夏の終わり
他の生徒たちは、予定通りバスで帰って行った。
咲良は、間もなく到着した救急車で市内の総合病院へと運ばれた。救急車には、同じく負傷していた星野が付き添った。
咲良は、岩場で切ったために傷口がガタガタで、細かい苔のようなものも入り込んでいた。異物を丁寧に取り除き、傷口を洗い流してから縫合するのに、かなり時間がかかった。結果、14針も縫うことになってしまった。歩けないことはないが、安静にしておくように言い渡された。
星野の傷は、思ったよりも深かった。あと少し深かったら、腱を損傷していたかもしれないと言われていた。
咲良と星野の荷物は、タクシーで駆け付けた校長と塾長が持って来てくれた。2人とも水着姿にバスタオルを羽織っただけの格好だったので、治療後すぐに着替えた。バスは他の生徒たちを乗せて帰ってしまっているので、残った4人はレンタカーを借りて帰ることになった。
塾長と校長が、その手配にバタバタと駆け回っている間、咲良と星野の2人、待合室で待たされた。時間外の病院は、しんと静まり返っていて、小さな声で話してもよく響いた。
「災難な一日だったな」
「先生、ごめん。私のせいで、ケガさせちゃったね。痛いでしょう?」
「痛いよ。でも、痛いのはお互い様だろ?」
星野は安心させるように軽く微笑んだ。
「それにしても、咲良が無事でよかったよ。初めに異変に気づいたのは風見だったんだ。咲良の様子が何か変だって。で、よくよく見たら、岩に登ろうとしてるけど、登れない・・みたいでさ。波が荒くて身動きが取れなくなったんだろうと思ってね。そこで、レスキュー星野が浮き輪を持って登場したわけですよー」
最後は、おどけた調子になっていた。
「ケガしてるとは思わなかったな。ほんと、気づいてよかったよ。風見に感謝だな」
「うん、ほんとよかった。海って怖いね。初めて海が怖いって思った。ほんと、いろんな人に迷惑かけちゃった」
「お家の方には、塾長から連絡を入れてあるから。でも、一応、咲良から電話しておいた方がいいな。きっと心配されてるだろうしね」
「はい」
そう言って、咲良は幸子に電話した。やはり、咲良本人の声を聞いて安心したようだった。14針縫ったことは、敢えて言わなかった。帰ればわかることだし、余計な心配をさせたくはなかった。
「電話、終わった?」
席を外していた星野が戻ってきた。
「傷跡残るだろうな・・。なんだか申し訳ないな」
包帯でぐるぐる巻きにされた足を見て、星野がそう言った。
「なんで先生が申し訳ないの?自分の不注意だし、先生は関係ないよ」
「いや、そうは言っても、塾の合宿中の出来事だから、そういう訳にはいかないよ。きちんとご両親にも謝罪しないといけないし。塾の監督不行き届きなんだから」
咲良は、そういうものなのか・・と不思議に思った。父の太郎と幸子は、モンスターペアレントのように、塾長や星野に怒り狂うのだろうか。いや、そんなことはないだろう。咲良の知る上では、常識ある両親だ。怒ったりはしないと思う。
「足に傷が残る事、ほんとに咲良に申し訳ないと思ってるよ。女の子だしな」
星野が深くため息をついた。
「先生、私は大丈夫だよ。これでお嫁に行けなくなったら、先生がもらってね」
冗談めかして言ってみた。
「ばーか」
そう言って、頭をコツンと叩かれた。
あっという間に夏は終わった。これでもか、というくらいに勉強した。まさに、食べる、お風呂、寝る以外は勉強・・というくらいに。
合宿で、自分の勉強における立ち位置がはっきりしてからというもの、さらに勉強に熱が入った。夏休み明けのテストでは、上位20番以内に入っていた。咲良にしてみれば、快挙だった。担任の先生には、夏休みの三者面談で、九大を受けると宣言した。苦笑いされたが、幸子も了承していたので、特に反対はされなかったが、「秋の三者面談で、もう一度志望校を考えてみましょう」と、やんわりと言われた。
『学校のテスト、20番以内に入ったよ』と塾に来て早く星野に言いたかった。だが、そんな日に限って星野は休みだった。就職も決まり、やる事がいろいろとあるようで、忙しそうだった。
ちょうど風見が扉を開けて部屋に入って来るのが見えた。
「風見くんっ」
咲良が先に声をかけた。
「よっ」
相変わらず表情を変えることなく、手をあげながら、風見が近づいてきた。
「ねえ、聞いてよ!今日、学校のテスト返ってきたの。私、20番以内に入ったんだよー」
とりあえず、誰かに言いたかった咲良は、星野に言うはずのセリフを風見に言った。
「え?20番?それはすごいのか?」
風見は、首をひねった。
「私の中では、最高順位なんだけど・・」
最後の方は、口籠ってしまった。すごいな、という言葉を期待したのに、返された言葉はそれだった。
「いや、九大目指してるんなら、1番か2番じゃないと、難しくないか?」
