2年の歳月を経て
今朝は、すっかり寝不足だ。あれから、星野と2時間近く話していたのだが、電話を切ってもなかなか眠れず、やっと寝つけたのが明け方5時だった。
もう少し寝ていたかったが、10時には塾へ行かなくてはならず、逆算すると8時には起きなければならなかった。だが、寝不足のけだるさを感じさせることもなく、頭と体はすっきりとしていた。
星野との電話は、最初こそ緊張したものの、2年前に戻るのに、それほど時間はかからなかった。話して5分もしないうちに、気づけば以前のようなタメ口に戻っていた。
九大に落ちて、先生を失望させたと申し訳なく思っていたこと、長崎大に受かってお礼を言いたかったけれど、会えずに言えなくて心残りだった事。今まで言えずにずっと抱えてきたセリフをすべて吐き出すことができた。星野は静かに聞いていた。
星野もまた、咲良を合格させてあげられなかった自分の力不足を申し訳なく思っていたこと、咲良にかける言葉が見つからず、声をかけずに東京へ行ってしまったことなどを話してくれた。
2年という歳月を経て、ぎこちなかった2人の気持ちが寄り添い合えたようだった。
多分、あの時に同じ言葉を言われたとしても、今のように穏やかに受け止めることはできなかっただろう。時の流れという、時間の経過の偉大さを思わずにはいられなかった。
「そういえば、絵馬に書いてあった『私の進むべき道を探せますように』って何?」
星野が思い出したように聞いてきた。
「私、将来のイメージが全くつかめなくて、やりたい事もわからないし、ちょっと途方にくれてたんだ」
そう言って、塾長とのやり取り、その後の自分の行動、真智、佐和子との会話などを話して聞かせた。
「おまえ、真面目だな。オレなんか、その頃、全く何も考えてなかったぞ。学生時代は適当に遊んで、適当にバイトして、就職も何となく決めて、卒業したら働き始めて」
「何?先生、適当にバイトしてたの?じゃあ、私、落ちるの当然だよ」
星野の言葉尻を咲良が捕らえる。
「いや、咲良への勉強は真剣に教えたよ」
咲良は、少しドキリとした。うれしい気持ちを悟られてはいけない。
「今更、フォローしても遅いよ。それで、先生、今の仕事選んでよかった?後悔してない?今、幸せ?」
矢継ぎ早に質問してみた。少し、間が空いたので、電話の向こうで星野が考えていることが伝わってきた。
「わからないな。直球過ぎて答えられないよ。深く考えたこともなかったな」
「相談する相手、間違えちゃったな。先生だったら、的確なアドバイスでもくれるかと思ってたのに」
「失礼な。次回までには考えておくよ」
次回・・。
次回とはいつなのだろう。こうやって、何となくの電話のやり取りがまた行われるというのだろうか。それは、うれしくもあるが、同時に虚しくもある。
「そういえば、先生、阿蘇神社って学問の神様じゃなくて恋愛成就の神様だったよ。だから、お守り効かなかったんだよ」
咄嗟に話題を変えた。
「そうそう、そうらしいな。オレも知らなかったんだけど、高砂の松っていうのがあって、彼女が調べてみたら、恋愛の神様だって。でも、オレにとっては受験の神様で縁起がいいんだ。問題ない」
彼女・・。そうか、阿蘇神社には彼女と行ったんだ。星野との会話に舞い上がっていたが、肝心なことを忘れていた。星野には彼女がいるのだった。しかも、思い出の神社にまで連れて行くような。結婚も秒読みの予感がした。
「そうか、先生も知らなかったんだね。彼女と一緒に行ったのなら、恋愛成就で結婚できるんじゃない?よかったね」
心の動揺を悟られないよう、敢えて、強がって言ってみた。
「ああ、そうだな。彼女の方は結婚って言葉に妙に敏感になってて、こっちの方が焦るよ。まだ若いんだから、もう少しのんびりしてもいい気がするんだけどな」
咲良の気持ちなど知らない星野は、気軽に彼女の話をし始めた。もちろん、星野は咲良の想いなど知らない。佐和子が、咲良は星野のことが好きだったと時効として伝えてはいるが、それだけだ。
今も忘れられずに引きずっていることなど知る由もない。
「そうなんだ。先生、がんばってね。私もがんばるよ」
何をがんばるのかは、わからないが、会話を終わらせたかった。
「咲良、彼氏は?」
「いるよ」
咄嗟に、そう言った。
「そうだよな。大学生だもんな。どんな人?」
「うん、いい人」
「そうか、じゃあ、もう電話しない方がいいな、彼氏に悪いし。いきなり電話して悪かったな。じゃあ、また・・でもないか。元気でな」
「うん、先生もね」
そうやって、楽しかった星野との電話はあっけなく切られてしまった。
未だに自分の生徒だと思っていた咲良は、もう誰かの彼女だと星野は気づいたのだ。自分との電話で彼氏との仲がこじれるのを心配したのだろう。
電話が切れても、咲良はしばらく何もできなかった。めずらしく深夜まで起きているので明らかに眠いはずなのに、全く睡魔は襲ってこない。
喉の渇きを覚えて、冷蔵庫から冷えたペットボトルの水を取り出して、一気に飲んだ。乾いた喉を気持ちよく潤していった。
ふいに、背後から誰かの視線を感じて振り返った。それは、部屋の隅に置いてある姿鏡に写る自分の姿だった。
『なんて顔をしているの?』
鏡はそう問いかけていた。
うれしくて、悲しくて、苦しくて、つらくて、どうしようもない感情が渦巻いていて、どうしようもなかった。星野の隣でにこやかに笑っている彼女を想像しては、どうしてその場所に立つのが自分ではないのかと、怒りにも似た感情が沸き上がってきた。心が押しつぶされそうになった。自分にはないものを持っているであろう彼女に嫉妬した。なぜ、自分ではないのか。
鏡にうつる情けない自分の姿を見て、咲良の頬からポロポロと涙がこぼれ落ちた。それは、だんだん嗚咽となり、しんと静まり返った部屋に大きく反響した。耳から聞こえるその声は、あまりにもみじめに聞こえたが、心の叫びを少しでも外に出して、気持ちを楽にしたかった。
頭にある感情を司るという大脳の回路を切ってしまえば、どんなに楽だろうと思った。どうして、人間には感情というものがあるのだろう。この世界にいる何億もの人たちは、この感情を自由にコントロールできているいのだろうか。この世界に自分一人が取り残されたような壮絶な孤独感に襲われた。
今までも、孤独を感じることはあった。だが、この孤独は違う。絶望なのだ。
結婚するかもしれない星野。彼氏がいるとウソをついた咲良。もう、いくら突き進んでも、決して二人が交わることなど無いのだ。それを自ら進んでやってのけたのだ。
星野を好きだと言う気持ちを封印するしかない。
頭ではわかっている。今までも何度もそうしようとした。
わかってる。わかってる。だけど、どうやったら、この絶望から抜け出せる?
ダレカ、タスケテ・・。




