年だったのだろうと、
「だからおい」
ある種当然の想像をすることさえ難しいほどに、それは枯れ果てた老人だった。
「聞こえてんだろボケ」
いや、枯れ木にしか見えないそれは、ひょっとしたら本当に枯れ木かも知れない。
枯れ木なんじゃないかな?
枯れ木かな?
枯れ木だ。
うん、帰ろう。
「ええ加減にせえよ、このゴキブリッ!!」
ちょっとまてよ誰がゴキブリだよ、この死にぞこないのジジイ。
「やかまっしゃあっ!! 人が黙って死に損なってりゃ枕元で勝手にぐだぐだしゃべりやがって、誰が枯れ木だ、このゴキブリ!」
ゴキブリっていうなよ! 全身黒スーツで黒帽子被って黒ステッキ持ってるだけじゃん。超紳士の格好じゃん。
「顔まで黒バンダナで隠してるくせに何言ってやがる」
プライバシー保護だよ。
「アホくせぇ、死に損ないに何を隠す気だよ」
人間誰しも墓場まで持ってく話ってあるでしょ?
「『人間』だったらな。――――多臓器不全で意識不明のはずの俺とくっちゃべってるって事はあれか、死にゆく俺の脳内妄想か、それとも……」
やだねぇ、こういう状況でも理論的に動く唯物論者。なんでも妄想扱い。夢がなーい。ま、こうして喋ってるのは魂というやつに直接語りかけているから、とでも言っておけばイメージしやすいかな?
「――死に神、てやつか?」
神様なんてやったことないけど、ある意味ではそうかもね。
「……ある意味では?」
ねぇ枯れ木。
「枯れ木じゃねえよ。森田だよ、森田剛造だ」
枯れ森田。
「……殴るぞテメェ」
では森田、君、自分があとどれくらい生きるかわかる?
「……さっき医者があと半日で心臓が停止するっていってたな」
うん、もう多臓器不全が全臓器不全になるみたいだね。いわゆる完全体。オセロでいう全部黒。
「……確かに、俺の状態は『生きている』じゃなく『不完全な死体』のほうがピッタリだな」
まあ、つまり今日中に死ぬわけだよ。この物言わぬ枯れ木のような状態からね。
「で、お前は出待ちの死に神だと?」
うん、死に神だとちょっと違うね。まあ、これを見てくれ。
「……んだこりゃ、バスの切符か? 行き先は、『彼方より遥かまで』……?」
うん、バスの切符。
「なんだ、死んだ後に乗るのか?」
それは君しだいだね。いいかい、その切符を使えば、君の寿命が二日伸びるよ。
「……こんなしなびた状態で、寿命伸ばしてどうするよ」
体のガタは治らないけど、ある程度動けるようにはなる。そして何より、その二日間は絶対に死ななくなる。――ん、さすがにびっくりした顔してんね。
「そ、それは、本当、か?」
ボクウソツカナイ。
「本当なのかっ!?」
本当だよ。そんながっつくなよ引くだろ。
「……使うにはどうしたらいい」
条件の方は聞かないんだ?
「早く言えよ!」
言うのは条件? それとも使用方? 条件を知らなくてもいいのかい?
「……どっちもだ」
――少し、森田が視線を逸らした。やはり得体の知れない物への恐怖がどこかにあるらしい。死に目でも警戒心は衰えない、その習性がこの男を老齢まで生かす理由になったのだろう。それゆえに彼は今死に損なってい……
「おい、ブツブツ言ってんの全部きこえてんぞゴキブリ」
なんだよゴキブリっていうなよう。せっかくドライでカッコいいナレーター決めてたのに。
「いやほとんど俺への悪態だったろうが。だから使い方と条件教えろっていってんだろッ!!」
使い方は切符を握ってはっきりと「使う」という意志を込める事。
「……よしっ!」
だーから待ちなよ。条件聞けよ死に損ない。死ぬのは遅いくせにそういう所はせっかちなんだね。
「うるせぇな、じゃあ早く条件言えよ!」
ねぇ、森田。天国と地獄って信じる? ていうか、あると思う?
