阿蘇神社へ
「咲良、もう少しスピード落としたら?」
幸子は、娘の運転が怖くて仕方ない。
咲良から免許を取りたいと言われた時には、「必要ないだろう」と思ったが、咲良が何か言う時には、確固たる意志を持って言う。それがわかっていたので、すぐに了承した。車を買ってあげるほどの余裕はないが、自動車学校に行かせるくらいは問題ない。
年末年始しか帰って来ない娘なので、親の方からちょくちょく娘に会いに行っていた。車の練習にも、出来る限り付き合ったが、長崎の坂道は、車の運転に慣れている幸子にも手強いと感じた。
太郎に至っては、咲良の運転する車に乗ると、「肩が凝って疲れる」と福岡への帰り道、幸子にぼやいていた。
咲良が、お正月に阿蘇神社へ初詣がてらドライブに行こうと誘った時、太郎は渋ったが、幸子が練習には持って来いだと言って、咲良の後押しをした。
「咲良、スピード出しすぎ」
「わかった、わかった。でも、そんなに出してないよ」
50キロ制限の所を60キロくらいで走っているのに、外野がうるさい。初心者マークをつけた子供の車に乗るのは、そんなに心配なことなのか。阿蘇のこの1本道を走るのに、何がそんなに不安だというのか、咲良は少々不満気だ。
「やっぱり、阿蘇に来るなら夏よねー。牧草が枯れてしまってるから、なんだかさみしい感じよね。牛もいないし」
阿蘇は夏がいい。どこまでも広がる緑のじゅうたんに点々と絵具をつけたように放牧された茶色いあか牛たちがいる。体毛は茶色なのだが、なぜかあか牛と言われている。
空の青、緑の牧草、茶色の牛の完璧なアースカラー。のんびりと草を食べている牛たちを見ていると、時間の流れがゆったりとしていて、心の底から癒される。咲良も、できれば夏連れて来たかったが、バイトがあるのだから仕方ない。
「大観峰に寄って行くか?咲良が小学生の時の家族旅行で写真撮ったよな」
掲示板の表示を見て、太郎がうれしそうに言った。咲良の運転は怖くても、娘とドライブできるのはうれしいのだ。
車を降りるなり、あまりの温度差に身震いした。暖かな車の中と違い冷たい風が容赦なく体にぶつかってくる。駐車場の片隅には、年末に降ったのか、うっすらと雪が残っていた。慌ててコートを着て、3人で大観峰に向かって歩きだした。
「風は冷たいけど、空気が澄んでて気持ちがいいわね」
「そうだな。冬の阿蘇もいいな」
「そうでしょう?来てよかったでしょ?私のお陰だねー」
少し恩着せがましく言ってみた。
「おまえの車の練習に付き合わされてるだけだろ?」
「ふふ、まあそうなんだけど。3人でドライブもたまにはいいよね」
その言葉に、太郎はいたく満足そうだった。娘とドライブすることなど、これからそうあることではないだろう。幸子からは、咲良に彼氏がいる様子は聞かないが、いつかは娘も嫁に行ってしまう。そう考えると、この時間が永遠に続いて欲しいとも思うのだった。
坂道を上って行くと、大観峰の石碑があるのだが、そこまでがなかなか遠かった。運動不足の身にはかなりこたえた。正月休みということもあって、周りは肩を寄せ合って歩くカップルばかりだ。
咲良は、ふと風見のことを思い出した。そういえば、太宰府で別れて以降、一度も会っていない。夏に帰省しないので、塾メンの同窓会に一度も出席できていない。佐和子はあの塾で塾講師のバイトを始めたと言っていた。彼氏ができたとも。
咲良もサークルの友だちに誘われて、合コンなどに参加してみたが、その時いい雰囲気になっても、それから先へはなかなか進まなかった。彼氏が欲しいと痛烈に願っているわけではないが、こんな光景を見ると、やはり少しさみしさも感じる。
「やっと着いたー」
一番しんどそうに歩いていた幸子が、声を上げた。周りを見渡すと大パノラマが広がっていた。
眼下に広がる阿蘇五岳。阿蘇山と言われているが、この5つの岳を総称して「阿蘇山」と呼ばれている。ここから眺めると、根子岳、高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳の5つの岳が涅槃像のように見える。その自然が造った壮大な風景を見るだけで、自分がちっぽけな存在に感じられる。
この阿蘇の中に祀られているのが阿蘇神社なのだ。
『だから、めちゃくちゃなパワーを秘めた神社なんだぞ。そんなところでパワーチャージされたお守りなんだから、ご利益ありありだ』
そう言われて渡されたっけな。阿蘇を熱く語っていた星野を思い出して、自然と顔がほころんだ。
「咲良、どうした?ニヤニヤして」
幸子が、咲良の顔を覗き込んだ。
「ううん、何でもない。阿蘇が大好きな人の事を思い出したの」
それは、咲良の好きな人なのだろう。阿蘇神社へ行こうと言われた時、幸子には、なんとなくわかっていた。
咲良は、受験の時、3つあったお守りの中でも、ピンク色の阿蘇神社のお守りをとりわけ大事に扱っていた。部屋を覗くと、よくそのお守りを目の前にぶら下げては、思い出したように抱きしめたりしていた。好きな人からもらってであろう事はすぐにわかった。
大学生になっても、彼氏もできない娘を心配していたが、案外、この事と関係あるのかもしれないと思っていた。
だが、根掘り葉掘り聞かない。それが幸子だ。
「寒いな。そろそろ行くか」
記念撮影をしたら満足したのか、景色を堪能するのもそこそこ、早く車に戻りたい太郎は、凍える手をこすり合わせながらそう言った。
