セカラクァーン
軽率に平和と迎合する道を選びあなたは帰らぬ人となりました。僕は立ち去ろうとするあなたの背中に手を伸ばしますが、強力なバックライトの方へ向かうあなたは焼かれた紙のように、端々から融けていきます。僕は飛んできた無数の塵をできるかぎり掴みました。手にした塵はどれもまだ熱が残り、それらがどの部分の塵なのか選んでいる暇は夢はここで終わりました。
いつからこんなにも考え事をするようになったのか、一番古い思考の記憶は幼稚園のころまで遡る。おそらく、好き嫌いなく食べましょうという周りの大人たちの教えが発端だったと思う。
まず大人たちはどうやって子供たちが好き嫌いをしていないかを判別するのか。結論からいって、食べさえすれば、つまり口に入れて喉に通してしまえば、その子には好き嫌いがないということになっていた。僕はそのことにいち早く気づいたのと同時に、食べ物に関する好き嫌いを失っていたのだ。目的だった嫌いは当然として、好きもなくなっていた。おいしいはあるのだけれど、それが好きなのか嫌いなのかは分からない。結局は飲み込んでしまうものだから、食べたことによってそれが嫌いか好きかもなくなってしまうのだ。それでも、飲み込むまでの苦労が違うだろうという疑問は自分でも持つのだが、正直分からない。それはまた別の道徳、「食料生産者には感謝をしなければいけない」が、僕の苦痛を邪魔していたのかもしれない。
でも子供だと、好きな食べ物を聞かれる機会は多かった。そういうときはラーメンとか寿司とか、以前まで好きだったものを答えるようにしていた。これに関して、嘘を吐くことに罪悪感はなかったのかいう疑問がある。だが僕は当時から、そう答えることを嘘だとは思っていなかった。理屈では理解していなかっただろうが、今好きなものといっても結局は過去を参照しているということを肌で分かっていた気がする。つまらない子供だ。つまらない子供が良いことか悪いことかは置いておいて、僕は昔から賢いということに執着していた。自分が賢くなければなぜか不安だった。そして十代半ばになって、自分の身に着けてきた思考が、いかに哀れなことか気づいて今これを書いているわけだ。
いつも思考は堂々巡りで、一つの回答に辿り着くことは決してない。それをするということは、つまり思考に何の信ぴょう性もない信仰心が含まれることを意味する。だから僕は疑念を抱き続けた。しかし何も信じられないのは、先述したとおり哀れだ。いられない。だからこうしてときどき、一つの回答でもって思考の周期を打破してみているわけだけど、果たして合ってるのか。今日は幻覚もクスリも降りて来なかった。
こんな思考で起きた朝だ。セカラクァーン! これは僕の思い出深いデジタルカードゲームにいるキャラの掛け声だ。サ行なのに巻き舌。ダークファンタジーの世界で、意味は分からないけど、多分敵陣へ向かうときの掛け声だと思う。パンツァーフォーだな。そいつはたしか馬に乗ってるけど。パンツァーフォーだな。