「……死に神がいるならあるんじゃないか?」
ある、らしいね。僕は行ったことも見たことも無いんだけど。
「無いのかよ。ま、あの世でもお前の面拝むのは勘弁だな」
失礼だね。僕の顔なんてみたこと無いくせに。とにかく、死んだ人はどちらかにいくらしいよ。でもね、切符を使った人間はそれ以外の場所に行くんだって。その『遥か』って場所に。
「……どういう所なんたよそれ」
知らない。だっていったこと無いもの。
「それだけが、条件か?」
それだけが、条件さ。
「……使う、使うよ」
そう、じゃあご自由に。
――握られた切符に力がこもる。枯れ枝のような腕を震わせ、祈るように、意志を伝えるように握った。ああ、きっとこの男は何か良からぬ執念の元、悪を成す為に切符を使うつ……
「だから聞こえてんだよゴキブリ!」
――春の陽光が鮮やかに、穏やかに人と木を照らす。
暖かな風が、桃色の吹雪を吹き上げ、そのただ中にいる子供達を嬉しそうに愛おしく撫でた。
そこに集う人々の心を包むように、春がそこに佇んでいる。
恋人を待つ少女のように。
子供を待つ母親のように、春がそこに佇んでいる。
「――珍妙な見た目のくせに詩心はあるんだな」
僕に人間のような情緒は無いよ、森田。ただ見たものを正確に思ったように言葉にしただけさ。
「それでも、俺には悪くは無く聞こえるよ」
もし僕の言葉が美しく感じるのなら、それは僕の言葉ではなく、君たちの使っている言葉そのものが本来美しい物だからじゃないかな?
「そう……かな、ああ、きっとそうなんだろうな。お前意外と人間に近いみたいだな」
ひょっとしたらそうかもね。人間と関わっているのは、森田が想像出来るよりずっとずっと前からだし。その証拠に僕が君を死に損ないと言っても老人扱いしたことは無いだろ? 年なら僕の方がはるかに上なんだから
「いやお前最初辺り、思いっきりジジイ呼ばわりしてたじゃねぇか」
チッ、覚えてたかジジイ。
「お前絶対性格悪い方に変わってるよ」
まあそれよりもさ、こんな昼の公園で何してんの? いくら背広でキメてても、死にかけのジジイがベンチでぐったりしてたらみんな不気味がるでしょ。
「今日で二日目だからな、そろそろ体が参ってきたよ。それから何してるかって、見りゃわかるだろ。狂い咲きの桜を拝んでんだよ」
もうやりたい事は無いの?
「無い、な。婚姻届出したし、元女房の顔拝んだし」
あの会いに行った寝たきりのおばあさん。やっぱり森田の奥さんなんだ。
「ああ、痴呆が進んで俺の顔わかんなくなってたけどな。元女房……あ、いや今はもう女房でいいんだ。何年か前に脳溢血で倒れてな、そのまま痴呆症状一直線よ」
なんで別れたの? 浮気?
「バァカ、俺は今でも女房一筋だ。正直金があんま無くてな。配偶者が居ないほうが国から補助金や医療費が出やすいから、形式として離婚したんだよ」
ふうん。でも奥さん寝たきりなのに、よく婚姻届とか書けたね。
「実は結婚するまえな、離婚届に名前書かされたんだ。『浮気したら即出す』ってよ。浮気なんかするかっつーの」
うわあ。
「んでな、入院して離婚届出す時にその紙探したんだわ。で、タンスから見つけたんだよ。で、その離婚届にもう一枚紙挟んであってさ。それが、女房の名前の入った婚姻届」
……『一回だけなら許す』ってことだったのかな?
「わかんね。でもせっかくだから使おうと思ってな。なぁ、今の日本の離婚率ってどのくらいか知ってるか?」
知らない。興味無いし。
「ハハッ、だろうな。テレビじゃたしか三割、三組に一組が離婚だそうだ」
色々理由があるんじゃない?
「人の家庭の事だからな、そりゃ色々あるんだろうが。ただ『性格の不一致で』とか言われるとなぁ、元々他人同士なら合わなくて当たり前だし、そもそも結婚するまえに気づけよガキ共と」
僕と森田だって合わないのにねぇ。
「……うん、それは俺も思うわ。でな、そういうのとか俺と女房のケースもひっくるめて全部統計上は『離婚率』として扱われんのがちょいと腹立たしくてな。最後の死ぬ直前で婚姻届出そうと思ったわけよ」
役所の職員かなりびっくりしてたね。
「死にかけジジイが婚姻届持ってきたんだもんなぁ。それでも『おめでとうございます』っていったんだから大したタマだあの兄ちゃん」
で、やることは無しと?
「俺と女房には子供も居ないし、残すほど財産も無い。そして、俺が女房に出来ることももう無い。それに天国と地獄なら地獄に行くタイプの人間だし」
そうなんだ。
「若い頃、ヤクザの真似事しててな。正直クズだったわ。女房に会って足洗ったんだ。それでも善行と悪行を総決算すりゃマイナスの方だ。女房の方は、ありゃ子供好きのお人好しのただの善人だ。多分天国いくだろ。……あー、やっぱアイツのためにガキの一人でも作っときゃよかったなぁ」
……なんで、この公園に来たの?