すごく真っ当なことを言われた。冷静に現実を突きつけられて、おもしろくない。
「わかってるよ。でも、地べたを這うような成績だった私が20番以内に入ったってことは、すごいことなの」
風見に言ったことを後悔した。やはり、星野に会って言うべきだった。
「そうか。確かに、最下位から20番以内ならすごいことだよな」
咲良の表情から何かを読み取った風見は、慌てて言い直した。だが、咲良の下がったテンションはなかなか戻らない。最下位・・というのも、ちょっと引っ掛かった。地べたを這うとは言ったけど、最下位ではない、断じて。
「あ、足のガーゼ取れたんだ。傷の具合はどう?」
風見が察して、話題を変えた。
夏休み中つけていた足のガーゼがやっと取れた。傷口はきれいにふさがっていたのだが、まだ黄色い液体が出ることがあり、ガーゼをつけたままにしていたのだ。病院で、もう大丈夫と言われて、昨日からガーゼを外した。傷は痛々しく残っていたが、制服に長いソックスを履いて行けば、そう目立つこともない。
「うん。やっぱ、跡は残ったね。見る?」
そう言って、ソックスをひざ下からくるぶしまでスルスルっと下ろして見せた。
「うわっ」
風見が、一瞬ぎょっとした顔をした。
「やっぱ、ひどい?」
心配そうに風見の顔を覗き込んだ。
「いや、一瞬びっくりしたけど、そうでもないよ。うん」
咲良を心配させないように、気遣ってくれているのは一目瞭然だった。自分は、毎日見ているので、見慣れてしまっているのだが、この傷跡を目の当たりにしたら、確かに、びっくりするのだろう。
はあ~っと、大きなため息が出た。
「大丈夫、大丈夫。気にするな」
そう言って、風見がポンポンと咲良の肩を叩いた。
「うん、ありがと」
そうだ。足の傷跡よりも、勉強だ。風見が言う通り、九大に行けるとしたら、学年1位を取らなけれないけない。それには、もっと勉強するしかない。
次の日、塾へ行くと星野が椅子に座って答案の添削をしていた。
「先生、昨日休みだったね。忙しいの?」
「そうだよ。4年生は、やることが山ほどあるんだよ。卒業論文出さないと卒業できないからな。提出物の締め切りが迫ってて大変なんだよ。ほんとは、バイトなんてしている場合じゃないんだけどな。君たち受験生を合格させるために休むわけにはいかないんだよ」
言い方が、なんとも押し付けがましい。
「別に、先生に教えてもらわなくても他にもたくさん先生いるから大丈夫だよ」
そう言い返してやった。
「おっと、この塾の一番人気の講師に教えてもらっておいて、その言い草は何だ。数学の成績アップに一番貢献してるだろ?」
それは、本当のことだから、言い返せない。頭のいい人は、言い負かされるということがないような気がする。なんともうらやましい限りだ。
「学校のテストで、20番以内に入ったよ。すごい快挙でしょ?」
「ほう~。それは素晴らしい」
そう言って、星野は大袈裟に手を叩いてみせた。やはり、星野の反応は、咲良が思った通りだ。
「夏休み中の勉強の成果が出たんだな。よかった、よかった。あとは、今年中に5番以内に入るようにしないとな」
「え?マジ?それって、かなり難しくない?」
「いや、出来ると思えばできるし、出来ないと諦めたらできないだけだよ。自分の限界を自分で決めるなよ。咲良の集中力なら、人が2時間かかるところを1時間でできるさ。そう考えたら、1分1秒も惜しくなってきただろう?」
多分、人気講師の秘訣はここにあるのだと思う。人をその気にさせてくれる。褒めて煽って、焦らせる。
「ああ、そうだ。昔の受験生は、四当五落と言って、5時間睡眠だと不合格、4時間睡眠だと合格すると言って、睡眠時間を削って勉強してたんだ。だけど、今の時代は7時間睡眠が鍵だからな。勉強したら、しっかり寝るんだぞ。寝てこそ記憶が定着する。これが今の常識だ。睡眠時間は必ず確保すること。いいな」
確かに、幸子の時代は、そういう時代だったと聞いたことがある。4時間しか寝られないなんてあり得ない。そんなことをしたら、学校の授業で寝てしまうではないか。かといって、7時間も確保するのは現実的に厳しいが。
「そういえば、先生、ケガ治ったの?私は、昨日やっとガーゼが外れたんだ。傷跡見る?」
そう言って、靴下を下ろそうとしたのだが、遮られた。
「いや、いい。傷を見たら、どうしても咲良のことを可哀そうな子だと思ってしまう。今は、そんな気持ちを持ちたくないんだ。何となく意味わかるかな?」
「うーん、わからないけど、先生が見たくないならいいよ。でも、先生は傷どうなったの?」
「まあ、傷跡は少し残ったけど、男の勲章だ。問題ない」
「何それ?ダッサ」
確かに、傷跡を見て、昨日の風見のような反応をされるのは、やはりつらいような気がした。星野の言った意味が、何となくわかった。




