入塾
それからの咲良の行動は早かった。男の塾のアルバイト先の名前を聞き、母の幸子に見学に行きたいからと言って電話をしてもらった。父の太郎にも、「私、九大に行くから」と宣言し、大層驚かせた。
だが、反対はされなかった。高校のコースが私立文系だったので、そこだけは幸子が躊躇した。私立文系コースでは、国立文系コースにある理数をほとんど習わない。それで国立大学を受験するというのは、あまりにも無謀ではないか。最もな言い分であろう。だが、太郎は違った。
「決めたのならがんばりなさい。学校で授業が無いのなら、塾へ行くしかないだろう。それくらいのサポートはするよ」
そう言って、あっさりと認めてくれた。
太郎は高卒だ。それがコンプレックスなのかはわからないが、小さい頃から大学へ言うよう言われていた。まだまだ日本は学歴社会だから・・と。全く語らないが、恐らく、高卒故に、理不尽な思いをすることが多くあったのだろう。
娘がまさか九大を受けると言うなどとは思っていなかったであろうが、喜んでいるようだ。まあ、合格しなければ、何の意味も無いのだけれど。
「お母さん、私、この塾へ行きたい。体験授業申し込んで。担当は星野先生でお願いしてね」
そう念押しした。
「はいはい」
幸子も承諾せざるを得なかった。
死ぬほど勉強すれば入れると言った星野の言葉に、咲良は即決した。星野のいる塾に入る。そして、星野に教えてもらう。南高校で受かった生徒がいるのなら、私にもできるかもしれない。それが、大きなモチベーションになった。別れ際、星野からも、
「電話、待ってるよ。星野って指名してね」
と、言われたが、もちろんそのつもりだった。
まだ2回しか会ったことの無い男の言うことだったが、不思議と咲良は信頼できる男だと思えた。同じ学年の男子には感じたことの無い感情。一人っ子の咲良にとっては、兄ににも似た感情だったのかもしれない。
幸子が電話をすると、塾長らしき人が電話に出たようだった。星野先生の体験授業をお願いしたところ、非常に人気のある講師なので、空き時間が無いと言われてしまったらしい。
指名してくれって言ったくせに・・。それでも、同じ塾に通いたかった。なぜだろう。咲良は、すっかり男の術中にはまってしまったのかもしれない。
結局、次の日に体験授業へ行くことに決まったのだが、急だったので塾長が授業を行うという。塾長とは言っても、声の感じからして20代か30代の若い男性のようだ、と幸子が言っていた。
星野のいる塾は、咲良の家からは電車で4駅離れた場所にあった。駅の階段を下るとすぐ右に曲がり、50メートルほど歩いて左手の茶色い5階建てのビルの2階に塾は入っていた。
幸子の運転する車で来れば早かったのだが、駐車場が無いと言われてしまったのだ。なので、今日は幸子と一緒に電車に乗ってやってきた。それに、電車で通うことを考えれば下見しておくほうがいいだろう、と幸子が言った。
やや古びたビルの階段を上がると、2階の扉には「岩倉進学塾」と書かれたプレートが掲げてあった。想像していた進学塾よりは、こじんまりとした印象だ。
咲良が先頭に立ち、少し緊張した面持ちで、塾の扉をそっと開けた。そう広くはないし、新しくもないが、南面が一面ガラス窓になっていて、とても明るい感じがした。
「こんにちは。青木咲良さんですね。お待ちしていました。どうぞこちらへ」
細身のスーツをビシッと着こなした20代後半と思われる男性が、咲良たちに気づいて足早にやってきた。この人が塾長なのだろうか。「長」と言うからには、校長先生のように年配の人を想像していたが、目の前の人物は若々しい好青年だった。
咲良と幸子は、そのままパーテーションで仕切られた個別のブースへと案内された。来客に気づいた生徒や先生がちらちらと咲良たちの方を見るので、なんとなく落ち着かない。
「改めまして、私、当塾の塾長をしております坂本と申します。本日は、塾の体験授業にお越しいただきありがとうございます。また、星野の方があいにく予定が入っており、授業を行うことが出来ずに申し訳ありません。また、後日、改めて星野からご挨拶させていただきます」
そう言いながら、一礼して名刺を差し出した。
「こちらこそよろしくお願いします」
幸子もそう言って頭を下げた。咲良も慌てて一緒に頭を下げた。
「高校3年生ですよね。星野からの紹介でお越しいただいたのでしょうか?」
塾長の問いかけに幸子が咲良の方を向いた。幸子にしても、咲良から星野先生を指名して欲しいと頼まれただけで、経緯までは知らない。
咲良は、どこからどこまで説明していいものか迷ったが、所々省略して、星野先生が道に迷っているところ、自動車学校までの道案内をした。その間に、世間話をして、星野先生がが塾でアルバイトをしているとの話を聞き、興味を持ったので、体験授業に来ることにしたと説明した。
塾長も幸子も、その話を聞き終えると、まるでナンパみたいな勧誘だな・・と思って失笑したが、お互いそんな事は一言も言わなかった。実際、咲良がそれを機に勉強に対して前向きになったことは紛れもない事実だ。
「なるほど。そういうことでしたか。星野も営業熱心で困ってしまいます」
そう言って、塾長は軽く笑い、幸子も合わせるように、「そうですね」と言って笑った。
一通り話し終え、塾の簡単な流れの説明が終わると、早速塾長による体験授業が行われることになった。教科は数学。咲良の最も苦手な科目だ。1枚のプリントが手渡された。4問の問題が書いてあり、それを15分で解くように指示された。2問はどうにか解けたが、あとの2問は全く以てわからなかった。
「あとの2問は解けない?」
と、15分を待たずに塾長が咲良の顔を覗き込む。
「はい・・・」
恥ずかしかった。もっと勉強しておけばよかったと激しく後悔した。きっと、これではダメだと思われただろう。
「うん。基礎的な部分はわかってるから大丈夫だよ。これから徐々にやっていきましょうね」
塾長は笑顔で、うんうんと頷いている。咲良の予想に反してそう言われ、恥ずかしさが少しだけ和らいだ。淡々と授業は進んでいき、わからない所は何度も例えを用いて丁寧に教えてくれた。説明されると、なるほどと、理解できる。個別に教えてもらっているからなのか、聞く側の真剣さが違うからなのか。
その後、塾のシステム、授業料の話などがあり、咲良と幸子は並んで話を聞いた。予想通り、個別指導なので授業料は通常の塾より高めだった。
けれど、ここまできたのだ。やるしかない。幸子も、もちろんそのつもりだった。様々な申込書にサインをして、早速来週から授業が始まることとなった。その間も、塾長は始終笑顔だった。
咲良の座っている席に、生徒と先生の楽しそうな話し声が聞こえてきた。授業の内容とは違うプライベートな雑談のようだ。さすがに授業中ずっと勉強の話ではないのだろう。
星野とどんな会話をするのか、どんなことを聞かれるのか、なぜかそんな事が気になった。
星野は本人が言っていた通り、人気のある講師のようで、火曜日の19時から90分の1枠しか残っていなかった。もちろん、その1枠に数学を入れてもらった。その他、理科系と英語は他の先生にお願いすることにした。この塾は、自習室も備えているので、毎日来て勉強することも可能だという。
「それでは、よろしくお願いします」
咲良と幸子は一緒に頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。一緒にがんばりましょう」
塾長は満面の笑みを浮かべてガッツポーズを作ってみせた。