「女房と一緒に毎年桜を見にここに来てたのさ。二、三年見てなかったからな。あぁ、やっぱ狂い咲きが良いな。品が無いとか言うけどさ、散る直前の力の限り咲いているのが一番良いさ
……なあ、俺な、結局は見栄ぇ張りたかったんだよ。女房にはもうわかんなくても、世間の誰も俺を見ていなくても、『俺は愛した女がいたんだ』って、あの狂い咲きの桜みたく何かに見栄を張りたかったのさ、ただそれだけなのさ」
……ねぇ、森田。
「なんだよ」
この切符は、一体何の為に有るんだろうね。
「お前が知らないのに、俺が知るわけ無いだろ。ま、俺には都合が良かったけどな」
思うんだ、これは気まぐれに与えられたチャンスではなくて、
「………そう、か」
ひょっとしたら、人が最後に誰のために何を考え、誰のために何を成すかを知るための実験なんじゃないかと。
ねぇ、森田。君はどう思……
……ねぇ、森田?
……そうか、二日間が切れたんだね。
森田、僕はやっぱり人間がキライだよ。やっと理解出来たと思ったら既にもういなくなってしまうんだから。
春の空を切り裂くように、強い風が吹いた。
狂い咲く桜を散らし、花びらが乱舞する。
桃色の風のベールが、ベンチに座る森田の小さな背中を吹き抜けていった。
来年もまた桜は咲くのだろう。再来年もまた狂い咲く。
でも、もう来年のこの場所に森田は居ない。
それでも桜は咲くのだろう。
薄もやがかかる空間、霧をぼんやりとバスのライトが照らし出す。
やや錆びた、青い車体。クラシカルな十人乗りの丸い小さなバス。これがここ、『彼方』から切符を使った人が行く『遥か』へと運んでいく車だ。エンジンはアイドリング状態のまま、鼓動のような熱と振動が車内へと伝わっている。
「おい、ずいぶん似合ってんじゃねぇか」
バスの最後尾の窓から森田が顔を出す。バスの前で乗り人を待つ僕へ声をかけた。
今の僕はバスの車掌だ。顔は隠したままだが、服も帽子も手袋も車掌のそれになっている。
客なら客らしく、大人しく待ってろジジイ。
「待つって言ったってもう一年も待ってんだぞ!」
一人だけ『遥か』まで運ぶなんて非効率だろ。もうすぐあと一人くるから待ってよ。
ん? おおっと。
背後からの穏やかな気配に振り向く。小柄な体と品の良い、菜の花柄の着物。見覚えのある老婆が立っていた。
……はい、これが『遥か』行きのバスです。そんな心配な顔をなさらなくても大丈夫ですよ。
ところで、今更ですがもうやり残した事は無いですか? 『ご主人と一緒に見た桜をもう一度見る』それだけでよろしいんですね?
……はい、わかりました。そうですか、それでは切符を頂きます。どうぞ、ご乗車下さい。あ、座るなら最後尾の席をお勧めしますよ。
バスの窓を一瞥する。森田は車内に引っ込んでいた。恥ずかしくて逃げたなアイツ。いい気味だ。
さて、運転するかな……ん?
胸ポケットの膨らみに気づいた。今まで色々な乗客から受け取った切符が大きな束となって詰まっている。
そう、今まで色々な沢山の人に切符を渡して、またその切符を受け取ってきた。
切符にハサミを入れる習慣は無い。これはまた切符として使えるのだろう。
……また、誰かに配ろうか。
いや、そうだ、あの人に配ろう。あの人ならこれを受け取る権利が有る。
この物語を最後まで読んでくれたあの人、今僕達を目の前にしているあなたなら、きっと。
分厚い切符の束を空へ、見守ってくれたあなたへと投げる。霧の向こうの地平線、そこから顔を出す、山吹色を放つ太陽の光。
舞い散るたくさんの切符の光沢が山吹色を反射してきらきらと輝く。その様は、僕にあの日みた薄桃色の吹雪を思い出させる。
あの地平線の先に、あの太陽の向こう側に『遥か』が有る。
楽園でもなく、荒れ野でもない場所。
どんな所か、僕にはわからないけれど、運命に対峙し、それでも力強く生きようとする人々が集う、力強く生きられる場所であってほしい。
いや、きっとそんな場所だ。
さあ、バスを出そうか。
はい、ここまで読んで下さってありがとうございます上屋です。
この話は、子供のころに見た故井上ひさし脚本の舞台「銀河鉄道の夜」のラストシーンが忘れられず作った話です。
最後に「持っていると寿命が少し伸びる電車の切符」を銀河鉄道の車掌が観客席へバラまく、そのシーンを描きたくてこの話を作りました。
まあ大して山もオチも無い話なんですが、読んで下さった方どうもありがとうございました。