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第1話 目覚めと女神①

 俺の意識が、ゆっくりと、本当にゆっくりと泥の中から引き上げられていくような感覚に包まれた。

 最初に戻ってきたのは、暗闇だ。目を開けたつもりなのに、視界は漆黒の闇に覆われている。見慣れた天井でも、見慣れた自分の部屋でもない。まだ夢の中なのか、それとも現実に目覚めた直後の倦怠感なのか、判断がつかない。


 動こうと試みる。

 腕を持ち上げたい。指先を動かしたい。そう脳内で強い命令を送っているのに、自分の体からは何の反応も返ってこない。手足があるという実感が一切ない。首から下が、最初から存在しなかったかのような感覚だけが残っていた。


「……ここは、どこだ?」


 声を出そうとしたが、口を開く機能すら奪われているらしい。自分の声が聞こえない。

 今確認できるのは”自分がいる”という思考だけ。

 恐怖というよりは、理不尽すぎる現実に対する戸惑いが、意識の片隅で広がり始める。


 その時だ。

 一面の暗闇が、唐突に、暴力的なまでの輝きに塗り替えられた。


「っ……!?」


 視界が真っ白に焼けるほどの強烈な光。銀色の粒子が空間を満たし、その輝きは見つめることすら許さない圧力を放っている。まぶたで光を遮ろうとするが、まぶたがあるのかさえ怪しい状態だ。

 眩い輝きの中に、人型のシルエットが浮かび上がる。

 光の膜に包まれたその輪郭は、細部がぼやけていて判別がつかない。遠くにいるのか、すぐ目の前にいるのか、距離感も狂っている。ただ、そこに誰かがいるという確かな存在感だけが、この空虚な空間を支配している。


「あ、目が覚めた?」


 女性の声だった。

 その声は、脳内に直接響いてくるように澄んでいて、安心感を覚えるような、でもどこか楽しげな声だった。非現実的な光景の中で、その声だけが妙に生々しい温度を持って俺の意識を撫でた。


「ここは……どこ?俺は一体……。あなたは誰なんだ?」


 口から言葉が発せられる感覚はない。喉の震えも、空気の流れもない。それなのに、自分の問いかけが思考そのものとなって空間に放たれ、その存在を主張している。

 目の前のシルエットは、俺の狼狽ぶりを嘲笑うでもなく、ただ静かにそこに在っていた。光の粒子がその周りを舞い、輪郭をぼやけさせているため、表情が見えるはずもない。それでも、その姿から発せられる気配には、圧倒的な余裕のようなものを感じる。


「ふふっ、落ち着いて。順番に話すから」


 女性の声は柔らかく、俺の荒ぶる思考を撫で下ろした。その声色には、焦る俺をあやすような母性のような響きと、何かを見下ろしているような神性的な響きが同居している。


「まず、ここについてだけど……ここは、そうね。死後の世界みたいなものね」

「えっ……?俺、死んだのか!?」


 思考が悲鳴を上げた。

 死後の世界。死。

 その単語が脳裏に焼き付く。

 信じられない。昨日も今日も、変わらない無為な日々を送っていたはずだ。朝起きて、パソコンの電源を入れ、ゲームをして、寝る。そんなありふれた日常の延長線上に、死があるはずがない。事故にあった記憶もない。病気で倒れた記憶もない。ただ、目が覚めたらここにいただけだ。


(やりたいゲームまだあったのになぁ……)


 ふと、そんな馬鹿馬鹿しい嘆きが込み上げてくる。

 来月発売予定だったあのRPGゲーム。まだクリアしていないあのネトゲの高難易度ダンジョン。そんな些細な未練が、死の実感よりも鮮烈に胸を締め付ける。

 しかし、よりによって死んだ今、未練がゲームの事だなんて。

 もっと別なことを後悔するべきなんじゃないか?と自問自答をする。

 俺の思考や感情でぐちゃぐちゃになっているのをよそに、目の前のシルエットは、相変わらずただ静かにそこに在っていた。


「……ふふ、やっぱり可愛いわ」

「……ん、んん?」


 あまりにも小さい、つぶやきのような言葉が聞こえた気がする。


「あの、今なんと……?」

「……いえ、なんでもないわ」


 女性はわざと「ん、んんっ」と咳払いをした後、こう告げた。


「次に、今のあなただけど……今のあなたは、魂だけの存在になっているわ」


 魂だけ。

 その言葉が、唐突に現実味を帯びてくる。

 手足がない感覚。重力を感じない感覚。声が出ない感覚。すべてが、この魂だけの存在という言葉に集約されていく。


「証拠に、身体がないから声を上げることも、身体を動かすことも、視線を動かすこともできないでしょう?」

「……」


 そう言われて、改めて自分の状態を確認する。

 目を凝らそうとする。だが、眼球の筋肉が動く感覚がない。視界は固定されておらず、全方位を同時に感じているような奇妙な状態だった。首を回して周りを見渡そうとしても、首がない。指先を握りしめようとしても、指がない。

 あるのは見ているという意識だけ。


(……だから、身体の感覚がなかったのか)


 五感はほとんどない。なのに、思考だけがやけに鮮明だった。


「最後に名前だけど、私は女神——」


 銀色の光が、一瞬だけ強く明滅した。

 その瞬間に合わせるように、彼女から紡がれたはずの名前が、ノイズのようにざわめく空気に飲み込まれてしまった。まるで編集された動画のように、重要な部分だけが空白になった音声。


「……ん?」


 俺の思考が、即座に反応する。

 聞き逃した。いや、聞こえなかった。

 女神と名乗った彼女の名前。この異常な状況において、唯一の手がかりになり得るその名前が、不自然に遮断された。


「すみません、今なんて?」


 俺は必死に思考を放射する。声を出すことはできないが、この空間では意思の疎通が可能なようだ。意識を焦点として彼女に向ける。

 女神、と呼ぶべき存在のシルエットが、少し首を傾げた気がした。


「女神——よ」


 二度目の名乗り。

 だが、結果は変わらなかった。

 再び、音声が途切れる。まるで俺の意識がその名前を拒否しているかのように、あるいはこの世界の理がそれを隠しているかのように、届くはずの情報がまたもや遮断される。


「まさか、聞き取れない?」

「……えぇ、まぁ」


 女性から、先ほどまでの余裕が消えたように感じた。

 彼女のシルエットが、せわしなく揺らいだ。銀色の粒子が乱れ、彼女の輪郭が不安定に明滅しているのがわかる。まるで通信が悪いときのように、彼女の存在感が断続的に点滅する。


「うーん……急いで呼び寄せた弊害が出てるわね……このままだと、時間も少ないか……」


 彼女の声が、焦りを帯び始めている。

 言葉の端々に滲む焦燥感が、無知な俺にさらなる不安を植え付ける。


「あ、あの……」


 俺の困惑に対し、彼女は深く——光の膜の中で深く息を吐くようにして、その動作を止めた。そして、音声の断絶を諦めたのか、あるいは事情の説明を優先したのか、トーンを変えた。


「いい? コウ」


 突然呼びかけられた、自分の名前。

 正確には、俺の名前は西藤 幸一(さいとう こういち)だが。

 俺が学生の時、友達からはよくコウと呼ばれていた。

 懐かしい、とちょっとノスタルジックを浸るのを阻止するかのように、彼女は続ける。


「今からあなたに必要なことを、淡々と説明するわね。残された時間も少ないから」

「え、はい……」


 俺はそれを聞き、襟を正す……と言っても、身体がないのであくまで感覚だが。

 そして説明を聞こうとする。

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