「売店で熱燗でも買うかな」
娘の運転は怖いが、昼間から酒が飲めるのも案外いいな、と思う太郎であった。
阿蘇神社付近は、駐車場待ちの長い列ができていた。元旦ではないものの、2日でも、まだまだ参拝客が後を絶たないようだ。小1時間ほどノロノロと車を進ませたのち、やっと駐車スペースに車を停めることができた。
「やっと着いたわねー」
「もう、お父さんったら、後ろで寝てるし」
熱燗のカップ酒を飲んだ太郎は、大観峰から阿蘇神社までの道中、眠気に耐え兼ね、かすかにイビキをかきながらスヤスヤと寝てしまっていた。
「咲良の運転が心配だとか言ってた割には、よく寝れるわね」
「それだけ私の運転でも大丈夫ってことだよ」
「なるほど、そういうことか」
二人で顔を見合わせて笑った。
境内までの参道には露店が立ち並び、子供にせがまれた親たちが立ち止まって綿菓子などを買わされていた。
咲良も小さい頃、よくおねだりしては、「ダメ」と言われて、わーわーと泣き叫んだものだ。でも、結局は咲良の泣き叫ぶ声に負けた太郎が、りんご飴を買ってあげるのだ。
境内の中もたくさんの人でにぎわっていた。2日目でこの状態なら、元旦の様子は容易に想像できた。と同時に、太宰府天満宮のように電車ですぐの神社でもないのに、こんな田舎の神社に来るもの好きも多いのだな、と思った。自分もそのもの好きの1人ではあるのだけれど。
神前で参拝するために、3人は列に並んだ。2年前も、こうやって8人で合格祈願したんだった。2年も前のことなのに、今も鮮明に思い出すことができる。あの時買ったお守りは、今も返せずに持ったままだ。
「おみくじでも引いていく?」
参拝を終えた幸子が咲良に聞いた。
「いや、いい。おみくじって気分じゃないんだよね」
「じゃあ、どんな気分なのよ」
どんな気分ならおみくじを引くというのだ。
「うーん。今日は、お礼詣りだったから、お礼さえ言えればいいの」
「何の?」
事情を知らない太郎が横から口を挟む。
「2年前の受験の」
「今頃?」
「だって、行く機会がなかったし。仕方ないでしょ」
咲良だって、心の片隅にはずっとあって気にかかっていた。太宰府天満宮にはすぐに行って、こっちには行かなかったら、神様が焼きもちを焼くのではないかと気になっていたのだ。これ以上、阿蘇神社の神様の機嫌を損ねたくはなかった。
その話を幸子にすると、
「神さまが焼きもち焼くわけないでしょ?だって、神様よ。それに、こうやってちゃんと来たんだから大丈夫よ」
と言って、くすくすと笑った。我が子ながら、こういうところはかわいいし、子供だなと思った。自分が咲良に、神社のマナーをあれこれと教えた為に、敏感になっていることなど夢にも思わなかった。
「じゃあ、阿蘇神社の神様に、来ましたよって書いてアピールして帰ったら?」
「書く?」
「そう。絵馬に」
「絵馬って願い事を書くんじゃないの?」
「まあ、そうね。願い事を書く前に、『大学に合格させていただきありがとうございました』って書いてから、今の願い事を書けばいいんじゃない?神様もそんな風に書かれたら、うれしいと思うな」
我が母親ながら発想がおかしすぎると咲良は半ばあきれてしまった。
でも、それも一理あるかも・・。
結局は、幸子の言った通り、絵馬にはお礼の言葉と願い事を書いた。
『長崎大学に合格させていただきありがとうございました
私が進むべき道を探せますように 咲良』
幸子たちに見られるのは恥ずかしかったので、隅っこの方で、こそっと書いて他の人の絵馬の上にそっと掛けた。絵馬は、合格祈願が圧倒的に多かったが、恋愛成就を願うものも同じように多かった。
「何て書いたの?」
幸子がニヤニヤしながら聞いてきた。
「秘密」
「恋愛成就?」
「まさか。そんな事書かないよ」
「あら?ここって恋愛成就で有名な神社よ。知らなかったの?高砂の松って知らない?」
「何、それ?」
「松の周りをぐるぐる回ったら、願った人と結ばれる・・とか、そういう話だったと思うけど・・」
「え?知らないよ」
「え?だって阿蘇神社のお守り持ってたでしょう?知ってて持ち歩いてるのかと思ってたわ」
「え?合格祈願のお守りだよ」
「いや、それは知ってるけど、阿蘇神社のお守りだったから、そういう意味も入ってるのかと思ってた」
そうだったのか。好きな人からもらったと浮かれていただけだったのに、幸子にそんな風に思われていたのか。きっと、星野もそんな事は知らずに渡したはずだ。自分が如何にこのお守りで合格できたかを力説していたくらいだから。
神社に返納しようと思って持って来たお守りをバッグの中からそっと取り出した。今も鮮やかなピンクの桜色だ。じっと見つめる咲良に幸子が声をかけた。
「好きな人からもらった思い出のものなんでしょ?別に返納しなくてもいいんじゃないの?」
最近は、あまり思い出すこともなかった星野との思い出が一気に蘇ってきてしまった。
好きだった気持ち、九大に落ちた時の申し訳なかった気持ち、最後にあいさつも出来ずに宙ぶらりんに残った気持ち。
真智に星野のアドレスを入れてもらったのに勇気が無くてメッセージを送れなかったあの日の事。
「私、まだ引きずってたんだな」
咲良は、小さくそうつぶやいた。
「ううん、いいんだ。返納するために持って来たんだし、神様にお返しします」
そう言って、幸子に笑顔を見せた。




